宗教関連(YSミニ辞典し)

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愛別離苦(あいべつりく) : 五王経(ごおうきょう)からの出典。仏教用語で四苦八苦の一つ。
    愛する人と別れるときの苦しみ。【類語】●哀別悲離(あいべつひり)
赤間神宮(あかまじんぐう) = 赤間神宮(別掲)
赤松連城(あかまつ・れんじょう) = 赤松連城(周防五傑僧に別掲)
アジサイ寺 = アジサイ寺(別掲)
阿修羅(Asura)あしゅら、あすら : @修羅。インド神話の悪神。インドラ神(仏教では帝釈天)と戦うとされる。
     釈迦によって教化されたとみなす場合は、八部衆の一つとして仏教の守護神。
     また、六道の一つで、常に戦い合う世界の存在ともされる。日本では、興福寺の三面六手の像が有名。
    A「阿修羅王」に同じ。
阿弥陀寺(あみだじ) : ★東大寺別院周防阿弥陀寺(東大寺関連に別掲)
    ★山口県下関市阿弥陀町にあった寺。中世には浄土宗、近世では真言宗に転じた。
     安徳天皇鎮魂のため1191年に建立。1875(明治8)年に寺を廃して赤間神宮となる。
    ★箱根阿弥陀寺 : 神奈川県足柄下郡箱根町塔之澤24番地にある皇女和宮の
     香華院(位牌をまつる寺)で、阿育王山阿弥陀寺が正式名の浄土宗の寺である。
     毎年6月中旬頃から境内や参道に植えられた6000株のあじさいが咲く。
     このため、阿弥陀寺は別名、「あじさい寺」とも呼ばれている。
     問合せ先:0460−5−5193、IP電話:050−7509−3113
    ★浄土真宗阿弥陀寺 : 茨城県那珂市額田南郷375にある浄土真宗24輩14番の寺。
     問合せ先:029−298−7505、FAX:029−298−7311
    ★吉祥山阿弥陀寺 : 京都市西京区桂千代原町22にある浄土宗西山深草派の寺。
     問合せ先:075−381−6014、FAX:075−393−3522
    ★妙法山阿弥陀寺 : 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町南平野2270−1にある高野山真言宗の寺。
     問合せ先:0735−55−0053、FAX:0735−55−0726
    ★三宝山阿彌陀寺 : 島根県出雲市下古志町464にある浄土宗の寺。
     問合せ先:0853−22−1419
    ★光明山法国院阿弥陀寺。京都市左京区大原古知平町83にある
     「古知谷(こちだに)阿弥陀寺」とも呼ばれ、全国行脚の末に1609(慶長14)年に
     木食上人弾誓(もくじきしょうにんだんせい)が創建した如法念仏の道場として開いた浄土宗の寺。
     問合せ先:075−744−2048
    ★阿弥陀寺 : 京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14にある蓮台山と号する浄土宗の寺院で、
     京都48願寺巡拝の16番札所でもあり、本尊は丈六の阿弥陀如来である。
     天文年間(1532〜1554)、清玉上人(せいぎょくしょうにん)の開祖になり、
     当初は西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)にあった。
     清玉上人は織田家と深い親交があり、1582(天正10)年6月2日の本能寺の変の折り、
     本能寺等にかけつけ、織田信長、信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を当寺に葬ったとされる。
     明智光秀を討ったあと豊臣秀吉は清玉にその手柄をほめ、改めて法要を行なうことを命じたが
     豊臣秀吉に反感をもっていた清玉は再度の命令にも断ったため、止むえなく豊臣秀吉は
     大徳寺山内に「総見院」を建て、そこに織田信長の墓所もつくって法要をすませた。
     1587(正15)年に蓮台野から、今の地に移転したが、
     もとのところの八分の一にも満たない狭いところである。
     (注)阿弥陀寺は上記の大原の方にもあり、そちらの方が有名なのでタクシーの運転手に聞いても
        分からないことがあるそうで、「寺町通りの信長の霊廟の阿弥陀寺」と言った方がよいとのこと。
    ★第24番法輪山阿弥陀寺。和歌山県和歌山市中之島1865にある西山浄土宗の寺。
     問合せ先:073−423−2154
    ★大應山阿弥陀寺。秩父郡荒川村贄川665にある曹洞宗の寺。
     問合せ先:0494−54−1375
    以上インターネットなどからの資料で、ほかに住所・問合せ先の分かる阿弥陀寺があれば
    [メッセージBOX]からでも資料をください。

阿弥陀如来(Amitaabha:アミターバ)あみだにょらい : 阿弥陀仏の尊称。
    サンスクリット語のアミターバ(Amitaabha:無限の光をもつもの)、
    またはアミターユス(Amitayus:無限の寿命をもつもの)の訳で、
    「無量光仏」または「無量寿仏」とも呼ばれ、無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。
    阿弥陀はアミタの音訳で、西方にある極楽浄土という仏国土を持つ。
     久遠の昔、世自在王という仏がおられた時、ある国王が王位を捨て、出家し、
    法蔵比丘となって世自在王仏のもとで修行し、諸仏の浄土を見学し、
    五劫という長い間考えて特別に勝れた願い(48願)を起こした。
    以来徳を積み、今から十劫以前に願行が成就し、阿弥陀仏となり、
    西方十万億土の彼方に極楽を建立し、今も説法しているという。
     浄土門の教主で、阿弥陀三尊として祀られるときは、脇侍に観音菩薩・勢至菩薩を持つ。
    密教においては、五仏(五智如来)の一如来として尊崇される。
    多くの尊像が造られたほか、極楽浄土を描いた浄土図や観音・勢至両菩薩や二十五菩薩を引き連れ、
    臨終の阿弥陀信仰者を迎えにくる姿が来迎図として描かれた。
    チベット仏教における副法王パンチェン・ラマは阿弥陀如来の化身とされる。
    阿弥陀如来立像 : 源智上人の懇請で、約4万6千人の結緑を得て造られた。
     1974(昭和49)年、滋賀県甲賀市信楽町の高野山真言宗「玉桂寺」の地蔵堂で発見された。
     1981(昭和56)年に国の重要文化財に指定され、
     2010年2月1日に「玉桂寺」から、約800年ぶりに浄土宗に移譲された。
     法然上人の一周忌のために作られた「阿弥陀さま」がなぜ真言宗の寺にあったのか、
     京都を拠点にした源智が作らせた仏像がなぜ他県で見つかったのか、
     仏師は誰かなど、多くの謎は残されたままである。
    
    法然上人の弟子である源智上人報恩の木造阿弥陀如来立像(浄土新聞平成22年3月号より)
    
    同上、頭部。ふくよかな顔立ちの阿弥陀如来。
    阿弥陀如来座像 : 国指定重要文化財。檜材の寄木造り。高さ141cm。
     三浦半島に勢力を持ち源頼朝の信認も厚かった和田義盛とその夫人小野氏のため、
     1189(文治5年)、奈良東大寺南大門の仁王像を彫った、天才仏師・運慶が小仏師10人を
     率いて造立した。柔和で優雅な阿弥陀のイメージなのに対し、浄楽寺の阿弥陀坐像は、
     丸顔で肉付きがよく、かなり男性的である。意識的にとじられた唇や、量感豊かな胸元には、
     生々しいほどの弾力が感じられ、全体に力がみなぎっているようだ。
    
