種田山頭火(YSミニ辞典)
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種田山頭火(たねださんとうか) : 本名は種田正一
(たねだしょういち)。1882(明治15)年12月3日、
佐波群西佐波令村(現在の山口県防府市八王子二丁目)に父竹治郎、母フサの長男として生まれる。
種田家はこの付近の大地主で、父親は役場の助役なども務める顔役的存在だった。
1892(明治25)年、正一が11歳の時に、母フサが自宅の井戸で投身自殺した。
周陽学舎、山口中学校を卒業した正一は1902(明治35)年に早稲田大学文学部へ入学したが、
2年後病気のため退学して帰郷し、宮市の地を離れ隣村の吉敷郡大道村(現・防府市大道)において、
父と共に酒造業を営む。1909(明治42)年佐藤サキノと結婚し、翌明治43年長男健が誕生した。
大正2年、32歳で荻原井泉水主宰の自由律俳誌「層雲」に入門し、この頃から「山頭火」の号を用いる。
1916(大正5)年酒造業破産、父は他郷へ山頭火は妻子を連れて句友のいる熊本へ移る。
熊本で小さな額縁店「雅楽多」を経営するも身が入れずに商売は妻任せで、
作句と文学仲間と飲み歩く。1918(大正7)年、大正8年と身内の不幸、母の死に続く不幸があり、
大正8年心機一転のため単身上京したが、人間関係のむつかしさから長続きせず、
その間離婚し、1923(大正12)年9月の
関東大震災に遭い熊本に戻る。
大正13年暮れ泥酔し公会堂付近で市電を止める。曹洞宗報恩寺に連れていかれ参禅の道に入る。
翌14年44歳で望月義庵和尚を導師として出家得度法名「耕畝」と改名、
隣町の植木町にある味取観音堂守となる。
「大正15年4月、解くすべもない惑ひを背負うて行乞流転の旅に出た」高千穂、宮崎、延岡、柳川、
岩国、徳山、防府を行乞流転し、1929(昭和4)年熊本へ帰る。
「愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はない」とし、昭和5年9月にまた漂泊行脚に出た。
川棚温泉での結庵に失敗した山頭火は、1932(昭和7)年9月20日小郡の其中庵に入る。
その日記には「この事実は大満州国家承認よりも私には重大事実である」と記されている。
1938(昭和13)年10月下旬までの6年2カ月の庵住、この間最も多くのそして長い旅をしている。
JR防府駅天神口側にある山頭火像
山頭火は気候的にも暖かく、人情に厚く、俳人に理解のある四国・松山が終焉の地となった。
松山の生んだ俳人野村朱燐洞を思慕し、彼の墓参りを終えた彼は、その足で四国遍路に旅立った。
12月念願の四国遍路を果たした彼は、高橋一洵が見つけた御幸寺山麓、御幸寺境内の空家に落ち着く。
「昭和14年臘月15日、松山知友の温情に甘え縁に随うて当分、或は一生、滞在することになった」
「おちついて死ねそうな草枯るる」を詠む。昭和15年4月28日一代集「草木塔」を発行し、
その初書に「若うして死をいそぎたまへる母上の霊前に供へまつる」と述べている。
1940(昭和15)年10月10日「柿の会」を数名で開催し、
終わって一草庵
(いっそうあん)で酒に酔って寝込んでしまい、
翌朝11日午前4時脳溢血にて死亡し、念願のころり往生を遂げた。享年59歳だった。
種田山頭火の終焉の地・松山で滞在していた一草庵。
敷地内には「脳溢血で死去。享年59歳。念願のころり往生であった」と書かれている。
出家し托鉢生活をしながら自由律による句作をし、句集「草木塔」、
日記紀行文集「愚を守る」などがあるが、酒と俳句を友に、一生を旅のうちに過ごした山頭火は、
生涯約8万4千句を詠み、また俳人として1万余句の俳句を残し、
「漂泊の俳人」「昭和の芭蕉」などと呼ばれた。
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このみちや いくたりゆきし われはけふいく
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海よ海よ ふるさとの海の青さよ
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月がまねくふるさとはおまつり
山頭火が全国各地を漂泊した足跡をめぐって、毎年開催している「全国山頭火フォーラム」には、
多くのファンが集うが、2008年は山口市で開催された。
山口県光市室積の海商通りのみたらい公園にある「俳人山頭火句碑」(2010.4.19撮影)
漂泊の俳人山頭火が室積に立ち寄った際に作った句を自然石に彫り込んだ句碑。
「わがまゝな旅の雨にぬれてゆく」
山頭火没後70周年記念切手(原寸大)2010年10月発売