歌舞伎関連(YSミニ辞典)
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荒事(あらごと) : デフォルメされた衣裳やメーク、非常に誇張した演技で力強さや超人的存在であることを
誇示する役柄をいう。大仰な「隈取
(くまどり)」に大きく左右に張った衣裳をつけ、
2メートルもある刀をつけて演じる「暫
(しばらく)」の鎌倉権五郎が代表的。
女形(おんながた) : 歌舞伎の舞台に決して女性の役者は登場しない。
あでやかなお姫さまや遊女などを演じるのも、すべて男の俳優。女の役を演じる役者を「女形」という。
よく知られているように、歌舞伎の初めは出雲
(いずも)のお国という女性役者。
その後、女性ばかりの女歌舞伎、美少年ばかりの若衆歌舞伎などが盛んになったが、
徳川幕府が、風俗が乱れるという理由などから、寛永5(1628)年に歌舞伎に女優が出演することを禁止。
以後、男優が女性の役を務めるという伝統が生まれ、今日に至っている。
中世のシェークスピア劇団や中国の京劇など、男優が女性を演じる例が他にないわけではないが、
とくに歌舞伎の女形の芸の素晴らしさが世界的に知られているのは、男が女を演じるという虚構の中で、
結果的に現実の女性を超えた理想の女性像が演じられてきたからでしよう。
女形を代表する役柄には、「助六由縁江戸桜」の傾城
(けいせい)・揚巻や、三姫といわれる
「本朝廿四孝
(ほんちょうにじゆうしこう)」(十種香)の八重垣姫、「鎌倉三代記」の時姫、
「祇園祭礼信仰記
(ぎおんさいれいしんこうき)」(金閣寺)の雪姫、
片はずしといわれる鬘
(かつら)をつける奥女中や乳母、奥方役など。
片はずしの代表的なものに、「伽羅先代萩」の政岡や
「恋女房染分手綱
(こいにょうぼうそめわけたづな)」(重の井子別れ)の重の井などがある。
顔見世興行(かおみせこうぎょう) :
江戸時代の歌舞伎の劇場は1年ごとに出演契約を更新し、
その座組によって1年間の興行を行う習わしで、その契約役者を11月に披露したのが
「顔見世興行」だった。しかし、この習わしは江戸時代の末に廃止されており、
現代に残る顔見世興行は、10月御園座、11月歌舞伎座、12月南座において名前だけ残し、
むしろ大物役者が幾人も顔をそろえる興行と意味合いが変化してきている。
1993年11月の歌舞伎座の「顔見世歌舞伎」の演目は「勧進帳
(かんじんちょう)」
「扇屋熊谷
(おうぎやくまがい)」など。南座の顔見世は、1993年は平安建都1200年を記念して
11月と12月に公演され、「義経千本桜
(よしつねせんぼんざくら)」「曽根崎心中
(そねざきしんじゅう)」
「八陣守護城
(はちじんしゅごのほんじょう)」など。御園座と南座では、役者の名や紋を描いた
「まねき」と呼ばれる看板が劇場正面に掲げられ、昔ながらの芝居小屋らしい情緒をかき立てる。
歌舞伎(the kabuki、a Japanese classical play)かぶき : @傾き
(かぶき)。歌舞伎芝居。歌舞伎劇。
江戸時代に大成した日本の代表的演劇のことであるが、本来「かぶき」とは、
「かぶく」が変化したことばで、「頭を傾
(かたむ)ける」という意味である。
それが、常識
(じょうしき)はずれな行動や姿
(すがた)を指すことばになった。
「異様な身なり、異端の言動などで、常規はずれ」「自由放縦な行動をする」こと、
つまり新傾向・モダンということであり、日常性や伝統的規範をはずれた風体や行動をする者を指して
「かぶき者」と呼ばれるようになった。そして、
徳川家康に将軍宣下
(しょうぐんせんげ)のあった
慶長8(1603)年、出雲大社の巫女
(みこ)と称する、いわゆる出雲の阿国
(おくに)の
女性芸能団一行が、京の四条河原で念仏踊りを踊ったときが、芸能としての「かぶき」の誕生となった。
それは単なる念仏踊りではなく、阿国のいでたちは、南蛮渡来のズボンに南蛮笠をかぶり、
胸に十字架、腰に鉦
(かね)という姿であった。この阿国のかぶき踊りが人気の的となり、
大流行をもたらし、やがて、それは風俗取締りの対象となり、
寛永6(1629)年に遊女かぶきは禁止された。次いで、若衆
(わかしゅう)かぶきの盛隆をもたらすが、