    阿弥陀如来座像(神奈川県横須賀市の浄土宗「浄楽寺」蔵)浄土宗発行の「かるな」2000年冬号より
    
    五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀如来坐像(重要文化財、東大寺蔵)2010.8.5、朝日新聞より。
    高さ106cm。木造(ヒノキ)、漆箔。12世紀末〜13世紀(鎌倉時代)の善導大師の作という伝承がある。
    「五劫」は気が遠くなるくらい長い時間を指し、伸びに伸びた如来の髪は、長い髪の毛が丸まった
    螺髪で、人々を救おうと、長い長い時間をかけて思いをめぐらし修行して悟りを開いて
    阿弥陀如来になった姿を現したのが、この像だという。

医王寺(いおうじ) = 医王寺(別掲)
以心伝心(いしんでんしん) = 以心伝心(別掲)
出雲大社(いずもたいしゃ、いずもおおやしろ、いずものおおやしろ) = 出雲大社(別掲)
イスラム教(Mohammedanism、Islam)いすらむきょう : イスラム。イスラーム。回回(フイフイ)教。回教。
    マホメット教。中国には7世紀末に伝わり、清真教とも言われる。
    610年にアラビアのメッカ(アラビア語ではマッカ:Makka)でムハンマド(マホメット)が創唱した
    仏教キリスト教とともに世界三大宗教の一つである。アラビアをはじめ、中近東を中心に広がり、
    東はインドネシアから、西はアフリカの大西洋沿岸諸国にまで及び、
    多くの国々でイスラム教が政治・経済・文化面で枢要な役割を担っている。
    ユダヤ教・キリスト教と並ぶ一神教で、唯一神アッラーのみを信仰し、偶像崇拝を禁じている。
    経典は預言者ムハンマドへの神の啓示であるコーラン(Koran)である。
    教義はシャリーアとして体系化され、宗教的であると同時に法の体系でもあり、
    信仰とその社会的実践とが重視される。主要な信仰および儀礼として、
    六信(アッラー・天使・経典・預言者・来世・予定)と五行(信仰告白・礼拝・喜捨(きしや)・断食・巡礼)が
    説かれる。ムハンマドの死後、後継者としてカリフが立てられたが、その後、後継者をめぐる対立が生じ、
    スンナ派とシーア派その他の諸派に分裂。8世紀中頃から11世紀にかけては古代ギリシャ文化を吸収し、
    哲学・医学・地理学などを発展させて、近代ヨーロッパの科学的伝統へ大きな影響を及ぼした。
    イスラム教の五つの信仰
    (1)信仰の告白(シャハーダ) : 「アッラーの他に神はなく、マホメットはアッラーの御使いである」と、
                         アラビア語で唱える。
    (2)礼拝(サラート) : 1日5回の礼拝と金曜日の集合礼拝が義務づけられ、
      その後必ずメッカの方向(ギブラ)に向かって礼拝を行う。
      ●1日の礼拝は、早朝夜明け前(KL時間では午前6時ごろ)、正午すぎ(午後1時すぎ)、
       日没前(午後5時前後)、日没後(午後7時20分ごろ)、夜(就寝まえ)の5回。
      ●集合礼拝は、正午すぎの時間にモスレムが近くの礼拝堂(マスジット、英語ではモスク)に集合して
       合同礼拝を捧げる。各礼拝時間の前には、礼拝堂から祈りへ参加を呼びかける「アザーン」が
       スピーカーから響く。イスラム圏内のホテルの部屋の天井の片隅に「→」マークがあるのは、
       メッカの方向(キブラ)のこと。
    (3)断食(サウム、またはラマダーン、マレー語ではプアサ)
      イスラム暦9月をラマダーン(断食月)というが、すべてのモスレムは1カ月、
      日の出から日没まで飲食や喫煙を絶って過ごす。
      この9月は、マメホットに神の教えが下された月であり、イスラム教では聖なる月になる。
    (4)喜捨(ザカート) : モスレムは、自分の蓄財を喜捨する。
                   また、貧しい人や孤児、神のために努力する人に施す。
    (5)大巡礼ハッジ
    シーア派とスンニ派 : イスラム教の2大宗派で、ともにムハンマドが下した「コーラン」を経典とする。
     信者はシーア派が1割、スンニ派は9割を占め圧倒的な多数派となっている。
     預言者ムハンマドの後継者問題をめぐって7世紀に分裂した。
     両派の勢力争いは時代が下がるにつれ共存が進み、イラクでも両派の間の結婚が
     普通に行われていた。一変したのは、イラク戦争で旧フセイン政権が倒れてからで、
     米国など占領当局は、民族や宗派の均衡の上に新体制をつくろうとしたが、うまくいかず、
     各派が利権を巡る抗争を始めた。スンニ派の「イスラム原理主義者」はイマームをあがめる
     シーア派を「異端」とみなし、聖廟爆破などのテロを繰り返した。
     火のついた宗派間対立は「憎悪の歴史」をよみがえらせ、抜き差しならない事態となっている。
    シーア派(Shiah、Shiism) : シーアはアラビア語で「党派」の意味がある。
     預言者ムハンマドの従兄弟(いとこ)で第4代カリフののアリーが西暦661年に暗殺された後、
     娘婿のアリーとその子フセインにつながる子孫をイスラム教の最高指導者(イマーム)と
     みなすという、ムハンマドとの血のつながりを必要とする教義を持つ人々がシーア派として分かれた。
     「シーア・アリー」つまり『アリーを支持する党派』の略称である。イスラム教徒全体では1割前後だが、
     イラクでは国民の6割を占め、レバノンにも多く、イランでは多数派を占め国教とされているほか、
     サウジアラビア東部、バーレーンなどに多く、イラクでは南部を中心に6割以上を占めている。
     スンニ派はムハンマドやカリフ(後継指導者)を人間とみなすのに対し、
     シーア派は指導者を絶対的な判断を下すイマームと呼んで神格化し、
     初めから三代のカリフを教主と認めぬため、スンニ派と対立してきた。
     旧フセイン政権ではスンニ派が権力を握っていたが、政権崩壊後、
     シーア派は禁じられていた伝統行事を復活し、同派最高権威アリ・シスタニ師や、
     指導者ムクタダ・サドル師らが勢力を伸ばしている。
     メッカ、メディナ、エルサレムはイスラム教の3大聖地だが、
     シーア派は宗教指導者が埋葬されている地なども聖地として訪れる。
    スンニ派(Sunni、Sunna) : スンナ派とも呼ばれ、「スンナ」とは「慣行、範例」という意味で、
     「預言者ムハンマドの打ち立てたスンナに従う人々」であり、指導者の血統は問わない。
     世界的にはイスラム圏全体で多数派のスンニ派が信者の9割近くを占めている。
     ムハンマドの後継者としてアブーバクル・ウマル・ウスマーン・アリーの正統四カリフを認め、
     ハナフィー・マーリク・シャーフィイ・ハンバルの四つの法学派を公的な法解釈の学派とする。
     スンニ派のフセイン元大統領は自派を重用し、シーア派政党を弾圧したが、
     市民レベルでの分裂は少なかった。
    参 : ハラルハマスアラブ首長国連邦バハイ教ジハーディスト
イスラム法(Shariah) : シャリーア。イスラム教徒の宗教的・現世的生活を具体的に規制する法。
    コーラン・スンナなどをその法源とする。イスラム教においては立法者は神のみ、とされており、
    ムスリムたちは神の命令(すなわち法)に従って生きることになっている。
    内容は、儀礼的規範(イバーダート)と法的規範(ムアーマラート)に大別される。
    儀礼的規範は、宗教的行為、すなわち五行にかかわるもので、
    法的規範は、婚姻、相続、契約、訴訟、非ムスリムの権利義務、刑罰、戦争など、イスラム社会における
    相互の権利や義務に関わる規範で、私たちの考える民法や刑法に当たる事柄が規定されている。
    基本的には、ムスリムの政権担当者がイスラム法を施行する責任をになっている。
    歴史的には、支配者が政令や法令を発布していたが、これらはイスラム法に反してはならないという
    不文律があり、これによって諸政権はイスラム法に従っている、と主張してきた。
    また、司法に関してはカーディーと呼ばれる裁判官が判決を出したり、法律に関する文書を扱っていました。
    イスラム法の刑罰
     ●同害報復刑(キサース刑) : 加害者が成人で知的に成熟しており、
      被害者と同等の身分である場合、被害者ないし相続人が同程度の報復をするというもの。
      被害者の同意を得れば金銭支払いで済ますこともある。
     ●固定刑(ハッド刑) : 姦通、中傷、飲酒をした場合は定められた回数のむち打ち、
      窃盗をした場合は手足の切断、追い剥ぎをした場合は死刑あるいは手足の切断あるいは追放、
      といった具合に明示されている。また、背教者は死刑である。
     ●裁量刑(タァズィール刑) : イスラム法に刑罰が定められていない犯罪に対して
      裁判官の裁量によって科す刑罰のことで、文書偽造、詐欺、恐喝、偽証などの場合に適用されている。
    参 : ハッド法令ハラル
伊勢神宮(いせじんぐう) : 「伊勢神宮」という所は存在せず、その正式名称も単に「神宮」という。
    ほかの神宮と区別する場合には「伊勢の神宮」と呼ぶ。
    ほかに「伊勢大神宮」、「伊勢大廟」、「二所大神宮」の名があり、親しみを込めて「お伊勢さん」とも呼ぶ。
    
