四天王寺(YSミニ辞典し)
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四天王寺(してんのうじ) : @荒陵山
(あらはかさん)・四天王寺。
別名に、荒陵寺
(あらはかでら)。御津寺、難波大寺、堀江寺、天王寺(四天王寺の略称)がある。
「金光明四天王大護国寺」
(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。
四天王とは仏教観宇宙に存在する須弥山
(しゅみせん)を護る脇神のことで、
多聞天・持国天・広目天・増長天をさす。
聖徳太子が蘇我氏と手を組み、物部氏を追放し、
その戦勝記念に金堂に四天王を配して建てたので四天王寺と名づけられた。
大阪市天王寺区四天王寺1丁目にある和宗総本山の寺院。
第二次世界大戦頃までは
長く
天台宗に属していた時期もあったが、日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、
「日本仏教の最初の寺」として、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、
1946(昭和21)年に和宗総本山として独立している。聖徳太子建立七大寺の一つとされ、
593(推古天皇元)年に聖徳太子によって建立された、日本仏法最初の大寺である。
本尊は救世観音菩薩
(くせかんのんぼさつ)である。四天王寺は
蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。
836(承和3)年以降たびたび焼失、現在の伽藍は、第二次大戦後復興されたものである。
伽藍の配置は、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並び、
それを回廊が取り囲む「四天王寺式伽藍
(がらん)配置」形式で、
日本では最も古い建築様式の一つ。その源流は中国や朝鮮半島に見られ、
6〜7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な存在とされている。
明治以後の四天王寺は、
明治維新の神仏分離令により、それまで四天王寺に所属していた
神社が離され、四天王寺境内も公園地となるなど厳しい状況に置かれたが、
人々からは依然として庶民信仰の寺・太子の寺として深い信仰を受け、諸行事は従来どおり行われた。
1945(昭和20)年の大阪大空襲により、六時堂や五智光院、本坊方丈など
伽藍の北の一部の建物を残し、境内のほぼ全域が灰燼に帰してしまったが、
各方面の人々の協力を得て復興への努力がなされ、
1963(昭和38)年には伽藍が、1979(昭和54)年には聖霊院奥殿・絵堂・経堂が再建、
その他の建物も次々に再興され現在ではほぼ旧観に復している。
四天王寺には国宝、重要文化財に指定されている宝物をはじめ、数多くの寺宝が所蔵されている。
これらの内幾つかは中心伽藍の東側に建てられている「宝物館」に展示されている。
国宝に指定されている宝物で「金銅威奈大村骨蔵器」、「扇面法華経冊子」があるが、
展示品は本物ではなく複製品である。重要文化財としては平安後期の作とされている
「阿弥陀如来坐像」、1236(嘉禎2)年良是筆の「十七条憲法」、「単弁十葉蓮華文鐙瓦」など、
その他、数多く展示されている。寺宝に、扇面法華経冊子などがある。
石鳥居 : 1294(永仁2)年に再建された日本最古の石造りの大鳥居の一つとされており、
重要文化財に指定されている。掲げられている額は複製品で、当初の額は宝物館に展示されている。
中心伽藍の西側、西大門のさらに外に立つ。鳥居上部に掲げられた額には
「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」とあり、釈迦如来が仏法を説いている場所でここが
極楽の入口であるとの意である。ここは西の海に沈む夕陽を拝して極楽往生を念じる聖地であった。
明治初頭の石鳥居
現在の石鳥居(ウィキペディアより)
南大門 (一直線に並ぶ第一の門)。南大門が本来の正門であるが、
「極楽浄土の入口に通じる」と信じられた石鳥居からの参拝者も多い。
仁王門よりの南大門
仁王門(中門) : 門の正面左右に松久朋琳・宗琳作の金剛力士(仁王)像を安置することから
「仁王門」と呼ぶ。入母屋造単層で、屋根は段差を付けて瓦を葺く「錣葺」
(しころぶき)とし、
棟上に鴟尾
(しび)を乗せる。安置されている仁王像の重さは約1トン、
奈良・
東大寺の仁王像に次ぐ大きさであるという。
南大門から望む仁王門(奥は五重塔)
仁王門。二王像は大仏師松久朋琳・宗琳両師の作。
二王門の向かって左側(西側)にある口を閉じた「吽形(うんぎょう)」の密迹金剛力士像
二王門の向かって右側(東側)にある口を開けた「阿形(あぎょう)」の那羅延金剛力士像
伽藍東門からの二王門
手水舎
西大門(極楽門)。通称「サイモン」。奥に石鳥居が見える。元来、西の大門と呼ばれていたが、
戦後再建されてからは極楽に通ずる門の意味から極楽門と呼ばれるようになった。
この門には「転法輪」という手で回すコマ様のものが4基ついているが、
これはブッダが教えを説かれることを表す法輪(チャクラ)を小さくしたもので、
手で回すことにより「仏の法(のり)を教えて下さい」と挨拶代わりにしたのが起源という。
東大門(ひがしおおもん)
伽藍東重門
伽藍西門(奥に金堂、五重塔が見える)
伽藍西重門(金堂側)
