作詞・作曲家(YSミニ辞典)

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石本美由起(いしもと・みゆき) : 1924(大正13)年2月3日〜2009(平成21)年5月27日は、
    広島県大竹市出身の作詞家。本名は美幸。    
 1944(昭和19)年、海軍大竹海兵団に入隊するが、
 すぐ体調を崩して病院に入る。慰問に来た東海林太郎の
 歌声に兵士たちが瞳を輝かせるのを見て歌の魅力を知った。
 第2次世界大戦後、作詞を始め歌謡同人誌に投稿を始める。
 夢中になった白秋の詩『思い出』の中の一篇
 「ザボンのかげ」からインスピィレーションを得て
 「長崎のザボン売り」という詩を書き、同人誌に投稿すると
 作曲家・江口夜詩の目にとまり1948年、
 小畑実の歌でレコード発売され大ヒット。
 1950(昭和25)年暮れ、東京に住まいを移し
 キングレコードの専属となり作詞家としてのスタートを切る。
 翌1951年、作曲家・上原げんとに見込まれ共に
 コロムビアレコードに移ったことで、上原をはじめ古賀政男
 船村徹市川昭介らの作曲家とコンビを組み、美空ひばり、
 島倉千代子、都はるみらの楽曲を手がける。
 特に美空ひばりには、大ヒットとなる「ひばりのマドロスさん」
 「港町十三番地」「哀愁波止場」「悲しい酒」「人生一路」などの
詞を提供し、ひばり伝説の一翼を担った。美空ひばりには約200作を提供した。
    他に遠藤実らとこまどり姉妹のデビュー「浅草姉妹」等も手がけている。
    総作詞作品は3500曲以上にも及び、作詞界の大御所的存在で、他の代表曲には、
    故郷の窓から遠い空を想い続けた少年の日を思い出して書いたという「憧れのハワイ航路」や
    「薔薇を召しませ」「陽気なハーモニカ娘」「こんなアベック見たことない」「渡り鳥いつ帰る」
    「逢いたかったぜ」「東京の人さようなら」「逢いたいなァあの人に」「浅草姉妹」「ソーラン渡り鳥」
    「十国峠の白い花」「おんなの海峡」「大ちゃん数え歌」(アニメ「いなかっぺ大将」主題歌)、
    「長良川艶歌」「矢切の渡し」「河内おとこ節」などがある。
    「長良川艶歌」「矢切の渡し」は二年連続の日本レコード大賞受賞だった。
    また星野哲郎や松井由利夫、たなかゆきをら、優れた才能を世に出した。
    要職では日本音楽著作権協会(JASRAC)理事長、日本作詞家協会会長、
    日本音楽作家団体協議会副会長などを歴任し、広く後進の指導にもあたった。
    この他、多くの校歌や応援歌等を手がけている。
    2009年5月27日午前零時50分、病気のため死去。85歳没。
市川昭介(いちかわ・しょうすけ) : 1933(昭和8)年1月4日〜2006(平成18)年9月26日)は、
    
    
    1951(昭和26)年、福島県立郡山工業高等学校(現・福島県立郡山北工業高等学校)を卒業し、
    ハワイアンバンドでの歌手デビューを目指し歌手の高倉敏(びん)氏を慕い上京。
    歌手・鶴田六郎氏、作詞家・藤間哲郎氏等の付き人(かばん持ち)を10年間続けながら、
    作曲とピアノを独学で学ぶ。生涯に作った、3000曲以上のほぼ全ての曲が演歌であり、
    一部、アニメソングも手がけたが、これも演歌調となった。
    1961(昭和36)〜1971(昭和46)年まで日本コロムビアの専属作曲家で、
    1961年に島倉千代子が歌い第3回日本レコード大賞作曲奨励賞を受賞した
    「恋しているんだもん」でデビューした。1962(昭和37)年、畠山みどりの「恋は神代の昔から」が
    ミリオンセラーとなり、翌年の「出世街道」も連続のミリオンセラーを記録した。
    1964(昭和39)年、都はるみの「アンコ椿は恋の花」が3作目のミリオンセラーとなり大ヒット。
    以後「涙の連絡船」「好きになった人」「大阪しぐれ」など、都はるみの一連のヒット曲を作曲。
    都はるみを国民的演歌歌手に育て上げた。都はるみは恩師の市川を歌謡界の父親と慕っていた。
    1972(昭和47)年〜1974(昭和49)年までクラウンレコードの専属作曲家を務めた後、フリーとなる。
    市川の門下生には都はるみの他、ジュディ・オング、畠山みどり、五木ひろし、
    大川栄策、神野美伽、市川由紀乃、山口瑠美らがいる。
    1990(平成2)年から日本レコード大賞の実行委員長を務め、1998(平成10)年から
    レコード大賞の制定委員を務めた。また、日本音楽著作権協会(JASRAC)の評議員、
    日本作曲家協会の副委員長も歴任した。1992(平成4)年)、郡山市特別表彰。
    1996(平成8)年、紫綬褒章受章。2004(平成16)年、旭日小綬章受章。
    2006(平成18)年9月26日午前5時、肝不全のため東京都渋谷区の病院で死去。享年73歳。
    2006(平成18)年9月29日午後 川崎市立かわさき北部斎苑で火葬が行われた。
    戒名は浄樂院賢優昭韻居士。
上原げんと(うえはら・げんと) : 1914(大正3)年12月28日〜1965(昭和40)年8月13日)は、
    青森県西津軽郡木造町(現青森県つがる市)出身の作曲家。本名は上原治左衛門。
    
    
    弟も同じく作曲家の上原賢六。1935(昭和10)年、20歳の上原は作曲家を志し上京、
    郷里の先輩作曲家・明本京静を訪ねるが、門前払いされ、苦闘の下積み時代がここから始まる。
    1936年からチンドン屋、サーカスでクラリネットを吹き、流しの演歌師となって仲間と二人で全国を放浪、
    ついには北海道からサハリン(樺太)まで足を伸ばす。1937年、仲間の兵役召集により、
    新たなパートナーとコンビを組むことになり、この相手が戦後まもなく、
    流行歌手として一世を風靡した岡晴夫で、上原が世に出る大きな転機となった。
    1939(昭和14)年2月、ついにチャンスが訪れる。最果ての北の国境までさすらった体験をもとに
    作曲した「旅役者の唄」が、「国境の春」と題名・歌詞を変えてキングレコードに採用され、
    岡晴夫の歌とともにデビューをはたした。そして、「上海の花売娘」に始まる一連の
    「花売娘シリーズ」がヒットし、岡晴夫の黄金期を支える人気作曲家へと駆け昇っていった。
    その後、上原は出征、マラリアで入院するなど作曲活動は中断し、
    戦後は神奈川県鶴見の米軍キャンプでギターを弾く暮らしが続くが、
    ここで、ジャズを初めとする新しい音楽潮流と出会うことになる。
    コロムビアレコードに移籍後、1947年に岡晴夫の歌で大ヒットした「東京の花売娘」は
    その当時流行り始めていたブギウギを採り入れた斬新な感覚が大衆にアピールしたのである。
    作曲家としての地位を不動のものにした上原は、美空ひばりの「港町十三番地」、
    島倉千代子の「逢いたいなああの人に」や初代コロムビア・ローズの「東京のバスガール」などに
    数多くのヒット曲を提供するが、1965年8月13日、全三千曲を遺し、
    避暑地に向かう車中で心筋梗塞のため50歳の短い生涯を閉じた。
江口夜詩(えぐち・よし) : 1903年7月1日〜1978年12月8日)は、昭和期の作曲家。本名:江口源吾、
    岐阜県上石津町(現・大垣市)出身。16歳の時、海軍軍楽隊に応募し、第一期軍楽補習生として
    横須賀海兵団に入団。海軍軍楽隊専属の作曲家としての将来を嘱望され、海軍省委託生として、
    東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に6年間通学してチェロ等の音楽を学び、
    1925(大正14)年、処女作『千代田城を仰ぎて』を完成させる。
    また1928(昭和3)年には昭和天皇即位大典演奏会で吹奏楽大序曲『挙国の歓喜』を発表した。
    1931(昭和6)年に海軍を退役し、翌年、亡妻をしのんで作曲した「忘られぬ花」が大ヒット。
    これを期にそれまでクラシック作曲家を目指していた江口は流行歌の作曲家の道を歩むことになり、
    その後「十九の春」「秋の銀座」「月月火水木金金」「長崎のザボン売り」「憧れのハワイ航路」
    「赤いランプの終列車」「瓢箪ブギ」など数々のヒット曲を生み出した。
    1939(昭和14)年に東京世田谷に、「国民音楽院」を設立し(戦後は日本歌謡学院」)、
    多くの弟子を世に送り出した。門下の歌手としては、瀬川伸、真木不二夫、小畑実、
    津村謙、春日八郎、曽根史郎等がおり、作曲としては蔵若晴生、桜田誠一がいる。
    服部良一は先輩江口夜詩の才能を最も高く評価していた一人だった。
    生涯にわたる作曲数は4000曲を超え、古賀政男とは終生ライバル関係であった。
    1963(昭和38)年、パーキンソン病に冒され、長期の闘病生活を余儀なくされたが、
    1978(昭和53)年12月8日死去。享年75。長男の江口浩司(1927年生まれ、
    2010年1月23日没)は海軍兵学校在校中に終戦を迎え、のち作曲家となった。
    
    
    参 : 江口夜詩記念館(HP)
遠藤実(えんどう・みのる) : 1932(昭和7)年7月6日〜2008(平成20)年12月6日)は、
    戦後歌謡界を代表する日本の作曲家である。
    
