YSミニ辞典(高野山)

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高野山(こうやさん) : 和歌山県北東部、伊都(いと)郡高野町にある標高約1000m前後の山々の総称。
    100カ寺以上の寺院が密集する、日本では他に例を見ない宗教都市である。
    816(弘仁7)年に真言(しんごん)道場を開いた弘法大師(空海)の上表に
    「四面高嶺の平原幽地これを高野と名づく」とあり、名称はこれに由来する。
    地名としての「高野山」とは、八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・
    楊柳(ようりゅう)山・摩尼山)と呼ばれる峰々に囲まれた盆地状の平地の地域を指す。
    8つの峰々に囲まれているその地形は『蓮の花が開いたような』と形容されており、
    仏教の聖地としては「八葉蓮台」という大変良い場所であるとされている。
    転軸山・楊柳山・摩尼山の三山を高野三山という。なお、高野山という名称の山は無い。
    平安時代の819(弘仁10)年頃より弘法大師が真言密教の修行の場として開いた高野山真言宗、
    ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地である。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を
    中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は、南麓(なんろく)にある高野山真言宗総本山・
    金剛峯寺(こんごうぶじ)をはじめ117カ寺に及び、その52カ寺が宿坊を兼ねている。
    弘法大師信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。
    2004(平成16)年7月7日、高野山町石道と山内の6つの建造物が熊野、吉野・大峯と共に
    『紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいどう)』としてユネスコの世界遺産(文化)に登録された。
    大門 : 高野山の表参道にある総門(正門)。1965(昭和40)年5月29日に重要文化財に指定。
     重層の5間3戸(ごけんさんこ)の二階二層門で、高さは25.1mの入母屋造、銅瓦葺の楼門である。
     1688(元禄元)年に炎上し、現在の建物は1705(宝永2)年に再建された。
     両脇の金剛力士像は、江戸時代の仏師康意(こうい:阿形像)と運長(うんちょう:吽形像)の作である。
     大門の中央二本の正面柱には、「日々の影向(ようごう)を闕(かか)さずして、処々の遺跡を檢知す」
     という「日々影向文(にちにちようごうぶん)」の後二句が柱聯(ちゅうれん)として掲げられている。
     この聯は、「お大師さまは毎日御廟から姿を現され、所々を巡ってはわたしたちをお救いくださっている」
     という意味であり、同行二人信仰を表している。大門の横手には弁天岳登山口があり、
     山頂には弘法大師が勧請された嶽弁才天(だけのべんざいてん)が祀られている。
    
    高野山の西の入口の正門である大門
    
    一階中央上部
    
    一階中央部にある二句の柱聯
    
    右側の阿形像
    
    左側の吽形像
    
    大門の出口側
    壇上伽藍(壇場伽藍) : 空海が曼荼羅の思想に基づいて創建した密教伽藍の総称であり、
     高野山の二大聖地の一つである(ほかの一つは奥の院)。
     金堂は高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれる。
     ほかに大塔、御影堂、不動堂などが境内に立ち並び、不動堂は世界遺産に登録されている。
     また、弘法大師伝説のひとつである飛行三鈷杵がかかっていたとされる「三鈷の松」や、
     高野四郎(俗称)と呼ばれる大鐘楼も伽藍に存する。
    参 : [YouTube](高野山内を巡る
    
    手水舎
    東塔(とうとう) : 1127(大治2)年、白河院の御願によって
     醍醐三宝院勝覚権僧正(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)によって創建された。
     当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安され、
     不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の二体も脇侍(きょうじ)としてまつられた。
     1843(天保14)年に焼失後、140年も経った1984(昭和59)年にようやく再建された。
    
    国史跡の「東塔」
    三昧堂(さんまいどう) : 済高(さいこう)座主(870年〜942年)が
     929(延長7)年に建立したお堂で、もともと総持院(そうじいん)境内に存在していた。
     済高師はこのお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、三昧堂と呼ばれるようになった。
     後に壇場へ移されたが、修造にかかわったのが西行法師だと伝えられている。
     三昧堂の前の桜は、西行法師手植えの桜として、西行桜と呼ばれている。
     現在の建物は1816(文化13)年に再建された。
    
