YSミニ辞典(大阪城)
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大阪城(おおさかじょう) : 古くは摂津国東成郡大坂の地にあったことから「大坂城」と書き、
別称に「金城」あるいは「錦城」がある。現在は大阪市中央区大阪城1−1にある
城で、
名古屋城、
熊本城と共に日本三名城の一つで、1997年に国の登録有形文化財に登録されている。
豊臣秀吉が、
安土桃山時代の1583(天正11)年から15年の歳月を費やし、
織田信長に抵抗した石山本願寺跡に築城した。淀殿の子の秀頼のときの1614年、
大坂冬の陣で
徳川家康の率いる大軍に攻められ、翌年の大坂夏の陣で初代の城は落城焼失した。
家康の死後、1620(元和6)年から征夷大将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が始められ、
3期にわたる工事を経て1629年に再建され、徳川幕府の関西ないしは西日本支配の拠点となり、
城主のいない城に代わって大坂城代が置かれた。
徳川氏の大坂城は豊臣氏の大坂城の石垣と堀を破却して、全体に数メートルの盛り土をした上に
より高く石垣を積んだので、豊臣大阪城の遺構は地中に埋もれてしまった。
1885年、和歌山城二の丸より御殿の一部が移築され、「紀州御殿」と称された。
徳川幕府は、一度だけ天守閣を再建するが2代目も1665年に落雷のため焼失してしまい、
以後、天守閣の再建はなかった。1888年には、本丸桜門が復元された。
1928年、当時の大阪市長關一
(せき・はじめ)氏が天守の再建を提案し、集められた市民の
募金150万円(現在の600億円に相当)によって陸軍第四師団庁舎移転と天守建設がすすめられ、
1931(昭和6)年に鉄骨とコンクリートによる天守閣が再建された。
1931(昭和6)年築の大坂城天守閣(国登録有形文化財)2007.12.17撮影
高さは54.8m(天守台・鯱を含む)。現在、天守閣の中は大阪城天守閣という博物館になっている。
終戦後、城内の陸軍用地が進駐軍に接収され、1947年に米軍の失火により紀州御殿が焼失した。
1995(平成7)年から1997年にかけて、平成の大改修が行われ、耐震補強や壁の塗り替え、
傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。
また、身体障害者や高齢者、団体観光客向けにエレベーターが
小天守台西側(御殿二階廊下跡)に取り付けられた。
西側よりの天守閣
1965(昭和40)年に復元された極楽橋より望む
北西側の内濠より天守閣を望む
桜門桝形の正面にある「蛸石(たこいし)」で、国の、重要文化財に指定されている。
城内第1位の巨石で、高さ5.5m、幅11.7m、表面積59.43m2(36畳敷)で、推定108トンに及ぶ。
左端に蛸の形が浮かび出ることから名付けられたという。
京橋門前にある城内で二番目に大きな肥後石(高さ5.5m、横幅14m、表面積54.17m2)
梅林よりの大坂城
大阪城は広く、本丸・二の丸部分だけでも約73万m
2もあり、
周辺を含め大阪城公園全域になると約107万m
2にもなる一大史跡公園になっている。
大阪城の江戸時代の古建造物13棟をはじめ、さまざまな文化・スポーツ施設などもある。
1624(寛永元)年に大阪城の修築工事を徳川幕府から命じられた毛利秀就(55代)は、
徳山(現・周南市)の
大津島から98個の石を運んだ。
この石には毛利氏の一宇三星の家紋を略して上に「一」と下に「○」の印が彫ってある。
現在も大津島の瀬戸浜周辺には当時の石がいくつか残っている。
この残石の一つが周南市文化会館の前庭にすえられている。
アクセス : 天守閣はJR大阪城公園駅、大阪市営地下鉄・森ノ宮駅から徒歩約20分。
開館 : 9時〜午後5時
参 :
真田幸村、
(財)大阪観光コンベンション協会天守閣事業チーム(HP)
大阪城公園に1万5000個の行灯(MSN産経ニュースより)
大阪城公園(大阪市中央区)に約1万5000個の行灯
(あんどん)を並べる
「城灯
(しろあか)りの景
(え)」が2009年8月21日夜行われた。22日も午後6〜9時に開催される。
ライトアップされた天守閣が、ろうそくの淡い光に包まれて幻想的な光景が広がった。
2001(平成13)年から天守閣復興70周年を記念して、
大阪市や大阪商工会議所などでつくる実行委員会が主催。
2009年は22日に、1000人の参加者が光る風船を持って行進し、光の「銀河」を描き出す試みもある。
大阪城天守閣を背景に敷き詰められた行灯