    
    東京府東京市向島区(現在の東京都墨田区向島)生まれ、杉並区善福寺に居住していた。
    第2次世界大戦時に両親の故郷・新潟県西蒲原郡内野町(現在の新潟市西区内野)にて
    疎開生活を送っていたが、生活は貧しかったという。
    新潟特有の門付けという演芸スタイルが、後の作曲家人生に大きな影響を与えた。
    門付けとは、越後獅子等の芸を民家の軒先で披露し、金品を貰う習慣である。
    地回りの楽団などで歌を歌っていたが、1949(昭和24)年7月24日、
    17歳の時歌い手になりたくて東京に上京する。東京では、さまざまな職を経て、
    荻窪界隈でギターを携えて流しの演歌師をしながら独学で作曲を学ぶ。歌手としての道に、
    見切りをつけて、作曲家を目指す。1952年レコード会社マーキュリーの専属作曲家となる。
    1956(昭和31)年に藤島恒夫のヒット曲『お月さん今晩わ』にて作曲家としてデビュー。
    当時の芸名は星幸男で、現在に至るまで世に送り出した楽曲は
    5000曲以上(その大部分は演歌)と言われ舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育て、
    代表作に「高校三年生」「星影のワルツ」「せんせい」「北国の春」「夢追い酒」などがある。
    1965(昭和40)年、島倉千代子らのパトロンだった中山幸市(太平住宅創業者)の出資による
    太平音響株式会社の設立に加わり専務取締役、1968年にはレーベル名のミノルフォンを
    社名にも転用し、形式上の社長に就任した。先に創業した日本クラウンに続き、
    自前のプレス工場を持たず制作とプロモーションに特化して、アーティスト主導の運営を打ち出した
    新業態レコード会社の嚆矢の一社だったが、1972年に徳間康快(徳間書店)に買収され
    徳間音楽工業と改称、さらに系列レーベルの別会社ジャパンレコードと合併して
    徳間ジャパン(現:徳間ジャパンコミュニケーションズ)に改組した。
    1988(昭和63)年、ハワイで心臓のバイパス手術を受ける。
    1990年に紫綬褒章を受章。1994(平成6)年、日本大衆音楽文化協会会長に就任。
    1994(平成6)年11月故郷新潟市越前浜に遠藤実記念館実唱館 を開館する。
    1995年、日本音楽著作権協会会長に就任。
    2002(平成14)年、勲三等旭日中綬章を受章。同年、日本作曲家協会を設立、会長に就任。
    2003(平成15)年、歌謡界から初めて文化功労として者顕彰される。
    2007年、日本音楽作家協会名誉会長に就任。
    2008(平成20)年12月6日10時54分、急性心筋梗塞のため東京都内の病院で逝去。76歳没。
    日本国政府から、数々の楽曲で大衆音楽発展に尽くした彼の功績を讃え、
    死去した12月6日付で正四位に叙され、旭日重光章を授与され、
    更に2009年に国民栄誉賞を受賞した。晩年は「再販制度廃止反対」運動を行っていた縁から、
    第3代日本共産党中央委員会議長の不破哲三と交流があった。2009年8月1日に、
    新潟県新潟市の地下街『西堀ROSA』の一角に遠藤実メモリアル・ルームが開設されている。
    参 : 財団法人・遠藤実歌謡音楽振興財団(HP)
大村能章(おおむら・のうしょう) : 1893(明治26)年12月13日〜1962(昭和37)年1月23日)は、
    山口県防府市出身の作曲家。本名は大村秀弌(ひでいち)
    防府市多々良に米穀商大村良之助、ユフの長男として生まれる。現在の多々良高等学校を卒業後、
    1909(明治42)年に横須賀海軍軍楽隊に入隊し、音楽を学んだ。
    1920(大正9)年に帰郷後、御園ツネ子と結婚し、1女を得る。
    1926(大正15)年に再上京して作曲家をめざし、1931(昭和6)年に日本歌謡学院を創設。
    1933(昭和8)年にレコード音楽芸術講義録(通信教育)を出版、後進の育成にあたる。
    1935(昭和10)年に藤田まさとの詞に曲をつけた「旅笠道中」が大ヒット。
    代表曲には、東海林太郎の「旅笠道中」「野崎小唄」「お夏清十郎」「麦と兵隊」、
    新橋喜代三の「明治一代女」、音丸の「満州想えば」「博多夜船」、
    樋口静雄の「同期の桜」(原題・戦友の唄)、小畑実の「小判鮫の歌」などがある。
    1947(昭和22)年に日本音楽著作者組合(後の日本音楽著作権協会)を設立。
    1957(昭和32)年に社会奉仕会『能章会』を設立。
    1958(昭和33)年に日本作曲家協会設立に参画。
    1962(昭和37)年1月23日、肺癌のため死去。享年69。
    生誕地である防府市佐波神社には大村能章顕彰碑が建っている。
    自身が作曲した「同期の桜」については、死ぬまで自分が作曲したとは口にしなかったという。
    中山晋平、古賀政男江口夜詩とともに歌謡界の四天王として昭和の歌謡界にその名を残した。
    約8000曲を作曲し、多くの歌手を育た。
    
    
丘灯至夫(おか・としお) : 1917(大正6)年2月8日〜2009(平成21)年11月24日は作詞家。
    本名は西山安吉。福島県田村郡小野新町(現・小野町)の西田屋旅館(現存)の六男として生まれる。
    河野一郎、丘十四夫、丘灯至夫などの数々のペンネームを持つ。
    1932年、福島県郡山市立郡山商工学校(現・福島県立郡山商高)商業科を卒業。
    1935年、18歳の頃に西條八十に弟子入り。詩、歌謡、童謡などの作詞の道に進む。
    1941年、NHK郡山放送局に入局。一時アナウンサーも務める。
    1942年、毎日新聞社(東京)に転職し地元の福島支局記者となり、1972年に定年退職した。
          その際、毎日新聞社会長より終身名誉職員の名を与えられ出版局特別嘱託となる。
    1943年、小柄で脊椎が悪くいつもギプスを着用していた灯至夫にも召集令状が下る。
          海軍に配属されたものの病気になり、海軍病院に入院し召集解除されている。
    1948年、毎日新聞東京本社出版局に転勤し、毎日グラフ記者として活躍する。
    1949年、たまたま手がけることとなった「母燈台」(三益愛子主演映画の主題歌、歌手:霧島昇)の
          作詞をきっかけに、日本コロムビア株式会社の専属作詞家となる。
    1963年、「高校三年生」他の作詞により日本レコード大賞作詞賞を受賞。
    1964年、童謡「ワン・ツー・スリー・ゴー」により日本レコード大賞童謡賞を受賞。
    1982年、地方自治功労により福島県田村郡小野町特別功労表彰を受ける。
    1988年、芸術文化功労により勲四等瑞宝章受賞。
    好々爺として知られ、その明るい人柄から作品も明るい青春歌やホームソング的なものが多い。
    代表作は岡本敦郎の「憧れの郵便馬車」「高原列車は行く」、コロムビア・ローズの「東京のバスガール」、
    島倉千代子の「襟裳岬」、スリー・グレイセスの「山のロザリア」、舟木一夫の「高校三年生」
    「木枯し紋次郎」などがある。また作品に「猫ふんじゃった」などの童謡やアニメの主題歌なども
    手がけており、「ハクション大魔王」、「みなしごハッチ」、「ガッチャマンファイター」などが知られている。
    1993年、福島県田村郡小野町に「丘灯至夫記念館」(ふるさと文化の館内)がオープンした。
    2001年に小野町名誉町民第1号となる。
    2009年11月24日、腎不全のために東京都内の病院にて永眠。92歳
    
    
    
    
倉若晴生(くらわか・はるお) : 本名は倉若貞司。1912年4月27日〜1982年11月26日は、
    昭和の初期から中期に活動した日本の作曲家。新潟県糸魚川市出身。
    東京府立化学工業学校(現:首都大学東京理工学系コースの基礎となった学校)出身。
    江口夜詩に師事し、ポリドールレコード専属作曲家となる。
    作詞家・詩人の清水みのる、歌手の田端義夫(バタヤン)とのトリオで数々のヒット曲を世に送り出した。
    主な作品は「かえり船(歌:田端義夫)」「別れ船(歌:田端義夫)」「島の舟唄(歌:田端義夫)」
    「梅と兵隊(歌:田端義夫)」 「次男坊鴉(歌:白根一男)」「旅のつばくろ(歌:小林千代子)」
    「江の島エレジー(歌:菅原都々子)などがあり、生涯に作曲した作品は千曲を超える。
     
    
古賀政男(こが・まさお) : 1904(明治37)年11月18日〜1978(昭和53)年7月25日)は、
    昭和の作曲家、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。本名、古賀正夫。福岡県生まれ。明大卒。
    少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリンやギターのクラシック音楽を研鑽し、大正琴を愛した。
    1929(昭和4)年、明治大学商学部卒業。在学中マンドリン・クラブを組織し、
    1928(昭和3)年には処女作『影を慕いて』を発表した。1931(昭和6)年より
    コロムビアなどのレコード会社の専属作曲家となり、多くのヒット曲を生む。
    それまで中山晋平(しんぺい)の独壇場であった流行歌の世界に古賀メロディーの新風を吹き込んだ。
    プレクトラム音楽家・「古賀正男」から流行歌王・「古賀政男」になり、
    国民的な作曲家としての地位を確立し、多くの流行歌をヒットさせた。
    東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)出身のクラシックの正統派・藤山一郎から、
    演歌の女王・美空ひばりまで、その作品は5000曲とも言われ、
    「古賀メロディー」と称せられる多くの流行歌を作曲した。
    主要作品は「丘を越えて」「二人は若い」「湯の町エレジー」「柔(やわら)」「悲しい酒」など多数。
    死後、国民栄誉賞が贈られ、「古賀政男記念音楽大賞」が設けられた。
         
