萩城跡(YSミニ辞典)
[ホーム] [索引] [前項] [次項]

萩城跡(はぎじょうせき、はぎじょうあと) : 山口県萩市大字堀内指月公園内にある日本の城跡である。
    萩城は1604(慶長9)年に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、「指月城(しづきじょう)」とも呼ばれ、
    日本海に張り出した指月山(しづきやま)山頂の詰の丸(実際は二の丸と本丸)と、
    その山麓に梯郭式に本丸・二の丸・三の丸を配し3重の堀を巡らした平山城であった。
    厳密には、指月山の詰の丸と山麓の城は独立したものであり、平山城ではなく
    平城と山城であるとする見解がある。また、海に突出しているため、海城であるという見方もある。
    毛利氏は関ケ原の戦いに敗れたため、中国8カか国から防長2カ国に減封された。
    そして城を萩に築くことを許されて、1604(慶長9)年に工事に着手し4年後の1608(慶長13)年に
    完成した。以後代を重ねること13代、敬親に至って幕末の多端な国事の処理が不便なため、
    1863(文久3)年4月に藩府を山口に移した。
    1874(明治7)年、天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめ、
    ここ一帯は国の史跡に指定されている。旧本丸跡に歴代藩主を祀る志都岐山神社が創建された際、
    総面積約20万mの境内が指月公園として整備された。城跡の構造をよく残していることが特徴で、
    園内には天守閣跡、梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋、東園などの旧跡がある。
    また、幕末13代藩主毛利敬親が安政年間に藩主別邸・花江御殿に増築し、
    家臣とともに茶事に託して討幕の密議を凝らした茶室「花江茶亭」が
    明治22年に園内に移築され、現在、抹茶の接待を行っている。
    また県の天然記念物に指定されているミドリヨシノを始め、600本余りのソメイヨシノが春に咲き誇る。
    
    萩城跡入口となる南門跡(2009.11.18撮影)
    
    毛利輝元公像
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    塩矢倉跡
    
    城内入口。中央奥に本丸門があった
    
    
    
    城内入口の右側の掘。
    
    萩城跡(指月公園)入口の左側の掘で、天守閣の城壁方面を望む
    
    同上。中央の城壁の上に天守閣があった
    
    右側が本丸門方面
    
    入園料徴収所を入ったすぐ左側の城壁
    
    右側の城壁。この三毛猫が30分くらいついてきた
    
    右に回ると見えてくる鳥居
    
    入口方面を振り返った画像
    
    左側の城壁で、奥に見えるのが天守閣があった天守台
    
    右上は天守台の城壁
    萩城天守閣跡は、東西約20.0m、南北約14.5mの規模で、高さ14.5mの5層の天守閣は、
    1874(明治7)年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に破却され、
    今は礎石と台座に石垣のみを残している。
    天守閣跡を中心に土塁が内堀に沿って連なり、武者走り、矢倉台座跡が見られる。
    天守は複合式望楼型5層5階で、赤瓦葺で初層を天守台より大きく張り出させた張出(はりだし)という
    造りが採用され、最上階には外廻縁高欄や華頭窓があった。
    
    廃城前の明治初期の萩城
    
    明治初期の天守を描いた絵画
    
    萩城天守閣跡。石段を登りきったところに天守閣があった
    
    天守閣への石段
    
    萩城天守閣跡より城内入口方面を望む
    
    
    
    向うに見えるのが標高143mの指月山で、萩城詰丸石垣や矢倉跡などが残っている
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    城内にある公衆電話。もう10年以上も使っていないので、このタイプは初めて見た。
    万歳橋(ばんせいばし) : 志都岐山神社前の池に架かる中国風のデザインを施した長さ4.05m、
    幅員3.15mの太鼓橋は、花崗岩で造られており、藩校明倫館の遺構である。
    
    万歳橋
    旧福原家書院 : 旧三の丸にあった萩藩の永代家老福原家の書院を
    1882(明治15)年に志都岐山神社の社務所として移築したもの。
    建築年代は天明年間(1781〜88)頃とされ、当時の重臣の住居を知る上で貴重な建物である。
    
    旧福原家書院
    
    
    
    
    
    志都岐山神社
    
    
    東園(とうえん) : 指月公園北東隅にある池の周囲一帯を指し、かつては藩主の遊息の庭園であった。
    第2代藩主・毛利綱広(1651〜82)は農事を重んじ城内のここに稲田を設けて、
    自ら耕し勧農の意を示した。1925(大正14)年に復元修理された。
    
    東園の池
    
    池の鯉を狙うサギがいた
    
    同じサギだが、左側は黒色が少ない
    
    東園先の東側の出入口を出ると展望台があり、菊ヶ浜と日本海を一望できる。再入園できる。
    
    
    
    
    
    
    
    再び入城して東園に入って右方向に歩くと中の島への石橋があった
    
    反対側の石橋
    
    
    
    
    
    
    
    
    萩城詰丸跡 : 指月山の山頂(標高143メートル)は当時まわりを石垣で囲み、
    その区域を詰丸または要害といい、戦時に最後の籠城をするところであるが、
    平時は6〜7名の要害番が泊まり込み陸と海を監視していた。    
    詰丸は、東側の本丸と西側の二の丸とに分かれており、間には石垣と塀があって、門で連絡をしていた。
    また詰丸には、井戸がなかったので、本丸の大岩の傍らに貯水池、二の丸に用水槽を設置し、
    水を確保したが現在もその遺構がみられる。
    本丸は、東西24間(43.2メートル)、南北20間(36メートル)で、
    藩主の初入国あるいは幕府の巡検使の登山時に使用する休憩用の茶屋があった。
    二の丸は、東西十九間(34.2メートル)南北二十間(36メートル)で、
    監視所としての要害番所と要害番中間の居小屋があった。周囲は、一丈(3.03メートル)以上の高さの
    石垣の上に、鉄砲狭間を施した白亜の土塀をめぐらし、要所に矢倉五ヶ所、二階倉二ヶ所を配置していた。
    観覧料 : 大人210円 小・中学生100円(旧厚狭毛利家萩屋敷長屋と共通券)
    
    入園券(表)
    
    入園券(裏)
    参 : 萩市観光協会(HP)



































inserted by FC2 system