    内部は撮影禁止なので、これが精一杯の画像。2013年の式年遷宮に向けての工事でした
    
    完成した御正殿(画像は神宮司庁提供のもの)

    三重県伊勢市にある神社で、内宮(ないくう)の「皇大神宮(こうたいじんぐう)」と
    外宮(げくう)の「豊受大神宮(とようけじんぐう)」の2つの正宮と、それぞれに付属する14の別宮があり、
    さらに摂社、末社、所管社、合わせて125社の神社から構成された我が国で一番大きい神社で、
    その事務所を「神宮司庁」という。神宮の職員は600人以上で、神主も祭主(さいしゅ)
    大宮司(だいぐうじ)、少宮司(しょうぐうじ)、禰宜(ねぎ)、権禰宜(ごんねぎ)、宮掌(くじょう)
    100人を超え、森林を含めた総面積は550ヘクタールで、東京都世田谷区に匹敵する広大さである。
    内宮は皇祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭り、神体は三種の神器の一つ、
    八咫鏡(やたのかがみ)で、外宮の祭神は農業などをつかさどる豊受大神である。
    神道の神社では別格とされ、格付けはされない。
    また、皇居の祭祀する最高の存在として社格を超越するものとされた。
    古くは私幣は禁止されていたが、中世以降、伊勢講などによる民間の参宮が盛んになった。
    明治以後国家神道の中心として国により維持されたが、1946(昭和21)年以降は一宗教法人となった。
    正殿は白木の神明造りといわれる神社建築様式の代表的なもので、
    20年ごとに式年遷宮伴う改築がある。
    年間の参拝者数は2007年の累計では700万人にも及び、季節を問わず多くの人々が訪れる。
     伊勢神宮は「国家の宗廟(そうびょう)」と戦前には言われた。戦後は「日本の総氏神」とされ、
    「心のふるさと」と親しまれるようになった。心のふるさとと言われるようになったのは、
    文豪・吉川英治が1950(昭和25年)に『新・平家物語』の取材旅行で神宮に参拝して、
    即興の歌を残してからである。   ここは心のふるさとか
                         そぞろ詣(まい)れば旅ごころ
                         うたた童(わらべ)にかへるかな
    この歌から、伊勢神宮は「心のふるさと」とのキャッチコピーは広められた。
    式年遷宮(しきねんせんぐう) : 社殿に隣接する同じ広さの敷地に全く同じ社殿を建て替え、
     鳥居・橋・その他の建築物、およびご神体周辺の御装束・祭器具神宝類を、
     なるべくそれまでと同じ形に、同じ作り方で、作り直して新しくするというお祭りの一つで、
     式年とは定められた年という意味であり、伊勢神宮では20年に1度行われる。
     伊勢神宮では、毎年神嘗祭にご神体周辺の御装束や祭器具神宝を新たにしているが、
     これを超大規模にしたのが、式年遷宮である。
     足かけ8年にわたる一連の儀式の総称であり、古いものを新しくすることで、
     永遠に若々しくあり続けることを願った、日本人独特の文化を象徴しているといえる。
     第1回の式年遷宮が内宮で行われたのは、690(持統天皇4)年のことで、
     それから1300年にわたって続けられ、1973(昭和48)年に第60回、
     1993(平成5)年には第61回が行われ、2013(平成25)年に第62回を迎える。
     神宮にとって永遠性を実現する大いなる営みでもある。
     一般の人が御社殿の周りの「御垣内(みかきうち)」の奥深く立ち入ることができるのは
     20年に1度行われる式年遷宮の「お白石持行事(おしらいしもちぎょうじ)」の時だけとあって、
     前回のお白石持行事は、1993(平成5)年7月31日から8月19日までが内宮で、
     8月21日から30日までが外宮でなされ、奉献者は内宮が8万人以上、外宮が7万人以上で、
     一日神領民も5万7000人。合計で約21万人が参加した。
    参 : 伊勢神宮(HP)、パワースポット
一枚起請文(いちまいきしょうもん) : @紙1枚に書いた起請文。
    A一枚起請。一枚消息。御誓言。
     浄土宗の開祖・法然が建暦2年1月23日(ユリウス暦1212年2月27日)の臨終の際、
     側近の門弟・源智の懇請を受け、病身をおして浄土往生の要義を仮名交じりの和文で
     1枚の紙に自書した遺訓である。往生浄土の教えの要がまとめられている。
     経文には普通、法然上人御遺訓一枚起請文と題されている。浄土宗で朝夕読誦(どくじゅ)する。
     大本山金戒光明寺に原本があり、毎年4月23日・24日に勤められる同大本山の御忌法要の中で、
     拝見することができる。

