YSミニ辞典(廣隆寺)

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廣隆寺(こうりゅうじ) : 京都市右京区太秦(うずまさ)蜂岡(はちおか)町32にある
    真言宗御室(おむろ)派の寺院(大本山)。山号を蜂岡山(はちおかざん)と称する。
    蜂岡寺(はちおかでら)、秦寺(はたでら)、秦公寺(はたのきみでら)、葛野寺(かどのでら)
    太秦寺(うずまさでら)などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれ、
    俗に太秦の太子堂ともいわれる。本尊は聖徳太子像。山城(やましろ)(京都府)最古の
    名刹(めいさつ)で、四天王寺、法隆寺などとともに聖徳太子が建立した日本七大寺の一つ。
    帰化人系の氏族である秦(はた)氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、
    京都最古の寺院で、その長、秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から仏像を賜り、
    それを本尊として603(推古天皇11)年に建立されたと『日本書紀』に伝える。
    古くは弥勒(みろく)像が本尊であった。
    その後、818(弘仁9)年と1150(久安6)年に焼失したが、そのつど再建された。
    現在の講堂(国重要文化財)は1165(永万1)年に建立のもので、柱が朱塗りのため赤堂ともいう。
    堂内中央須弥壇(しゅみだん)には、中央に阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)(国宝)、
    左右に地蔵菩薩(じぞうぼさつ)坐像と虚空蔵(こくうぞう)菩薩坐像(2体とも国重要文化財)の
    両脇侍(わきじ)があり、その後方外陣(げじん)左右に千手観音(せんじゅかんのん)立像と
    不空羂索(ふくうけんじゃく)観音立像(いずれも国宝)の2体の巨像が安置されている。
    境内の西方にある桂宮院(けいきゅういん)本堂(国宝)は単層の八角円堂(夢殿形式)、
    檜皮葺(ひわだぶ)きの美しい屋根をもつ鎌倉時代の建築である。堂内には聖徳太子像などを安置する。
    上宮王院(じょうぐうおういん)太子殿は1730(享保15)年の建立で、堂内には太子自作と伝える
    本尊太子像を安置し、毎年11月22日に開扉される。寺宝の保管を図るため1922(大正11)年に
    建てられた霊宝殿には、仏画、仏像、工芸、古文書など多くの文化財が保存されている。
    なかでも、創建当初の本尊といわれる木造弥勒菩薩半跏(はんか)像「宝冠(ほうかん)弥勒」(国宝)は、
    赤松材を用いた一木造(いちぼくづくり)で、美しい微笑をたたえ思索にふける半跏思惟(しい)像として
    名高い。もう1体の弥勒菩薩半跏像(国宝)は楠の一木造で、泣いているような表情のため「泣き弥勒」、
    あるいは「宝髻(ほうけい)弥勒」とも称され、異国情緒豊かな像である。
    以上のほかに十二神将立像などの彫刻や、平安時代における広隆寺の規模を伝える
    『広隆寺縁起資財帳』1巻、『広隆寺資財交替実録帳』1巻などの国宝のほか、
    数多くの国重要文化財の絵画、彫刻、美術工芸品があり、文化財の宝庫として知られている。
    毎年10月12日の夜に行われる大酒(おおさけ)神社の祭礼「太秦の牛祭」は、
    松明(たいまつ)や篝火(かがりび)で照らされるなかを特異な面をつけた
    摩多羅(またら)神が牛に乗って練る奇祭で、京都三大奇祭として知られる。
    南大門(仁王門) : 楼門ともいい寺の正門である。1702(元禄15)年の建立と伝える。
    
    南大門
    
    境内側からの南大門
    薬師堂(やくしどう) : 阿弥陀三尊立像、薬師如来立像、不動明王、
     秦氏出身で弘法大師の弟子で、広隆寺を再興した道昌僧都(どうしょうそうず)、弘法大師、
     理源大師(りげんだいし)を祀る。薬師堂内に納められている薬師如来はお火焚きの日に開帳される。
    
