遺跡関連(YSミニ辞典)

[ホーム] [索引] [前項] [次項]

遺跡(site)いせき : @古跡。旧跡。土器・石器などの「遺物」や、住居跡・溝跡など人間によって
     古い時代に建てられた建物、工作物の痕跡「遺構」などや歴史的事件があったために
     なんらかの痕跡が残されている場所のこと。専門的には「埋蔵文化財包蔵地」という。
     考古学では住居址・墳墓・貝塚・城郭など、土地に固定して動かすことができないものを指す。
     遺跡の種類 : 過去の人びとの活動の場が遺跡であり、
      したがって遺跡は、それがどのような活動であったかにより分けられる。
      ●人が住んでいたところ(住居跡、集落遺跡、都市遺跡、貝塚)
      ●祈り祭ったところ(祭祀遺跡、配石遺跡)
      ●寺や神社、神殿のあと(宗教遺跡、寺院跡)
      ●ものをつくったところ<生産遺跡>(製塩遺跡、製鉄遺跡、水田遺跡、窯跡、工房跡)
      ●道や港のあと(交通遺跡)
      ●死者を葬ったあと(墓地遺跡・古墳)
      ●墓以外で意図的に何かを埋めた遺跡(経塚、銅鐸埋納遺跡など)
      ●軍事的な施設のあと(とりで跡、城跡、都城跡)
     参 : 城野遺跡、、纒向遺跡、        
ロマンを感じる日本の遺跡ランキング    
順位 横綱名 記    事 票数
吉野ケ里遺跡(佐賀) 600年間にわたって営まれた弥生時代の大集落。
楼閣、墳丘墓、環濠などが復元され、遺跡公園となっている
759
高松塚古墳(奈良) 飛鳥美人と呼ばれる極彩色の壁画で知られるが、カビで
壁画が劣化したため、2006年から解体修理が行われた
747
三内丸山遺跡(青森) 約5500年前〜4000年前頃に築かれた縄文時代最大級の集落遺跡。大型竪穴住居、墓、堀立柱建物などが出土した 619
登呂遺跡(静岡) 1947年に行われた発掘調査で、水田、竪穴住居、高床
倉庫などが出土。戦後の弥生時代研究の出発点となった
497
与那国海底遺跡
(沖縄)
与那国島沖の海底で見つかった段丘状のテラス。
その地形が人工物かどうかをめぐって、議論が続いている
455
平城宮跡(奈良) 710年に遷都が行われた平城京の中心施設。
大極殿や朱雀門などが復元されている
452
石舞台古墳(奈良) 巨石で作られた石室が露出する飛鳥時代の古墳。
豪族・蘇我馬子の墓とみられている
410
箸墓(はしはか)
古墳(奈良)
日本最古とされる全長約280mの前方後円墳。
邪馬台国の女王・卑弥呼の墓という人も
295
フゴッペ洞窟
(北海道)
人・船・魚など約800点の模様を刻んだ壁画のある洞窟
遺跡。シベリアの岩壁画などと関係か(続縄文時代)
205
10 一乗谷朝倉氏遺跡
(福井)
織田信長に滅ぼされた戦国大名・朝倉氏の城下町の跡。
武家屋敷や町屋などが再現されている(戦国時代
200
11 大森貝塚(東京) (縄文時代) 191
12 藤原京跡(奈良) 188
13 亀ケ岡遺跡(青森) 172
14 大宰府政庁跡(福岡) 151
15 多賀城跡(宮城) 148
16 岩宿遺跡(群馬) (旧石器時代) 138
17 大湯環状列石(秋田) 125
18 旧新橋停車場(東京) (明治時代) 115
19 西都原古墳群(宮崎) 110
20 唐古・鍵遺跡(奈良) 96
2011.4.9、朝日新聞「beランキング」掲載。回答者は2013人。
国指定史跡を中心に48の選択肢を用意。「ロマンを感じ、行ってみたい」遺跡を5つまで
選んでもらった。選択肢にない「その他」として、邪馬台国の都とも言われる纏向遺跡(奈良)、
大量の遺物が出土し「海の正倉院」の名がある沖の島(福岡)などがあがった。
    A「ゆいせき」と読み、日本の中世においては過去の人物が残した所領や地位、財産など。
      また、その相続人を指す。
    B過去の人間の営みの跡が残されている場所。
城野遺跡(じょうのいせき) : 福岡県北九州市小倉南区城野2丁目にある遺跡で、
    弥生時代の竪穴住居や貯蔵穴、墓などからなる。
    終末期の方形周溝墓は南北23m余、東西17mの規模で、九州最大級の墓である。
    中央からは内部を朱で塗った箱式石棺2基が見つかり、
    管玉(くだたま)などとともに幼児の骨が見つかった。
    将来を約束された有力者層の子どもで、世襲制の存在を物語るとの見方もある。