    国史跡の「三昧堂」
    大会堂(だいえどう) : 根本大塔の東にある7間(12.6m)4面のお堂で、
     鳥羽法王の皇女である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王が、父帝の追福のため建立した。
     もとは別の場所に建立されていたが、長日不断談義(ふだんだんぎ)の学堂として壇場に移し、
     蓮華乗院(れんげじょういん)と称するようになった。
     後にこの論議は衰退し、現在では法会執行の際の集会所的役割を担うようにった。
     現在の建物は1848(嘉永元)年に再建された五間四面のお堂で、本尊は阿弥陀如来が奉安され、
     脇侍(きょうじ)として観世音菩薩、勢至(せいし)菩薩がともにまつられている。
    
    大会堂
    不動堂(ふどうどう) : 高野山内に現存する建物のなかで最古の堂。
     1197(建久8)年、鳥羽上皇の皇女である八條女院(はちじょうにょいん)内親王が発願し、
     行勝(ぎょうしょう)上人によって建立され、現在の建物は14世紀前半に再建された。
     お堂の四隅はすべて形が違い、四人の工匠(こうしょう)がそれぞれの随意に造ったためと
     伝えられている。当初は阿弥陀堂であったと推定されているが、
     後に不動明王坐像(重要文化財)を本尊とし、八大童子(はちだいどうじ)立像(国宝)が奉安された。
     この八大童子は運慶の作として有名で、現在は霊宝館に収められている。
    
    国宝の「不動堂」
    
    同上
    
    不動堂前より「蓮池」方面を臨む
    愛染堂(あいぜんどう) : 1334(建武元)年、後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって
     四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立された。
     本尊は愛染明王で、後醍醐天皇の御等身といわれている。昔はこのお堂で不断愛染護摩供
     (ふだんあいぜんごまく)や長日談義(ちょうじつだんぎ)が行われ、「新学堂」とも呼ばれていた。
     このお堂も何度か罹災し、現在の建物は1848(嘉永元)年に再建された。
    
    国史跡の愛染堂
    根本大塔(こんぽんだいとう) : 弘法大師空海、真然大徳(だいとく)と二代を費やして
     816年から887年ごろに完成したと伝えられる。空海は、この大塔を真言密教の根本道場における
     シンボルとして建立したので、根本大塔と呼ばれる。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、
     本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には
     堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた
     八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されている。
     北側に安置されている二体の仏様は多聞天(たもんてん)と持国天(じこくてん)で、
     江戸時代の作といわれている。この二尊(にそん)は、もともと中門に安置されていたもので、
     火災から奇跡的に免れて、西塔へ収められていた。
     東側に位置する多宝塔(大塔)は、高さ16丈(約48.48メートル)もの巨大な建造物で、
     弘法大師在世中には完成を見ず、高野山第二世真然大徳(804〜891)の代に落慶したと伝えられ、
     いつの頃からか「根本大塔」と呼ばれるようになった。
     現在の建物は、京都帝国大学教授天沼俊一博士、国会議事堂の設計にも関与した武田五一博士、
     古社寺修理監督の大浦徳太郎建築技師などにより設計監修され、1937(昭和12)年に完成した。
     当初の設計段階にあたっては、従来通り総木造建築とされていたが、昭和元年の金堂焼失や
     大塔の過去の経緯から抗火性と耐震に最重点を置き、鉄骨・鉄筋コンクリート造りとし、
     外装のみ木材朱塗りの建物となった。総高約48.5メートルといわれている。
    
    根本大塔
    
    同上
    大塔の鐘(だいとうのかね) : 空海が鋳造を発願し、真然大徳の時代に
     ようやく完成したと伝えられている。火災などで度々鐘楼が焼失し、3度ほど改鋳された。
     現在の銅鐘は1547(天文16)年に完成したもので、直径2.12mの大鐘で、
     日本で4番目に大きな鐘であったことから高野四郎(こうやしろう)と呼ばれるようになった。
     現在でも毎日午前4時、午後1時、午後5時(春季彼岸中日より秋季彼岸中日までは午後6時)、
     午後9時、午後11時の5回に分けて時刻を高野山内に知らせている。
    
    国史跡の「大塔の鐘」
    
    同上
    金堂(こんどう) : 高野山御開創当時は講堂と称して、819(弘仁10)年(819)に創建されたが、
     その後の承和5年(838) になって、嵯峨天皇御願の御堂として新たに完成し、
     同年6月に本尊である薬師如来像(阿シュク如来)と脇侍の諸尊像が奉安されたと伝えられている。
     現在の建物は7度目の再建で、1932(昭和7)年に完成した。梁間23.8m、桁行30m、
     高さ23.73mの入母屋造りで、関西近代建築の父といわれる武田五一博士の手によって、
     耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計、建立された。
     内部の壁画は岡倉天心の理想に傾倒し、日本美術院の発展に貢献した木村武山(ぶざん)画伯の
     筆によって、「釈迦成道驚覚開示(しゃくそんじょうどうきょうがくかいじ)の図」や
     「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が整えられた。本尊の薬師如来(秘仏)は、
     洋彫刻の写実主義に関心をよせ、江戸時代までの木彫技術に写実主義を取り入れて、
     木彫を近代化することに貢献された、高村光雲仏師によって造立された。
    
