絹本着色関連(YSミニ辞典)

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絹本着色(けんぽんちゃくしょく) : 絹地に彩色を施したもの。
    分かりやすい表現にするため「絹絵(きぬえ)」と呼んでいるが、日本画美術展の図版などでは、
    紙に制作する紙本着色(しほんちゃくしょく)に対して絹本着色(けんぽんちゃくしょく)あるいは
    絹本着彩(けんぽんちゃくさい)と記載され、昭和初期まで日本画の代表的な技法であった。
    古い掛け軸で見かける仏画、動植物画、風景画、美人画の多くが絹に描かれている。
    上村松園や伊東深水、鏑木清方の美人画、伊藤若冲の動植物画等どれも絹絵で表現している。
    発色がよく一見薄塗りに見える画面に深い奥行きがあり、とても味わい深い技法だが、
    美術展出品用の大作向きでない、修正がしにくく手間がかかる等の理由で、
    今では仏画を除いて制作されることが少なくなった。
    参 : gallery・喜翔ろまん館(HP)

絹本著色愛染明王画像(けんぽんちゃくしょく・あいぜんみょうおうがぞう) : 
    米崎町字地竹沢の米崎町普門寺にある県指定有形文化財の愛染明王画像で、
    絹地に、蓮華の上に座っている愛染明王が描かれている。
    愛染明王の身体は、火のように赤く、 6つの手と 3つの目、獅子の冠を被った姿で、
    手にはそれぞれ鈴、弓、杵、箭、蓮、矢を持っていて、怒った形相で描かれている。
    外見は恐ろしく見えるが、内心は全くこれに反した性格だと言われている。
    画軸の大きさは縦184.0cm、横 71.5cm、画面の大きさは縦98.0cm、横53.0cm。
    作者は不明だが、室町時代の作で、図像的にも正しく描かれている。

絹本着色観心十界曼荼羅図(けんぽんちゃくしょく・かんしんじっかいまんだらず)
    平塚市東八幡1−17−32の「長善寺(ちょうぜんじ)」所蔵。
    平成7年10月25日、平塚市指定重要文化財。
    縦142.1cm、横74.2cmの観心十界曼荼羅図は、仏教で説く十界〔地獄界・餓鬼(がき)界・
    畜生(ちくしょう)界・修羅(しゅら)界・人間界・天上界・声聞(しょうもん)界・縁覚(えんがく)界・
    菩薩界・仏界〕の有様を上下六段に分けて描いたものである。画面のほぼ中央、
    人間界の中心に「心」の字を描き、そこから他の九界に転生する人々の姿を描いている。
    なかでも人間界は大きな部分を占め、向かって右に商いをする人々の姿を、
    左に臨終(りんじゅう)と阿弥陀三尊の来迎(らいごう)を描く。また、仏界でも、
    往来する人物に阿弥陀が手を差し伸べているところなど阿弥陀を中心とした十界観を示している。
    制作は、室町時代中期に遡るもので、室町期特有の粗い絹地に、
    朱色を際立たせた墨色主体の彩色を施している。

絹本着色慈恵大師画像() : 

絹本着色釈迦涅槃図(けんぽんちゃくしょく・しゃかねはんず) : 入間川村に450石余りの
    知行地(ちぎょうち:領地)を持っ ていた幕府旗本の小笠原家が1688(元禄元)年に
    徳林寺へ寄進した仏画である。

絹本著色十王像(けんぽんちゃくしょく・じゅうおうぞう) : 1901(明治34)年8月2日、国指定文化財。
    総社市井尻野の宝福寺所蔵(岡山県立博物館寄託)。縦98.8cm、横41.5cmの十幅の絵画。
    十王とは、死者の生前の罪業を審判する冥府の十人の王のことで、閻魔(えんま)王をはじめ、
    秦広(しんこう)王、初江(しょこう)王、宋帝(そうてい)王、五官(ごかん)王、変成(へんせい)王、
    太山(たいざん)王、平等(びょうどう)王、都市(とし)王、五道転輪(ごどうてんりん)王の
    十人があげられる。これら十人の王が、それぞれついたてを背に、机の前に座り、
    死者に判決を下す様子が描かれている。この絵は、元の時代、中国で製作され日本に伝わって
    来たものと考えられている。当時の人々が、死後の世界をどのようにとらえていたかを
    ほうふつとさせる興味深い資料である。