     一枚起請文朱書きは浄土宗新聞・No.515の意訳より)
     もろこし(唐土)わが(我)朝(ちょう)に、もろもろの智者たちの沙汰し申さるる
     私(法然)の説いてきたお念仏は、み仏の教えを深く学んだ中国や日本の高僧方が理解して説かれてきた、
     観念の念にもあらず。また学問をして念の心を悟(さと)りて申す念仏にもあらず。
     静めた心でみ仏のお姿を想い描く観念のお念仏ではありません。
     また、み仏の教えを学びとり、お念仏の意味合いを深く理解した上で称
(とな)えるお念仏でもありません。
     ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく、
     阿弥陀仏の極楽浄土へ往生を遂げるためには、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とお称えするのです。
     往生するぞと思い取りて申す外(ほか)には別の仔細(しさい)候(そうら)わず。
     一点の疑いもなく「必ず極楽浄土に往生するのだ」と思い定めてお称えするほかには、何の子細もありません。
     ただし三心四修(さんじんししゅ)と申すことの候(そうろ)うは、
     ただし、お念仏を称える上では三つの心構えと四つの態度が必要とされていますが、
     皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。
     それらさえもみなことごとく、「『南無阿弥陀仏』とお称えして必ず往生するのだ」と思い定める中に、
     自ずと具わってくるのです。

     この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候(そうろ)うべし。
     もし私が、このこと以外にお念仏の奥深い教えを知っていながら隠しているというのであれば、
     あらゆる衆生を救おうとするお釈迦さまや阿弥陀さまのお慈悲に背くこととなり、
     私自身、阿弥陀さまの本願の救いから漏れ堕
(お)ちてしまうことになりましょう。
     念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学(がく)すとも、
     お念仏のみ教えを信じる者たちは、たとえお釈迦さまが生涯をかけて
     お説きになったみ教えをしっかり学んだとしても、

     一文不知(いちもんふち)の愚鈍(ぐどん)の身になして、
     自分はその一節さえも理解できない愚か者と自省し、
     尼入道(あまにゅうどう)の無智のともがらに同じうして、
     出家とは名ばかりでただ髪を下ろしただけの人が、
     仏の教えを学んでいなくとも心の底からお念仏を称えているように、

     智者(ちしゃ)のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし。
     決して智慧ある者のふりをせず、ただひたすらお念仏を称えなさい。
     証(しょう)の為に両手印(りょうしゅいん)をもってす。
     以上のことを証明し、み仏にお誓いするために私の両の掌(てのひら)を印としてこの一紙に判を押します。
     浄土宗の安心起行(あんじんきぎょう)この一紙(いっし)に至極(しごく)せり。
     浄土宗における心の持ちようと行のありかたを、この一紙にすべて極めました。
     源空が所存、この外に全く別義(べつぎ)を存ぜず、
     私、源空の存ずることには、この他に異なった理解はまったくありません。
     滅後(めつご)の邪義(じゃぎ)をふせがんがために所存を記(しる)し畢(おわ)んぬ。
     私の滅後、お念仏について邪(よこしま)な見解が出てくるのを防ぐために、
     存ずるところを記
(しる)し終えました。
       建暦二年正月二十三日                      大師在御判(だいしだいごはん)
                                            法然上人の花押
     参 : 浄土宗(HP)
一揖(いちゆう) : 軽い会釈のこと。神社などで、揖(浅いお辞儀)を1回することをいい、
    一揖は鳥居をくぐる前に行い、参拝時の二拝二拍手一拝の前後に一揖を加えると、
    いっそう丁重な作法になる。 参 : 深揖
一生不犯(いっしょうふぼん) : 仏教の「不淫戒」という戒律で、一生男女の交わりをしないこと。
    参 : 五戒八戒十戒

    古代ギリシャと並んで、古代から江戸幕末まで、日本では「男同士の愛」は、広く認められていた。
    しかし、近代以後、同性同士の愛は、「異性愛に比べて普通じゃない、異端」「キワモノ、ゲテモノ」などの
    扱いを受けることが多くなった。現在はそのようなことは薄らいでいるが、
    仏教界に男色が多いとされたのは、男女の交わりではないからとこじつけたのだろうか。
    これらのことと、後継ぎ問題もあって、明治以降は僧侶の妻帯を認めたのでしょうね。

一心不乱(いっしんふらん) = 一心不乱(別掲)
稲荷神社(いなりじんじゃ) = 稲荷神社(別掲)
今戸神社(いまどじんじゃ) = 今戸神社(別掲)
今宮戎神社(いまみやえびすじんじゃ) = 今宮戎神社(七福神に別掲)
弥谷寺(いやだにじ) = 弥谷寺(お遍路関連に別掲)
宇佐神宮(うさじんぐう) = 宇佐神宮(八幡宮関連に別掲)
臼杵磨崖仏(うすき・まがいぶつ) = 臼杵磨崖仏(磨崖仏関連に別掲)
孟蘭盆(Feast of Lanterns)うらぼん : サンスクリット語の「ウランバーナ」の漢訳で、
    意味は「アバランバナ」つまり倒懸(とうけん・逆さ吊り)で、
    餓鬼道の飢えや渇きの苦しみが、あたかも、逆さに吊るされた苦しみに似ているところから、
    このようにいわれ、お盆の盆は、それを救う器という意味で、盂蘭盆が略された言葉とも言われている。
    死後に非常な苦しみを受けている者を救う法会(ほうえ)が、後に先祖の霊を供養する法会となった。
    日本では7世紀中頃から行われ、江戸時代に7月13日から15日を盂蘭盆としたという記録がある。
    太陰暦の15日の夜は満月で、盆踊りが月夜だとのイメージは、これに起因するのである。
    太陽暦の15日は、必ずしも満月とは限らない。[季語]秋−行事。
盂蘭盆会(うらぼんえ) : 「盂蘭盆経」という経典に説かれた教えをもとに、お盆の法要を行うこと。
    通常は単に「盆」や「お盆」といわれ、この盂蘭盆会のことを指し、魂祭り(たままつり)とも呼ばれる
    先祖供養の行事である。地獄に堕ちて苦しんでいる者を救うために、百味の飲食を盆に盛って、
    聖僧を通 じて仏に供養し、その苦しみを取り除いて成仏に導くという儀式のことで、
    釈迦の定めた陰暦7月15日を中心とする行事であるが、
    関西方面では一月遅れの8月15日を中心に行うことが多い。先祖が里帰りをされる期間の仏事で、
    キュウリで作った馬、ナスビで作った牛などのお供えをする盆棚(精霊棚)を作り、
    寺参りをし、迎え火・送り火によって精霊をまつった。10日の草の市から、
    魂迎え、魂祭、盆供などあって16日に大体終わる。死後最初に来る盆を新盆(にいぼん)
    初盆(はつぼん)と言い、特に大切に行う。[季語]秋−行事。 参 : 施餓鬼    
お盆に先祖供養をしますか?
25%の「いいえ」と
答えた人の理由(「はい」は61%)
回答者
数(人)
先祖供養以外で
お盆といえば? 
回答者
数(人)
お墓参りに
行く頻度は?
お盆の時期にこだわっていない 437 里帰り 1673 月数回以上
実家が遠く帰省が大変  329 家族や親族の集まり 862 年数回以上 58
心の中で手を合わせている  231 渋滞  847 数年に1回  18
身近に対象の人がいない  136 夏休み  619 めったに行かない 15
仕事などで忙しい  98 レジャー  84 その他 
先祖や親族との関係に事情がある 48 その他  134    
旅行など別の予定がある  41        
その他  147        
2008.8.2、朝日新聞「アスパラクラブ」会員による「beモニター」アンケートより
私のような戦前生まれは「先祖があるから自分がある」と、
先祖に感謝する気持ちを持っている人が多いようで、
先祖の霊があの世から帰ってきて家族と一緒にひとときを過ごすというお盆は、
墓やお寺にお参りし、身近な親類一同で飲み食いしながらの
年に1度くらいの会話は必要だと思う。賛否両論があるが、
先祖から受け継いだ伝統や慣習は絶やさない方がいいというのが私個人の持論である。