    金堂
    
    同上。正面
    
    金堂前の燈篭
    准胝堂(じゅんていどう) : 本尊の准胝観音像は、弘法大師が得度の儀式を行う際の本尊として
     自ら彫刻されたと伝えられている。859(貞寛)年頃の平安前期の作風を持つ。
     この准胝観音像は、伽藍が建立された当時、食堂に安置せられていたと伝えられている。
     その後、973(天禄4)年頃になって、この堂が建立され、移動されたという。
     幾たびも焼失したが、現在の堂は1883(明治16)年に再建された。なお、このお堂では
     毎年7月1日に、准胝堂陀羅尼会(じゅんていどうだらにえ)と呼ばれる法会が営まれる。
    
    准胝堂
    孔雀堂(くじゃくどう) : 1199(正治元)年、東寺長者の延杲(えんごう)は、
     後鳥羽法王の御願によって、神泉苑(しんせんえん)にて祈雨の修法を行い、見事大願を成就された。
     その功績により高野山へ建立すべき宣旨を受け、翌年の正治2年には本尊が奉安された。
     1926(昭和元)年、金堂より出火した大火によって焼失したが、
     1983(昭和58)年に弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として再建された。
     本尊の孔雀明王像は快慶作で重要文化財に指定され、現在は霊宝館に収められている。
     その体内には役行者が自ら彫り込んだ像があると言われている。
    
    国史跡の「孔雀堂」
    西塔(さいとう) : 887(仁和3)年に建立されたが5度の消失と再建を繰り返し、
     現存の建物は1834(天保5)年に再建された。伽藍の西北隅に位置する
     「擬宝珠高欄付多宝塔」は、根本大塔につぐ2番目に高い建物で高さは27.27m。
     内部には金剛界大日如来(重要文化財)と胎蔵界四仏が安置されている。
    
    「西塔」
    御社(みやしろ) : 高野山開創にあたり、空海が丹生明神・高野明神を勧請した社。
     三社が並列し、右から丹生明神、高野明神、十二王子・百二十伴神が祀られている。
    
    「御社」
    山王院(さんのういん) : 弘法大師が壇上伽藍の建築前に、地主山王を拝するために建てられた
     両側面向拝付入母屋造り(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)の珍しい建物である。
     建立は藤原時代で、現在の建物は1594(文禄3)年の再建で重要文化財となっている。
     このお堂では、毎年の竪精論議(りっせいろんぎ)や御最勝講(みさいしょうこう)などの
     重要行事や問答が行われる。また毎月16日には明神(みょうじん)様への御法楽として、
     月次門徒・問講の法会が行われている。
    
    「山王院」
    
    同上
    奥の院 : 弘法大師(空海)が御入定されている御廟と灯籠堂のある聖地である(世界遺産)。
     空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、
     今も高野山奥の院で生きていると信じている人もいる。
     「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定(にゅうじょう)」というのはそのためである。
     参道の墓原には、皇室、公家、大名のほか、平敦盛・織田信長の供養塔、上杉謙信・景勝の霊屋、
     豊臣家の墓所から太平洋戦争の英霊、企業の社員のまで、さまざまな人々の墓石や、
     供養塔、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年を超える杉木立の中に多数立ち並び、
     その総数は正確には把握できないものの、20万基以上はあると言われている。
     戦国大名の6割以上の墓所がある。奥の院の入り口は一の橋と中の橋の2箇所があるが、
     正式には一の橋から参拝する。一の橋から御廟までは約1.9km(約40分)だが、
     奥の院の入り口からだと半分の約1km(約20分)の道のりとなる。
     その途上には「みろく石」などの七不思議と呼ばれる場所がある。
    
    バスで奥の院前で降りた所にある「手水舎」
    
    ここから奥の院・御廟まで、約1kmの道のりがある
    御供所(ごくしょ) : 空海さん(お大師さま)に毎日朝と昼前の2度供える食事を作るところ。
     高野山では空海さんは亡くなったのではなく、その姿のまま、御廟の奥であらゆる衆生を救うべく
     祈っていると考えている。よって、その時から約1200年後の今日までと、
     さらにこれからも永遠に絶えることなく食事が供されることになる。
    