絹本着色十三仏(けんぼんちゃくしょく・じゅうさんぶつ) : 昭和37年10月24日、県指定文化財。
    茨城県猿島郡境町1146「倉持建雄」氏所蔵。縦170cm、横60cmの絵画で、
    十三経に基づいて、故人の冥福を祈るものである。
    構図は天に虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)以下阿關如来(あしゅくにょらい)、大日如来、阿弥陀如来、
    薬師如来、観音菩薩、勢至(せし)菩薩、弥勤(みろく)菩薩、地蔵菩薩、普現(ふげん)菩薩、
    不動明王、釈迦如来、文殊(もんじゅ)菩薩を配している。鎌倉時代。平泉中尊寺金剛院伝来といわれる。

絹本著色釈迦十六善神画像(けんぽんちゃくしょく・しゃか・じゅうろくぜんしんがぞう)
    豊浜中野の白山神社所蔵。十六善神は大般若経とそれをとなえる者を守護する神で、
    画像には釈迦を初め、文殊・普賢菩薩、玄奘三蔵法師、深沙大将などが描かれている。
    鎌倉時代後期の作である。

    練馬区桜台6丁目20番の廣徳寺(こうとくじ)所蔵。掛幅(かけふく)の絹本着色で、
    画面は縦109.5cm、横55.5cmで、中央に釈迦如来、まわりに四菩薩、玄奘三蔵、
    深沙大将(じんしゃたいしょう)、十六善神が描かれている。十六善神とは『大般若経』と
    その誦持者(しょうじしゃ)を守る16体の薬叉神(やしゃしん)で、通例忿怒(ふんぬ)の形で描かれる。
    本図は江戸時代初期の作と推定され、釈迦の衣文(えもん)に切金(きりがね)を用いるなど、
    制作は本格的で入念である。軸背(びょうはい)には1763(宝暦13)年に修理した旨が記され、
    光背(こうはい)の部分に修理の痕が認められるものの、ほかに描き直しの部分は少なく、
    保存状態は比較的良好である。米沢の上杉家伝来のものと伝えられており、
    区内に残る仏画の中でも質の高いものである。

絹本着色十六羅漢像(けんぽんちゃくしょく・じゅうろくらかんぞう)
    茨城県龍ケ崎市若柴町866番地の「金龍寺」所蔵。
    絹本着色十六羅漢像(寸法は縦97.0cm、横40.0cm)16幅は、道元が宗から請来し、
    1249(建長元)年1月1日、永平寺で羅漢供養を行ったとき、瑞花が現れ、
    「当山の褝法興隆の瑞兆である」と記す道元筆と伝えられる『羅漢供養記』が添えられ、
    『羅漢図讃集』にも収録されている。寺伝によると、のち鎌倉建長寺開山の蘭渓道隆に贈られ、
    執権北条氏を経て、新田義貞の手中に帰したものだという。
    羅漢図の表現は、繊細な描線で謹直に描かれ、特に服飾にみられる諸色金泥をもちいた精巧な
    文様が特色である。概して描法は和風化されている。おそらく道元請来本を転写したものであろう。
    金龍寺は、文明の末年(1486)、越前慈眼寺の天真自性の流を汲む在室長端を開基に横瀬氏の
    菩提寺として上州太田にひらかれ、横瀬氏の一族・被官層によってまもられ勢力を伸ばしていった。
     横瀬氏は、金龍寺の開山貞国から5代目の成繁から由良氏を称している。
    1588(天正16)年、由良国繁は金山城から桐生城に移り、金龍寺も桐生に移っている。
    1590(天正18)年、国繁の母赤井氏は、名家新田一族の由良氏存続を秀吉に願出、
    常陸牛久の地をあてがわれている。その後1666(寛文6)年に金龍寺は現在地に移り、
    この後「1331(元弘元)年、新田義貞の菩提寺として天真自性がひらいた」という寺伝を未だに伝えている。
    本画は、新田義貞が執権北条高時を滅ぼした1331(元弘元)年頃の14世紀前半の制作と思われ、
    16幅揃った羅漢図の古作として当地きっての遺作であり、美術史的価値は高く評価されている。