    
    朝日新聞の「天声人語」より
    (亡くなられた当時のものと思われるが、古賀政男さんの人物像が短い文面によく表されている)
     古賀政男さんの生家は貧しかったそうだ。行商の父親が死んだあとの家庭は暗い日々だった。
    と回想記にある。明大で苦学していたころ、愛用のギターを質に入れようかと思ったことさえあった。
    ★そのとき、母親から五円八十五銭の為替が送られてきた。母と姉が懸命に働いてためた金だった。
     古賀さんは後年、「酒は涙か」のヒットで得た印税の中から、585円を郷里の母親へ送った。600円
     でもなく、500円でもなく、5円85銭のちょうど100倍の金額を送ったところがいかにも古賀さんらしい。
    ★貧しさ、苦学、母や姉への慕情、自殺未遂、不況、といった生活の中から古賀メロディーは生まれた。
     古賀メロディーといえばすぐ、すすり泣き、忍び泣き、ねむせび泣きを連想する。涙、涙、涙である。
    ★事実、古賀さん自身、熱中してくると、五線紙やギターの胴に涙をポタポタ落としながら
     作曲を続けたという話をきいた。不況風の吹き抜ける中で「影を慕いて」のうたごえがひろがり、
     「誰か故郷を想わざる」が大戦中の兵士たちに愛唱された秘密はここにある。
    ★代表作の「湯の町エレジー」「悲しい酒」などの慕情の歌はすべて、涙ポタポタの中で生まれたのだろう。
     それは、不遇、逆境の身をなぐさめるため、「おもかげ」にすがりつこうとする庶民の歌である。
    ★むろん暗い歌ばかりではなく、「丘を越えて」「東京ラプソディー」などの、「あこがれ」を基調にした
     軽快な歌も多かった。「おもかげ」と「あこがれ」は、古賀メロディーの主柱だったように思う。
    ★「私は音楽の専門的な教育を受けなかった。私は、この世の中から歌の心を学んだ」と書いているが、
     独学だったからこそ、旧来の殻を破って、人々との心をじかにつかむ曲を作り得たのかもしれない。
     一部の知識人には古賀調をいやしむ風潮があったが、曲は生き続けた。
     若者の間でいまも、酔えば「人生の並木路」や「影を慕いて」が飛び出すという。
    ★古賀さんの生涯の作曲数は3500とも4000ともいわれている。
   参 : 古賀政男音楽博物館(HP)、古賀政男記念館・生家(HP)、[YouTube](あの人に会いたい)、
       [YouTube](人生劇場)、[YouTube](サーカスの唄)
古関祐而(こせき・ゆうじ) : 1909(明治42)年8月11日に福島県福島市に生まれ、
    1989(平成元)年8月18日に80歳でその生涯を閉じるまで、「愛国の花」「暁に祈る」
    「あこがれの郵便馬車」「雨のオランダ坂」「イヨマンテの夜」「海の進軍」「栄冠は君に輝く」
    「君いとしき人よ」「君の名は」「恋を呼ぶ歌」「高原列車は行く」「さくらんぼ大将」
    「白いランプの灯る道」「船頭可愛や」「とんがり帽子(鐘の鳴る丘)」「月の国境」「長崎の雨」
    「長崎の鐘」「ニコライの鐘」「白鳥の歌」「ひめゆりの塔」「福島夜曲」「フランチェスカの鐘」
    「守れ台湾」「三日月娘」「みどりの雨」「夢淡き東京」「ラバウル航空隊」「露営の歌」
    「若鷲の歌」などの歌謡曲、戦時歌謡のほか、東京オリンピックの行進曲、
    甲子園の全国高校野球大会の曲、阪神タイガースの応援歌六甲おろし、
    巨人軍応援歌の闘魂こめて、早稲田大学の応援歌、慶応大学の応援歌、筑波学園の歌等々、
    スポーツのテーマ曲、マーチ、歌曲、放送・舞台・映画の挿入歌など他に類を見ない
    広いジャンルの作曲活動をし、5000曲もの作品を残した正に昭和を代表する作曲家で、
    古賀政男服部良一と並ぶ昭和の大衆音楽三大作曲家と言われる。
    
    
    参 : 福島市古関裕而記念館(HP)、
        [YouTube](追憶の古関祐而メロディー1/4)、[YouTube](とんがり帽子)、
        [YouTube](追憶の古関祐而メロディー2/4)、[YouTube](高原列車は行く)、
        [YouTube](追憶の古関祐而メロディー3/4)、[YouTube]、
        [YouTube](追憶の古関祐而メロディー4/4)、[YouTube](古関裕而作品集)
西条八十(さいじょう・やそ) : 1892(明治25)年1月15日〜1970(昭和45)年8月12日)は、
    詩人、作詞家、仏文学者。東京牛込に生まれた。家は江戸時代からの質屋で、
    父・重兵衛の代で石鹸製造業にかわり、外国産の輸入石鹸の販売も行なった。
    私立早稲田中学校の時に、英国婦人に英語を習い、1909(明治42)年の18歳の時に
    早稲田大学英文科予科に入学したが、すでに英訳をしていた八十には授業内容が不満だったらしく、
    退学した。フランス語などを独学し、2年後に再入学し、1915(大正4)に早大を卒業した。
    1918(大正7)年、『赤い鳥』創刊とともに、鈴木三重吉の依頼で童謡創作をはじめ、
    1924(大正13)年から2年間ソルボンヌ大学で学び、バレリーたちとも交遊した。
    帰国後、早大仏文科助教授、1931(昭和6)年には教授となり、終戦まで務めた。
    八十は童謡を書きながら、流行歌へと進み、代表的なものに「蘇州夜曲」
    「東京音頭」「ゲイシャ・ワルツ」「青い山脈」「誰か故郷を想わざる」「東京行進曲」などがある。
    1961(昭和36)年芸術院会員。昭和45年8月12日没。享年78歳。親戚に外交官の石井菊次郎、
    久保田貫一郎がいる。長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)は詩人。
    
    
    参 : [YouTube](おもしろ半分36西条八十)
佐伯孝夫(さえき・たかお) : 1902(明治35)年11月22日〜1981(昭和56)年3月18日)は、
    東京都出身の作詞家で、本名は和泉孝夫。早稲田大学仏文科卒業。
    在学中西條八十(やそ)に師事し、その主宰する雑誌『白孔雀』『愛誦』に詩を発表していた。
    
    
    1931(昭和6)年に国民新聞社(現在の東京新聞社)をつとめるかたわら作詞,し、
    1932(昭和7)年にビクターレコードの専属作詞家となる。
    1937年には東京日日新聞(現在の毎日新聞社)へと移る。
    戦前は、佐々木俊一と組み、多くを灰田勝彦の「野球小僧」「新雪」「燦めく星座」や
    小畑実に「湯島の白梅」「勘太郎月夜唄」「高原の駅よさようなら」などの作品を提供した。
    戦後は、服部良一との「銀座カンカン娘」などのほか、吉田正とコンビを組み、
    三浦洸一の「東京の人」「街燈」「弁天小僧」「ああダムの町」、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」
    「東京ナイトクラブ」「東京午前三時」「西銀座駅前」その他多数、松尾和子の「東京ナイトクラブ」「再会」、
    橋幸夫の「潮来笠」「おけさ唄えば」「磯ぶし源太」「沓掛時次郎」「江梨子」「いつでも夢を」「恋をするなら」
    「若いやつ」「.南海の美少年」「恋のメキシカン・ロック」、吉永小百合の「寒い朝」「いつでも夢を」
    「勇気あるもの」その他、久保浩の「霧の中の少女」、田辺靖夫の「二人の星をさがそうよ」などの
    多くの作品を生みだした。「ちいさい秋みつけた」など作詞のサトウハチローとの交流も深かった。
    1962(昭和37)年に「いつでも夢を」でレコード大賞受賞。
    1981年3月18日、食道癌のため死去。享年80(78歳没)。
    参 : [YouTube](おもしろ半分31佐伯孝夫1)、[YouTube](おもしろ半分32佐伯孝夫2)、
        [YouTube](おもしろ半分33佐伯孝夫3)、[YouTube](おもしろ半分34佐伯孝夫4)
作詞・作曲家ランキング(さくし・さっきょくかランキング) : 須佐卓郎先生のホームページ
    「懐かしい唄(カラオケ)」より、曲数の多い作詞・作曲家・歌手を拾って表にまとめてみました。
    多くの人に聞いてみると、作曲家は知っていても作詞家はほとんど知らない人が多いようです。
    ランキングに入る現在の作詞・作曲家のヒット曲も多くありますが、
    あくまでも須佐先生のナツメロ中心のデータから抽出したもので、ご理解願います。
    参 : 日本の作詞家目次作詞・作曲家別インデックス(日本の民謡・童謡・唱歌)
        日本作詞作曲家協会(J−scat、HP)は閉鎖中
作詞・作曲家ランキング   

作詞家
(出身地・
享年)
懐か
しい
歌作
詞数
生涯・
現在迄
作詞数
作曲家
(出身地・
享年)
懐か
しい
歌作
曲数
生涯・
現在迄
作曲数;
;歌手
(出身地・
享年)
懐か
しい
歌歌
唱数
生涯・
現在
歌唱数
西条 八十
(東京都・78)
67
15000
古賀 政男
(福岡県・74)
66 3500
以上
三橋 美智也
(北海道・65)
42
佐伯 孝夫
(東京都・79)
56
2400
吉田 正
(茨城県・77)
51 2400
以上
美空 ひばり
(横浜市・53)
38 2017
高橋 掬太郎
(北海道・68)
34 遠藤 実
(新潟県・76)
39 3000
以上
春日 八郎
(福島県・67)
32
石本 美由紀
(広島県・85)
33 3500
以上
市川 昭介
(福島県・73)
38 5000
以上
藤山 一郎
(東京都・83)
26
星野 哲郎
(山口県・85)
33 4000
以上
船村 徹
(栃木県・)
36 約4500 霧島 昇
(福島県・70)
23
矢野 亮
(茨城県・76)
30 古関 裕而
(福島県・80)
26 5000
以上
都 はるみ
(京都・)
21
藤浦 洸
(長崎県・81)
24 服部 良一
(大阪府・85)
26 3000
以上
田端 義夫
(三重県・)
19
横井 弘
(東京都・)
21 上原 げんと
(青森県・50)
22 4000
以上
石原 裕次郎
(兵庫県・53)
19
西沢 爽
(東京都・81)
19
2000
佐々木 俊一
(福島県・50)
21 フランク 永井
(宮城県・76)
18
10 吉岡 治
(山口県・76)
19 800
以上
吉田矢 健治
(山口県・75)
21 1000
以上
伊藤 久男
(福島県・73)
17
11 佐藤 惣之助
(神奈川・51)
19 500
以上
万城目 正
(北海道・63)
20 島倉 千代子
(東京都・)
17
12 吉川 静夫
(北海道・93)
18 渡久地 政信
(沖縄県・81)
17 4000
以上
北島 三郎
(北海道・)
16
13 野村 俊夫
(福島県・62)
18 江口 夜詩
(岐阜県・75)
13 4000
以上
東海林 太郎
(秋田県・74)
15
14 藤田 まさと
(静岡県・75)
16 約600 米山 正夫
(東京都・72)
13 渡辺 はま子
(神奈川・89)
15
15 宮川 哲夫
(東京都・52)
15 約850 桜田 誠一
(青森県・)
12 岡 晴夫
(千葉県・54)
14
16 清水 みのる
(静岡県・76)
14 長津 義司
(静岡県・82)
12 橋 幸夫
(東京都・)
13
17 関沢 新一
(京都府・72)
14 中野 忠晴
(愛媛県・60)
11 村田 英雄
(佐賀県・73)
12
18 なかにし 礼
(旧満州・)
13 倉若 晴生
(新潟県・70)
11 1000
以上
灰田 勝彦
(ハワイ・71)
12
19 東条 寿三郎
(福島県・82)
13 林 伊佐緒
(山口県・83)
10 二葉 あき子
(広島県・)
12
20 丘 灯至夫
(福島県・92)
12 大村 能章
(山口県・69)
10 小畑 実
(北朝鮮・56)
11
21 藤間 哲郎
(東京都・)
11 5000
以上
竹岡 信幸
(横浜市・78)
10 五木 ひろし
(福井県・)
10
22 阿久 悠
(兵庫県・70)
11 5000
以上
利根 一郎
(群馬県・73)
10 1200
以上
近江 俊郎
(東京都・74)
23 サトウ・ハチロウ
(東京都・70)
11   弦 哲也
(千葉県・)
10  2000
以上
ディック・ミネ
(徳島県・83)
 