 「わざわざお盆に墓参りをしても、墓の中の本人は知りもしないのだからナンセンス」と言う
55歳の女性は、数十年経つと考えが変わるかもしれない。
栄西(えいさい) : 明菴栄西(みょうあんえいさい・ようさい)。栄西禅師。
    葉上房(ようじょうぼう)、千光(せんこう)国師、智金剛と称し、禅宗の字(あざな)は明庵(みょうあん)
    平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。日本臨済宗の開祖、建仁寺の開山。
    生年には異説がある。天台密教・葉上流(ようじょうりゅう)の祖でもある。1141(永治元)年、
    吉備津(きびつ)宮(現・岡山市、吉備津神社)の権禰宜・賀陽(かや)貞遠の子として誕生。
    1148(久安4)年、8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられる。
    1151(仁平1)年、仏道を志して比叡山延暦寺に入り密教を学んだ。
    1154(久寿元)年、14歳で延暦寺にて出家得度。以後、延暦寺、吉備安養寺、
    伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。
    1162(応保2)年、いったん帰郷して修行したのち、ふたたび叡山に入って灌頂(かんじょう)を受けた。
    この間、静心(じょうしん)、千命(せんめい)、有弁(ゆうべん)、基好(きこう)、顕意(けんい)に師事した。
    1168(仁安3)年に形骸化した日本天台宗に嫌気し、南宋に留学。天台山万年寺などを訪れ、
    『天台章疎』60巻を将来する。当時、南宋では禅宗が繁栄し、それに大いに感化され、
    仏法復興のために禅の重要性を感じたとされる。1187(文治3)年、再び入宋。
    仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。
    1191(建久2)年、虚庵懐敞より臨済宗の嗣法の印可を受ける。同年、帰国。
    福慧光寺、千光寺などを建立し、筑前、肥後を中心に布教に努める。
    1194(建久5)年、彼や大日房能忍の禅宗が盛んになり、
    天台宗からの排斥を受け、禅宗停止が宣下される。
    1195(建久6)年、博多に聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。
    同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。
    栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。
    1198(建久9)年、『興禅護国論』執筆。禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に
    重要であることを説く。京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。
    1200(正治2)年、北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。
    1202(建仁2)年、源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。建仁寺は禅・天台・真言の
    三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の権力に取り入り、それを利用して禅宗の振興に努めた。
    1206(建永元)年、重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。1212(建暦2)年、法印に叙任。
    1213(建保元)年、権僧正に栄進。政治権力にひたすら追従する栄西には当時から多くの批判があった。
    特に栄西が幕府を動かし、大師号猟号運動を行ったことは大きな非難を浴びた。
    栄西の策動は生前授号の前例が無いことを理由に退けられるが、
    天台座主慈円は『愚管抄』で栄西を「増上慢の権化」と罵っている。
    1215(建保3)年、享年75歳で病没。終焉の地は、鎌倉か京都の2説がある。
詠唱(えいしょう) = 詠唱(別掲)
永平寺(えいへいじ) : 横浜市にある總持寺と並ぶ曹洞宗の大本山で、
    末寺15,000寺を有する中心寺院で、福井県吉田郡永平寺町志比にある。山号は吉祥山と称する。
    境内は三方向山に囲まれた深山幽谷(しんざんゆうこく)の地に大小70余りの建物が並んでいる。
    
    本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。
    開創は1244(寛元2)年、京都深草から道元禅師が移って開山し、開基は波多野義重で、
    その後、道元とその弟子の坐禅修行の道場となり、今もつねに250余名の修行僧が
    日夜修行に励んでいる。初め大仏寺と称したが、1246(寛元4)年永平寺と改めた。
    五世義雲の時、現在地に移転した。道元筆の「普勧坐禅儀」(国宝)や銅鐘(重文)などを所蔵している。
    一般の拝観者も研修道場で修行できるが、規則に従わなければならない。
    
    2007.5.9撮影
    平成8年建立の写経を納める報恩塔(納経塔)。永平寺の老杉を利用し、
    六角・一重衣階付(ひとえもこしつけ)の塔で建立され、中には納経箱が500個収納できる。
    永平寺山門、追悼の光
     永平寺の山門や鐘楼など五つの伽藍(がらん)をライトアップする
    「冬の燈籠会(とうろうえ)」が2008年2月8日、始まった。
    雪が降り積もった境内には、約300基の灯籠(とうろう)が光の回廊をつくり、荘厳な雰囲気に包まれた。
     永平寺町観光物産協会と永平寺門前観光協会が2006年から催している。
    2008年は、1月に106歳で亡くなった第78世貫首宮崎奕保(えきほ)禅師の追悼行事として開催した。
    山門には宮崎禅師の遺影が置かれ、手を合わせる参拝客の姿も見られた。
     ライトアップは11日まで、午後6〜8時。ライトアップの外拝観コースは無料。
    お釈迦様の恩恵を表した「涅槃(ねはん)だんご」と「しょうが湯」のふるまいもある。
    