絹本著色真言八祖像(けんぽんちゃくしょく・しんごんはっそぞう) : 
    旧善光寺道の刈谷原宿(現・松本市刈谷原町)にある、真言宗洞光寺に伝わるものである。
     真言八祖像とは、真言密教の開祖龍猛から龍智・善無畏・一行・金剛智・不空・恵果と
    我が国に真言密教を伝えた空海までの八祖を八幅(8枚)一組の画像としたものである。
     真言密教は、教義の伝承の系譜を重視するしきたりがあり、
    「真言八祖像」は特に本堂の内陣に大切に祀られている。
    この八祖像は、室町時代初期の1406(応永13)年に制作され、
    一幅の大きさは縦76.5cm、横43.3cm、絹地に著色した八幅一組の軸物である。
    室町時代の作として八幅がそろっていることは県下に例がなく、通常は牀座に坐す姿で描かれるが、
    本幅のように敷物にすわっている姿は珍しいものである。
    例年3月15日から21日と、11月の文化の日前後1週間の年2回一般公開される。

絹本着色千手観音菩薩像(けんぽんちゃく しょく・せんじゅかんのんぼさつぞう)
    愛知県小牧市大字小松寺1121の「小松寺」所蔵。
    縦79.5cm、横32.7cmの絹本画像で、中央に立ち姿の千手観音、左右に毘沙門天、
    不動明王を配した三尊形式のものである。画像の製作時期は、室町時代と考えられる。

絹本着色當麻曼荼羅図(けんぽんちゃく しょく・たいままんだらず) : 当麻曼荼羅とは、
    「観無量寿経」という経典の内容を絵画化した仏画である。作例の原点となった最古作が
    奈良の当麻寺にあるため「当麻曼荼羅」と呼び慣わされている。

絹本着色八字文殊菩薩騎獅図() : 佐賀市の佐賀県立博物館所蔵。昭和46年3月28日県指定文化財。
    行成の誕生院は、新義真言宗の開祖と仰がれる興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)
    「1095〜1143」誕生の地にちなみ、1405(応永12)年、足利義満の発願によって創建されたと
    伝えられる。文殊菩薩は、普賢菩薩と共に釈迦如来の脇侍で、仏の智慧を象徴し、
    また増益・息災・調伏の修法の本尊とされる。一般的な図像は、右手に剣、左手に経巻を持って、
    獅子の上の蓮華座に座る姿で、頭には1〜8の髻(もとどり・結い上げ髪)がある。
    誕生院に伝わっていたこの図は、縦91.8cm、横36.5cmで、宝冠中に八化仏(はっけぶつ)
    のせた壮年の像で、全身に衣をまとい、左手に蓮華の上にのせた梵篋(ぼんきょう)を持ち、
    獅子上の蓮華座に右足を組み、左足を下げて座る。また天蓋や、周囲に11個の宝珠を配している。
     画法は墨の線で輪郭をとり、菩薩の肉身部には白肉色、宝冠や装身具に金泥、
    衣には茶・えんじ・朱を平塗りする。条帛(じょうふく・肩から斜めにかける布)は
    白茶地に朱暈(しゅぐま・端に向かって色を濃くする)を施し、裙(キュロット状のスカート)は
    茶を平塗りして金泥で括り(くくり)を入れます。蓮華部分は朱地に胡粉(ごふん)を重ね、
    金泥で葉脈を描き、金泥で括る伝統的仏画技法が認められる。
    一方で獅子の輪郭線は、強い書起こしをつけた肥痩線が用いられている。
    宋風の影響がみられ、色調も中世的な暗さがあり、南北朝時代の作例と考えられる。

