香月泰男(YSミニ辞典)

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香月泰男(かづき やすお) : 1911(明治44)年10月25日〜1974(昭和49)年3月8日は、
    山口県大津郡三隅町久原(現・長門市)出身の洋画家。シベリア抑留の体験をモチーフに、
    薄黄色と豊かな墨色とのコントラストを基調とした連作を発表。作「埋葬」「黒い太陽」など。
    
    香月泰男
    開業医の息子として生まれるも、幼い頃両親が離婚した。
    1922年、父・貞雄は遊郭通いなど放蕩(ほうとう)の末、
     香月が小学校4年生(11歳)のときに朝鮮半島で世を去った。
     母・八千代も離縁の形で家を去った。香月を育てたのは厳格な祖父・春齢に祖母と叔父だった。
     「父なく、母なく兄弟なく育たなければならなかった私は、いつも孤独だった。
     オレは誰にも必要な存在じゃないんだ。いなくたって誰もどうとも思いやしない。
     死んでやろうかな。そんなことまで考えるときがあった」と、香月は後にこう振り返っている。
    1927(昭和2)、津和野の実母のもとに、油絵の具の無心状を描き、
     送られてきた油絵の具ではじめて油絵を描く。
    1931(昭和6)年、山口県立大津中学校(現・山口県立大津高等学校)卒業後、
     川端美術学校洋画部にに入学し、デッサンを勉強する。
     同年、東京美術学校油画科に入学、藤島武二(たけじ)の教室に学ぶ。
    1934年、「雪降りの山陰風景」が国画会9回展に初入選。
    
    雪降りの山陰風景(1934年、73×60.5cm、油彩・カンヴァス)
    1936年、東京美術学校油絵科を卒業後、
     北海道庁立倶知安中学校(現・北海道倶知安高等学校)の美術科教師として赴任。
    1938年、山口県立下関高等女学校(現・山口県立下関南高等学校)に転任する。
     26歳のとき婦美子さんと結婚。妻のおなかが大きくなると「早う生まれ」と言いながら、
     座布団を丸めて抱え、子守のまねをした。結婚の翌年から年子で長男(直樹、1939〜)、
     長女(慶子、1940〜1971)、次女(敞子:ひさこ、1941〜)に恵まれた。
    1939年 梅原龍三郎、福島繁太郎の知遇を得る。28歳の時、斬新な構成の作品『兎』で
     第3回文部省美術展覧会の特選を受賞し、香月は一躍画壇の注目を集める。国画会で国画奨励賞。
    
    兎(1939年、100×73cm、油彩・カンヴァス)
    1940年 国画会第15会展で佐分(さぶり)賞を受賞し、国画会同人となる。
    1942(昭和17)年、祖父・春齢死去。「釣り床」を国画会、「水鏡」を文展に。
     12月、太平洋戦争勃発により31歳の彼の元に召集令状が届く。
    