24 大高 ひさお
(北海道・74)
 10   飯田 三郎
(北海道・91)
  舟木 一夫
(愛知県・)
 
25  島田 磐也
(熊本県・69)
 10   八洲 秀章
(北海道・70)
3000
以上 
森 進一
(鹿児島県・)
 
26  たか たかし
(新潟県・)
 10   猪俣 公章
(福島県・55)
  上原 敏
(秋田県・36)
 
27 水木 かおる
(東京都・71)
 8   岡 千秋
(岡山県・)
   岡本 敦郎
(北海道・)
 8  
28 高野 公男
(茨城県・26)
 8   細川 潤一
(福岡県・78) 
 8   竹山 逸郎
(静岡県・66)
 8  
29 菊田 一夫
(横浜市・66) 
 7   三木 たかし
(東京都・64)
 8   高峰 三枝子
(東京都・72)
 8  
30 山口 洋子
(名古屋市・)
 7   浜口 庫之助
(神戸市・73)
  青木 光一
(佐賀県・)
 
  山上 路夫
(東京都・)
 6   大久保 徳二郎
(東京都・66) 
 7   千 昌夫
(岩手県・)
 7  
  浜口 庫之助
(兵庫県・73)
 5   佐伯 としを
(?・57)
 7   津村 謙
(富山県・38)
 
   荒川 利夫
(?・)
 5   清水 保雄
(東京都・69)
  若原 一郎
(神奈川・59)
 7  
同一数でも横の関連から順位は変更していません。
 なお、曲の拾い出しや集計は大阪のK.Kさんの提供で、一部分担して表にしました。
桜田誠一(さくらだ・せいいち) : 1935(昭和10)年10月23日生れ。
    青森県平川市(旧尾上町)出身の作曲家である。
    日本作曲家協会会員、日本レコード大賞制定委員会委員でもある。
    1986(昭和61)年第28回日本レコード大賞最優秀歌唱賞に、
    北島三郎の「北の漁場」が受賞(作詞:新條カオル、編曲:斎藤恒夫)。
    1987(昭和62)年第29回日本レコード大賞最優秀歌唱賞に、
    大月みやこの「女の駅」が受賞(作詞:石本美由起、編曲:丸山雅仁)。
    主要作品は、北島三郎の「北の漁場」、大月みやこの「女の駅」「夕陽の波止場」「なさけ船」
    「女の舞」「冬の駅」「夜の雪」「心の駅」「乱れ雪」「儚な川、天童よしみの「あばれ玄海」、
    千昌夫の「望郷酒場」、村上幸子の「不如帰(ほととぎす)」「放浪記」、
    芦屋雁之助の「コップ酒」、原田悠里の「俺の咲いた花」「愛の河」「母鏡」、
    五木ひろしの「雨あがり」、佐々木新一の「あの娘たずねて」「りんごの花が咲いていた」、
    細川たかしの「北の男歌」、大黒裕貴の「ほっといてんか」「越冬平野」、
    大津美子の「銀座の蝶」、仲宗根美樹の「川は流れる」、真木由布子の「雪の華」など。
    
    
佐々木俊一(ささき・しゅんいち) : 1907(明治40)年9月27日〜1957(昭和32)年1月27日)は、
    福島浪江町出身の作曲家。本名は駿一。東洋音楽学校(現 東京音楽大学)でチェロを学ぶが中退。
    同期生に万城目正がいた。卒業後は万城目と共に浅草の映画館のオーケストラ・ボックスで働く。
    その後、レコードに興味を持ってからは、作曲家を目指す。レコード会社に就職するためにドラムを稽古し、
    日本ビクターにドラマーとして入社。バンドの仕事の合間に作曲をしていた。
    そして1932(昭和7)年、作曲家第1作となった「涙の渡り鳥」が大ヒットした。
    同年、小唄勝太郎が歌った「島の娘」が大ヒットし、うぐいす芸者黄金時代を築くきっかけになった等、
    たちまち佐々木はビクターのヒット・メーカーとなった。「島の娘」も続いた。
    以後、ビクターレコードの専属となり、作詞家・佐伯孝夫とタッグを組み、「僕の青春」、「無情の夢」、
    「燦(きら)めく星座」、「新雪」、「明日はお立ちか」、「月よりの使者」、「桑港のチャイナタウン」、
    「アルプスの牧場」、「高原の駅よ、さようなら」、「野球小僧」が戦前・戦後を通して、相次いでヒットする。
    昭和32年1月27日49歳の若さで死去した。酒と女をこよなく愛し、豪快に生きた生涯だった。
    1963(昭和38)年にその功績をたたえ、浪江町大堀に地元有志によって高瀬川渓谷、
    小丸・一の宮の景勝地に「高原の駅よ、さようなら」の譜碑(ふひ)が建立された。
    
    
佐藤惣之助(さとう・そうのすけ) : 1890(明治23)年12月3日〜1942(昭和17)年5月15日は、
    日本の詩人、作詞家。神奈川県川崎市出身。佐藤慶次郎・うめ夫妻の二男として出生。
    佐藤家は川崎宿(現川崎市)の本陣を預かる家柄であった。暁星中学附属仏語専修科に学ぶ。
    佐藤紅緑(こうろく)に師事し俳句を学ぶ。千家元麿(せんげ・もとまろ)らとまじわり、
    1916(大正5)年に最初の詩集である『正義の兜(かぶと)』を出版。
    翌年には、第2詩集である『狂へる歌』を出版。1933(昭和8)年1月、妻の花枝が死去。
    同年、作家萩原朔太郎の妹、萩原愛子(萩原アイ)と再婚。
    作曲家・古賀政男と組み多くの楽曲を世に送り出す。1938(昭和13)年には、久米正雄、林房雄、
    川口松太郎らと中国へ従軍記者として赴く。魚釣りを愛し、旅行を好み、随筆や詩作に反映させている。
    晩年には民謡や歌謡の作詞に手を染め、「赤城の子守唄(あかぎのこもりうた)」「人生劇場」
    「湖畔の宿」などのほか、初代「巨人軍の歌」や、阪神タイガースの歌「六甲颪」の
    作詞者としてよく知られている。義兄朔太郎が死亡した4日後、脳溢血で急逝。享年51(53歳)。
    なお、川崎信用金庫本店の所在地が佐藤惣之助の生家跡であり、
    同店敷地内に「佐藤惣之助生誕の地碑」が建てられている。
    
    佐藤惣之助
    
    榛名湖にある「湖畔の宿」の歌碑
清水みのる(しみず・みのる) : 1903(明治36)年9月11日〜1979(昭和54)年12月10日は、
    静岡県浜名郡伊佐見村(現・浜松市西区伊左地町)生まれの作詞家。本名は「清水實」。
    旧制浜松中学(現・浜松北高校)、立教大学英文科卒。少年期は水泳に熱中。
    詩人・佐藤惣之助に師事した後にポリドール社員として作詞家の道を歩む。
    昭和初期〜中期に活躍し、特に作曲家の倉若晴生、歌手の田端義夫(バタヤン)とのトリオで、
    「島の船唄」「別れ船」「かえり船」「かよい船」ほか、「森の水車」「星の流れに」「ふるさとの燈台」
    「月がとっても青いから」「雪の渡り鳥」等の数々のヒット曲を世に送り出した。
    母校・立教大学の第三応援歌「若き眉」の作詞も手がけている。
    1939(昭和14)年、出征し陸軍に入隊。母校の浜松市立伊佐見小学校には功績を記念した
    「清水みのるの部屋」が、浜松市西区伊左地町には「森の水車(作詞清水みのる/作曲米山正夫)」を
    記念した森の水車公園がある。
    
    
関沢新一(せきざわ・しんいち) : 1920(大正9)年6月2日〜1992(平成4)年11月19日)は、
    京都府出身の脚本家、作詞家、映画監督、写真家で、蒸気機関車(SL)ファンとしても知られ、
    「滅びゆく蒸気機関車−写真集」(1968年)、「汽車−写真集」(1974年)などの著書がある。
    脚本家として東宝の娯楽映画を多数執筆。『モスラ』『キングコング対ゴジラ』などの特撮もの、
    『暗黒街の対決』『独立愚連隊西へ』『国際秘密警察 火薬の樽』などのアクションもので、
    軽快なテンポと洒落たセリフ回しを活かした作品を世に出した。
    作詞家としても著名であり、第7回日本レコード大賞(昭和40年)を受賞した美空ひばりの「柔」、
    ミリオンセラーを記録した都はるみの「涙の連絡船」など、今なお語り継がれているものも多い。
    1990(平成2)年、紫綬褒章受章。
    
    
高橋掬太郎(たかはし・きくたろう) : 1901(明治34)年4月25日〜1970(昭和45)年4月9日は、
    北海道根室市出身の作詞家。北海道の国後島で漁師の息子として生を受けるが、
    父親は岩手県出身の漁師だったので、本籍地は岩手県沼宮内である。
    