絹本着色富士曼荼羅図(けんぽくちゃくしょく・ふじまんだらず) : 国指定重要文化財。
    「富士山本宮浅間大社」所蔵。寸法は縦186.6cm、横118.2cm。
    本図は古来盛んであった富士信仰に伴う富士山登拝禅定(とうはいぜんじよう)の光景を図絵したもので、
    広大な構図をよくまとめ精緻に描写しており同種の曼荼羅中出色の一本であり、
    また点景の名所や人物など風俗画の立場からも注目され、わが国が誇る富士の名画であり、
    近世盛行する参詣曼荼羅の先駆的作例としても重要である。
    制作年代は本図中に描かれている浅間本宮が1604(慶長9)年に徳川家康による
    階層建築の大造営以前の状況を示しその下限が知られるが、すやり霞の形式や表現描写に
    室町時代後期の絵巻や風俗画にみられる手法が窺われる。
    
    村山口登山道で山頂へ向かう様子が描かれている「絹本着色富士曼荼羅図」
    描いたのは江戸時代を代表する絵師集団・狩野派の屋台骨を築き上げた
    「狩野元信(かのう・もとのぶ)」である。富士の裾野は狩野家の本貫の地。山中には白装束に
    「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」を唱え、身を清めて永遠なる幸せを求める修験の人々をあらわし、
    幾重もの雲の棚引く、その上に、畏くも仰ぐ聖なる山を描いた。脇に従う日や月をも超越し、
    時間をも支配する不動の山、別名「福慈神(ふじのかみ)」を見事に表現している。
    
    
    参 : 富士山本宮浅間大社(HP)
絹本着色仏応禅師像(けんぽくちゃくしょく・ぶつおうぜんじぞう) : 那須郡黒羽町雲岩寺27の雲巌寺所蔵。
    昭和25年8月29日、国指定重要文化財指定。東山雲厳寺仏応禅師は、諱を妙準、字を太平という。
    本頂相は、絹本着色で、縦103cm、横58cmの軸装である。画像は、若く恰幅のよい姿に描かれている。
    写実的な技法で精密であり、衣の線も和らかで、よくまとめられている。
    禅師の高徳の風格が偲ばれる画である。画の上方に「貞治癸卯二(1363)年九月二十四日」と
    制作年代が明記されている。仏応禅師は黒羽町大字大豆田の礒家に生れ、少年の頃、
    仏国国師の「湯薬侍者」となり、20歳で剃髪、諸国を行脚修養、建長寺に移ったが、
    後に雲厳寺に呼び戻され、仏国国師の印可を受け、雲禅師2世となった。
    1327(嘉暦2)年9月24日遷化された。世寿52歳であった。墓地は雲厳寺境内にある。

絹本着色不動明王二童子像() : 山口県美祢市美東町大田
    縦87.5cm、横37.5cmの絹本着色、掛幅装の絵画で、中央に不動明王、左右に矜迦羅、
    制多加の2童子が侍立して描かれている。納箱は2重になっており、
    内箱の蓋に「不動尊像壱幅 根来覚鑁上人筆」と書かれ、室町時代の作である。
    昭和53年12月1日、美祢市文化財指定。

絹本着色方便法身尊像(さいしょうじけんぽんちゃくしょく・ほうべんほっしんそんぞう)
    寝屋川市太間町11番16号の「西正寺(さいしょうじ)」所蔵。親指と人さし指を合わせ、右手を胸の高さに上げ
    左手を下げた摂取不捨印(せっしゅふしゃいん=浄土真宗の特徴を表す姿)の阿弥陀如来像図である。
    阿弥陀の本願を表す四十八条(しじゅうはちじょう)の光明を放って蓮台上に立っている。
    裏書(うらがき)には文亀2年(1502)に本願寺9世実如(きゅうせいじつにょ)から下付されたものとある。
    寝屋川市で最古の年紀をもつ絵画であるとともに、
    本市における浄土真宗の展開を示す貴重な資料である((通常は非公開)。