    九州最大級の方形周溝墓出土、小倉南の城野遺跡
     北九州市教委は、小倉南区城野の城野遺跡で
    弥生時代末期に造られた九州最大級の方形周溝墓が見つかったと発表した。
    石棺からは人骨や副葬品も見つかり、集落の首長級の権力者が造ったものとみられる。
     城野遺跡は市教委と市芸術文化振興財団が2009年6月から発掘した。
    周囲を囲む溝は南北約23m、東西約16mで、九州では最大級という。
    墓の中心からやや北側には、2基の石棺(長さ約1m、幅約0.3m)があり、
    中から頭骨や歯の一部、首飾りの管玉(くだたま)などが見つかった。
    骨の大きさなどから、身長90cm程度の子供が埋葬された可能性が高い。
    内部は朱色の顔料で塗られており、魔よけの意味があったとみられる。
     周辺からは竪穴式住居跡9棟や、鉄刀の破片、炭化米なども出土している。
    同財団の宇野慎敏学芸員は「近くには同じ時期の重留遺跡と重住遺跡があり、
    城野遺跡を合わせた三つで拠点の集落を形成していたのではないか」と話している。
    九州で最大級の方形周溝墓、箱式石棺の内部に人骨なし
     北九州市小倉南区の城野遺跡で、九州最大級とみられる弥生時代終末期(3世紀)の
    方形周溝墓が確認され、市教育委員会は2009年11月18日、
    この墓から並んで出土した箱式石棺2基のふたを開けて内部を調査した。
     石棺は板石を組み合わせ、白色粘土で目張りされていたが、すき間から酸性土が入り込んでおり、
    人骨は見つからなかった。市教委は鏡や鉄製品などの副葬品がないか、さらに詳しく調べる。
     市教委によると、方形周溝墓は周囲をコの字形の溝で囲まれ、南北23m、
    東西18mほどの規模。石棺2基は、長さ170cmと160cm、幅100cmと125cmで、
    高さはいずれも約50センチ。周囲にはつぼが1個供えられ、魔よけの赤色顔料が薄く敷かれていた。
    北九州市芸術文化振興財団の宇野慎敏学芸員は「これまで3つの集落が別々にあると
    考えられていたが、方形周溝墓に埋葬された有力者が一つに束ねて大集落にしたのでは」と話している。
登呂遺跡(とろいせき) : 静岡県静岡市駿河区登呂にある2、3世紀ごろの
    弥生時代後期(約2千〜1800年前)の集落・水田遺跡の一つ。
    1952(昭和27)年に国指定特別史跡に指定された。
    遺跡は、太平洋戦争中の1943(昭和18)年、戦闘機のプロペラをつくる軍事工場の建設中に発見され、
    戦後間もない1947(昭和22)年7月13日、戦後初となる発掘調査が始まった。
    1950(昭和25)年にかけて主体となった「静岡市登呂遺跡調査会」には考古学だけでなく農業史、
    考古学、人類学、地質学、建築学、動植物学など様々な分野の学者が加わった日本で初めての
    総合的な発掘調査が行なわれ、8万平方メートルを超える水田跡や井戸の跡、
    竪穴式住居(正確には竪穴系平地式住居)・高床式倉庫の遺構が見つかった。この他にも、
    農耕や狩猟、漁労のための木製道具や火起こしの道具、木器・土器、占いに用いた骨などが出土した。
    明治大学の石川日出志教授(考古学)は「遺跡をめぐるこれほど大掛かりな学際的組織は
    その後もまれだ。歴史をひもとくことの重要さが共有されていた」と語る。
    学会の「日本考古学協会(HP)」はこの調査がきっかけで誕生した。
    