    
    19歳のとき父を失い、根室新聞社を振り出しに新聞記者生活に入り、1922(大正11)年、
    函館日日新聞に入社し、社会部長兼学芸部長として活躍するかたわら、詩や小説、脚本などを手がけた。
    1931(昭和6)年に自身が投稿した、「酒は涙か溜息か」がヒットして作詞家デビューした。
    その後も、数多くの曲を手がけた。1934(昭和9)年コロムビアレコード専属となり、
    「並木の雨」などで流行作詞家となった。函館時代から若手作詞家、作曲家の育成にも力を注ぎ、
    1941(昭和16)年には、方(さんずい)々詩舎を設立して約2000人の門下生を育て、
    多くの作家を輩出した。1968(昭和43)年、紫綬褒章受章。
    戦後はキングレコードにうつり,「啼くな小鳩よ」「ここに幸あり」などを作詞した。
    主な著書には、「流行歌三代物語」、「日本民謡の旅」がある。
    1970(昭和45)年4月9日死去。享年68歳。函館市には、高橋掬太郎碑がある。
東条寿三郎(とうじょう・じゅざぶろう) : 1920(大正9)年12月1日〜2003(平成15)年11月26日は
    福島県出身の作詞家。本名は寿三郎(としさぶろう)。法政大学卒業。
    キングレコード専属作詞家になり、代表作は、津村謙の歌唱で1951(昭和26)年に発表した
    「上海帰りのリル」で、「リル リル…誰かリルを知らないか」のフレーズが大流行した。
    作曲家吉田矢健治と組み、数々の名作を遺した。主な作品は他に春日八郎の「雨降る街角」、
    若原一郎の「吹けば飛ぶよな」、三橋美智也の「おさげと花と地蔵さんと」「星屑の町」、
    三船浩の「さようなら故郷さん」「東京だより」などがある。
    2003年11月26日午前2時55分、老衰のため死去。享年82歳。
    
    
渡久地政信(とくち・まさのぶ) : 1916(大正5)年10月26日〜1998(平成10)年9月13日は、作曲家。
    沖縄・恩納村に生まれ、少年期を奄美大島で過ごす。日本大学芸術科卒業後、1943(昭和18)年)、
    日本ビクターレコードより貴島正一の名で歌手デビューしたが断念し、1951(昭和26)年)より
    キングレコード専属の作曲家に転身(後に古巣のビクターに移籍)。以後、「上海帰りのリル」、
    「お富さん」、「島のブルース」、「東京アンナ」、「踊子」、「夜霧に消えたチャコ」、「長崎ブルース」など
    数多くのヒット曲を手掛ける。特に「島のブルース」は、同郷の友人を悼み、作ったと言われている。
    中山晋平メロディーが日本民謡、古賀政男メロディーが朝鮮民謡、
    服部良一メロディーがジャズを基調としているのに対し、
    渡久地メロディーは生まれ育った沖縄・奄美民謡をベースにしているといわれる。
    日本作曲家協会常務理事。1998年9月13日、肺炎のため死去。享年81歳。
    
    
長津義司(ながつ・よしじ) : 1904(明治37)年3月24日〜1986(昭和61)年1月10日は、
    静岡県熱海出身の作曲家。法政大学を卒業後、保険会社に勤めた後、1936(昭和11)年に
    作曲家に転身し、ポリドール専属となる。1939(昭和14)年11月発売の田端義夫の
    「大利根月夜」が大ヒットし、これが出世作となる。1941(昭和16)年にテイチクへ移籍し、
    小笠原美都子の「十三夜」がヒット後、淡谷のり子の「君忘れじのブルース」、
    田端義夫の「ふるさとの燈台」「玄海ブルース」「玄界エレジー」、菅原都々子の「連絡船の歌」
    (実際は作曲でなく韓国の歌を編曲)、これも編曲を担当した「月がとっても青いから」、
    三波春夫の「チャンチキおけさ」「大利根無情」最後の紅白で歌った曲の「元禄名槍譜 俵星玄蕃」などの
    作品を次々とヒットさせた。「チャンチキおけさ」では『お客様は神様です』というフレーズが生まれた。
    数多くの映画の挿入歌も手がけている。静岡県から上京した後の拠点は東京都中野区。
    昭和53年〜昭和56年の間、日本作曲家協会の理事長でもあった。
    1972(昭和47)年紫綬褒章を受章。音楽生活50年 勲四等旭日章受章。
    1986(昭和61)年1月10日死去、享年81。
    
    
なかにし礼(なかにし・れい ) : 本名は中西禮三(なかにし・れいぞう)。1938(昭和13)年9月2日生まれ。
    旧満洲国(現在の中国・牡丹江市)生れの作詞家、作家、小説家、舞台演出家、プロデューサー。
    小樽市に在住した両親が渡満し酒造業で成功。終戦後、すぐに両親の出身地である
    北海道に戻るために満州引き上げの時に一家が何度も命が奪われる危険な目に遭った。
    この体験は以後の作風に大きな影響を与えた。なかにし8歳の時、小樽に戻るが、
    兄の事業の失敗などで小学校は東京と青森で育ち、中学から東京品川区大井町に落ち着く。
    東京都立九段高等学校、立教大学文学部仏文科卒。その後、神奈川県逗子市に在住。
    実兄は立大から海軍に志願し、特攻隊に配属されたが終戦となった。
    シャンソンの訳詞を手がけ、1967(昭和42)年「霧のかなたに」のヒットで注目された。
    最初の結婚の時に立ち寄った静岡県下田市のホテルで映画を撮影中の俳優・石原裕次郎に出会い、
    石原から「歌謡曲の詩を書きなさい」と言われ作詞家に転向をする。    
    作詞家活動として約300曲の作詞を手懸け様々なアーティストに提供し、
    その内「知りたくないの」「石狩挽歌」「心のこり」「北酒場」「恋のフーガ」など約30曲が大ヒットとなった、
    歌謡界のヒットメーカーである。またオペラの台本・演出をこころみ、
    同時に、作家活動も精力的に行っており、1998(平成10)年自伝的小説『兄弟』が話題をよび、
    2000(平成12)年に『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞した。
    吉永小百合主演で映画化、市原悦子主演でドラマ化もされた。他にも、『てるてる坊主の照子さん』は
    NHKの連続テレビ小説としてドラマ化されるなど、作家としての活動がますます盛んになる。
    一方で、女優・松坂慶子の写真集『さくら伝説』をプロデュースするなど、意外な活躍も見せている。
    自身の満州からの引き揚げ体験を描いた作品『赤い月』が降旗康男監督、常盤貴子主演で映画化され、
    2004年2月から上映された。日本レコード大賞作詩賞受賞など、数々の受賞歴を誇る。
    
    
    参 : なかにし礼・オフィシャルサイト
中野忠晴(なかの・ただはる) : 1909(明治42)年5月27日〜1970(昭和45)年2月19日は、
    愛媛県出身の歌手・作曲家。服部良一、ディック・ミネとともに、
    アメリカのポピュラーソングを戦前期の日本に広め和製ポップスの基礎を築く。
    実父がキリスト教会の牧師(オルガン演奏家)だった影響もあり、地元キリスト教会の賛美歌合唱隊に
    所属していた。武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)在学中にニッポンレコードでレコードの吹き込みの
    アルバイトをしていたことと、1932年春の音楽学校声楽科の新卒業生を集めて行われた
    新人音楽会で、クルト・ワイルの三文オペラ中の歌、「マック・ザ・ナイフ」を歌って脚光を浴びたことが
    きっかけで、作曲家・山田耕筰に見出され、日本コロムビアに入社する。コロムビアに入社した当初は、
    日本ビクターレコード(現・ビクターエンタテインメント)所属の徳山lのライバルとして歌手デビュー。
    当初は初期の古賀政男の作品など流行歌的なものを相当数吹き込むが、
    アメリカのジャズコーラスユニット「ミルスブラザーズ」の影響を受け、
     コロムビア(ナカノ)リズムボーイズという中野が培ったジャズ・コーラス・グループを結成。
    1934(昭和9)年、彼らをバックに歌った「山の人気者」が大ヒットし、
    ジャズコーラスのジャンルを日本に植えつかせた。その後、「バンジョーで唄えば」
    「チャイナ・タンゴ」(いずれも服部良一作曲)「ダイナ」「小さな喫茶店」「バンジョーで唄えば」、
    ロサンゼルスオリンピック日本選手団応援歌の「走れ大地を」などをヒットさせ、
    ディック・ミネと共に1930年代の和製ジャズ界をリードした。
    また、六甲颪の愛称で知られる大阪(阪神)タイガースの歌を初めて吹き込んだのも中野であった。
    1936年に服部良一がコロムビアに入社後は、リズム・ボーイズ&シスターズの育成に力を入れ
    ジャズコーラスの先駆にひと役買っている。中野には編曲の才能がなかったが、
    服部のほか仁木他喜雄や角田孝、奥山貞吉らにアレンジを依頼し、
    自ら見つけてきたジャズ曲のレコーディングに力を注いできた。
    「タイガーラッグ」「支那ルムバ」「夕陽山に沈めば」などの外国曲の他に「かっぽれ」や
    「お江戸日本橋」などをアレンジしたレコードもこの当時の中野の代表作といえる。
    戦争の激化とともにジャズが制限され1941(昭和16)年ごろにはリズムボーイズが解散。
    以後はプロデューサーとして活躍し、音楽活動は芳しくなく慰問活動で唄うぐらいであった。
    戦時中は高知の土佐(中部第八十四部隊)に召集された。幸いにも無事帰還する。
    戦後は自身が喉を傷めたこともありステージから身を引き、1951年にキングレコードに移籍後は
    作曲活動を中心にして当時の人気歌手である江利チエミ、松島詩子、若原一郎、三橋美智也、
    春日八郎らに楽曲を提供し続けた。作品としては三橋美智也が歌った「達者でナ」「赤い夕陽の故郷」。
    若原一郎の「おーい中村君」。松島詩子「喫茶店の片隅で」などの作品をヒットさせた。
    その後も舞台に復帰することなく1970年2月肺癌のため60歳で永眠する。
    なお、戦前期には1933年暮れ頃のタイヘイレコードでのアルバイト吹込みで「牧忠夫」、
    「水田潔」という別の芸名、コロムビアでも作曲や作詞活動で「柏木晴夫」、
    「野瀬宇多男」という芸名を用いて活動していたこともある。また「ヤング中野」という名前での
    レコーディングはあるが数曲にとどまっている。自ら歌謡曲歌手の養成学校を設立していることを
    考えると、戦後はもっぱら流行歌の分野に専念してしまったといえよう。しかし、
    1930年代の日本の音楽界に新風を吹き込んだジャズソングブームにおける中野忠晴の功績は大きい。
    
