城関連(YSミニ辞典別掲)

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首里城(しゅりじょう、スイグスク) : 沖縄県那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を
    見下ろす丘陵地にあった琉球王朝の王城で、標高約120メートルの石灰岩丘陵に築かれた
    東西約350m、南北に約200mの沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。
    15世紀中頃、第一尚氏の時に整備された。
    戦前は正殿などが国宝であったが、1945(昭和20)年に太平洋戦争末期の沖縄地上戦で
    米軍の砲撃により焼失し、戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、
    わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っていたが、
    戦後、城址内に置かれていた琉球大学の西原町への移転にともない、
    本格的な復元が1980年代末から行われ、1992(平成4)年に、
    正殿(せいでん)などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。
    2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界文化遺産に登録された。
    ただ登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産にはなっていない。
    
    城外にある門の一つで、この「守礼門」が首里城への事実上の入口になっている
    扁額の「守礼之邦(しゅれいのくに)」は、「琉球は礼節を重んずる国である」という意味である
    1958(昭和33)年に沖縄県の戦後復興の象徴として復元された

    
    帰りに見る守礼門。カップルや修学旅行の生徒が多くて人物抜きの写真が撮れない
    
    20数年前の絵葉書より。この頃に訪れたが首里城はなく、現在は大きく様変わりしている
    
    首里城の城郭内に入る正門である歓会門(かんかいもん)。左右に石獅子(シーサー)がある
    1974(昭和49)年に復元された

    
    瑞泉門(ずいせんもん)
    
    龍の口から湧き水が流れ出ている龍樋(りゅうひ)で、瑞泉門の脇にある。
    石製の龍頭は1523年に中国から舶来されたもので、沖縄戦で破壊されたものが補修された

    
    「漏刻」とは水時計のことで、この門の櫓に水時計が設置されていたことから
    この名が付いたという修復中の漏刻門(ろうこくもん)。別名「かご居せ御門」

    
    福を行き渡らせるという意味の広福門(こうふくもん)で、正面に向かって左側が士族の財産をめぐる
    争いを調停する大与座、右側が神社仏閣を管理する寺社座がおかれていたといわれている

    
    日影台(ひかげだい)広場
    
    首里城からの景色。門は「久慶門(きゅうけいもん)」
    
    正殿に向かって右側に2階建ての「南殿(なんでん)」、更にその右側に「番所(ばんどころ)」がある
    
    「正殿」の正面、唐破風(からはふ)の妻壁中央には火焔宝珠、
    両脇には金龍と瑞雲の彫刻、中央上部には龍頭が飾られている

    
    「御庭」は東西約40m、南北約44mの広場で赤と白の敷き瓦が敷きつめられており、
    種々な式典の会場に使われていたといわれている。
    縞模様の敷き瓦は儀式の際、役人が位の順に並ぶ目印の役割をはたしていたという

    
    玉御冠(琉球国王の冠)
    
    御庭で正月の儀式(朝拝御規式)が行われている様子の模型
    
    「冊封儀式」の模型(中国皇帝が琉球国王を任命する儀式)
    
    首里城にいくつかある裏門の一つである「右掖門(うえきもん)」
    
    裏からの右掖門
    
    瑞泉門前の龍樋と並んで首里城内の重要な水源地だった寒水川樋川(さんがーひーじゃー)
    
    首里城北側の通用門で、主に女性が使用していたといわれている「久慶門(きゅうけいもん)」
    
    裏からの久慶門
    
    園比屋武御獄石門(そのひゃんうたきいしもん)
    国王が行幸の際安全をこの石門前で祈願したという祈願所

    
    拡大画像(原寸は120×71mm)。入園券に自動で日付が入るのは記念になっていいね。
    
    
    参 : 首里城公園(HP)

    1992.12.16、朝日新聞「天声人語」より
     復元された首里城を見た。本社機で、まず空から近づく。
    正殿の朱の壁、淡紅色の屋根が目に入ってくる。
    四角い庭、全体を囲む明るい色調の石灰岩の城壁、緑の森……。端然とした、たたずまいである
    ▼那覇市の高台、標高が120ないし130mの場所だ。城山の頂上という趣だが、今まで見慣れた
    各地の城郭とは感じが違う。地上に降り、歩いて城に入ると、その感じは確かなものになった。
    赤い守礼の門をくぐって緩やかな石段を登る。祭典か儀式の場、という雰囲気なのだ
    ▼尚巴志(しょうはし)が1429年に琉球を統一し、その後、1879年に琉球処分で
    沖縄県になるまでの450年間、ここは国王の居城だった。丘に立つと海が見える。
    中国からの使節や薩摩の役人を接待した時代にも見えていたはずの海だ
    ▼ここを中心に、東京までの距離を半径とする円を描くと、朝鮮半島や中国東部、台湾、
    フィリピンのルソン島などが円内に入る。琉球王朝は海洋国家の立場を存分に利用し、
    中国皇帝に貢ぎ物を進呈する進貢貿易を主軸に、日本、朝鮮、東南アジア諸国との交易を発展させた
    ▼那覇には外国の商人にまじって堺や博多の商人も訪れ、にぎわったという。
    そういう歴史の証人である守礼の門、城壁の歓会門、正殿などは戦前、国宝に指定されていた。
    だが沖縄戦ですべて消える。日本軍司令部が地下に置かれ、米軍の砲火が集中したためだ
    ▼沖縄には独特の歴史と文化があるということを、人々は知識として知っている。
    だが、長い年月をかけ、丹念な考証と調査の末に復元された首里城を目の当たりにすると、
    それが何と雄弁に歴史と文化を語るかということに驚かされる
    ▼一般に開放されて、1カ月余り。沖縄県内の生徒たちの姿が見物客の中に目立つ。
    展示資料とともに、歴史への想像力、戦争がもたらすものへの思いをかき立てる城である













































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