【小泉内閣メールマガジン 第57号 2002/8/1】[大臣のほんねとーく]から一部引用
●北方領土を訪れて(沖縄及び北方対策担当大臣 尾身幸次)
今から147年前の1855年、江戸幕府と帝政ロシアが日露通好条約(下田条約)を結び、
そのころまでに自然に形作られていた日露間の国境が両国間で初めて法的に画定されました。
北方四島(歯舞群島(はぼまいぐんとう)、色丹島(しこたんとう)、国後島、択捉島(えとろふとう)の
四島をいいます。)はその時以来、一度も他国の領土になったことのない我が国固有の領土です。
1875年に締結された樺太千島交換条約では、千島列島を日本領、樺太をロシア領としました。
このとき千島列島(クリル諸島)として18の島の名前を全て列挙していますが、北方四島はその中に
含まれておりません。元々日本領である北方四島は千島列島とは別のものであることが、
この条約でも再確認されました。
ところが、1945年、ソ連は日ソ中立条約が有効であったにもかかわらず、日本に対し宣戦布告を行い、
8月15日に終戦となった後、8月28日から9月5日までの間に北方四島を不法に占領しました。
当時四島にはロシア人は一人もおらず、四島全体で1万7千人あまりの日本人が住んでいました。
しかし、1949年までにすべて強制的に四島から退去させられてしまいました。
このような経緯から見て、1952年のサンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島の中に、
我が国固有の領土である北方四島が含まれないことは明らかです。その後、ソ連、ロシアによる
不法占拠は 現在にまで至っているため、北方領土の返還は日本国民の悲願となっており、
両国で交渉が続けられています。
私は、今回の訪問で、北方四島の返還実現に向けての思いを一層強くいたしました。
不法に占拠された北方四島を返還してもらうことは、独立国家としての我が国の原点に立つものであり、
1993年の東京宣言でも、「北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結すること」が日露間で
合意されています。
このような基本的立場に立って、今後とも北方四島返還の早期実現を目指して努めていきたいと
考えています。