    水鏡(1942年、東京国立近代美術館蔵)
    1943(昭和18)年1月、山口市の西部第4部隊に入隊した。「砂上」「帰途」を国画会、「波紋」を文展に。
     4月から2年余り、旧満州(中国東北部)のハイラルに軍隊の営繕係として駐屯した。
     街を一歩出ると、広漠たる大草原が地平線のかなたまで広がっている。
     この大草原での演習の思い出とともに、戦争を繰り返す人間の愚かさを描いた作品が
     1969年の『青の太陽』である。演習は何かといえば、ほふく前進ばかり。
     地面を這いずり回りながら、香月は目の前を行き交うアリになりたいと思ったという。
     自分のうがった穴に自由に出入りするアリになって、穴の底から青空だけを見て暮らしたいと願った。
     『青の太陽』に描かれた青い太陽は、深い穴から見上げた青空だった。
     演習の日々を送っている間、山口県で暮らす妻、婦美子さんと3人の幼子に、絵を描いた
     軍事郵便はがきを毎日のように出し続けた。家族や故郷への思い、大陸の風景、そして絵のこと…。
     訓練で凍傷寸前になったりしても自分のことは「元気」と書き送った。検閲を経て妻のもとに
     届いたのは360通。婦美子さんは全通を大切に保管していた。「ハイラル通信」と呼ばれる。
    1944年、軍務の傍ら製作した「ホロンバイル」を帰国する友人に託して文展に出品。
    1945年8月15日、日本は敗戦の日を迎えたのに、香月は日本に帰ることができず、
     約86万人の日本兵とともにソ連に抑留された。捕虜を乗せた貨車は、来る日も来る日も、
     ひたすら北へ、西へと、日本とは逆の方向に向かって走り続けた。四方の窓は鉄格子で塞がれ、
     捕虜たちはぎゅうぎゅう詰めの状態で運ばれた。11月下旬、香月を含む第3中隊250人の
     セーヤでの収容所生活が始まった。完全に孤立した山中の収容所での主な作業は、
     森林伐採と薪割りのほか強制労働に従事させられた。ここでの生活は過酷さを極め、
     所長が物資の横流しをしていたために、食糧事情を始めとする生活環境は極めて劣悪なものだった。
     冬はほマイナス40℃にもなるシベリア・クラスノヤルスク地区での過酷な日々が原体験となり、
     その後の作品全体の主題・背景となる。4年以上にわたる軍隊・抑留生活で香月が
     決して手放さなかったものが3つある。生き別れた母親からもらった@絵の具箱とAセーター、
     そして自分たち夫婦の写真を入れたBお守りである。香月は「あの寒さ、あの疲労、あの絶望。
     これだけはいくらことばを積み重ねても、体験しない人には決してわかってもらえないだろう」と後に語る。
    1946年、コモナール収容所に移されて森林伐採作業に従事。シーラを経てエニセイ河上流の
     チョイナゴルスク収容所へ移され、貨車の積み下ろし、製材、建設作業などに従事。
     生母・八千代、島根県津和野で死去。
    1947(昭和22)年5月、シベリア抑留から引き揚げ、下関高等女学校に美術教師として復職。
    1948年、郷里の三隅へ戻り、山口県立深川高等女学校
     (後に大津中学校と統合、現大津高等学校)に転任。次男・理樹生まれる。
     シベリア・シリーズ第一作「雨<牛>」と「風」を国画会、「蝶々」を毎日連合美術展に。
    1949年、サロン・ド・プランタン賞受賞
    1955年、マチエルに方解末を用いた独特の黒い作品が生まれる。
    1956年、「ヒューザンス」がメルボルン近代美術館に収蔵される。
    1958年、欧州巡回日本現代美術展に近作数点を送る。
    1959年、この年の作品『北へ西へ』では、シベリアへと送られる兵士たちの姿を描いている。
     鉄格子の窓から覗き見える捕虜たちの顔に表情はなく、深い絶望の果てに感情すらも
     失ってしまったかに見える。香月はこの作品で初めて、彼にしか描くことのできない「顔」を手に入れた。
    
    シベリア・シリーズ「北へ西へ」(1959年、72.9×116.7cm、油彩・カンヴァス、山口県立美術館蔵)
    1960年、大津高等学校を依願退職。その後しばらくは創作活動に専念する。
     この年の『涅槃(ねはん)』では、「私は死者の顔を忘れない。どの顔も美しかった。
     肉が落ち、目がくぼみ、頬骨だけが突き出た死者の顔は、何か中世絵画のキリストの、デスマスクを
     思わせるものがあった。彼らの一人一人は私の中に生きていて、私の絵の中によみがえる」と述懐している。
    
    涅槃(1960年、130.3×194.3cm、油彩・カンヴァス、山口県立美術館蔵)
    漆黒の色を分厚く塗り重ねる独特の技法で、死者を悼む情景を写し出し、ざんげの思いで描いたという。

    1961年、「湿地」ほかを日本洋画商展、「涅槃」を日本国際美術展、「黒い太陽」「ナホトカ」「列」を
     香月泰男展、「冬田」をカーネギー国際展に。
    1962年、海外初個展開催(ノードラー画廊・パリ)
    1966年、九州産業大学に新設された芸術学部油絵科の主任教授を委嘱される。
    1968年、西日本文化賞受賞。
    1969年、戦争・抑留体験を極限にまで昇華させた「シベリア・シリーズ」に対して
     新潮文芸振興会の第1回日本芸術大賞を受賞。
     街を一歩出ると、広漠たる大草原が地平線のかなたまで広がっている。
     この大草原での演習の思い出を描いた作品が『青の太陽』だ。
     アリとなって巣穴から見上げた空を太陽に見立てたのだ。
     深い穴の中からは昼間の青空に星が見えるという話を基にしたという。
     「ああ、この地面の底には、平和な生活があるんだな。
     いっそ自分もアリになりたいと思うこともあった」と香月はこう語っている。
    