これも承応元(1652)年に禁止され、野郎
(やろう)かぶきへと移る。そこでこれまでの「かぶき」の
名称が廃され、「物真似狂言尽くし
(ものまねきょうげんづくし)」を標榜
(ひょうぼう)することになり、
演劇としての歌舞伎はここから出発することになった。
この流れを要約すると、慶長(1596〜1615)頃の阿国かぶきに始まり、
若衆かぶきを経て元禄期(1688〜1704)に若衆かぶきとして劇的要素を主とする演劇に発展し、
女優の代わりに女形を使い、また舞踊劇・音楽劇などの要素をも含む演劇として親しまれることとなった。
歌舞伎の演題には「
判官びいき」で有名な「勧進帳」などがある。
「於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)<お染の七役>」お染・中村福助
勝川春好・画、市川團十郎の「暫(しばらく)」(太田記念美術館蔵)
親から子への継承 : こうした家の芸を伝えるためにも歌舞伎の世界では、
役者の家の男子は幼いときから舞台の実践で芸を身につけ、役者の道を歩んでいく。
しかし、市川右近、笑也など、外からこの道に入り、芸の力によって大きな役を与えられていく例もある。
だれになんて声をかけたらいいの? : 役者の演技が最高潮に達したときに、
見得
(みえ)をしたりする。このような見せ場で「○○屋あっ」という具合に声をかけ、演技を盛り立てる。
江戸時代には、公家や武士でなければ姓がなく、役者には同じ名前が多かったために
屋号をつけて呼び分けたのである。その一部を紹介すると
音羽屋…尾上梅幸、菊五郎、丑之助、坂東彦三郎など。
沢潟屋(おもだかや)…市川猿之助、段四郎、右近、笑也など。
高麗屋(こうらいや)…松本幸四郎、市川染五郎など。
中村屋…中村勘九郎、勘太郎、七之助など。
成駒屋(なりこまや)…中村歌右衛門、芝翫、福助、橋之助、贋治郎など。
成田屋…市川圃十郎、新之助など。
播磨屋(はりまや)…中村吉右衛門など。
松島屋…片岡仁左衛門、我當、孝夫、秀太郎など。
大和屋…坂東三津五郎、玉三郎、八十助、岩井半四郎など。
寓屋(よろずや)…中村歌六、時蔵、歌昇など。
参 :
梨園
「風俗取締り」は赤線や新宿の歌舞伎町などの取り締まりをイメージしていたが、
ほんとうに江戸時代の昔に風俗としての取締りがあったのだろうか。
A異様で華美な風体を好み、色めいた振る舞いをすること。
歌舞伎座(かぶきざ) : @歌舞伎を上演する一座。また、その劇場。
歌舞伎公演が行われる劇場(Aの歌舞伎座の他)
★国立劇場(東京都千代田区隼町4−1)★新橋演舞場(東京都中央区銀座6−18−2)、
★御園座(名古屋市中区栄1−6−14)★南座(京都市東山区四条大橋東詰)、
★新歌舞伎座(大阪市中央区難波4−3−25)★中座(大阪市中央区道頓堀1−7−19)、
★金丸座(香川県仲多度郡琴平町)などが代表的な劇場。
A東京都中央区銀座4−12−15にある劇場。最初に建てられたのは1889(明治22)年11月で、
東京市京橋区木挽
(こびき)町3丁目(現中央区銀座4丁目)に、
演劇改良の実現を目的として福地桜痴
(おうち)が千葉勝五郎の資金を得て建設した。
外観は洋風、内部は日本風3階建ての檜
(ひのき)造り、定員1824名、舞台間口13間(23.60m)、
直径9間(16.29m)の蛇の目回しをもち、規模・設備ともに日本一の偉容を誇った。
ここで桜痴は演目、演出、観劇制度などに理想興行を目ざしたが、経営に失敗、
翌年自身は座付作者にとどまり、経営は12世守田勘弥
(かんや)に、ついで田村成義
(なりよし)に移り、
1913(大正2)年以後松竹合名社の大谷竹次郎にゆだねられた。初めは西洋建築だったが、
近代的な帝国劇場ができたこともあって1911年に純日本式宮殿風に改築したが、
1921年に漏電により焼失し、ただちに再建にかかったが、1923年関東大震災により焼失した。
1925(大正14)年鉄筋コンクリート4階建て桃山風の豪華な近代的劇場として再建したが、
1945(昭和20)年5月の空襲により三たび焼失したが、吉田五十八
(いそや)の建築設計で
旧観を復して1951(昭和26)年1月新築開場したのが4代目の歌舞伎の殿堂として
