南禅寺(YSミニ辞典)
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南禅寺(なんぜんじ) : 京都市左京区南禅寺福地町にある、
臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。
山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺
(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇で、亀山天皇の離宮(禅林寺殿)を、
1291(正応4)年に大明国師の無関普門
(むかんふもん)(1212〜1291)を開山(初代住職)として
禅寺に改めたのにはじまる。京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、
日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。また日本最初の勅願禅寺である。
正安年間(1299〜1302)に寺号を瑞竜山太平興国南禅禅寺とした。
五山の第一位に列し、足利義満のとき、別格上位の「五山之上
(しじょう)」に列せられ、
禅宗寺院最高の寺格を誇った。
室町時代中期以後衰えたが、
江戸時代初期、以心崇伝
(すうでん)らの努力で再興された。
藤堂高虎造営の三門や桃山期建立の方丈は国宝で、襖絵
(ふすまえ)は狩野派によって描かれている。
江戸初期に以心崇伝が住した金地院をはじめ塔頭
(たっちゅう)も多い。
小堀遠州の作と伝える枯山水庭園がある。
勅使門(ちょくしもん) : 1641(寛永18)年、御所の日ノ御門を移築したもの。
重要文化財の「勅使門」
通用門である「中門(総門)」
中門の境内側
三門 : 中門の東に5間3戸(正面柱間が5間で、うち中央3間が出入口)の二重門(2階建ての門)で、
入母屋造、本瓦葺で、天下竜門ともいう。門前に日本一大きいという石灯籠が立っている。
天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽筆で、
知恩院の三門、
東本願寺御影堂門あるいは
仁和寺の三門とともに、京都三大門の一つに数えられている。
ちなみに、日本三大門とは、南禅寺、知恩院、久遠寺(山梨県)にある。
1628年、
藤堂高虎が大坂夏の陣に倒れた一門の武士たちの菩堤を弔うために寄進したものである。
上層は「五鳳楼」といい、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、
大坂の陣の戦死者の位牌などを安置している。
楼上からの眺めがよく、石川五右衛門の伝説でも知られる。(拝観料:250円)
ちなみに、歌舞伎の『楼門五三桐』
(さんもんごさんのきり)の二幕返しで
石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と見得を切る舞台として有名な場所がこの
「南禅寺山門」である。ただしそれは創作上の話で、
実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った1628(寛永5)年の建築である。
重要文化財の三門(解脱門)を望む
同上
三門の二階通路からの景色。東側の山廊より、急勾配の階段を登る。
三門の二階通路からの景色。
法堂(はっとう) : 1895(明治28)年にこたつの火の不始末で焼失した後、
1909(明治42)年に再建された。
山門から法堂へ続く参道
法堂正面
疎水の水路閣 : 南禅寺の寺院とは異なる赤レンガのアーチが南禅寺境内の東南部に造られている。
これは、琵琶湖から引いた水で京都の街を発展させるために巨費を投じて築かれた総延長約30kmの
運河「琵琶湖疎水」が通る
水道橋(煉瓦橋)である。正式には水路閣
(すいろかく)と言い、
古代ローマ時代の水道橋を参考に明治時代の1888年に完成した、全長93m・高さ5〜8m・
幅4mのアーチ橋で国指定の史跡でもある。今も毎秒150リットルほどの琵琶湖からの水が流れる。
水路閣の上は、疎水沿いに歩ける遊歩道で、春には桜、秋には紅葉が美しい散策コースになり、
「哲学の道」へと続いている。左京区南禅寺草川町17には「琵琶湖疎水記念館」があり、
疏水事業や水路閣の資料約370点を無料で紹介している(月曜日は休み)。
記念館前ではかつて疏水の舟運で使われたインクライン(傾斜鉄道)が展示されている。
また、上京区大宮通元誓願寺下ルには「町家写真館」があり、京都の風物を撮り続ける
西陣生まれの写真家・水野克比古さんの写真約50点が無料で展示されている。
ただし、予約制で日曜・祝日は休み。問合せ先は
075−431−5500。
琵琶湖疏水・水路閣
同上
同上
水路閣上の水路
南禅院 : 方丈の南、疎水橋をくぐり石段を登った一段と高いところにある。
寺の規模は小さいが、南禅寺発祥の地と伝える。
1703年徳川綱吉の母桂昌院らの寄進により再建された。
南北朝時代の作といわれる亀山天皇木造像が安置されている。(拝観料:350円)
南禅院の庭園
南禅院の庭園
南禅院の庭園
南禅院と庭園
方丈 : 山内東側にあり、大方丈と小方丈に分かれている。
大方丈は天正年間(1573〜92年)に造営の御所・清涼殿を移築したとする資料が多いが、
清涼殿ではなく女院御所の対面御殿を移築したものとされ、
正面9間、側面12間、単層、入母屋造、柿葺である。柳の間・じゃこうの間・西の間などがあり、
襖絵は
安土桃山時代の作品で花鳥図は狩野元信、人物画は狩野永徳筆と伝える。
狩野派の絵師による障壁画は、柳の間・麝香の間・御昼の間・花鳥の間(西の間)・鶴の間・
鳴滝の間の各間にある襖や壁貼付など計120面が重要文化財に指定されている。
これらは旧御所の障壁画を引き継いだものであるが、
建物の移築に際して襖の配置構成が大幅に変更されており、
本来ひと続きの画面であった襖が別々の部屋に配置されているものも多い。
接続して建つ小方丈は大方丈の奥で、寛永年間の建築とされ、虎の間がある。
襖絵は狩野探幽筆といわれ、金地に竹林群虎が描かれ、特に水呑みの虎の図は名高い。
なお北側には宗偏流の茶室不識庵、中根金作氏作の露地があり、
周囲の竹垣は南禅寺垣と呼んでいる。(拝観料:庭園を含む350円)
国宝「方丈」
方丈・清涼殿正門(大玄関)
方丈庭園 : 大方丈の南面にあり、俗に「虎の子渡しの庭」と呼ばれている。長方形の敷地に
左から大石を据え、順次右方に庭石を組み流し、その前面には一面に白砂を敷きつめている。
江戸時代初期の禅院式枯山水の代表的な庭園で、小堀遠州の作庭と伝える。
「虎の子渡しの庭」と呼ばれる大方丈の庭園
金地院 : 中門の南西にある。1394〜1428年、大業和尚が北山に創建した寺で、
慶長のはじめに南禅寺塔頭として現在地に宗伝が移築した。
黒衣の宰相と呼ばれた金地院宗伝は
徳川家康に重用され、寺の増改築をし、東照宮などを設けた。
現在の建物は当時のもので、本堂・開山堂・東照宮がある。
金地院所蔵の国宝
渓陰小築図(けいいんしょうちくず) : 1413(応永20)年作の水墨画で、
詩画軸(掛軸の下方に絵を描き、上方にその絵と関わる詩や文を書いたもの)の最古作といわれる。
秋景冬景山水図 : 南宋時代の水墨淡彩の風景画。足利義満の旧蔵品である。
(拝観料:400円)
参 :
南禅寺(HP)