金沢城(YSミニ辞典)

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金沢城(かなざわじょう) : 石川県金沢市丸の内にあった城で、金沢(加賀)平野のほぼ中央を流れる犀(さい)川と
    浅野川とに挟まれた狭長な小立野(こだつの)台地の先端に築かれた戦国時代から江戸時代にかけての
    梯郭式縄張(ていかくしきなわばり)平山城である。「加賀百万石」といわれる加賀藩主・前田氏累代の
    居城だった。金沢城の前身は、加賀一向一揆(いっこういっき)の拠点で浄土真宗の寺院であった
    尾山御坊(おやまごぼう)で、1580(天正8)年に織田信長の家臣・柴田勝家(しばたかついえ)
    甥(おい)佐久間盛政(もりまさ)が攻め落とし、御坊の跡地をそのまま城として用い「尾山城」と称した。
    後に佐久間勝家が賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで羽柴秀吉により滅ぼされ、
    秀吉は尾山城を前田利家(としいえ)に与え、1583年に城を修築して「金沢城」と改めた。
    利家は1592年から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の天守や櫓を建て並べ、
    その子・利長の代にかけて、近世金沢城を完成させた。
    以来、前田氏が子孫相継いで幕末に至ったが、1602(慶長7)年に天守閣が落雷によって
    焼失後は再建されず、「三階櫓(やぐら)」とよばれる櫓が置かれただけであった。
    1620(元和6)年にも城内の建造物がほぼ全焼するという被害に遭っている。
    城内の建造物は大小30回に余る火災によってほとんど失われ、江戸時代の建物が現存するのは
    わずかに石川門と三十間長屋(さんじっけんながや)および鶴丸倉庫だけである。
    しかし2001(平成13)年に菱櫓(ひしやぐら)・五十間長屋、橋爪門続櫓(はしづめもんつづき)
    橋爪一の門が復元され、江戸時代の姿に少しずつ近付いている。河北門(かほくもん)も復元が進められている。
    櫓や門に見られる、白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠壁(なまこかべ)と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、
    櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。
    なお、城の東側の旧蓮池(はすいけ)(百間堀)を隔てた所にある兼六園(けんろくえん)は、
    4代綱紀が金沢城に付属してつくらせた城郭付属の大名庭園である。
    明治以降は、存城とされて軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去され、
    第2次世界大戦後には金沢大学が1995(平成7)年まで置かれていた。
    参 : 金沢城と兼六園のホームページ
    
    
    
    
    
    石川門を入った三の丸北園地から見た橋爪門続櫓
    
    復元の橋詰門一の門
    
    高さ11.7mの石垣上に建築された復元の「菱櫓」。名前の通り平面が菱形になっており、
    使用される通し柱をはじめ、約100本の柱も菱形になっている。
    この櫓は主に、周辺を見張る役割を担っていた。(画像は列島宝物館より)

    
    重要文化財の「櫓」(列島宝物館より)
    
    重要文化財の「続櫓」(列島宝物館より)
    
    重要文化財の「櫓門」(列島宝物館より)
    
    重要文化財の「石川門・表門」。石川門は、三の丸の川北門、橋爪門とともに金沢城の
    「三御門」と呼ばれ、格式の高い門とされる。(画像は列島宝物館より)

    
    重要文化財の「石川門・一の門」
    
    重要文化財の「三十間長屋」(鉄砲蔵)1858(安政5)年の再建で、鉛瓦と海鼠壁が特徴。
    
    重要文化財の{鶴丸倉庫}(武具蔵)
    
    丑寅櫓跡の上部、二の丸からの本丸、戌亥櫓跡と石垣
    
    重要文化財の「成巽閣(せいそんかく)」(列島宝物館より)
































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