    参 : 永平寺町(公式HP)、禅の里、永平寺へようこそ(HP)、永平寺町役場(HP)精進料理
回向(a memorial service)えこう : 廻向とも書き、向かわせる、ふり向ける、
     めぐらすというような意味である。つまり、方向を転じて向かうことをいう。
    @自己が行なった修行や造塔・布施などの善行の結果を、
     自己や他者の成仏や利益(りやく)などのために差し向けること。
     自分が行った善行の功徳(くどく)を、自分だけでなく享受するのではなく、他者にも振り向けること。
    A死者の成仏を祈って供養を行うこと。
    B浄土真宗で、阿弥陀仏の本願の力によって浄土に往生し、またこの世に戻って人々を救済すること。
     前者を往相廻向、後者を還相(げんそう)廻向という。
    C寺へ寄進すること。
    D回向文(えこうもん)を唱えること。また、その文。
恵方詣(えほうもうで、えほうまいり) : 元旦に歳徳神(としとくじん)のいる方角にあたる神社に参拝すること。
    元は、大みそかの夜に出掛け、吉方角にある神社や寺に参拝する恵方参り(えほうまいり)を「初詣」と
    いい、夜が明けてから地域の氏神様にお参りする「初詣」が混ざったのが、現代の「初詣」とされている。
    [季語]新年−行事。
    毎年替わる恵方一覧
     2004(平成16)年 甲申(木の兄) 甲(寅卯の間)の方位(東微北→東北東)
     2005(平成17)年 乙酉(木の弟) 庚(申酉の間)の方位(西微南→西南西)
     2006(平成18)年 丙戌(火の兄) 丙(巳午の間)の方位(南微東→南南東)
     2007(平成19)年 丁亥(火の弟) 壬(亥子の間)の方位(北微西→北北西)
     2008(平成20)年 戊子(土の兄) 丙(巳午の間)の方位(南微東→南南東)
     2009(平成21)年 己丑(土の弟) 甲(寅卯の間)の方位(東微北→東北東)
     2010(平成22)年 庚寅(金の兄) 庚(申酉の間)の方位(西微南→西南西)
     2011(平成23)年 辛卯(金の弟) 丙(巳午の間)の方位(南微東→南南東
     2012(平成24)年 壬辰(水の兄) 壬(亥子の間)の方位(北微西→北北西)
     2013(平成25)年 癸未(水の弟) 丙(巳午の間)の方位(南微東→南南東)
    参 : 恵方巻き
絵馬(えま) = 絵馬(別掲)
縁起(えんぎ) = 縁起(別掲)
円空(えんくう) : 1632(寛永9)〜1695(元禄8)年は、江戸時代前期の天台宗の僧で、
    美濃(みの)国の生まれで、64歳で没。出生地の最も有力な説は竹ケ鼻(現在の岐阜県羽島市)。
    23歳の時、修験者として諸国行脚の旅に出たとされ、30歳頃から仏像を刻み始め、
    60歳頃までになんと12万体の仏像を彫っている。中部地方を中心に
    北海道から近畿地方に至る各地を遍歴、多数の粗削りの木彫仏像(円空仏)を刻み、
    普通なら使わない曲がった木や切り株などを活かして、仏像を造った。
    寺も仏像もない辺境の村々を旅し、そこで手に入る木を使って人々のために仏像を造った。
    仏像の背中に「是(ここ)に廟(びょう)ありすなわち世尊(せそん)」という円空の言葉が記されている。
    世尊とはお釈迦様のことで、この世のすべてのものに仏が宿っているという意味である。
    
    円空(高山市の千光寺蔵)
円空仏(えんくうぶつ) : 江戸時代の僧、円空が彫った荒削りで素朴な仏像のこと。
    「円空仏は生成り(キナリ)を味わえ」と言われ、鉈(なた)彫りによる素朴で大胆な作風が特色で、
    一本一本の木が持つ癖(生成り)を活かした所に円空仏のよさがある。
    ずんぐりした杉の根っこの薬師如来像など、自然のままの木肌を、衣の線にみたてて見事に
    造形している。それは、円空が、どんな木にも仏様が宿っていると信じていたからである。
    円空仏は、岐阜・愛知・三重・滋賀・長野・群馬・青森・秋田・栃木・静岡・神奈川・東京・福島・
    埼玉・千葉・富山の各県と北海道各地で多数発見され、「12万体の造像」を祈願した
    円空の強い思いが伝わってくる。現在まで二千数百体が発見されている。
    
    円空仏
    円空仏作品所在地
    ★北海道伊達市「有珠善光寺」 : 観音像。
    ★埼玉県「八條大経寺観音堂」 : 千手観音像。
    ★愛知県江南市村久野町「琴聲山音楽寺」 : 十二神将像。
    ★愛知県西尾市「浄名寺」 : 曲がった大きなクスの木に最小限の彫刻を施しただけの
                       高さ2メートル70センチの観音菩薩像。
    ★岐阜県高山市飛騨高山「千光寺」 : 一本の木から彫りだされた不動三尊ほか仏像63体。
    ★岐阜県高山市「正宗寺」 : 薬師如来像
    ★岐阜県国府町「清峯寺」 : 聖観音像。
    ★滋賀県大津市、琵琶湖南西の長等山中腹「三井寺(みいでら)」 : 7体の円空仏。
    ★三重県津市「真教寺」 : 十一面観音像。
    参 : 木喰仏
閻魔王(えんまおう) : 閻魔。閻魔大王。閻魔羅(えんまら)。閻羅(えんら)。閻王。
    インド神話で、正法・光明の神。のち死の神と考えられ、
    仏教では、冥界(めいかい)の王、地獄の王として、人間の死後に善悪を裁く者とされ、
    死んで地獄に行った人間は閻魔大王を含む十人の王の法廷に順繰りに引き出され、
    そこで生前の行いを審査され、おおむね十三回忌までには最終結審し、
    特に重い罪を犯した罪人は地獄へ堕とされるという。
    閻魔大王はこの十人の裁判官のリーダーであり、十番目の法廷の裁判長でもある。
    閻魔王の服装が中国風なのは、仏教が中国を経由するとき、道教の影響を受けた為である。
    また、恐ろしい顔をしているが、仏教ではお地蔵さまの化身であり、
    再び罪をつくらせない為に恐ろしい顔で叱咤しているとされる。
    昔、親が子に「嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれる」と教育していた。 参 : 奪衣婆
    閻魔大王像(えんまだいおうぞう) : 佐賀県伊万里市木須町4676にある
     神通山色心院「常光寺」の閻魔堂に鎮座する閻魔像で、身の丈なんと約170cmある。
     釣り上がった太い眉、カッと見開いた目、そして喝破(かっぱ)しているかのような口は、
     まさに閻魔さまである。写真にはないが、左右に従う司令・司録・赤鬼・青鬼の各像とともに
     1712(正徳2)年に作られた。閻魔堂は1773(安永2)年の建造。
     右手は笏(しゃく)を持ち、左手は膝の上に人々の救済を意味する成弁印を結ぶ。
     座前には人の生前の罪業をすべて映し出すという浄玻璃(じょうはり)の鏡がある。
     「常光寺」は1598(慶長3)年、豊臣秀吉の命により、
     念仏宣揚のために京から下向した源誉智本上人によって創建された。
    