2010年4月28日まで使っていた歌舞伎座である。
外観には前の建物の面影を残し、客席は4階まで約2千席、舞台は高さ6.4m、間口27.6mと、
極端に横長で、高さがほぼ同じの国立劇場大劇場(東京・三宅坂)に比べて間口が5m以上広い。
さらに、絵巻物を広げたように舞台から、客席に向かって18mの花道が伸びる。
歌舞伎座
同上
客席
再建から60年とこれまでで最も長寿だが、戦災に遭った建物の一部を利用したことなどもあって
老朽化が進んでおり、松竹は2008年秋に建て替え計画を発表した。
建て替えによる一時閉館に伴い、2009年1月3日から16カ月続いた「さよなら公演」も
2010年4月28日が千秋楽となり、30日の閉場式をもって、いまの建物は歴史を閉じ、
3年後、新劇場がお見えする。
さよなら公演中(フォト蔵より)
ポスター
参 :
歌舞伎座(HP)
歌舞伎十八番(かぶきじゅうはちばん) : 歌舞伎の代表的な演目と勘違いしている人も少なくないようだが、
実は市川團十郎家に家の芸として伝えられている18本。「不破
(ふわ)」「鳴神
(なるかみ)」
「暫
(しばらく)」「不動」「嫐
(うわなり)」「象引
(ぞうひき)」「勧進帳」「助六」「押戻
(おしもどし)」
「外郎売り
(ういろううり)」「矢の根
(やのね)」「関羽
(かんう)」「景清
(かげきよ)」
「七つ面
(ななつめん)」「毛抜
(けぬき)」「解脱
(げだつ)」「蛇柳
(じゃやなぎ)」「鎌髭
(かまひげ)」。
荒事を得意とする家だけに、18本とも荒事の代表作晶である。
現在もよく演じられるのはこのうち半分くらいである。
黒衣(くろご)
舞台の上に黒い着物を着て、顔にも黒いベールをかけた人がいることがあるが、これが“黒衣”。
黒衣はいわば役者の陰のような存在で、見えるけれど“そこにいない”という約束事になっている。
黒衣の仕事は、役者に小道具を渡したり、合引
(あいびき)という小さな椅子を差し出したり、
衣裳
(いしょう)を直したり、黒衣を使えるのは主役級の役者にかぎられ、弟子が務めている。
実事(じつごと) : いわばリアリズムで、「仮名手本忠臣蔵
(かなでほんちゅうしんぐら)」の
大星由良助などの役がある。
白波物(しらなみもの) : 作品の内容によって、演目を分ける場合もある。
江戸時代以前の歴史上の事件を描いたものが「時代物」、江戸時代の大名や武家のお家騒動を
扱ったものが「お家物」、江戸時代の庶民の生活や社会的事件を採り上げたものが「世話物」。
この世詰物の中でも、「白浪物」といえば、泥棒を主人公にした演目をいい、
「青砥稿花紅彩画
(あおとぞうしはなのにしきえ)」(白浪五人男)が有名。
江戸時代に世間を騒がせた事件がすぐに脚色されて芝居に仕立てられ、上演されたことが多くあった。
心中物(しんじゅうもの) : 男女の心中を扱ったものが別に「心中物」といわれ、
天和3(1683)年に起こった情死事件を題材に、近松門左衛門が書き下ろした「曾根崎心中」などがある。
宙乗り(ちゅうのり) : 宙吊り
(ちゅうづり)ともいい、歌舞伎の演出の一つ。
役者の体をワイヤーなどで宙に吊り上げ、舞台の上や観客席の上を移動させる演出をいう。
これにより、劇場全空間を“舞台化”でき、スペクタクルな演出効果も満点。
18世紀初頭に初世團十郎がはじめた演出法といわれ、明治以降では二代目尾上多見蔵、
六代目尾上梅幸が得意としていた。戦後、三代目実川延若が「五右衛門の宙乗り」を復活。
さらに三代目市川猿之助が昭和44年、国立劇場「義経千本桜」の狐忠信で、
同じ公演に出演していた延若から指導を受け、宙乗りにトライ。その後も尾上菊五郎、
中村児太郎、市川海老蔵(十二代目團十郎)、中村吉右衛門、中村勘九郎が挑戦しているが、
なんといっても市川猿之助の「義経千本桜」の狐忠信役の宙乗りなどでダントツで多く、
5000回をはるかに越えてギネスブックにも登録されている。
花道(stage passage)はなみち : @観客席を縦に貫いて役者(俳優)が舞台に出入りする細長い道。
寛文(1661〜1673)ごろ発生し、元文(1736〜1741)ごろ完成した。
下手にある常設のものを本花道、上手に仮設されるものを仮花道とよぶ。
もとは役者に花(祝儀)を贈るための通路であったという。