    
    参 : [YouTube](小さな喫茶店)
西沢爽(にしざわ・そう) : 1919(大正8)年1月9日〜2000(平成12)年7月19日は、
    東京出身の作詞家、歌謡史研究家。本名は、西澤義久(にしざわ・よしひさ)
    旧制豊山中学(現・日大豊山高校)卒。第2次世界大戦中は、飛行機部品生産工場に勤務し、
    戦後は通産省の外郭団体の常務理事を務める。作詩家になったのは、
    NHKラジオ歌謡の歌詩募集に応じた1948(昭和23)年の「たそがれの夢」がきっかけだった。
    1954(昭和29)年)から日本コロムビアの専属となり、コロムビアの一流作曲家達(船村徹
    遠藤実米山正夫市川昭介など)とコンビを組んで、島倉千代子の「恋しているんだもん」
    「からたち日記」「哀愁のからまつ林」[星空に両手を」、美空ひばりの「波止場だよお父つぁん」
    「ひばりの佐渡情話」、千代田照子・井上ひろしの「東京ワルツ」、
    小林旭の「さすらい」「ギターを持った渡り鳥」「アキラのダンチョネ節」、舟木一夫の「学園広場」
    「仲間たち」「ああ青春の胸の血は」「右衛門七討入り」「あありんどうの花咲けど」、
    美川憲一の「みれん町」「おんなの朝」、加賀城みゆきの「おさらば故郷さん」、
    梶光夫の「青春の城下町」など数々のヒット曲を世に送り、戦後の大衆音楽に多大な影響を与えた。
    1959(昭和34)年に日本作詞家協会会長。「日本近代歌謡史」(平成3年毎日出版文化賞)など
    歌謡史研究でも知られる。1974(昭和49)年)休筆を宣言し、作詞活動の第一線から身を引く。
    その後、中世以降の歌謡曲研究に専念し、「日本近代歌謡史」、「雑学歌謡昭和史」などを著した。
    「日本近代歌謡史」で文学博士号(國學院大學)取得。日本音楽著作権協会理事などを務めたほか、
    1982(昭和57)年に紫綬褒章、1994(平成6)年勲四等旭日小綬章を受章した。
    作詩のほか、晩年は陶芸作家として、板谷波山門下で修行し、赤と青の色にほかの人には
    出せない色を出し、自ら自宅に作った窯で焼いた作品が多数ある、好きでよく焼いた清酒用の徳利は
    1本40万の値が付いていたという。書をよくし、師事した書家の渡辺松湖からは、
    「平凡で非凡」という境地に達しているという書状も受け取っている。
    加えて刀剣鑑定にも、一流の目をもち、まさに行くところ可ならざるはなしといった境地だった。
     また若い頃から約40年かけて集めた資料をもとに、明治、大正期の歌謡を実証的に研究した、
    原稿用紙にして約1万枚の「日本近代歌謡史」を書き上げ、これによって文学博士号を獲得する。
    翌年、全3巻を上梓し・これまでの演歌が自由民権運動も活動と関連づけで語られてきたのに対して、
    もとは江戸庶民の歌からだったとするこの著作は、第45回の毎日出版文賞の特別賞を授与されている。
    また、エロティック方面の雑学者としても知られ、著書に「雑学猥学」「雑学艶学」
    「雑学女学」「はやり唄の女たち」「雑学歌謡昭和史」「明治珍聞録」等がある。
    2000年7月19日、敗血症のため東京都内の病院で死去。81歳だった。
    
    西沢爽
野村俊夫(のむら・としお) : 1904(明治37)年11月21日〜1966(昭和41)年10月27日は、
    福島県福島市大町出身の作詞家(詩人)。本名は鈴木喜八(きはち)
    福近所には作曲家の古関裕而が住んでおり、子供の頃はともに遊んだ仲だった。
    福島商業中退。1924(昭和13)年、20歳の時に福島民友新聞社に記者として入社し、
    編集部・報道部・文芸欄を担当する一方で「北方詩人」などに詩を発表。
    1931(昭和6)年に福島民友新聞社を退社し、すでにコロムビア専属作曲家として上京していた
    古関裕而のすすめで上京する。同年に古関裕而と組んだ初のレコード「福島行進曲」が発売されている。
    この頃からフリーの作詞家として本格的に活動を開始する。
    1939(昭和14)年、藤山一郎コロムビア復帰第1作目であった「上海夜曲」のヒットにより、
    コロムビア専属作詞家となり、「暁に祈る」「湯の町エレジー」など2000曲にのぼる作品をつくった。
    1951年頃からは日本音楽著作権協会の理事も務めていた。また、たいへんな酒豪だったという。
    1966年10月27日61歳で死去。
    
    左端が野村俊夫                    右端が野村俊夫
服部良一(はっとり・りょういち) : 1907年10月1日〜1993年1月30日は、
    作曲家、編曲家、作詞家(「村雨まさを」名義で作品を出している)。
    大阪府大阪市平野区の土人形師の家に生まれる。
    
    
    ジャズで音楽感性を磨いた、和製ポップス史における重要な音楽家の一人である。
    大阪実践商業を卒業。在学中に大阪ミナミのうなぎ屋の出雲(いずも)屋少年音楽隊に入る。
    音楽隊を辞めた後にジャズピアニストとしてバーで演奏をしていたが、
    後に大阪に在住していたウクライナ人の音楽家に才能を見出され、作曲、作詞、編曲を学ぶ。
    1926(大正15)年に大阪放送のフィルハーモニックオーケストラに入団し、
    指揮者エマヌエル・メッテルから作曲理論と指揮法を学ぶ。また、カフェやダンスホールでバンドマンとして
    ジャズを演奏。1933(昭和8)年に東京に出て、1936年に日本コロムビアに専属作曲家として入社。
    淡谷のり子の吹き込んだ「別れのブルース」「雨のブルース」が大ヒット、
    続いて「湖畔の宿」「蘇州夜曲」もヒットした。反骨精神から軍歌をつくらず、「夜のプラットホーム」は
    退廃的と発売禁止になった。第2次世界大戦後には、敗戦のどん底に陥っていた日本に、
    ジャズのフィーリングを生かした曲を次々とヒットを出す。これが、日本での和製ポップの礎となる。
    笠置(かさぎ)シヅ子の「東京ブギウギ」「買物ブギウギ」、さらに「銀座カンカン娘」「青い山脈」
    「別れのブルース」「山寺の和尚さん」とヒットを連発した。作曲数は3000曲を超える。
    日本作曲家協会長、日本音楽著作権協会長を歴任。
    著書に『ぼくの音楽人生』。平成5年1月30日に呼吸不全により死去。享年85歳。
    死後の1993(平成5)年に国民栄誉賞を受賞した。
    家族は、長男に作曲家・服部克久、孫に作曲家・服部隆之がいる。
    参 : [YouTube](おもしろ半分18服部良一1)、[YouTube](おもしろ半分21服部良一2)、
        [YouTube](おもしろ半分24服部良一3)、[YouTube](おもしろ半分25服部良一4)、
        [YouTube](おもしろ半分26服部良一5)
林伊佐緒(はやし・いさお) : 1912(明治45)年5月11日〜1995(平成7)年9月29日)は、
    山口県下関市生まれのの歌手、作曲家。1931(昭和6)年には明治大学在学中に
    アルバイトでレコード吹き込みをし始めたが、学校側に発覚し中退。
    兵役を経た後に1920(昭和9)年、「マイフレンド」の名で本格的に歌謡界へデビュー。
    この芸名は大不評を買い、程なく本名の「林 勲」にちなみ同じ読みの「林伊佐緒」にした。
    1936(昭和11)年ににキングレコードへ入社。以降亡くなるまでキング専属だった。
    1937(昭和12)年「もしも月給が上ったら」がヒットし、一躍名を知られるようになる。
    デビュー当初から自身の歌を自ら作曲し持ち歌の大半が自身の作曲によるものであったことから、
    日本最初のシンガーソングライターと言われている。1939(昭和14)年には
    講談社企画である「出征兵士を送る歌」の作曲部門の公募に参加し、見事1等当選した。
    他にも「男なら」「くろがねの力」なども作曲し(時には自ら歌い)、ヒットさせた。
    戦後も、1950(昭和25)年には「ダンスパーティーの夜」、1954(昭和29)年「真室川ブギ」、
    1955(昭和30)年「高原の宿」、1957(昭和32)年「そっとこのまま」を大ヒットさせ、
    戦前〜戦中以上の活躍をした。昭和30年代はキング専属の作曲家としての活動が目立ち、
    三橋美智也には「リンゴ村から」「リンゴ花咲く故郷へ」「母恋吹雪」、
    春日八郎には「海猫の啼く波止場」「長崎の女」「ロザリオの島」などを書き、大ヒットさせている。
    「てなもんや三度笠」の主題歌も林の作曲である。昭和40年代に巻き起こった懐メロブームでは、
    地方の小さな会からテレビ、ラジオ番組まで、大小隔てなくこまめに出演し、
    再び歌手としての面もクローズアップされた。スケールの大きな堂々たる歌唱で知られ、
    その声量は1970年代の懐メロ番組で「出征兵士を送る歌」を歌った時に、
    マイクから少し離れて歌っているのにもかかわらず、バックコーラスを圧倒していたという
    エピソードがある。NHK紅白歌合戦には第1回から、計11回出場している。
    日本歌手協会理事長を長く努め後、1989(平成元)年4月から1995年3月までは
    日本歌手協会4代目会長として後輩歌手のため奔走した。会長職を退いた後は相談役に就任した。
    亡くなる3日前にはラジオの仕事(大沢悠里のゆうゆうワイドにゲスト出演)をするなど、
    最晩年まで精力的活動を続けたが、平成7年9月29日に肺炎のため83歳で没。
    1975(昭和50)年に紫綬褒章、1983(昭和58)年には勲四等旭日小綬章を受賞。
    没後、功績により、従五位を追贈されている。
    
    
    
    
藤浦洸(ふじうら・こう) : 1898(明治31)年9月1日〜1979(昭和54)年3月13日は、
    長崎県平戸市出身の作詞家、詩人。本名は洸(たかし)。
     父親は藤浦が生まれて間もなく亡くなり、母親は広島に出稼ぎに行ったため、
    洗濯業を営む祖母と暮らす。 中三の時、祖母を失い、姉を頼って岡山に移転。
    
