興福寺(YSミニ辞典)
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興福寺(こうふくじ) : @奈良県奈良市登大路町
(のぼりおおじちょう)48にある、南都六宗の一つ、
法相宗
(ほっそう)の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。
興福寺の歴史は、藤原鎌足
(かまたり)の夫人鏡女王
(かがみのおおきみ)が、夫の病気平癒を願って、
669(天智天皇8)年、山背
(やましろ)国山階に建立した山階
(やましな)寺に始まり、
672(天武天皇元)年に飛鳥(大和国高市群厩坂
(うまやさか))に移り、その地名をとって厩坂寺と称し、
さらに710(和銅3)年の平城京遷都とともに鎌足の子・藤原不比等
(ふひと)が春日山の麓、
平城京左京三条七坊の現在地に移転し、「興福寺」と改称した。
藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院であり、
藤原氏の氏寺として、古代から中世にかけて強大な権勢をふるった。
鎌倉・
室町時代には大和の守護をつとめた。僧徒は
延暦寺の山法師に対して奈良法師として
おそれられた。国宝の五重の塔・北円堂・東金堂などのほかに多数の文化財を所蔵する。
世界遺産の石碑
興福寺の「東金堂」と「五重の塔」
東金堂(とうこんどう) : 国宝。中金堂
(ちゅうこんどう)の東にある金堂で、西向きの建物。
726(神亀3)年に聖武
(しょうむ)天皇が叔母元正
(げんしょう)太上天皇の病気全快を願って建立。
以来6度の被災、再建を繰り返し、現在の建物は1415(応永22)年に再建された。
正面7間(25.6m)、側面4間(14.1m)、寄棟
(よせむね)造り、本瓦
(ほんがわら)葺きの建物で、
前面を吹放
(ふきはなし)とし、木割
(きわり)が太く、奈良時代の雰囲気を伝えている。
東金堂
五重の塔(ごじゅうのとう) : 国宝。730(天平2)年)、光明
(こうみょう)皇后の発願で創建された。
その後5回の被災・再建をへて、現存の塔は1426(応永33)年頃に再建された。
仏教の祖釈迦の舎利(
しゃり:遺骨)をおさめる墓標で、古都奈良を象徴する塔である。
初層の四方には、創建当初の伝統を受け継ぐ薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、
弥勒三尊像を安置されている。高さ50.8m、初層は方三間で8.7m、
本瓦
(ほんがわら)葺きの塔で、木造塔としては東寺の五重塔に次ぎ、日本で2番目に高い。
世界遺産、奈良の興福寺の五重塔(ゆんフリー写真素材集より)
同上
北円堂(ほくえんどう) : 国宝。日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されるこの堂は、
興福寺創建者藤原不比等
(ふひと)の一周忌にあたる721(養老5)年8月に、
元明
(げんめい)太上天皇と元正
(げんしょう)天皇が建立された。
1180(治承4)年の被災後、1210(承元4)年頃に再建された。
八角の一面は4.9m、対面径は11.7m、本瓦
(ほんがわら)葺きの建物で、
内陣
(ないじん)は天蓋
(てんがい)が輝き、組物間の小壁には笈形
(おいがた)が彩色されている。
堂内には本尊弥勒如来
(みろくにょらい)像(国宝)、法苑林(
ほうおんりん)・
大妙相菩薩
(だいみょうそうぼさつ)像、無著
(むちゃく)・世親菩薩
(せしんぼさつ)像(国宝)、
四天王
(してんのう)像(国宝)が安置されている。
南円堂(なんえんどう) : 重要文化財。西国三十三箇所観音霊場の第9番札所である。
「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
813(弘仁4)年に藤原冬嗣
(ふゆつぐ)が父・内麻呂
(うちまろ)追善の為に建てた八角円堂。
基壇
(きだん)築造の際には地神を鎮めるために、和同開珎
(わどうかいちん)や
隆平永宝
(りゅうへいえいほう)を撒きながら築き上げたことが
発掘調査で明らかにされた。また鎮壇には弘法大師が係わったことが諸書に記されている。
創建以来4度目の建物で、1789(寛政元)年頃に再建された。八角の一面は6.4m、
対面径は15.5m、本瓦
(ほんがわら)葺きの建物ですが、その手法はきわめて古様である。
不空羂索観音菩薩像を本尊とし法相六祖像、四天王像が安置されている。
