YSミニ辞典(ほ)
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法然(ほうねん) : 法爾
(ほうに)。1133年5月13日(長承2年4月7日、
美作
(みまさか)国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国
(うるま・ときくに)と、
母・秦氏君との子として生まれる。幼名は勢至丸。
平安時代末期から
鎌倉時代初期の日本の僧侶で、
浄土宗の開祖。
法然は房号で、諱
(いみな)を源空
(げんくう)という。諡
(おくりな)は円光大師・明照大師。
黒谷上人・吉水
(よしみず)上人とも称される。
浄土真宗・七高僧の一人で、
親鸞の師でもある。
『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、9歳のとき、源内武者・明石貞明
(あかしのさだあきら)の
夜討によって父を失うが、その際の父の遺言によってあだ討ちを断念する。
15歳の時(異説には13歳)に叔父・観覚
(かんがく)に勧められて、当時の最高学府である
比叡山の源光
(げんこう)のもとに行った。源光は法然の優れた才能を見抜き、
天台の碩学
(せきがく)である皇円
(こうえん)のもとで学ばせることにした。
法然はここで剃髪出家し、天台学を学ぶ。
次いで比叡山黒谷別所の叡空
(えいくう)に師事して「法然房源空」と名のる。
1175(承安5)年、43歳の時、
善導大師の「観無量寿経疏
(かんむりょうじゅきょうしょ)」や
天台宗の僧・
源信(げんしん)(恵心僧都
:えしんそうず)の「往生要集
(おうじょうようしゅう)」に
啓発されて専修念仏
(せんじゅねんぶつ)の教えを唱えた1175年が浄土宗の立教開宗の年とされる。
法然は善導大師には、実際に会っていない。あくまでも、その著作によって
善導大師を師と仰いだのである。法然と善導大師は生きた時代が500年も違うのである。
比叡山を下りて京都東山の吉水に庵を結んで布教に努め、主に武士・農民の帰依を得た。
1186(文治2)年、大原勝林院で聖浄二門を論じ(大原問答)、
1198(建久9)年に「選択集」を著し、他に「選択本願念仏集」などがある。
法然は旧仏教からの激しい圧迫を受け、1204(元久元)年、比叡山の僧徒は専修念仏の
停止を迫って蜂起したので、「七箇条制誡」を草して門弟190名の署名を添え
延暦寺に送った。
しかし興福寺の奏状により念仏停止の断が下され、のち1207(承元元)年、
法然は還俗され藤井元彦を名前として、四国の土佐国(実際には讃岐国)に流罪となり、
半年後には摂津(現大阪府)箕面
(みのお)の勝尾寺
(かつおじ)に蟄居している。
4年後の1211(建暦元)年、赦免になり帰京し、
翌年の1212年2月29日(建暦2年1月25日)に亡くなり、1月25日が祥月命日にあたる。
なお、1212(建暦2)年1月23日に源智の願いに応じて遺言書
一枚起請文を記している。
法然の門下には證空、源智、聖光、幸西、親鸞、長西らがいる。
また俗人の帰依者・庇護者としては、
九条兼実が著名である。
法然とは、もちろん浄土宗の教祖として、その後の親鸞の先駆けをなした大宗教家である。
今日浄土宗は、浄土真宗と併せ、信徒の数としては日本一である。
何故この宗派が、このように最大の宗教団体になったかと言えば、
元々厳しい戒律に支えられた宗教であった仏教を非常に分かりやすく大衆が受け入れやすい形で、
説いた点にあったことは明らかだ。この教えの最大の特徴は「浄土信仰」と「他力」という教義である。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも
極楽浄土に行けるとするこの信仰は、
ある意味では非常に安易であるが、誰もが容易に受け入れ易いものである。 参 :
御忌
法然上人絵像(総本山・知恩院蔵)1983.10.1、浄土宗新聞より
法然上人。兵庫県・念仏寺蔵、月輪(つきのわ)の御影(1998.1.1、浄土新聞より)
法然上人像(東京・龍寶寺蔵)2005.1.1、浄土宗新聞より
法然上人(東京・景勝院蔵)1999.1.1、浄土宗新聞より
比叡山延暦寺の参道にある数々の掲示板の一つ
参 :
法然上人八百回忌 特別展覧会「法然 生涯と美術」(京都国立博物館HP)、
法然共生(HP)、
京都で遊ぼうART(HP)
、
おけいはん.ねっと(HP)