善導大師(YSミニ辞典)
[ホーム] [索引] [前項] [次項]
善導大師(ぜんどうだいし) : 「善導」という中国・唐代の浄土教(中国浄土宗)の大成者(僧)である。
道綽
(どうしゃく)禅師に学んで「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立する。
姓は朱氏。「終南大師」、「光明寺の和尚」とも呼ばれる。
日本においては念仏の高祖とも仰がれ、
浄土宗では、「浄土五祖]」の第三祖とされる。
浄土真宗では、七高僧の第五祖とされ「善導和尚」とも尊称される。同時代の人物には、
『三論玄義』の著者で三論宗を大成させた吉蔵や、訳経僧で三蔵法師の1人である玄奘がいる。
613(大業9)年、泗州(現:安徽省
:あんきしょう)に生まれる。
幼くして、出家し諸所を遍歴した後、長安の南の終南山悟真寺に入寺する。
641(貞観15)年、29歳の時に、晋陽(現:山西省太原市)にいた道綽をたずね、師事した。そして
645(貞観19)年に道綽が没するまで、『観無量寿経
(かんむりょうじゅきょう)』などの教えを受けた。
30年余りにわたり別の寝床をもたず、洗浴の時を除き衣を脱がず、目を上げて女人を見ず、
一切の名利を心に起こすことがなかったという。道綽没後は、終南山悟真寺に戻り厳しい修行をおこなう。
その後長安に出て、『阿弥陀経』(10万巻)を書写して有縁の人々に与えたり、
浄土の荘厳を絵図にして教化するなど、庶民の教化に専念する。一方で、龍門奉先寺の石窟造営の
検校
(けんぎょう)を勤めるなど、幅広い活動をする。長安では、光明寺・大慈恩寺・実際寺などに住する。
681(永隆2)年3月14日、69歳にて逝去。終南山の山麓に、弟子の懷ツらにより、
崇霊塔(善導塔)と香積寺が建立された。なお、善導は寺前の柳の樹木に登り自ら身を投じて
死したともいわれるが異論もある。高宗皇帝寂後、寺額を賜りて光明と号すようになった。
善導は日本の
法然や
親鸞に大きな影響を与えた。
法然上人は、43歳のとき、この善導大師が著した『観無量寿経疏
(かんむりょうじゅきょうしょ)』の
巻第四「観経正宗分散善義
(かんぎょうしょうじゅうぶんさんぜんぎ)」の中の、
「一心にもっぱら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久遠を問わず、念々に捨てざる者、
是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」という一文を見て、
念仏こそすべての人々が救われる教えであることに間違いはない、との確信を得、
これをよりどころとして人々に専ら念仏をとなえること(専修念仏
:せんじゅねんぶつ)を
勧める宗教活動を始め、浄土宗を開いた。浄土宗では、宗祖・法然上人に対し、
善導大師を高祖と仰ぎ、法然上人は「偏依善導
(へんねぜんどう)」とまで言っている。
善導大師(1997.6.1、浄土宗新聞より)
善導大師像 : 福岡県博多区の浄土宗「善導寺」蔵。福岡県重要文化財。
善導寺は、大本山善導寺(福岡県久留米市)と同じく浄土宗二祖・鎮西聖光上人の創建である。
この善導大師像を本尊とし、百日間の説法を行ったのが始まりという。「博多談義所」と呼ばれた名刹。
像の口には、となえた念仏が小仏となって並んでいるものを指し込んでいたあとがある。
また、正面を向いていない、左足を踏み出しているなどの点に特徴がある。
善導大師像。室町期。木造。像高約54cm(台座含む)。浄土宗発行の「かるな」2003年冬号より
二河白道図(にがびゃくどうず) : 中国初頭期の浄土教思想家・
善導大師が著した
『観無量寿仏教疏
(かんむりょうじゅきょうしょ)』を典拠とし、
阿弥陀仏(あみだぶつ)の救いを説く比喩
(ひゆ:たとえ話)を絵図化した仏画である。
二河白道図は、1人の往生者(衆生)の男が、後ろから群賊や悪獣などが迫っている中で、
火(怒り、憎悪)の河と水(貪欲)の河の間に開けた一筋の幅が4、5寸の白い道を、
東からの
釈迦と西からの
阿弥陀の励ましによって
極楽浄土へ赴くことを描いた浄土教絵画で、
白道こそが清らかな「往生を願う心」だと善導大師は説いている。
わが国では、
法然、
親鸞がその教義のなかで取り上げてから絵画化されており、
これまでに、
鎌倉時代の作品四点が重要文化財に指定されている。
以下の二河白道図は、兵庫県神戸市の香雪美術館蔵のもので、国の重要文化財に指定されている。
この絵では他の二河白道図にくらべて極楽の様子が詳しく描かれているなど、
説話的内容の豊富さが特徴となっている。
13世紀後半の二河白道図で、絹本着色、掛幅装。縦83.3×横63cm
(浄土宗発行の「かるな」2001年冬号より)