    青の太陽(1969年、162.1×111.6cm、油彩・カンヴァス、山口県立美術館蔵)
    1970年、東京芸大非常勤講師を依嘱される。自伝「私のシベリヤ」(文芸春秋社)発刊。
     「香月泰男のおもちゃ筐(ばこ)」(求龍堂)発刊。
    
    業火(1970年、162×96cm、油彩・カンヴァス、高松市美術館蔵)
    1971年、第14回安井賞展の選考委員を委嘱される。タヒチ島取材旅行。
    
    点呼(左)(1971年、72.8×116.7cm、油彩・カンヴァス、山口県立美術館蔵)
    待ちに待った船が入ってきた。収容所の門外で最後の点呼を受けた。名前を呼ばれるまで不安でならなかった。

    
    点呼(右)(1971年、73.0×116.9cm、油彩・カンヴァス、山口県立美術館蔵)
    1972年、ギリシャ、スペイン、モロッコ、カナリヤ諸島へ取材旅行。
    
    日本海(1972年、197.5×194cm、油彩・カンヴァス、北九州市立美術館蔵)
    1973年、タヒチ、ニース、コルシカ、ノルマンディー他、取材旅行。
    
    デモ(1973年、97×193.9cm、油彩・カンヴァス)
    1974年3月8日、心筋梗塞のため自宅で死去。62歳だった。勲三等瑞宝賞受賞。
     没後、遺族によりシベリア・シリーズ57点のうち45点を山口県へ寄贈、残り8点が山口県に寄託され、
    1979年開館の山口県立美術館に展示されている。
    1993(平成5)年10月26日、香月の功績をたたえる目的で、
     生家に近い三隅町湯免に隅町立香月美術館として開館。
    2005年に三隅町の合併により香月泰男美術館に改名の上、長門市に運営が移管された。
     最晩年まで香月の手元にあった作品や、香月のアトリエ(復元)などが展示されている。
    
    
    
    美術館の前に飾られている香月の座右の銘、「一瞬一生」の文字のモチーフ
    参 : 山口県立美術館(HP)、香月泰男美術館(HP)、A1
    
    
    廃材を使った作品おもちゃシリーズの一つ
    
    同上
    
    同上
    
    香月泰男遺作展スタンプ(1975.4.20〜5.11、県立山口博物館にて)
    「香月泰男 芸術と人間像(朝日新聞社)」購入


    香月泰男展「追憶のシベリア」
     長門市出身の画家、香月泰男の生誕100年を記念して、シベリア抑留の体験をもとに描いた
    「シベリア・シリーズ」の全ての作品が2011年3月2日から山口市の県立美術館で展示されています。
    香月泰男の代表作、「シベリア・シリーズ」は、大陸の戦地に赴いた香月が旧ソ連の捕虜になり、
    シベリアに抑留された体験をもとに描いた一連の油絵の作品です。
    ことし香月の生誕100年を迎えるのを記念して2日から山口市の県立美術館で
    「追憶のシベリア」と題して57点にのぼるシリーズの全作品の展示が始まりました。
    このうち、「埋葬」は、収容所で亡くなった戦友を土の中に葬る場面をシベリアから
    復員した次の年に描いたもので、まだ戦前の作風を残して鮮やかな色使いになっています。
    しかし、この作品から10年余りたって発表された「北へ西へ」では作風は黒を基調としたものに
    がらりと変わります。香月ら捕虜を乗せた列車は旧満州を北へ進んだあと、日本とは逆方向の
    西のシベリアに向かいましたが、作品では帰国の望みを絶たれた捕虜たちの絶望を伝えています。
    香月泰男の「追憶のシベリア」展は5月8日まで山口市の県立美術館で開かれています。





















































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