    竪穴式住居
    
    高床式倉庫(列島宝物館より)
     かつては教科書に載るようなおなじみの遺跡だったが、その後、吉野ケ里遺跡(佐賀県)など、
    巨大遺跡の登場で影が薄くなっていた。1999年から遺跡の再発掘が行われ、
    今まで考えられていたよりも遺跡の規模が大きく、存続期間も長いことがわかってきた。
    2006年からは遺跡再整備も始り、2008年7月には住居や倉庫など、5棟の新しい復元建物が完成し、
    2010年秋には新博物館がオープンする予定である。
    参 : 纒向遺跡静岡市立登呂博物館(HP)
纒向遺跡(まきむくいせき) : 纏向遺跡。奈良県桜井市太田ほかにある、御諸山(みもろやま)とも
    三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯の南北1.5km、東西2kmに広がる
    弥生時代末期〜古墳時代前期の遺跡群を指す。250年ごろに死去したとされる
    卑弥呼(ひみこ)の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳(3世紀中ごろ〜後半、全長約280m)など
    最古級の前方後円墳6基が点在し、「前方後円墳発祥の地」とされている。
    遺跡名は旧磯城郡纏向村の村名であり、その村名は垂仁天皇纏向珠城(たまき)宮、
    景行天皇纏向日代(ひしろ)宮の纏向に由来する。
    隣接して箸墓古墳や渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(景行(けいこう)陵)がある。
    1971(昭和46)年以降、橿原(かしはら)考古学研究所が調査を行い、東西2.5km、
    南北2km範囲内に一つの水系によって結ばれた6カ所の居住地と古墳群が存在することを確かめた。
    居住地縁辺には多くの土坑と物資運搬用の運河の可能性がある直線的水路が縦横に走るなど
    都市機能を備えていたとみられる。土坑の底は湧水(ゆうすい)層に達しており、
    その中から、農耕儀礼に使用したと思われる土器、機織(はたおり)具、箕(み)、焼木、
    多量の籾殻(もみがら)などが出土した。水路や土坑から出土した土器によって古墳時代前期を
    纏向一式〜四式期に編年したが、そのなかには東海東部・西部、北陸、山陰、大阪湾岸、
    瀬戸内中部・西部、九州などの他地域のものが30%近くあり、各地域との多様な交流を示している。
    纏向石塚古墳は一つの居住地の縁辺部にある纏向一式期の全長96mの前方後円墳である。
    周濠(しゅうごう)内から土器とともに鶏(にわとり)形木製品や直弧文(ちょっこもん)
    祖形と考えられる弧文円板が出土しており、
    初期ヤマト政権の葬送儀礼の系譜を検討しうる資料として重視されている。
    2009年11月に見つかった大型建物跡は南北19.2メートル、東西12.4メートルと推定され、
    「卑弥呼の宮殿」という見方もある。3世紀末の中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」は、
    卑弥呼が「鬼道(きどう)」(呪術)で倭国(わこく)を支配したと記している。
    参 : 吉野ケ里遺跡登呂遺跡