    閻魔大王像(佐賀県伊万里市の常光寺蔵)浄土宗のふれあいマガジン「かるな」2004年冬号より
延暦寺(えんりゃくじ) = 延暦寺(別掲)
往生(death)おうじょう : 英訳がdeathのように、一般には@死ぬことA困難、という意味である。
    仏教においては、「往(い)って生まれる」の文字そのものから
    「命が終わって後、仏さまの国に生れさせていただくこと」をいう。死によってこの穢(けが)れた世を去り、
    仏、菩薩(ぼさつ)の浄土(じょうど)に生まれることであり、通常は阿弥陀仏(あみだぶつ)
    極楽浄土に生まれることを指す。日本では平安時代中期以降、臨終来迎(らいごう)の風潮が高まり、
    臨終正念が重視された。法然(源空)に至って第十八願の念仏の易行(いぎょう)が強調され、
    また親鸞ではとくに信心が往生の正因とされた結果、彼独自の回向(えこう)思想と相まって、
    この世で仏から真実の信心を賜ったそのときをさして往生ともよぶに至っている。
    様々な浄土への往生があるが、一般的には阿弥陀仏の浄土とされている極楽への往生を言う。
    これは極楽往生(ごくらくおうじょう)といわれ、往とは極楽浄土にゆく事、
    生とは、そこに化生(けしょう)する事で、浄土への化生は蓮華化生という。
    化生とは生きものの生まれ方を胎生・卵生・湿生・化生と四種に分けた中の一つ。
     @胎生 : 人間や獣のように母の胎(からだ)から生まれる事
     A卵生 : 鳥類のように卵から生まれる事
     B湿生 : 虫のように湿気の中から生まれるもの
     C化生 : 過去の業(ごう)の力で化成して生まれること。天人など
    極楽浄土への往生は、そこに生まれる業の力で化生すると言う。
    蓮華化生とは極楽浄土の蓮華の中に化生するという意味。
大国主神社(おおくにぬしじんじゃ) = 大国主神社(七福神に別掲)
大洲鉄然(おおず・てつねん) = 大洲鉄然(周防五傑僧に別掲)
黄檗宗(おうばくしゅう) : 臨済宗曹洞宗に続く3番目の禅宗派で、
    当初、臨済正宗黄檗派と称していたが、明治9年に臨済宗から一宗として独立し黄檗宗と改めた。
    中国明(みん)代の僧・隠元隆g(いんげんりゅうき)(1592〜1673)を開祖とし、
    京都府宇治市にある黄檗山・万福寺(まんぷくじ)を本山とする。
    元和(げんな)・寛永(かんえい)(1615〜44)のころ、長崎には明末の動乱を逃れて渡来した
    多くの中国人、華僑(かきょう)が在住していたが、とくに福州(福建省)出身者たちによって
    興福寺(こうふくじ)、福済寺(ふくさいじ)、崇福寺(そうふくじ)の長崎三福寺が建てられ、
    明(みん)僧が招かれて住していた。臨済宗楊岐派(ようぎは)に属し、
    費隠通容(ひいんつうよう)の弟子であった隠元は、福州の黄檗山万福寺に住していたが、
    興福寺逸然性融(いつねんしょうゆう)の招聘(しょうへい)を受け、大眉性善(だいびしょうぜん)
    独湛性瑩(どくたんしょうけい)、独言性聞(どくげんしょうもん)、南源性派(なんげんしょうは)
    随行30名を連れて江戸時代前期、1654(承応3)年に長崎に来航し、興福寺、崇福寺、
    摂津普門寺の住職を務めた。ついで1658(万治1)年江戸湯島・麟祥院(りんしょういん)
    寄寓(きぐう)し、4代将軍徳川家綱に謁して信頼を得、1661(寛文1)年についに幕府の許可を得て
    山城(やましろ)国宇治に大禅苑(だいぜんえん)を建立、先住地の名をとって黄檗山万福寺と名づけた。
    当時、その教えは臨済の正法といわれ、幕府や諸大名等が挙って帰依し、
    社会的にも文化的にも数々の新風を吹き込んだと伝えられる。
    黄檗宗の宗風は臨済宗の禅に明代の念仏禅を加え、読経は唐音(とういん)
    儀式などの決まりは明朝風である。
    隠元禅師、木庵禅師に即非如一(そくひにょいち)を加えた3人は、黄檗三筆として知られている。
    参 : 仏教各宗派比較表臨済禅・黄檗禅公式ホームページ東京禅センター(HP)
大阪七福神(おおさかしちふくじん) = 大阪七福神(七福神関連に別掲)
大洲鉄然(おおず・てつねん) = 大洲鉄然(周防五傑僧に別掲)
お経(a sutra)おきょう : @経。三蔵の一つ。契経(かいきよう)。仏の教えを記した文章、つまり、
     お釈迦さまの説法を文章化したもの。仏の説いた言葉をそのまま伝えるという形式をとる。
     しかし、厳密に云うとお釈迦さまの、直接に云われたものを書き留めたものではない。
     お釈迦さまがお亡くなりになった後で、お弟子さん達によって、
     お釈迦さまのみ心を書き記したものである。
      お経を言語で分類すると、主なものに、根本のサンスクリット語(梵語)、
     古代インドの一地域の方言であるパ−リ語、梵語を基盤につくられたチベット語、漢語の経典がある。
      内容よりみると、経(教説を記したもの)、律(戒律について記したもの)、
     論(経を解釈したもの)に分ける。この三つを三蔵といい、これに精通した僧を三蔵法師と呼ぶ。
     西遊記の主人公である玄奘三蔵が有名である。なお三蔵に分類されないものもあり、
     一般に仏教典籍をあつめたものを大蔵経あるいは一切経という。
     現在僧侶によって読誦されているお経は、各宗の開祖などによって大蔵経の中から各々の
     意図するところにより選びだされたものである。
     各祖師はその経典を通して釈尊と出逢い真理を体得された(悟られた)のである。
    A契経。十二分経の一つ。経のうち、散文で記された部分のこと。
    B仏教に関する文献の総称。@に論と律を加えたもの。