    ふるさと平戸にたつ藤浦洸の詩碑 「平戸のうた」より
    長崎県立平戸猶興館中学(現長崎県立猶興館高等学校)、
    私立岡山県興譲館中学卒業(現岡山県興譲館高等学校)。同志社大学神学部に入学するが1年で中退、
    3年の放浪を経て慶應義塾大学文学部に入る。在学中は小説家をこころざして児童小説を書いたり、
    尾崎士郎らと共に雑誌「令女界」や「若草」に小女小説、音楽物語などを執筆していた。
    その他、オペラ館でピアノ演奏のアルバイトもしていた。
    大学卒業後は、音楽評論家伊庭孝に師事し、浅草オペラの俳優等を経て、1930(昭和5)年から、
    コロムビアレコード文芸部のエドワード氏の私設秘書となり、ジャズソングの訳詞などを手掛けていた。
    1937(昭和12)年、「別れのブルース」の大ヒットにより名声を得た。1938年にコロムビア・レコードに
    入社して同社専属の作詞家となり、戦前戦後を通じて多数のヒット曲を世に送り出した。
    特に美空ひばりには「悲しき口笛」「東京キッド」など初期楽曲を多く提供している。
    この他、NHKラジオの「二十の扉」やテレビ番組の「私の秘密」等に多く出演したことでも知られる。
    日本作詞家協会会長、日本文芸家協会会長、日本訳詩家協会会長、日本詩人連盟相談役等を歴任。
    1964年、NHK放送文化賞を受賞。1976年、勲三等瑞宝章受章。
    1979年3月13日、80歳で死去。墓所は郷里平戸市の雄香寺(ゆうこうじ)
    参 : [YouTube](おもしろ半分29藤浦洸)
藤田まさと(ふじた・まさと) : 1908(明治41)年5月12日〜1982(昭和57)年8月16日は、
    静岡県榛原郡川崎町細江(現・牧之原市)出身の作詞家。本名・藤田正人。
    1918(大正7)年、小学3年終了と同時に父を訪ね単身旧満州の大連に渡り、
     1926(大正15)年大連商業学校卒。大連商時代には、野球で甲子園に出場している。
    内地に戻り、明治大学に入学したが、1928(昭和3)年、3年生で大学を中退し、
    日本ポリドール蓄音機株式会社に入社する。
    制作部長、文芸部長を歴任しながら作詞活動も行い、1935(昭和10)年の「旅笠道中」などの
    股旅(またたび)ものや、「大利根(おおとね)月夜」「大江戸出世小唄」「「明治一代女」「麦と兵隊」の
    大ヒットで一躍人気作詞家となった。1947(昭和22)年著作権獲得のために日本音楽著作家組合を
    結成し副委員長に就任する。その後は委員長として新著作権法の制定に尽力した。
    戦後も「岸壁の母」「傷だらけの人生」などのヒットがある。
    1979(昭和54)年には、自身もレコードを出し歌手としてデビューしている。
    晩年には、「浪花節だよ人生は」のヒット曲がある。1969(昭和44)年)、紫綬褒章受章。
    1970(昭和45)年、日本作詩大賞受賞。1973(昭和48)年日本音楽著作家連合会長、
    第15回日本レコード大賞、1978(昭和53)年第20回日本レコード大賞特別賞受賞。
    1978(昭和53)年、勲三等瑞宝章受章。1982年8月16日死去。享年74。
    
    
船村徹(ふなむら・とおる) : 栃木県出身の作曲家、ギタリスト、歌手で、演歌の作曲家の
    大御所として知られる。1932(昭和7)年6月12日生まれ。本名は福田博郎(ふくだ・ひろお)
    
    
    2004年10月1日付でJASRAC(日本音楽著作権協会)会長に選任され、現在は名誉会長。
    日本作曲家協会理事長・会長、横綱審議委員会委員、保守系国民団体「日本会議」会員等も務めている。
    東洋音楽学校(現・東京音楽大学)卒。大学在学中から作曲活動をしている。
    1949(昭和24)年、東京の音楽学校で知り合った茨城県出身の高野公男の「関係」は、
    単に作曲家と作詞家との関係だけであるばかりでなく、船村をして「俺の高野」「俺だけの公男」と
    言わしめるように、非常に深い「男の友情」で結ばれた「関係」であったことは、広く知られている。
    二人の東京に出てからの、バイトしながらの作家暮らしは大変で、
    主に高野は、新聞の売り子やキャバレーのボーイ、船村は巷の艶歌師、進駐軍慰問のバンドマスター、
    キャバレーのボーイなど何でもしながら、日々の生活の糧を得るため苦悩を重ねた。
    1953(昭和28)年に雑誌「平凡」の作曲コンクール入選作「たそがれとあの人」で作曲家としてデビュー。
    1955(昭和30)年に歌手・春日八郎が歌う「別れの一本杉」が爆発的なヒットをして以後は
    船村と高野の創作活動も本格的に展開されることになり、作曲家としての立場を確立した。
    そんな矢先、高野は、結核に蝕まれ、大ヒットとなったこの「別れの一本杉」が発表された翌年、
    突如26歳の若さで他界してしまったのである。その後、数カ月後の高野の絶筆となった
    「男の友情」(昭和31年)は、船村に向けた遺書のような内容であった。
    そこには男同士の決して切り離すことのできない、深く結ばれた「愛」を見出すことができるという。
    代表作としては「王将」「なみだ船」「矢切の渡し」「兄弟船」「みだれ髪」等、多数のヒット曲を生む。
    作詞家・星野哲郎とのコンビを組み、ヒット作を連発させた。
    作曲家としても有名であるが、自らが歌唱をすることもある。
    手がけた曲は4500曲にも数えられる。2008(平成20)年文化功労者。
    参 : [YouTube](男の友情、青木光一唄)、[YouTube](男の友情、カラオケ)
星野哲郎(ほしの・てつろう) = 星野哲郎(星野哲郎関連に別掲)
万城目正((まんじょうめ・ただし) : 1905(明治38)年1月31日〜1968(昭和43)年4月25日は、
    日本の作曲家。本名は侃(ただし)。北海道十勝支庁中川郡幕別村(現:幕別町)出身。    
 旧制中学を卒業後に上京し、武蔵野音楽大学で学ぶ。
 その後一時期北海道に戻るが再び上京して松竹に入社し、
 映画の音楽担当から1938(昭和13)年コロムビアレコード専属となり、
 1938年の映画『愛染かつら』の主題歌「旅の夜風」がヒットし、
 その後も多くの映画音楽を手がけた。
 戦後は映画『そよかぜ』の音楽を担当した。主題歌の「リンゴの唄」は
 並木路子が歌い大ヒットした。戦後は高峰三枝子「懐かしのブルース」、
 並木路子「リンゴの唄」、美空ひばり「悲しき口笛」、
 コロムビア・ローズ「哀愁日記」、島倉千代子「この世の花」など
 多くの曲を手がけた。1957年には松竹大船撮影所の近くに
 「万城目正歌謡音楽院」を開校した。
 流行歌や映画音楽に数多くの作品を残している。
人気作曲家として多忙な日々を送る一方で、年に2回ほど家族旅行に出かけ、
普段は酒や野球を楽しんだという。1968年4月25日63歳で逝去。
墓所は宮城県仙台市の龍雲寺に在る。
宮川哲夫(みやがわ・てつお) : 1922年2月7日〜1974年9月30日)は、
    東京都伊豆大島出身の作詞家。東京都大島町波浮港四番地の網元宮哲の長男として生まれる。
    東京府豊島師範学校を卒業後、教師をしていたが、作詞を手掛けた「街のサンドイッチマン」
    (作曲・吉田正)のヒットにより、1954年よりビクター専属の作詞家となる。
    その詞は都会調だが、どこか哀愁、孤独感が漂うのが特徴であり、
    宮川の書いた詞をよく歌った鶴田浩二は『宮川ニヒリズム』と表現した。特に作曲家・吉田正と
    コンビを組むことが多く、「赤と黒のブルース」、「好きだった」、「美しい十代」など数々の曲をヒットさせた。
    日本歌謡界最高の賞ともいうべきレコード大賞受賞曲「霧氷」を含む850余曲にのぼる
    膨大なる作詩を行い、数々のヒット曲を世に送り出し日本歌謡界の歴史に深くその名を刻んだ。
    1974年9月30日、膵臓癌のため東京女子医大病院で死去。52歳で早逝した。
    
    
   参 : [YouTube](おもしろ半分30宮川哲夫)
矢野亮(やの・りょう) : 1910(明治43)年3月6日〜1986(昭和61)年7月24日は、
    茨城県下館市出身の作詞家。本名は三上好雄で、
    ペンネームに、哥川欣也、鈴木尭、三上好生、三上好雄がある。明治大学商学部卒業。
    
    
    キングレコードのディレクターから作詞家になった。小畑実の「星影の小径」、
    津村謙・吉岡妙子の「あなたと共に」、若原一郎の「おーい中村君」、
    三橋美智也の「リンゴ村から」「夕焼けとんび」など多くの曲を作詞した。
横井弘(よこい・ひろし) : 1926(大正15)年10月12日、東京府東京市四谷区出身の作詞家。
    1943(昭和18年)、帝京商業学校卒業。1945(昭和20)年5月25日の東京大空襲
    自宅が全焼し罹災する。同年6月召集され入営。茨城県で初年兵として沿岸防備隊の任務に就く。
    終戦と共に軍隊から復員したものの、敗戦のどさくさで帰る家を失くし、知人のいた長野県下諏訪町に
    家族で転居。1946(昭和21)年に上京すると共に、作詞家・藤浦洸に師事する。
    1949(昭和24)年8月8日に日本放送協会のラジオ歌謡で放送された「あざみの歌」で作詞家デビュー。
    同曲は1951(昭和26)年8月、伊藤久男の歌唱でレコード発売され、大ヒットとなる。
    また、長野県八島高原には、あざみの歌の歌碑がある。
    1950(昭和25)年、コロムビアの専属になる。1953(昭和28)年、キングレコードに移籍し、
    三橋美智也の「ああ新撰組」「哀愁列車」「おさらば東京」「達者でナ」、春日八郎の「山の吊橋」、
    大津美子の 「銀座の蝶」「東京は恋人」、仲宗根美樹の「川は流れる」、
    ザ・ピーナッツ・「心の窓に灯を」、倍賞千恵子の「下町の太陽」「さよならはダンスの後に」
    「おはなはん」、中村晃子の「虹色の湖」「砂の十字架」、バーブ佐竹の「ネオン川」、
    千昌夫の「夕焼け雲」、佐々木新一の「君が好きだよ」など、多くのヒット曲の作詞を提供している。
    1968(昭和43)年にフリーとなる。
    1974(昭和49)年、第16回日本レコード大賞第1回中山晋平・西條八十賞を受賞。
    1992(平成4)年、第34回日本レコード大賞功労賞受賞。
    