    薬師堂
    
    能楽堂
    地蔵堂(じぞうどう) : 桟瓦葺、宝形造。三間三間。地蔵菩薩像を安置する。
     平安時代に弘法大師が諸人安産、子孫繁栄を誓願して彫刻した「腹帯地蔵尊(はらおびじぞうそん)
     が祀られている。三門を入り進むと、左手、能楽堂の奥に位置している。
    
    地蔵堂
    講堂 : 重要文化財で、柱に朱塗りが残ることから「赤堂」とも呼ばれる。
     正面5間、側面4間、寄棟造り、本瓦葺き。1165(永万元)年の再建で、
     京都市内に残る数少ない平安建築の一つであるが、永禄年間(1558〜1570)に改造を受け、
     近世にも修理を受けていて、建物の外観や軒回りには古い部分はほとんど残っていない。
     堂内は敷瓦を敷いた土間とし、正面柱間は中央3間を吹き放し(壁や建具を入れない)、
     左右端の間は花頭窓入りの土壁とする。堂内には平安時代の様式が見られ、
     身舎(もや)は梁行方向に虹梁(こうりょう)を2段に掛け、板蟇股(いたかえるまた)を置いた
     二重虹梁蟇股とし、天井板を張らない化粧屋根裏とする点が特色である。
     内陣には中央に西方極楽浄土で説法をされている中品中生(ちゅうぼん・ちゅうじょう)印を結ぶ
     本尊阿弥陀如来坐像(国宝)、向かって右に地蔵菩薩坐像(重要文化財)、
     左に虚空蔵菩薩坐像(重要文化財)を安置する。いずれも貞観時代に作られたもの。
    
    京都最古の建物とされる「講堂」。南側正面
    
    同上。西側の側面

    木造阿弥陀如来坐像 : 像高261.5cm。両手を胸前に上げ、説法印を結ぶ。
     『資財帳』及び『実録帳』の講堂の項に「故尚蔵永原御息所願」とある像に該当し、
     840(承和年間)年頃)の作とみられる。永原御息所とは淳和天皇女御の永原原姫(もとひめ)である。
    上宮王院太子殿(じょうぐうおういん・たいしでん) : 広隆寺の本堂に当たる堂。
     入母屋造り、檜皮葺きの正面に向拝のついた宮殿風建築で、1730(享保15)年の建立である。
     堂内奥の厨子内には本尊として聖徳太子立像を祀る。
     この木造聖徳太子立像は像高148cmで、像内に1120(元永3)年、
     仏師頼範作の造立銘があり、聖徳太子が秦河勝に仏像を賜った時の年齢である33歳時の像で、
     下着姿の像の上に実物の着物を着せて安置されている。
     本像には天皇が即位などの重要儀式の際に着用する黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)
     着せるならわしがあり、現在は1994(平成6)年に下賜された袍が着せられている。
     秘仏で、毎年11月2日の聖徳太子「御火焚祭」のみに特別開扉される。
    
    上宮王院太子殿。右端は手水舎
    
    同上
    
    同上
    
    手水舎。左奥に見えるのは上宮王院太子殿
    太秦殿(うずまさでん) : 太泰明神として秦河勝(はたのかわかつ)夫妻を祀っており、
     漢織女(あやはとりめ)、呉泰女(くれはとりめ)を合祀する。本堂の手前右側にある。
    
    秦河勝を祀る「太秦殿」
    

    ここからが有料ゾーンへつづく道で、橋を渡って右へ進むと霊宝館拝観(700円)、
    直進すると桂宮院本堂(200円)

    新霊宝殿 : 仏像を中心とした広隆寺の文化財を収蔵展示する施設で、
     1982(昭和57)年の建設である。飛鳥時代の弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)2体、
     十二神将像をはじめ、天平・弘仁・貞観・藤原・鎌倉と各時代の仏像がここに安置され、
     仏像のほとんどは国宝または重要文化財である。
     西隣の旧霊宝殿は1922(大正11)年、聖徳太子1300年忌を期に建設されたもので、
     現在は公開されていない。
    
