殿敷侃(YSミニ辞典)

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殿敷侃(とのしきただし) : 1942(昭和17)年1月22日、広島市幟町生まれ。
    3歳の時原爆で両親を失い、本人も二次被爆し、「ヒロシマ」の被爆体験を制作活動の原点としながら、
    美術を通して現代社会の様々な問題へアプローチし続けたアーチストである。
     広島中央郵便局に勤務していた父親の寛と母親の重野、姉一人の4人家族だった。
    この家庭を一瞬のうちに破壊してしまったのは1945年8月6日、あの原爆である。
    執務中の寛は爆死。投下2日後、まだ3歳の殿敷を背に、9歳の姉紋子(あやこ)の手を引いた
    重野は夫を探して爆心地に入り、まもなく原爆症を患って5年後に死亡し、
    殿敷と紋子は親戚に預けられた。二次被爆した殿敷にとって、この幼児体験は強烈過ぎた。
     「原爆は決して忘れない。情念、怨念(おんねん)です」と強く、きっぱり言い切る。
    そして、その気持ちを深く抱き続けながら、26歳で画家を志す。
    殿敷が本格的に絵筆を握ったのは広島大2年の時に肝臓を患い、
    入院した病院で絵画サークルに加わり20歳で油絵を始めてからである。
    2年間の闘病生活後、大学に戻ることを断念、絵画で身を立てようと決意した。
    中退を決意したのは直接的には、闘病生活が引き金になったが、
    自己主張の手段を模索していた潜在的なものが一度に噴出したともいえよう。
    それは、「原爆」への怨念、情念であった。
    当時は、父母の形見の品を対象にし、ペン画、エッチングで細密な絵を描いていた。
     1960年代後半に東京に出た。多くの哲学者、劇作家らと会いながら絵画活動を続け、
    1965年から新制作協会展に出品、7年連続入選を飾った。
    さらに読売アンデパンダン展、神奈川県コンクール展、関西新制作協会展などに出品、
    入賞、入選を果たし、画家としての自立の自信をを深めていった。
     長門市に移ったのは1967(昭和42)年のことで、
    「東京のあわただしさ、スピード感に自分を見失いがちになりましてね。
    地方の静かな土地でじっくり自分を見つめ直す必要があると感じた」と振り返る。
    知人を頼りに、最初に住んだのがドライブイン跡。
    さっそく、「絵筆一本」での生活が始まった。閉鎖性の強い地方都市とはいえ、
    長門市内には開放的な市民が多く、ひたむきな殿敷に共鳴する人は多かった。
    アマチュア画家を集めた「かこう会」や「殿敷美術研究所」を開設するなど、ファンは増えていった。
     1977(昭和52)年、東京・銀座の画廊で偶然知り合った
    美術評論家・久保貞次郎の勧めにより銅版画の制作を始める。
     初個展は1978(昭和53)年で、細密画を中心に両親を奪った原爆への怒りを込めた
    「レンガ」「鉄かぶと」「じゅばん」など新しいリアリズムの作品を発表し、大きな評価を受けた。
    1980(昭和55)年「1980年日本の版画」(栃木県)、翌年「15回日本現代美術展」出品、
    同年、広島市の平和公園で、原爆きのこ雲のシルクスクリーン「EVENT ATOMIC BOMB」を
    開催し、市民のど肝を抜いた。作家自身の被爆体験にもとづいた作品で注目され、
    1979、80年に安井賞連続入選、1981年の第一回西武美術館版画大賞二席入賞など
    我が国の一流と目される美術展で着実に頭角を現してきた。
    1981(昭和56)年には山口県芸術文化振興奨励賞を受賞した。
    その後、版画の手法を一歩進めたシルクスクリーンに、全力をぶっつける。
     1982(昭和57)年のヨーロッパ旅行で、「ドクメンタ7」のボイスの作品に大きな衝撃を受け、
    翌年の山口県展に約4トンのタイヤなどの廃品をぶちまけたインスタレーションを発表した。
    廃棄物を用い、社会から見捨てられたものを再び意識の下に呼び戻す取り組みが高い評価を受けた。
    平和や環境問題に目を向けた作品の発表を続けたが、
    原爆第二被爆に起因する肝臓がんで1992(平成4)年2月永眠した。
    享年50歳で、あまりにも若すぎる死だった。
    (1982.4.15の読売新聞「現代山口の100人」から、横木稔郎記者の記事を主体に記述)
    
    オブジェ「赤と黒の記憶」(1989(平成元)年11月、ギャラリーナカノにて)
    
    「カニ」(12.3×16.0cm、銅版)「ときの忘れ物」カタログより(販売価格は52,500円だった)
    
    「ドームのレンガ」(17.5×33.0cm、ペン画・彩色)ネットオークションに出品されていたもの
    
    「きのこ雲」2枚のうちの1枚のシルクスクリーン(2006.7.26、広島平和記念資料館に寄贈したもの)
    寄贈前日の25日に撮影。広島の原爆画家とも言われた殿敷さんの作だから、
    資料館のロビーでも展示してもらうために真夏日にマイカーで運んだのに、
    展示するかどうか分からないという。3年目の夏が来るのにいまだに展示されていない。
    その前に、周南市美術博物館に寄贈するために職員に来てもらったが、
    こんな作品は美術館には向かないからいらないとのことだった。
    

    「きのこ雲」と一緒に寄贈した写真集「逆流する現実」
    
    「逆流する現実」内の1頁(1981年に開催された
    「EVENT ATOMIC BOMB」での燃える広島のイメージ)
    以下、管理人「正義の味方」所蔵のもの。
    
    我が家の玄関に飾ってある版画「Union」(226/1000)
    バックが殿敷さんで、手は防府市の吉村芳生さんとの合作。
    購入は1983(昭和58)年8月16日から20日まで山口市民会館で開催された
    「現代美術の方法展」で、限定千部の一部3000円だった。

    
    「くぎ」
    
    「どんぐり」
    
    同上「どんぐり」(明るくすると反射するので額から外して撮影、2009.2.18)
    
    「コスモス」
    
    同上「コスモス」の額縁を外したもの
    「街の明かり」という気に入った絵を和室に飾っていたが、太陽光のために絵が消えてしまった。
    そのため、このコスモスは一度も飾ったことがなく、
    約30年ぶりに撮影のためのみに数分だけ箱から出し、すぐに屋根裏に納めた。

    
    殿敷さんとの交流は長門市に単身赴任していた3年間で、時々長門市只の浜(ただのはま)海岸から
    約300メートル離れた彼の自宅を訪れていたが、不在が多かった。
    忍者の家のように階段が跳ね上がる2階のアトリエで、
    絵やシルクスクリーンの画法などを教えてもらった。
    「Union」などのバックはボールペンでの点字の集大成で、このような細密画は細かい点を
    何十万回とびっしり描き込み、1つの作品を仕上げるのに場合によっては1年もかかるという。
    ボーペンの点字のみで描いたシルクスクリーン画を1枚いただいたが、その題名を聞くと「死」だった。
    殿敷さんがヨーロッパ旅行に出かける際は、彼を紹介してもらったスタンドのママさんと
    喫茶店で送別会をし、わずかの餞別なのに、帰国時には必ずタバコ入れなどの土産があった。
    ある日、結婚するかもしれないと輝いた目で話し、私は跳び上がるほどに喜んだが、
    後に破談となったと知らされ、二次被爆のせいかと原爆の投下を憎んだ。
    長門から山口へ転勤後の出会いは、長門での葬儀の場であった。









































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