絹本着色毛利秀包像(けんぽんちゃくしょく・もうりひでかねぞう)
    山口市吉敷1584番地の玄済寺(げんさいじ)所蔵。
    右手に笏を持ち高麗縁の上畳に座る束帯姿の毛利秀包を描いた肖像画である。
    画面の寸法は縦96.7cm、横34.2cmで、年代は1650(慶安3)年頃。
    上方に奇雲玄による賛がある。毛利秀包(1567〜16011)は、毛利元就の九男で、
    吉敷毛利家の祖である。幼時に備後の太田家を継ぎ、さらに兄小早川隆景の養子となった。
    島津合戦の功により久留米城を与えられると共に豊臣姓を許され、桐の紋と陣幕も与えられたという。
    小早川隆景が秀秋を養子にする際、別家を立てて毛利姓に戻った。
    関ケ原の戦いの後、1601(慶長6)年に赤間関で没した。
    秀包の後は元鎮が継ぎ、長門の殿居に移った。吉敷に移ったのは元鎮の子・元包の代である。
    玄済寺は吉敷毛利家の菩提寺で、秀包が豊浦郡に創建したものを
    元包が吉敷に移したと伝えられている。

絹本着色文殊菩薩像(けんぽんちゃくしょく・もんじゅぼさつぞう) : 
    昭和53年3月25日、小牧市指定有形文化財。小牧市大字大山411の「江岩寺」所蔵。
    縦82.4そも、横40そもの絹本画像で、
    獅子の上に文殊菩薩が座る画像で、室町時代の作と考えられる。

絹本着色「柳沢吉保」画像() : 
    柳沢吉保が元禄15(1702)年に幕府御用達絵師の狩野常信に描かせた肖像画3幅のうちの1枚で、
    吉保の遺志によって子息の吉里が常光寺に寄進したものといわれている。
    他の2幅は自邸にあたる奈良県大和郡山市の柳沢文庫と甲府市の一蓮寺に所蔵されている。

絹本着色両界曼荼羅図(けんぽんちゃくしょく・りょうかいまんだらず) : 天台宗天王寺所蔵の本図は、
    胎蔵界曼荼羅・金剛界曼荼羅の双幅からなる、もっとも一般的な形式の曼荼羅である。
    胎蔵界曼荼羅は、大日如来ほか諸仏の慈悲を象徴化し、
    金剛界曼荼羅は大日如来の智徳によって開かれた仏の世界を象徴化した図である。
    大きさは、胎蔵界が縦100.6cm・横100.9cm、金剛界が縦100.9cm・横86.2cm。
    両界とも、京都東寺の伝真言院曼荼羅(国宝)とよく似ているが、同図が平安時代の制作で
    唐様式の濃い図であるのに対し、天王寺所蔵の曼荼羅は和様化がすすんだ図で
    諸仏の顔に可憐さを感じる点から、鎌倉時代後半の制作と思われる。
    区内現存の曼荼羅でも古い制作に属する、貴重な美術品である。

    さいたま市浦和区仲町2−13−22にある「玉蔵院」所蔵。室町時代の作で、
    縦82.0cm、横68.0cm(二面共)。儀軌に則った完全な様式を備える。現在額装。

    埼玉県行田市桜町2−20−44の「長久寺」所蔵。昭和34年3月19日、行田市指定有形文化財。
    室町時代の作で、縦140.0cm、横108.0cm(二面共)。
    曼荼羅は、空海が唐から伝えたもので「全ての本質を具有するもの」という意味を持ち、
    両界曼荼羅は、胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅と金剛界(こんごうかい)曼荼羅の二つからなる関係から、
    両部または両界と称しています。本尊に向かって右(東)に胎蔵界、左(西)に金剛界を掛ける。
    胎蔵界曼荼羅は、「大日経」に説かれる悟りの真実を描いたものとされ、
    中央に大日如来を囲んだ中台八葉院を描き、その周りをとり囲む12のグループに414体の仏を描く。
    金剛界曼荼羅は、「金剛頂経」に基づき、1461体の仏や明王の姿を描いた9つの曼荼羅から構成され、
    大日如来の智慧を表す。本曼荼羅には裏に「奉寄進武州崎西郡長野長久寺施主者手嶋佐渡守道範、
    二世安楽菩提也元亀三年壬申三月廿一日」の墨書があり、戦国時代の1572(元亀3)年、
    忍城主成田氏の家臣である手嶋佐渡守によって寄進されたことが記されている。
    また、江戸時代の1626(寛永3)年、1720(享保5)年、
    1955(昭和30)年の修復の記録も併記されている。


















































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