歌舞伎座には客席を縦断する花道があり、ここを通って役者が客席の後ろから華々しく登場したり、
舞台から退場したりする。花道の舞台に近い位置には「すっぽん」と呼ばれるしかけがあり、
舞台下から役者がせり上がってくる。幽霊や妖怪などの登場に使われ、
異世界
(いせかい)との通路のような意味合いがある。
A
平安時代、相撲の節
(すまいのせち)で力士が花をつけて入場したところから、
相撲場で、力士が支度部屋から土俵に出入りする通路のこと。(例)東西の花道
B世の注目や称賛が一身に集まる華やかな場面。特に、人に惜しまれて引退する時。
(例)引退の花道を飾る。
一幕見席(ひとまくみせき) : 歌舞伎座には一幕見席(4階)というのがある。
好きな一幕だけ、もう一度見たい一幕のみを見ることができる席である。
当日券売りのみで、一幕ごとの入れ替え制になっている。
多忙な人も短時間で見せ場が堪能
(たんのう)でき、通はこの席を上手に活用しているめ。
相当遠くて高い位置から見ることになるから、演者の表情を見たい場合は双眼鏡が必携。
評判の高い一幕は人が殺到してすぐ売り切れになるので、早めに売り場に並ぶこと。
料金は608〜800円程度(1994年当時)。
舞台の決まり(ぶたいのきまり) : 歌舞伎の舞台は、定式幕
(じょうしきまく)と呼ばれる
黒色、柿色、萌葱(もえぎ)色の3色の縦縞
(たてじま)の幕がかかっており、
チョン、チョンとリズミカルな柝
(き)の音とともに開かれる。
この定式幕は、かつては劇場ごとに色、配列が異なっており、
現在も歌舞伎座では左から黒・柿・萌葱、国立劇場では反対の配列になっている。
舞台に向かって右が上手
(かみて)、左が下手
(しもて)。
舞台上の格は、中央、上手、下手の順になっており、登場人物の配置もこの格で決まる。
場面の転換は幕の開閉で行うのが原則だが、円形に切れ目の入った「廻
(まわ)り舞台」を回転させて、
観客が見ている目の前で次の場面に移していく方法もある。独楽
(こま)からの発想といわれるが、
「廻り舞台」の始まりは実に宝暦8(1758)年のことで、初代並木正三の新作
「三十石よふね始
(さんじっこくよふねのはじまり)」が上演されたときというから驚く。
180度ぐるりと回転させる場合と、前場の側面を見せる“半回し”の場合がある。
「セリ」は舞台上に四角く切られた切り穴で、奈落
(ならく)と呼ばれる舞台下の空間から、
役者や舞台装置が“迫り上がってくる”装置。セリの装置の中でも、花道の舞台寄りにあるセリを、
“すっぽん”と呼ぶ。すっぽんから迫り出してくる人物は実は人間ではなくキツネが化けていたという
「義経千本桜」の狐忠信など妖怪
(ようかい)、化身の役や、「忍夜恋曲者
(しのびよるこいはくせもの)」
(将門)の滝夜叉姫
(たきやしゃひめ)、「伽羅先代萩
(めいぼくせんだいはぎ)」の
仁木弾正
(につきだんじよう)のような妖術使いの役が多いという約束事がある。
「花道」とは、舞台から客席を縦断して延びている通路をいい、ここで役者が登場したり退場したり、
また演技をしたりすることによって舞台と客席が一体化し、一つの宇宙が形成されるという、
歌舞伎独特の絶妙な舞台構成である。
この花道を使って舞台に登場したり、引っ込んだりする「出端
(では)」や「引っ込み」の演技で、
その役柄や場面をいっそう強調するということも多く、代表的な例が「勧進帳」の弁慶や
「助六由縁江戸桜
(すけろくゆかりのえどざくら)」の助六などである。
「勧進帳」の弁慶が幕が閉まった後、花道でひとり芝居をし、
やがて飛び六方
(ろっぽう)という歩く芸で飛ぶように引きあげていく場面はとくに知られている。
演目によっては、上手側にもう1本、花道を設けることもあり、これを“仮花道”といっている。
和事(わごと) : 荒事に対して、やわらかでなごやかな役柄をいい、どこか頼りない優男、
色男が登場し、男女の愛の機微をときにユーモラスに、ときに悲哀を込めて演じる。
元禄時代の名優・坂田藤十郎が完成したといわれ、どちらかというと、上方歌舞伎に多く見られる。
「恋飛脚大和往来
(こいびきゃくやまとおうらい)」で遊女・梅川のために
封印切りという大罪を犯してしまう忠兵衛はその典型である。