    御供所。納経所も兼ねている。
    
    御供所
    納経所(のうきょうしょ) : 御供所の一部で、四国88カ所巡りや西国33カ所巡りなどを
     完了したお遍路は、最後のゴールとして高野山に登り、納経帳(のうきょうちょう)
     納経軸(掛け軸)・白衣に総本山の朱印や揮毫(きごう)を受ける。
    
    納経所
    嘗味地蔵(あじみじぞう) : 毎日朝と昼前にお大師さまに食事が供えられるが、
     その食事は御供所で行法師(ぎょうぼうし)が作り、まずこの嘗味地蔵に供えられる。
     この嘗味地蔵が味見(もしくは毒見)をして料理の出来、不出来を確かめるといわれる。
     その後、温かいご飯とお汁、季節の野菜を使った御膳が御廟と向き合う燈籠堂に運ばれる。
    
    嘗味地蔵
    
    水向地蔵(みずむけじぞう)の全景
    
    御廟橋(ごびょうばし)。ここから先は撮影禁止、脱帽して静粛にお参りしなければならない
    燈籠堂(とうろうどう) : 高野山第二世真然大徳(しんぜんだいとく)によって建立され、
     1023(治安3)年に藤原道長によって、ほぼ現在に近い大きさになったと伝えられている。
     堂内には消えずの火として祈親(きしん)上人が献じた祈親燈(きしんとう)、白河上皇が献じた白河燈、
     祈親上人のすすめで貧しいお照が大切な黒髪を切って献じた貧女の一燈(いっとう)
     昭和の時代にある宮様と首相の手によって献じられた昭和燈が燃え続け、
     その他多くの人たちの願いが込められた燈籠が奉納されている。
     このお堂では、廻向(えこう)や祈祷、各種お守りの授与なども行われている。
    
    灯籠堂
    頌徳殿(しょうとくでん) : 1915(大正4)年、高野山開創1100年の記念事業として建立された、
     高野山で数少ない大正時代の建築物で、和歌山市の寺院が発起人となり、多くの人々の寄付によって
     造営された。桁行10間、梁行5間の平屋造りで、創建当初は檜皮葺(ひわだぶき)屋根であったという。
     現在は茶所として、参拝の人たちの休憩所として開放され、セルフサービスでお茶をいただける。
     開扉時間は午前8時30分から午後5時まで。
    
    
    弘法大師像
    
    織田信長墓所
    
    豊臣家墓所
    
    円光大師(法然上人)御廟
    
    ピラミッド状の無縁塚
    
    平和橋
    
    身代り橋(みがわりばし)
    
    同上
    
    ビルマ方面戦没英霊納骨塔パコダ
    
    長州毛利家墓所
    
    パナソニック墓所
    
    松下家墓所(石像は松下幸之助)ナショナルをパナソニックに変えられ怒っているかも
    
    汗かき地蔵と姿見の井戸
    
    汗かき地蔵そばの「中ノ橋」と杉木立
    
    石田三成墓所
    
    伊達政宗墓所
    
    周防岩国吉川家墓所
    
    同上
    
    武田信玄勝頼墓所
    
    あヽ同期の桜の碑
    
    同上
    
    同上
    
    同上
    
    「一の橋」のそばに一の橋観光センターがある
    
    「一の橋」。表参道で、ここから入ると奥の院御廟まで約2kmを歩くことになる
    参 : 不動院(HP)、高野山宿坊組合・高野山観光協会(HP)、
        [YouTube](高野山内を巡る=奥の院)
苅萱堂(かるかやどう) : 苅萱道心(かるかやどうしん)と石道丸(いしどうまる)の悲話に由来するお堂。
    出家した苅萱道心が庵を結んだところである。平安時代末期(十ニ世紀後半)、
    筑紫(つくし)の国(福岡県)の領主に加藤左衛門繁氏(かとう さえもん しげうじ)という人がいた。
    この繁氏、嫁の他にもう一人千里という女性と一緒に暮らしていたが、ある日いきなり出家してしまう。
    繁氏の出家直後、千里が男児を出産し、父の幼名をとって石童丸と名付ける。
    石童丸が14歳のとき、母と共に父に会うため高野山に向かい学文路の宿まで来たが、
    そこから先は女人禁制の地。母を宿に残し、石童丸だけが高野山に登り、父を探している時
    一人の僧と出会う。石童丸の話を聞いた僧は、「その尋ね人はもうこの世にはいない」と告げる。
    この僧こそ、苅萱道心と名を変えた繁氏だった。その話を聞き、父を探すのをあきらめた石童丸が
    学文路に戻ると、母千里は急病で亡くなっていた。石童丸はなすすべも無く、再び高野山に戻り
    顔見知りになった苅萱道心の弟子となるが、苅萱道心が父と名乗ることは無く、
    一生知らぬままに生涯を送ったという。
    