    新霊宝殿
    
    同上、ズーム
    宝冠弥勒菩薩半跏思惟像(ほうかん・みろくぼさつ・はんか・しいぞう) : 宝冠弥勒(ほうかんみろく)
     像高は123.3cm(左足含む)、坐高は84.2cm。アカマツ材の一木造で、華麗な右の手指を
     そっと頬に寄せ、かすかに微笑み思索にふける姿は「東洋のモナリザ」とも呼ばれる弥勒菩薩である。
     像表面は、現状ではほとんど素地を現すが、元来は金箔でおおわれていたことが、
     下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかである。右手の人差し指と小指、両足先などは後補で、
     面部にも補修の手が入っている。制作時期は7世紀とされるが、制作地については作風等から
     朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本で制作されたとする説、朝鮮半島から渡来した
     霊木を日本で彫刻したとする説があり、決着を見ていない。この像については、
     韓国ソウルの韓国国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式の類似が指摘される。
     「半跏(はんか)」は片足をあぐらのようにしている状態、
       「思惟(しい)」は指を頬にあて物思いにふける姿を指す。
    
    宝冠弥勒菩薩半跏思惟像                パンフレットより
    
    同上
    
    同上
    宝髻弥勒菩薩半跏思惟像(ほうけい・みろくぼさつ・はんか・しいぞう) : 泣き弥勒。
     像高90cm(左足含む)、坐高66.4cm。「宝冠弥勒」と同様のポーズをとる、
     像高はやや小さい木造の半跏像である。この像は616年に新羅から献上されたものだとされるが、
     朝鮮半島には現存しないクスノキ材製であるところから、
     7世紀末〜8世紀初頭頃の日本製と見られるが異説もある。沈うつな表情で
     右手を頬に当てた様子が泣いているように見えることから「泣き弥勒」の通称がある。
    
    宝髻弥勒菩薩半跏思惟像(パンフレットより)
    不空羂索観音立像 :  像高313.6cmの木造。新霊宝殿が開館するまでは講堂外陣の
     東北隅にあった。奈良時代末〜平安時代初期(8世紀末〜9世紀初)の作。
     『実録帳』の金堂の項に「本自所奉安置」(818:弘仁9年の広隆寺の火災以前から安置されていた、
     の意)として7体の仏像が列挙されているが、そのうちの「不空羂索菩薩檀像」とあるものに該当する。
    千手観音立像 :  像高266.0cmの木造。新霊宝殿が開館するまでは講堂外陣の西北隅にあった。
     もと講堂に安置され、現在は霊宝殿に安置。平安時代初期、9世紀の作。
    十二神将立像 :  像高113〜123cmの木造。『広隆寺来由記』によれば、1064(康平7)年、
     仏師長勢の作。長勢は定朝の弟子にあたる。12体の作風はいくつかのグループに分かれ、
     12体すべてが長勢の作とはみなしがたい。片目をつぶり、矢の調整をしているさまを
     巧みに表現した安底羅大将像など数体が長勢の作に帰されている。
    桂宮院本堂(けいぐういん・ほんどう) : 別名「八角円堂」(夢殿形式)の国宝で、法隆寺夢殿と同型の
     優美な八角円堂で、檜皮葺(ひわだぶ)きの美しい屋根をもつ鎌倉時代の建築である。
     聖徳太子が住んだといわれ、現在は広隆寺の奥の院と称される。
     現在の建物は1251(建長3)年に中観上人澄禅(ちゅうかんしょうにんちょうぜん)により再建された。
     4月・5月・10月・11月の日曜日・祝日のみ公開される。
    
    桂宮院本堂
    
    広隆寺境内図
    拝観時間 : 9時〜17時(12月〜2月は16時30分まで)※無休
    拝観料 : 境内は自由、霊宝館700円、桂宮院本堂200円
    問合せ先 : (075)861−1461
    アクセス : 京福電気鉄道嵐山本線(嵐電)の太秦広隆寺駅より1〜2分
            (市バス)75で「常盤仲之町」下車、または11で「右京区総合庁舎前」下車、すぐ
            (京都バス)太秦広隆寺前下車、徒歩約1分
    駐車場 : 無料(参拝者専用)50台

















































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