YSミニ辞典(ま)
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まど・みちお(マド・ミチオ)まど・みちを : 窓 道雄。本名は石田 道雄
(いしだ・みちお)。日本の詩人。
「
ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」など、そのおおらかでユーモラスな作品は童謡としても親しまれている。
1909(明治42)年11月16日、山口県徳山町辻(現在の周南市辻町)に次男として生まれる。
しばらくは、祖父、祖母、父、母、兄、妹と一緒に暮らしていたが、
幼い頃に父が将来の生活を考えて1912(大正元)に新天地、台湾へ渡り、
さらに、まどが5歳の時の1915(大正4)年、母が彼の兄と妹を連れて同地に移住し、
次の年に祖母が亡くなったため、4年ほどの間、祖父と2人での生活を送っている。
この祖父との4年間の心の機微を大人になって回想したのが「幼年遅日抄」である。
その後、1919(大正8)年、9歳で彼も祖父のもとを離れて台湾へ渡った。
台北工業学校土木科に在学中、数人で同人誌『あゆみ』を創刊し、詩を発表。
卒業後は台湾総督府の道路港湾課で働いていたが、
1934(昭和9)年、雑誌『コドモノクニ』の童謡募集に応じて5篇を投稿、
そのうちの2篇が特選に選ばれたのをきっかけに、詩や童謡の投稿を本格的に行うようになる。
1936(昭和11)年には山口保治によって童謡「ふたあつ」が作曲された。
その翌年には同人誌『昆虫列車』の創刊に参加し、1939(昭和14)年の廃刊まで活動する。
1943(昭和18)年、召集によって台湾の船舶工兵隊に入る。マニラを皮切りに各地を転戦し、
シンガポールで終戦を迎える。日本に戻り、1948(昭和23)年には出版社に入社。
雑誌『チャイルドブック』の創刊にたずさわり、詩や童謡の発表をしながら、
子供のための雑誌、書籍の編集やカットに関わった。
1951(昭和26)年、童謡「ぞうさん」を書き、翌年、團伊玖磨の曲でラジオ放送される。
1959(昭和34)年出版社を退社した後は、詩・童謡・の創作に専念する。
1961(昭和36)〜1964(昭和39)年まで絵画制作に没頭する。
「ぞう(さん)」1977年7月(周南市美術博物館蔵)
「鳥のくる池」1961年5月30日(周南市美術博物館蔵)
「少女の顔」1961年8月22日(周南市美術博物館蔵)
新児童文化第5集カット凸版「アンデルセン」1950年(周南市美術博物館蔵)
1963(昭和38)年にはそれまでに作った童謡を『ぞうさん まど・みちお子どもの歌100曲集』として
まとめる。その5年後、はじめての詩集となる『てんぷらぴりぴり』を出版し、第6回野間児童文芸賞を受賞。
1976(昭和51)年、『まど・みちお詩集』(全6巻)によって第23回サンケイ児童出版文化賞を受賞。
第1巻『植物のうた』は、日本児童文学者協会賞にも選ばれた。同年、川崎市文化賞を受賞。
1992(平成4)年刊行の『まど・みちお全詩集』で、芸術選奨文部大臣賞ほか受賞。
同年に皇后・美智子選訳の『THE ANIMALS』を日米同時出版。
1994(平成6)年に日本人初の国際アンデルセン賞作家賞、2003年に日本芸術院賞を受賞。
100歳の白寿を迎えた今も、遠く川崎市の書斎で、90年前のふるさと徳山で暮らしていた少年にもどり、
新たな発見や真理を綴る毎日をおくっている。(周南市美術博物館、有田順一氏の紹介文を一部引用)
参 :
周南市美術博物館(HP)
100歳の誕生日を迎えた「まど・みちお」さん
石田家の墓があった周南市にある曹洞宗の福田寺(ふくでんじ)山門。
まどさんは祖父と二人でこの寺にある祖母の墓いりをしていた。
周南市美術博物館入口
入館券(原寸13×7.5cm)
周南市の平和通り(peace)と御幸通り(happy)を結ぶPH通りにある
“まどみちお”の「ぞうさん」の詩が刻まれているモニュメント
まどさん生家周辺の変遷に思う
(2010.1.12、朝日新聞「声」より、山口県周南市の深町 清さん(88歳)の投稿文紹介)
山口県周南市(旧徳山市)の私の実家西側約500メートルに、
童謡「ぞうさん」の作詞などで知られる詩人まど・みちおさんの生家跡地がある。
今は地域の自治会館になっていて、私はその前を通って毎日のように買い物に行くが、街の変遷を思う。
まどさんは昨年11月に100歳になられた。私より12歳年上で同じ酉年
(とりどし)生まれ。
小学校中学年の頃まで生家にいて、近くの東側を越えて私が今住んでいる地区に遊びに来られたことがあると
聞いた。今はそばに国道2号線が通り、かつての田畑から民家などに変わっている。
ただ、地域住民の努力で市街地を流れる東側には夏にホタルの乱舞が見られるようになっている。
この東側の下流には戦時中、第三海軍燃料廠
(しょう)があり、1945(昭和20)年5月10日、
米軍
B29が
空爆。燃料廠が大打撃を受けた。私の実家は7月の空襲で焼失した。
幼少時代、徳山におられたまどさん、詩人として100歳を超えた今も健在でおられることはめでたい。
私は米寿を超えたが、とうていまどさんの年まで生きられまい。しかし、1年でも長命を保ちたいと思う。