    邪馬台国の最有力候補?纒向遺跡
     邪馬台国の最有力候補地とされる纒向遺跡(奈良県桜井市)で、卑弥呼(248年ごろ没)と
    同時代の3世紀前半の大型建物跡が見つかり、桜井市教委が2009年11月10日、発表した。
    柱穴が南北19.2メートル、東西6.2メートルに整然と並び、同時代の建物では国内最大級。
    過去の発掘調査で確認された3棟の建物や柵列と共に、
    東西方向の同一直線上で南北対称となるよう計画的に配置されており、
    卑弥呼の「宮室」(宮殿)の可能性がある。邪馬台国大和説を前進させる成果と言えそうだ。
     1978年に柵と建物跡が確認された調査地点を、2009年2月から区域を広げて再度調査。
    東西に計画的に並ぶ三つの建物群や柵を確認。大型建物跡は、その東側の区域で新たに見つかった。
     直径約30センチの柱跡が南北に4.8メートル、東西に3.1メートルの間隔で並んでおり、
    南北方向の柱の間には床を支える細い束柱の穴があった。
     市教委は、後世に柱穴が削られた西側も含め、東西幅は倍の12.4メートルだったと推定。
    復元図を作成した黒田龍二・神戸大准教授(建築史)は、地上約2メートルに床を設けた
    高床式・一層の入り母屋造りで、高さは約10メートルとみている。
     推定床面積は約238平方メートルあったとみられ、弥生時代最大規模の環濠(かんごう)集落とされる
    吉野ケ里遺跡(佐賀県)で最も大きい「主祭殿」(2〜3世紀)の約1.5倍になる。
     また、同一直線上で南北対称となる建物配置は、同時期までには例がない。
    飛鳥時代(7世紀)の宮殿と共通する特徴で、当時の王権中枢の一角であった可能性が高い。
    卑弥呼が集めさせた?骨や種、数万点 奈良・纒向遺跡asahi.comより)
     女王・卑弥呼(ひみこ)が治めた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の
    纒向(まきむく)遺跡(2世紀末〜4世紀初め)で、約10種類の魚や動物の骨、
    約70種類の植物の種が見つかり、同市教育委員会が2011年1月21日、発表した。
    骨や種は一度に埋められたものとみられている。古代の遺跡から、まとまってこれほど多様な骨や
    種が見つかった例はなく、研究者は祭祀(さいし)の供え物が埋められた可能性が高いとみている。
     骨や種が出土したのは、東西約2.2メートル、南北約4.3メートル、
    深さ約80センチの穴(3世紀中頃)の中からで、
    2009年11月に見つかった3世紀前半としては全国最大の建物跡の南約5メートルにある。
    この穴からは、すでに2千個以上の桃の種や、祭祀に使われたとみられる小さな土器などが
    出土していた。今回は掘り出した土を洗い流したところ、数万点の骨片や種などが出てきたという。
     主に2、3ミリの小片で、煮炊きしたり、すりつぶしたりするなど調理した形跡は確認できなかったという。
     魚はマダイ、アジ科、サバ科の魚、イワシ類、コイなどと見られる淡水魚の5種類。
    動物はニホンジカ、イノシシ属(ブタを含む)の動物、ネズミ類、カエル類、カモ科の鳥の5種類。
    骨や歯は約1千点にのぼり、8割以上が魚。ネズミ類やカエル類の骨の量はわずかしかなく、
    自然に混ざったものとみられている。植物のうち、栽培されたとみられているのは、
    イネやアワなどの穀物、桃、ウリ類、ヒョウタン類、アサ、エゴマなど10種類だった。
     杉山林継(しげつぐ)・国学院大名誉教授(祭祀考古学)は
    「神への供え物である神饌(しんせん)とみられ、神道祭祀の源流だろう。
    これだけの種類を集められたのは纒向遺跡に相当な権力者がいた証しではないか」とみる。
     遺物は2011年1月22日から2月27日まで、
    桜井市芝の市立埋蔵文化財センター(0744−42−6005)で展示される。

吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき) : 佐賀県東部、神埼市と吉野ケ里町の境にある弥生時代遺跡で、
    1982(昭和57)年から始まった、工業団地造成の為の文化財発掘調査中に発見された。
    1986(昭和61)年からの3年間の本格発掘調査において、前1世紀の大量の甕棺(かめかん)墓と
    長さ40mの墳丘墓、後2、3世紀の大規模な環濠集落跡、堅固な城柵跡、
    一辺12.5mもある掘立柱建物や8mの高さの望楼跡などが続々発掘され、この遺跡は約40haに及ぶ、
    2〜3世紀の弥生時代後期の国内最大の遺跡であることが分かり、俄然注目を集めた。
    甕棺に埋葬された青銅器やガラス製管玉、銅鐸、金属製の鋳型など様々なものが出土した。
    古代国家の謎を解き明かす弥生時代の遺跡として、1991(平成3)年には国の特別史跡に指定された。
    1999(平成11)年には中国が源流という盛り土の祭壇や大倉庫群跡、
    2003(平成15)年9月には銅剣が刺さった人骨が新たに確認された。
    
    南内郭の中の集落(列島宝物館より)
    
    北内郭の中の集落(列島宝物館より)
    
    竪穴住居(列島宝物館より)
    
    主祭壇(列島宝物館より)
    
    高さ約12mの物見櫓(列島宝物館より)
    吉野ケ里遺跡が、「魏志倭人伝」にでてくる『邪馬台国』の描写と集落の様子との相似点が多い事から、
    邪馬台国ではないかと、一躍世間一般の人の関心を呼び、古代ロマンの夢の里を一目見ようと、
    全国より年間数百万人の人が訪れ、観光ブームを巻き起こした。
     佐賀県では、工業団地の建設を大巾にを縮小し、観光事業の目玉として、
    物見やぐら、竪穴住居等を復元し、遺跡の大部分を保存し、活用できるよう整備を進めてきた。
    第1期計画の環濠集落を再現した北内郭復元建物群が概成し、2001(平成13)年4月21日より
    国営「吉野ケ里歴史公園」として、一般に公開された。
    参 : 吉野ケ里歴史公園(HP)、吉野ケ里遺跡(佐賀県HP)、登呂遺跡纒向遺跡









































inserted by FC2 system