桜井の訣別(青葉しげれる桜井の)    【作詩:落合 直文(なおぶみ) 作曲:奥山 朝恭(ともやす)

     
      皇居・丸の内に現存する楠木正成像

(元)(前奏)
     C  G7  C    C
   1.青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
     C      F         C            G7   C
     木(こ)の下蔭(したかげ)に駒とめて 世の行末をつくづくと
     G7 C       F      C  F   C      G7 C
     忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に 散るは涙か はた露 か
   2.正成(まさしげ) 涙を打ち払い 我が子正行(まさつら) 呼び寄せて
     父は兵庫(ひょうご)に赴(おも)かん 彼方(かなた)の浦にて討死(うちじに)せん
     汝(いまし)はここまで来(き)つれども とくとく帰れ 故郷(ふるさと)
   3.父上いかにのたもうと 見捨てまつりて我一人
     いかで帰らん 帰られん この正行は年こそは
     いまだ若けれ 諸共に 御供仕(おんともつか)えん 死出の旅
   4.汝(いまし)をここより帰さんは われ私(わたくし)の為ならず
     己れ討死なさんには 世は尊氏(たかうじ)の儘ならん
     早く生い立ち 大君(おおきみ)に 仕えまつれよ 国の為
   5.この一刀(ひとふり)は往(いに)し年 君の賜いし物なるぞ
     この世の別れの形見にと 汝(いまし)にこれを贈りてん
     行けよ正行 故郷へ 老いたる母の待ちまさん
   6.共に見送り 見返りて 別れを惜しむ折からに
     またも降り来る五月雨(さみだれ)の  空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
     誰か哀れと聞かざらん あわれ 血に泣くその声を

1889年
楠木正成というと、今では日本史に登場する南北朝時代の
一武将にすぎませんが、昔は忠臣として小学校の
国語教科書にも採り上げられ、銅像も建てられていました。
正成は、元弘元年(1331)後醍醐天皇を奉じて
千早城にたてこもり、幕府の大軍を打ち破りました。
のちにその勲功が認められ、河内の国の守護職に任じられました。
この歌は、延元三年(1338)湊川の戦をまえに、
楠木父子が生の別れを告げた様子を描いたものです。
正行はこのとき、歳わずかに11歳。父・正成はこの戦で、
九州から東上してきた足利尊氏の京都入りを防ぎきれずに、
あえなく戦死。正行は父の遺訓を守って足利氏と対抗し、
高師直と四条啜に戦ったが、これも破れ、弟・正時とともに
戦死しました。「桜井」は現在の大阪府東北部にあり、
正行、正時兄弟が討ち死にしたところから、正成を主祭神として
正時以下の将士を祀った四条啜神社があります。(コメントX氏)
桜井の訣別を「さくらいのけつべつ」と思っていましたが、
「さのらいのわかれ」とは知りませんでした。「楠公の歌」の別名もあります。


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[YouTube](三船 浩)、[YouTube](参考)


















































●1.黒くしげれるうす闇(やみ)の もものあたりの夕まぐれ
    毛の下かげにコマとめて きの行く末をつくづくと
    しのぶ布団のそのかげに 散るは涙かはた露か
 2.マサヒゲ涙をうちはらい わが子マタツラ呼び寄せて
    父はかしこにおもむかん 室の中にてうち死にせん
    汝(いまし)はここまで来たれども とくとく帰れふんどしへ

●「金太萬公」
  1.黒く茂れる股ぐらの サネのあたりの夕まぐれ
    毛の下陰(したかげ)にマラ留めて 精の行く末をつくづくと
    忍ぶしとねのそがの中 散るは未通女の血の花か
    (しのぶ蒲団のその中で 散るは涙かまら水か)
  2.マラは雫(しずく)をうち払い わが子金タマ呼び寄せて
    父は萬古(まんこ)(おそそ)に赴(おもむ)かん 穴の中にて討ち死にせん
    汝(いまし)はここまで来たれども 疾(と)く疾く帰れふんどしへ
    疾く疾く帰れふんどしへ

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