毎年10月17日に特別開扉される。
南円堂(フォト蔵より)
興福寺の十大弟子像と八部衆像阿修羅像は733(天平5)年、光明皇后
(こうみょうこうごう)が
母・橘三千代
(たちばなのみちよ)の1周忌供養の菩提を弔うために造像して以来、
戦乱や大火など幾つもの災難を乗り越えてきた。小野牛養
(おののうしかい)指揮のもと、
百済から渡来した仏師・将軍万福
(しょうぐんまんぷく)、彩色師・秦牛養
(はたのうしかい)、
等によって造られた。粘土で造形した上に麻布を貼り、漆
(うるし)とニレなどの木屑で塗り固め、
後に内部の粘土を取り除き、彩色を施した脱活乾漆造
(だっかつかんしつぞう)という技法で造られ、
1対あたり15kg前後の軽い空洞の仏像であったことから、度重なる災難時に
容易に持ち出せたことが焼失を免れたとされる。1951(昭和26)年に国宝に指定された。
天平の美少年・阿修羅像の向かって左側のの顔は、目も眉毛も上がり、下唇を噛み締めている。
幼年期の感情をむき出しにした怒りの表情とされる。
向かって右側の顔は、うつむきかげんで、苦悩を表しているといわれている。
正面の顔の眉毛は立体的に作られている。
正面の顔は、どこかサマーズの三村マサカズに似ているようなきがする。
国宝の像高153.4cm、最大幅112.5cmの三面六手の阿修羅立像(八部衆のうち)
同上の頭部 薬王菩薩立像(重要文化財)
向かって左の顔(以下の3面は、2008.10.17の朝日新聞より拡大)
正面の顔
向かって右の顔
興福寺前の鹿
参 :
九州国立博物館、
阿修羅、
興福寺(公式HP)、
阿修羅像の魅力(HP)、
九州国立博物館(HP)…平成21年7月14日(火)〜9月27日(日)まで阿修羅展開催
阿修羅展の招待券
A長崎県長崎市寺町4−32にあるわが国における最初の黄檗禅宗の唐寺
(とうでら)である。
山号は東明山。「長崎三福寺」(興福寺、福済寺、崇福寺)の一つで、
1620(元和6)年に渡来した真円
(しんえん)によって開基された。
唐人たちは、自分たちがキリシタンでないことの証と唐船の航海安全の神、
媽祖
(まそ)を祀る寺として創建した、唐3カ寺の中でも最も古い寺である。
長崎在留の唐人のうち、主として揚子江流域の三江(南京)出身の船主らの寄付によって
建てられたので「南京寺」ともいう。また、雄大な朱丹色塗りの山門により「あか寺」として親しまれている。
三江とは、江蘇・浙江・江西の3省を指し、現在では彼らの集会所であった三江会所の門が
興福寺に残されている。開基である真円も明国江西省の人で、渡来後剃髪して僧となった。
真円は1635(寛永12)年まで住職を務めた。その後、二代目には眼鏡橋を架けた人としても
有名な1632(寛永9)年に渡来した唐僧・黙子如定
(もくすにょじょう)が住職に就いた。
1645(正保元)年に住職を三代目逸然性融(
いつねんしょうゆう・近世漢画の祖)に譲る。
逸然性融は、新しい禅宗の日本への伝来を熱望し、当時、中国の福建省黄檗山万福寺の
住職であった隠元禅師
(いんげんぜんじ)を招請する事に尽力した。
度重なる懇請によって隠元禅師は1654(承応3)年に長崎へ渡海した。
逸然性融は隠元禅師を住職に推薦し、自らは監寺に下がった。
隠元禅師は、長崎滞留1年後、1655(明暦元)年に東上し、
1661(寛文元)年に京都宇治に黄檗宗大本山「万福寺」を開山、わが国に黄檗宗を開立した。
また、隠元禅師は建築や書画、彫刻、茶道、料理などの明朝文化など、数多くのものを
日本に伝たえている。禅師の名が付いたインゲン豆、すいか、なし、れんこん、なすび、
もやし、などの野菜果物までもあり、 さらに胡麻豆腐、胡麻あえ、けんちん汁のほか、
印鑑に木魚、煎茶や普茶料理(
ふちゃりょうり・中国僧の精進料理)などがある。
1656(明暦2)年の正月から中興二代澄一道亮
(ちんいどうりょう)が住職を勤めるようになった。
1663年の寛文大火により、伽藍のほとんどが焼失してしまった。
唐僧の渡来は、1700年代中頃にはなくなり、9代住職竺庵
(じくあん)が本山の13代住職に就任すると、
以後は和僧が監寺として住職を代行、現在の32代に至る。
その後、再建に再建を重ね、現在の境内には山門、媽姐堂、大雄宝殿、鐘鼓楼の他、
国重要文化財に指定されている唐人屋敷門や三江会所門、
三聖堂の一つと言われた長崎聖堂の大政殿と大学門が県指定有形文化財として残っている。
興福寺は、臨済宗黄檗派(明治9年から黄檗宗)発祥の地として記念すべき地となっている。
参 :
興福寺(HP)