    苅萱堂
    
    同上
金剛三昧院(こんごうさんまいいん) = 金剛三昧院(別掲)
金剛峰寺(こんごうぶじ) = 金剛峰寺(別掲)
徳川家霊台(とくがわけれいだい) = 金剛峯寺徳川家霊台(金剛峯寺に別掲)
女人堂(にょにんどう) : 昔、一千年余りの間、女性は高野山へ入れなかったため、
    高野山の北西の入口にある不動口に建てられたお堂。その昔、高野山には七つの登り口があり、
    高野七口(こうやななくち)と呼ばれていた。1872(明治5)年に女人禁制が解かれるまで、
    女性の立ち入りが厳しく制限され、そのため各登り口に女性のための参籠所が設けられ、
    女人堂と呼ばれた。高野山の七つの入り口にそれぞれ建っていた女人堂の唯一の残存建造物である。
    女性はここから山内に入る事が許されなかった。
    
    女人堂
    
    小杉明神社(こすぎみょうじんしゃ)
    女人堂に向かって左側にある祠で、その昔、小杉という尼僧が、女人禁制の高野山に登って来る
    女人の方々のために不動坂上に最初の女人堂を開き、やさしい接待をされていた。
    その小杉さんが、女人堂の鎮守小杉明神としてお祀りされている祠である

    
    「お竹地蔵」の説明板
    
    道路をへだてて女人堂は向かいにある大きな「お竹地蔵」

    高野山ガイドマップ(現地案内板より)    


    壇上伽藍方面

    奥の院方面

    奥の院参道ガイドマップ
    アクセス : 関西空港から南海線で難波まで約38分。
     (電車)南海電鉄.難波駅〜高野山駅の間を特急は1日に4往復、
          急行は約30分毎に1本の間隔で運行し、所要時間は特急で1時間40分、急行で約2時間。
          和歌山・奈良方面からは、JR和歌山線橋本駅で南海高野線に乗り換え。
     ()【京都・大阪方面から】阪和自動車道(美原LCT)から南阪奈道路(羽曳野IC)で下り、
        国道170号線にて河内長野へ。河内長野の上原町交差点より国道371号線にて橋本市まで。
        橋本市より九度山町経由国道370号線・480号線にて高野山まで。
        (京都より約3時間30分・大阪市内より約2時間30分)
        【神戸方面から】阪神高速湾岸線(りんくうJCT)から阪和自動車道(泉佐野JCT)経由し
        (泉南IC)で下り、県道63号(泉佐野岩出線)を岩出市まで。岩出市の備前交差点より
        国道24号線を橋本方面に走行し、かつらぎ町笠田より国道480号線にて高野山まで。
        (神戸市内より約3時間)
        南紀方面から】白浜・田辺〜国道42号(田辺バイパス)秋津町交差点より県道29号にて
        龍神方面へ。龍神より国道371号(高野龍神スカイライン)にて高野山まで。
        (白浜より約2時間30分)
        勝浦・新宮市より国道168号にて本宮まで。本宮より国道311号にて中辺路町まで。
        中辺路より県道198号線にて龍神方面へ走行し、
        龍神より国道371号(高野龍神スカイライン)にて高野山まで。(新宮より約3時間30分)
    
    南海高野線の極楽橋行きの快速急行電車
    
    南海高野線電車の車窓より
    
    同上
    
    同上
    
    同上
    
    ケーブルカーの離合地点
    
    約5分で高野山駅に着いたケーブルカー
    
    この南海りんかんバスで、高野山駅前から奥の院前までと、一ノ橋口から千手院橋までと、
    大門から高野山駅前まで3回利用したが、800円の「高野山内1日フリー乗車券」を買ったので
    お得な上にその都度小銭を出すこともないことから駅前の窓口での購入をお勧めします。
    
    高野山内1日フリー乗車券(表・裏)原寸5.7×8.5cm
    












































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