広島城(YSミニ辞典別掲)

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広島城(Hiroshima Castle)ひろしまじょう : 安芸広島城。
    広島県広島市中区基町(もとまち)21番1号にある城郭で、
    シャチホコのデザインから「鯉城(りじょう)」あるいは「在間城(ざいまじょう)」とも呼ばれ、
    太田川が京橋川に分岐してできたデルタの平地に築かれていた平城である。
    戦国大名・毛利氏は、元就(もとなり)のとき安芸国吉田荘(広島県安芸高田市吉田町)の郡山城を
    居城にしていたが、山間部であったため交通・戦略上の良地を求めて広島の地に進出した。
    1589(天正17)年、毛利輝元(もうりてるもと)によって起工され、1592(文禄元)年に城郭の
    体裁が整い、遅くとも1599(慶長4)年には完成していたと見られるが、正確な年月日は不明である。
    城下町の整備は普請奉行・穂田元清、二宮就辰のもと
    出雲の商人・平田屋惣右衛門らを招いて行われたと云う。
    輝元は1591(天正19)年1月に吉田から広島に入城し、地名を「廣島」と名づけ、
    9カ国(安芸・備後・周防・長門・出雲・石見・隠岐・備中半国・伯耆3郡)を支配していたが
    1600(慶長5)年の関ケ原の戦いの敗戦によって周防・長門の2カ国(現在の山口県)に減封され、
    長門萩城へ移る。かわって関ケ原の戦功により福島正則(ふくしままさのり)が、尾張清洲から
    49万石で入封したが、正則も1619(元和5)年に無許可修築のかどで除封(川中島に改易)され、
    幕府より信濃高井の地に捨て扶持を与えられ居館を構えて移り、彼の地にて没した。
    同1619年に浅野長晟(あさのながあきら)が紀伊和歌山より42万石で入封し、
    以後12代継いで幕末から明治に至った。
    1872(明治4)年の廃藩置県後、城内には陸軍の施設が徐々に設けられ、
    建造物は次第になくなっていった。1875(明治7)年の出火で、本丸御殿を焼失した。
    かつて1931(昭和6)年1月19日に国宝に指定されていた天守閣は、
    1945(昭和20)年8月6日(月)の米軍投下の原爆によって倒壊し、
    内堀と本丸及び二の丸が、1953(昭和28)に広島城跡として国の史跡に指定されている。
    築城時には櫓78カ所、城門23カ所が建ち並んだ広島城も、本の丸・二の丸部分と、
    これらを取り囲む水堀が残るだけになっていたが、本丸の天主が鉄筋コンクリート造りで、
    二の丸に中御門、太鼓櫓と続多聞櫓、平櫓が、木造で復元された。
    旧天守閣は主に松材を使用した木造で、大天守の東と南に小天守を連ねていた。
    現在の5層天守閣は、1957(昭和32)年、広島復興大博覧会に際しての復元を決定し、
    同年10月20日に着工し、1958(昭和33)年3月26日に以前と同じ形に外観復元されたもので、
    内部は、5層のうち1層〜3層は常設展示、第4層は企画展示、第5層(最上階)は展望室となっている。
    常設展示は、広島城の成立と役割、城下町広島のくらしと文化をテーマとしており、
    武具(甲冑・刀剣等)の展示や歴史と広島城に関する企画展示もあり、
    城下町広島を学べる歴史博物館として利用されている。
    広島城全域が広島城址公園(ひろしまじょうしこうえん)となっており、広島市中央公園と隣接している。
    
    二の丸内の太鼓櫓(たいこやぐら)で、2階に時太鼓を置き城内に時を知らせた。
    その奥に長さは35間(約63m)の多聞櫓(たもんやぐら)、
    さらに奥の櫓が平櫓(ひらやぐら)で、すべて1994(平成6)年に復元された

    
    太鼓櫓の左側は多聞櫓
    
    隅は平櫓
    
    御門橋(ごもんばし)の奥が二の丸の表御門(おもてごもん)で、1992(平成4)年に復元された。
    
    御門橋を通って二の丸の表御門に入る。
    二の丸は、出撃の拠点である馬出しの機能を持ち、本丸の正面を守る役割を果たしていた

    
    二の丸表御門の北西隅
    
    表御門の城内側
    
    二の丸内の太鼓櫓。右の多聞櫓につながっている。太鼓櫓の2階部分以外は内部見学できる
    
    二の丸の北側にある樹高10m、幹周4.3mの被爆樹木「ユーカリ」(爆心地より740m)
    
    本丸の南西方面を望む
    
    本丸中心部より望む南東側の広島城天守望楼部分
    
    本丸天守の南東側にある広島城図の碑。北西の角に天守閣があった
    
    天守閣の南面。下部中央が出入り口。ここから先が有料で、大人360円小人180円。
    かつては、手前の石垣上に南小天守があった

    
    天守閣の南側の上部
    
    約50年前の高さ約1.4mの鯱瓦。1991(平成3)年の台風19号により尾が折損、
    天守閣の屋根上から展示室へ移された鯱鉾(シャチホコ)。
    台風の時の落雷によるものと聞いたことがあり、強風で折れるようなチャチなシャチではないでしょう

    
    同上。右側に展示されている鯱鉾。
    こちらは被害を受けていないようだが、一対として取り換えるのでしょうか

    
    石落し(武者落し)
    
    殿様が乗るような豪華な駕籠(かご)ではないにしても、
    どんな人が使っていたというより、どこから手に入れたのでしょう。

    
    昔はどこの家にもこんなカマドがあった
    
    欄間はもっと手の込んだものだったでしょう
    
    きちんと正座して読書をしていたのでしょうか
    
    ちょっと眼の保養。これも展示物の一つ
    
    同上
    
    天守閣南東の角から本丸中心部を望む
    
    天守閣最上階西側の「華頭窓」と呼ばれるつり鐘やベルのような窓
    
    手前の石は、天守閣下に移築された天守礎石群で、
    1958(昭和33)年の天守閣復元時に、原型・原寸のままに礎石を移築して陳列展示している

    
    東側の広島城
    
    本丸内の広島城址公園としての入口
    
    三の丸跡から本丸への東御門跡枡形虎口(本丸裏門)
    
    本丸の南東方面の石垣
    
    本丸の北東方面の石垣
    
    本丸西側入り口にある広島城跡の石碑。復元城なので正しくは「広島城跡」となる
    
    西側の遠景
    
    東北方面から望む天守閣
    
    東北方面側の広島城
    
    東北方面側から望む広島城。このアングルが最も美しいと思う
    
    北側の広島城。天守台石垣の高さ12.4m、総高39m
    
    北西方面側の天守閣
    
    北西方面から望む。このアングルもよい
    
    西側の広島城
    
    南西から望む
    
    石垣は本丸の南西隅
    
    南方面より望む天守閣
    
    本丸の南側入り口。右に回ったところに二の丸の表御門がある
    
    地味な観覧券だ。原寸は12.5×6.4cm。

    広島城のように平地に築かれた平城は、周りに近代的な建物が多いので撮影が難しい。
    復元されたものの、江戸時代の建造物としては背景に高層ビルなどが入らない方がいい。
    最もじゃまをするのがお堀のすぐそばにそびえるRCCのテレビ塔で、移転してもらいたいね。
    国の史跡周辺は、古寺の多い京都の市街地景観整備条例による建築物の規制を見習ってほしい。

参 : 広島城(公式HP)、(HP)


























































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