五重塔 : 593(推古天皇元)年に創建されて以来、幾たびか焼失と再建を繰り返してきたが、
現存の五重塔は1959(昭和34)年に再建された八代目のものである。
五重塔
金堂 : 1961(昭和36)年に再建されたもので、入母屋造で屋根は上下二重とする。
中門、講堂と同様、錣葺とし、鴟尾を乗せる。
外観は法隆寺金堂に似るが、裳階
(もこし)を付さない点が異なっている。
内部には中央に四天王寺の本尊である「救世観音菩薩
(ぐぜかんのんぼさつ)像」、
向かって左に舎利塔、右に六重塔を安置し、仏壇周囲に四天王像が立つ。
周囲の壁面には中村岳陵筆の釈迦の誕生、涅槃などの「仏伝図」の壁画がある。
金堂
同上、正面
同上、東側面
講堂 : 聖徳太子が法華経を講讃された場所といわれ、「阿弥陀如来像」が安置されている。
この像は基壇から頭上まで約6mあるという。ここも堂内に壁画が描かれている。
入母屋造単層。堂内西側を「夏堂」
(げどう)、東側を「冬堂」
(とうどう)と称し、
それぞれ阿弥陀如来坐像(松久朋琳・宗琳作)、十一面観音立像(佐川定慶作)を本尊とする。
講堂
六時堂 : 1945(昭和20)年の空襲にも火災に遭わず無事に残った建物で、
1623(元和9)年の建立とされ、中心伽藍の背後に位置し、重要文化財に指定されている。
入母屋造、瓦葺き。椎寺薬師堂(境内北西、大江小学校付近にあった)を移建したもの。
堂内には薬師如来坐像と四天王像を安置する。堂の手前の「亀の池」の中央にある石舞台は
「日本三舞台」の一つとされ国の重要文化財である(他の2つは、住吉大社の石舞台、
厳島神社の平舞台)。この舞台では毎年4月22日の聖霊会(
しょうりょうえ、聖徳太子の命日法要)
の日に雅楽が終日披露される。四天王寺の雅楽は、宮中(京都)、南都(奈良)と共に
三方楽所とされた「天王寺楽所」によって伝えられ、雅楽の最古の様式を持ち、
現在は「雅亮会」が伝統の様式を継承している。
元三大師堂 : 1618(元和4)年間に建立され、重要文化財に指定されている。
寄棟造、瓦葺き。境内西北の墓域に位置する。
五智光院 : 重要文化財。入母屋造、瓦葺き。1623(元和9)年、徳川秀忠による再建。
元は西大門付近にあったものを1901(明治34)年、本坊内の現位置に移築。
大日如来を中心とする五智如来像を安置する。
本坊方丈 : 重要文化財。「湯屋方丈」とも証する。元和9年(1623年)、徳川秀忠による再建。
本坊庭園 : 「極楽浄土の庭」と称される。
布袋堂 : 別名「乳のおんばさんのお堂」と呼ばれ、子供の健康とお乳がよく出ますようにと
お参りされる方が多いという。一説によると、もともと聖徳太子の乳母を祀ったのが始まりで、
布袋の乳の豊かさと乳の出がよくなるようにとの信仰が結びついたものといわれている。
布袋堂
同上
福を授けてくれるといわれる「なで布袋尊」。お腹の「福」を撫でると福を呼び、背中の「黄金袋」を
撫でると財を呼び、手に持つ「ひょうたん」を撫でると無病息災を成就すると言われている
万灯院。難病に苦しみながら紙の衣を着て修行したといわれる羅漢さん(紙衣仏)が祀られている。
この仏様は、「病苦に悩むものが自分を念じたならば、必ずその病気を治してやろう」と誓願をたてたと
伝えられ、病気回復の功徳があるといわれている。毎年10月10日の「衣替え法要」では、
紙衣仏の衣替えが行なわれる。この時、参拝者には1年間紙衣仏が着ていた紙衣を背中に
当ててもらうことができるのだが、これを何年も続けて(現地の説明書きには「何年もつづけて」と
書かれていますが、四天王寺の公式HPでは3年間)着せてもらったならば、
病気や臨終の際も不浄の世話を人にかけないですむといわれている。
アクセス : 大阪市営地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽ケ丘」駅下車、
東南側の出口を出て、南の方向に300〜400m(約5分)歩くと左手に四天王寺の境内が見える。
JR「天王寺」駅、大阪市営地下鉄谷町線及び御堂筋線「天王寺」駅、
近鉄「阿部野橋」駅から北へ約600m(約15分)歩いても四天王寺に着く。
参 :
和宗総本山・四天王寺(HP)
四天王寺・境内案内図
四天王寺・拝観券(現寸14.7×6.6cm)
A塔世山
(とうせざん)・四天王寺。三重県津市栄町の伊勢街道沿いにある曹洞
(そうとう)宗の寺。
四天王寺の創設に関しては、聖徳太子が建立した四天王寺4カ所の一つという伝承のほか、
国分寺説や弘仁期(810〜824)以前建立説など諸説ある(『津市史』第5巻)。
本尊は釈迦如来
(しゃかにょらい)。寺伝では聖徳太子の創建という。境内および付近からは、
奈良時代の古瓦
(こがわら)、鍍金押出仏
(ときんおしだしぶつ)を出土している。
もと薬師堂があり、薬師如来坐像
(ざぞう)を中尊とする
平安時代末期作の仏像数体を蔵したが、
1945(昭和20)年に戦災で焼失。薬師如来坐像(国重要文化財)のみが残った。
この像の胎内文書として、1062(康平5)年の民部田所勘注状
(みんぶたどころかんちゅうじょう)が
あり、そこに四天王寺の名がみえる。『五鈴
(ごれい)遺響』には、1147(久安3)年に
加藤景道
(かげみち)が寺を再興し、悪七兵衛加藤景清
(かげきよ)が修復したとある。
室町時代に僧・永龍
(えいりゅう)が曹洞宗寺院として再興。
江戸時代には津藩主藤堂
(とうどう)氏により寺領100石を認められ、63カ寺の末寺を有した。
参 :
四天王寺(
津市観光協会HP)