    横井弘のデビュー曲「あざみの歌」を歌った伊藤久男
吉岡治(よしおか・おさむ) : 1934(昭和9)年2月19日〜2010(平成22)年5月17日は、
    山口県出身で東京育ちの作詞家である。旧筆名は「吉岡オサム」。文化学院卒業。
    1953(昭和28)年に童謡作家を志し、詩人のサトウハチローの門を叩き、弟子となる。
    作家の野坂昭如氏(79)とともにコント番組を手がけるなど放送作家としてキャリアをスタート。
    1962年に野坂氏と一緒に童謡「おもちゃのチャチャチャ」を手掛けたのが、作詞家として第1作。
    翌年レコード大賞童謡賞を受賞し出世作となった。その後は活躍の場を歌謡界に置き、
    新宿・歌舞伎町のスナック「萌木」がたまり場で、作曲家の故市川昭介さんや
    その弟子の歌手都はるみ(62)、岡林信康(63)らと音楽談議で夜を明かした。
    歌謡曲の作詞家としてのデビューは1956年の「鳩笛ならそか」である。
    1965年の松竹映画『悦楽』(大島渚監督)の主題歌『悦楽のブルース』(歌唱:島和彦)の
    作詞を手掛けて以降、本格的に作詞家として活動し、
    歌謡曲、童謡、アニメソングなど幅広いジャンルの作品を世に送り出した。代表作は
    歌謡曲「真っ赤な太陽」「さざんかの宿」「天城越え」、童謡「あわてんぼうのサンタクロース」など。
    1980年の都のヒット曲「大阪しぐれ」など大阪ものに定評があり、描写力は随一。
    カラオケブームの80年代に、当時のディレクターから石川さゆり(52)にしか歌えない
    難易度の高い作品をと頼まれて作ったのが名曲「天城越え」だった。
    そして、その石川に提供した「だいこんの花」(2010年3月発売)が遺作となった。
    日本作詩家協会副会長。2003年に紫綬褒章受章。
    2010年5月17日、入院先の東京都内の病院で急性心筋梗塞のため逝去。76歳没。
    参 : 職入力(吉岡治オフィシャルウェブサイト)
    
    
    
    
    はるみら弔辞、吉岡治さん告別式に400人
     5月17日に急性心筋梗塞で亡くなった作詞家の吉岡治さん(享年76)の葬儀・告別式が25日、
    東京・築地本願寺で営まれた。都はるみら400人が参列。都は「天国へ行ったら、
    作曲家市川(昭介)先生と、先生の詞を愛した男(都の元恋人の中村一好さん)が待っています。
    3人でいろんな話をしていてください。私も行ったら仲間に入れてください」と弔辞を読んだ。
    作詞家湯川れい子さん、石川さゆり、川中美幸、五木ひろしも弔辞を読み、出棺時には、
    2000年に作曲家弦哲也氏の35周年アルバムに収録された「月光円舞曲(ワルツ)」が流された。
吉川静夫(よしかわ・しずお) : 1907(明治40)年8月28日〜1999(平成11)年4月10日は、
    北海道帯広市出身で札幌市生まれの作詞家。駒澤大学卒業。
    小学校の校長を経て、1936(昭和11)年、キングレコードの「追分月夜」で作詞家デビュー。
    戦時中はヒット作にめぐまれず、1946(昭和21)年に岡晴夫の「青春のパラダイス」で復活。
    その後日本ビクター専属となり竹山逸郎「熱き泪を」、「流れの船唄」、三浦洸一「落葉しぐれ」、
    三沢あけみ「島のブルース」、青江三奈「長崎ブルース」、「池袋の夜」などのヒット作を生む。
    日本詩人連盟、作歌者協会、民謡芸術協会常任理事、音楽著作権協会理事などを務めた。
    1970(昭和45)年、日本詩人連盟賞受賞。第20回日本レコード大賞受賞。
    「池袋の夜」で1978(昭和53)年、日本レコード大賞特別賞受賞。
    1999年4月10日、肝不全のため横浜市の病院で死去。享年93(91歳没)
    
    
吉田正(よしだ・ただし) : 1921(大正10)年1月20日〜1998(平成10)年6月10日)は、
    茨城県日立市出身の国民歌謡作曲家。
    
    
    1939(昭和14)年に地元・日立市の日立工専を卒業後、
    東京にあるタービン等を製作する会社に入社をするが、その傍ら独学で作曲の基礎を学ぶ。
    1942年に招集がかかり軍隊に入隊。その後中国に派兵をされたが、戦後シベリア拘留となる。
    抑留中の苦しい軍隊生活の中、「昨日も今日も」を作曲し、
    帰国した1948(昭和23)年に改題した「異国の丘」でデビューした。
    1949年から日本ビクター(株)の専属作曲家として活動し、1957(昭和32)年から
    フランク永井が歌った「東京午前三時」「夜霧の第二国道」「有楽町で逢いましょう」、
    1959(昭和34)年の和田弘とマヒナスターズ・松尾和子の「グッド・ナイト」、
    1960年のレコード大賞受賞曲「誰よりも君を愛す」などの都会調歌謡曲、1960年の橋幸夫の
    「潮来笠」のほか、1962年の橋幸夫・吉永小百合のレコード大賞受賞曲「いつでも夢を」、
    1963年の三田明の「美しい十代」などの青春歌謡、1970年の鶴田浩二の「傷だらけの人生」、
    1971年の橋幸夫の「子連れ狼」、1997年の佐々木功の「雪の慕情」など、
    生涯作曲数は2400曲(歌謡曲1800曲、校歌など600曲)を越え、現在でも歌い継がれる曲が多い。
    都会的で哀愁漂うメロディーは都会調歌謡と称され、ムード歌謡から青春歌謡、
    リズム歌謡まで幅広く手掛けた。また、鶴田浩二、三浦洸一、フランク永井、橋幸夫、松尾和子
    和田弘とマヒナスターズなど多くの歌手を育て、「有楽町で逢いましょう」「いつでも夢を」
    「誰よりも君を愛す」など、数々のヒット曲を手がけた日本歌謡史の黎明期を支えたひとりである。
    1998年6月10日、肺炎のため死去。享年77歳。
    死後の1998年7月に作曲家としては3人目となる国民栄誉賞受賞。
    2004年、生誕の地である茨城県日立市のかみね公園に『吉田正音楽記念館』が開設され、
    2005年には日立市内を通る常磐線の駅には吉田の作品が発車メロディとして起用された。
    参 : 吉田正公式HP吉田正音楽記念館(HP)、吉田正記念オーケストラ公式ウェブサイト
        [YouTube](おもしろ半分35吉田正1)、[YouTube](おもしろ半分40吉田正2)
吉田矢健治(よしだや・けんじ) : 1923(大正12)年10月25日〜1998(平成10)年11月6日は、
    山口県岩国市出身の作曲家。明治大学マンドリン部を経て卒業後、作曲家の利根一郎に師事。
    テイチクレコードを経て、1953(昭和28)年からキングレコードに専属し、
    津村謙・吉岡妙子の「あなたと共に」、三橋美智也の「夕焼けとんび」、春日八郎の「山の吊橋」など、
    昭和期に多くの曲を作曲した。「女心の唄」ではバーブ佐竹が第7回日本レコード大賞新人賞を受賞。
    優しいその旋律は、吉田矢メロディーと呼ばれた。
    1992(平成4)年、第34回日本レコード大賞功労賞を受賞
    199811月6日、肺気腫のため死去、75歳没。告別式には音楽葬が行われた。
米山正夫(よねやま・まさお) : 1912(大正元)年10月3日〜1985(昭和60)年2月12日は、
    東京都原宿出身の作曲家。成蹊中学から、同高校に進むが、音楽への道をあきらめることが
    出来ないままに、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科を1934(昭和9)に首席で卒業し、
    SKDスター江戸川蘭子の歌、作詩、作曲による「春の謳歌」でデビューをはたす。
    1936(昭和11)年、ポリドールレコードの廉価盤だったコロナレコードのピアノの伴奏者となるが、
    コロナレコードが成功したことから、専属作曲家となる。1942(昭和17年、高峰秀子の歌で
    「森の水車」を発表するも、当時の軍部から内容が不適切だと発売4日で発禁処分を受ける。
    だがこの歌は戦後、荒井恵子よって歌われヒットとなり、並木路子も吹き込んでいる。
    1944(昭和19年、満州国奉天中央放送局勤務となる。
    前年に、大東亜レコード(ポリドールレコード)が大東亜航空工業に改名し閉鎖したためである。
    1945(昭和20)年5月、関東軍に現地応召を受ける。敗戦と同時にシベリアコムソモリスク地区に
    抑留されたが翌年12月に帰国した。復員後は住む場所が無かったので、弟の家で居候生活をする。
    「異国の丘」がNHK「のど自慢」で歌われてヒットしたあと、作者が特定されていなかった折りに、
    シベリアから帰国していた吉田正氏をNHKに同道して、
    吉田氏が作者であることを証明するなどしたことで知られる。1948(昭和23)年、
    親友である近江俊郎の尽力でNHKラジオ歌謡で放送された「山小舎の灯」を手掛けヒット。
    これが作曲家初の大ヒットとなり、「南の薔薇」、「森の水車」などが続けてヒットし、
    コロムビア専属作曲家となる。その頃、同じく復員してきた青木光一と再会。
    その後も、「リンゴ追分」、「車屋さん」、「津軽のふるさと」、「長崎の蝶々さん」など、
    初期の美空ひばりのヒット曲を数多く手掛けた。
    1963(昭和38)年、クラウンレコード創設と共に同社の専属になり、西郷輝彦「涙をありがとう」、
    美樹克彦「花はおそかった」、水前寺清子の大ヒット曲「三百六十五歩のマーチ」、
    小林旭の「赤いトラクター」、同じくヤンマーの『ヤン坊マー坊天気予報』のテーマ曲として
    お馴染みの「ヤン坊マー坊の唄」など多くの作品を残した。
    1985(昭和60年2月12日、長年患っていた糖尿が原因で死去。享年72。
    死後、勲四等旭日小綬章を贈られた。
    
    
















































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