    私のお経(浄土宗日用勤行式)♪は?(きん)(または鈴:りんとも言う)を鳴らす
    香偈(こうげ) : 初めにお花、線香、蝋燭(ろうそく)などを仏前に供え、正座して焼香し、
     心身および道場が清浄になるように念じながら、?を鳴らして拝みましょう。
     ★♪♪♪♪♪♪♪♪
      ♪我願身浄如香炉♪(がんがぁしんじょーにょこうろぉ)
      願わくは私の身が浄(きよ)きこと香炉の様でありますように
     ★願我心如智慧火(がんがぁしんにょーちぃーえーかぁ)
      願わくは私の心が智慧の火の様でありますように
     ★念念焚焼戒定香(ねぇんねーんぼんじょうかぁいじょうこー)念念に戒定の香を焚き奉りまして
     ★♪供養十方三世(くようじっぽうさんぜーぶー)十方三世の仏を供養いたします。
    三宝礼(さんぼうらい) : 真心を込めて佛法僧の三寶を礼拝しましょう。
     ★♪一心敬礼十方法界常住佛(いっしん きょうらーい じっぽうほぉかい じょうじゅうぶー)
      一心に敬って、十方法界常住のあらゆる仏様を礼賛いたします。
     ★♪一心敬礼十方法界常住法(いっしんきょうらーい じっぽうほぉかいじょうじゅうほう)
      一心に敬って、十方法界常住の法を礼賛いたします。
     ★♪一心敬礼十方法界常住僧(いっしんきょうらーい じっぽうほぉかい じょうじゅうそう)
      一心に敬って、十方法界常住の僧を礼賛いたします。
    四奉請(しぶじょう) : 諸佛菩薩をお招きして加被護念を願う心で拝みましょう。
     ★♪奉請十方如来入道場散華楽(ほうぜい しほうじょーらい じとうちょう さんかーらく)
      請(しょう)じ奉(たてまつ)る十方如来道場にお入りください
     ★奉請釈迦如来入道場散華楽(ほうぜい せきゃーじょーらい じとうちょう さんかーらく)
      請じ奉る十方釈迦如来道場にお入りください
     ★奉請彌陀如来入道場散華楽(ほうぜい びたーじょーらい じとうちょう さんかーらく)
      請じ奉る弥陀如来道場にお入りください。
     ★奉請観音勢至諸大菩薩道場散華楽(ほうぜいかんにんせいししょーたいほーさー
                              じとうちょう さんかーらく)
      請じ奉る観音勢至諸大菩薩(ぼさつ)道場にお入りください
     ★奉請観音勢至諸大菩薩入道場散華(ほうぜいかんにんせいししょーたいほーさー
                                     じとうちょうさんかーらく)
      請じ奉る観音勢至諸大菩薩道場にお入りください。
    懺悔偈(さんげげ)または略懺悔(りゃくさんげ)や懺悔文(さんげもん)
     煩悩の根本である貧(むさぼり)、怒り(瞋)、愚かさ(痴)、のために、身(体)や語(言葉)、意(心)に
     よって造ってきたすべての罪を仏さまに懺悔し、お十念をとなえ、仏さまのお力で罪の消滅を願う。
     我々は輪廻転生(りんねてんしょう)を繰り返し、人として生れ、お念仏の教えに出会いました。
     それまでの間や今でも造り続けている罪を仏さまに懺悔し、その消滅を願い、身も心も
     清らかになろうということから、過去および現在の一切の悪業行為を悔い改める心で拝みましょう。
     ★♪我昔所造諸悪業♪(がしゃくしょぞう しょあくごう)我れ昔より造る所の諸(もろもろ)の悪行は
      私が昔しました諸々の悪行は
     ★皆由無始貧瞋痴(かいゆーむしとんじーんちー)皆無始(むし)の貧瞋痴(とんじんち)による
      それは皆、無知の煩悩(欲・怒り・愚痴)による 参 : 貧瞋痴
     ★従身語意之所生♪(じゅうしんごいししょしょう)身語意(しんごい)より生ずる所なり
      身と口と意(こころ)が造る諸々の罪を
      宗派によっては従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)
     ★一切我今皆懺(いっさいがーこん かいさんげー)一切我れ今皆懺悔したてまつる
      私は今一切の全てを懺悔します。
    十念(じゅうねん) : 念仏を十辺となえましょう。
     南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)
     南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)
     南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)
     南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)
     南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)
     南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)
     南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)
     南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)
     南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)
     南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)
    きれいな身体や心になり、いよいよ浄土三部経に説かれる誦経(ずきょう)やお念仏に続いていくが、
    私の毎日の勤行はここまででお許し願い、以下は省略している。
    開経偈(かいきょうげ)
     佛法に遇い、お経を読んで徳を積むことのありがたさを喜びながら拝みましょう。
     ★♪♪無上甚深微妙法♪(むじょうじんじん みみょうほう)この上もない奥の深いすぐれた仏の教えに
     ★百千萬劫難遭遇(ひゃくせんまんごう なんそうぐう)遭うことは百千萬劫にも難しいことですが
     ★我今見聞得受持(がーこんけんもんとくじゅぅじ)
      私はたった今、その仏の教えにめぐりあうことができました。
     ★♪願解如来眞實(がんげにょらい しんじつぎー)
      如来(仏)の奥深い真実の教えを得ることを切に願います。
    四誓偈(しせいげ) : 法蔵菩薩(現阿弥陀佛)の本願が書かれた佛説無量寿経の一部分。
     ★第一段 : 法蔵菩薩の三つの願いが書かれている。
     ★第二段 : 法蔵菩薩が佛を賛辞している部分。
     ★第三段 : 第一段から続いた法蔵菩薩の四つ目の願い(四誓偈)が書かれている。
              法蔵菩薩自身、そのような立派な佛になりたいと願っている。
    本誓偈(ほんせいげ)または廻向文(えこうもん) : 朝夕に勤行(ごんぎょう)し、
     経をよんだ功徳を極楽往生のためにふり向ける心で拝みましょう。
     ★♪弥陀本誓願♪(みだーほんせーがーん)阿弥陀佛が衆生を救おうとお立てになられた誓願は
     ★極楽之要門(ごくらくしよーもん)極楽への要門(我々に対する重要な手引き・お導き)なり
     ★定散等回向(じょうさんとうえこう)宗教的な精神統一状態である定と、統一状態にない
      日常的な心の在り方である散を等しく回向して
     ★♪速証無生(そくしょうむしょうしん)速やかに悟りの身となること実現します。
    十念(じゅうねん)
    摂益文(しょうやくもん)
     ★♪光明偏照♪(こーみょー へーんじょー)阿弥陀佛の救いの光明は、
     ★十方世界(じっぽーせかーい)十方世界を隅々まで照らし
     ★念仏衆生(ねんぶーつしゅじょー)念仏衆生を
     ★♪摂取(せっしゅーふしゃー)救い取りお捨てになることはありません。
    念仏一会(ねんぶついちえ) : 十念(じゅうねん)を2回
    総回向偈(そうえこうげ)または總廻向文(そうえこうもん)
     十方一切の諸霊魂怨親平等に利益を蒙るように念じながら拝みましょう。
     ★♪願以此功徳♪(がんにしくどーくー)願わくはこの功徳を以(もっ)
     ★平等施一切(びょーどーせー いーっさい)平等に全ての人々に施して
     ★同発菩提心(どーほつぼだい しーん)
      同じく菩提心(最高の悟りである仏としての悟りを願い求める心)をおこして
     ★♪往生安楽(おうじょうあんらくこく)皆共に極楽に往き生まれることから、
      ともに生きる世界に向かって、終わりのない歩みを続けていきます。
    十念(じゅうねん)
    総願偈(そうがんげ)
     ★♪衆生無辺誓願度♪(しゅーじょーむへーんせーぃがーんどー)
      迷いの世界の衆生は数限りありませんが、
      私は誓ってそれらの人々を悟りの境地に至らせたいと願います。
     ★煩悩無辺誓願断(ぼーんのーむへーんせーぃがーんだーん)
      迷いの煩悩は数限りありませんが、私は誓ってそれらを断ち切りたいと願います。
     ★法門無尽誓願知(ほーもーんむじーんせーぃがーんち)
      み佛の教えの門は数限りありませんが、私は誓って知り尽くしたいと願います。
     ★無上菩提誓願証(むじょーぼだーいせーぃがんしょー)
      佛の悟りは無上のものでありますが、私は誓ってそれを体得したいと願います。
     ★自他法界同利益(じたーほーかーいどーりやく)
      私も他の人も同じようにお念佛を称える功徳にあずかり、
     ★♪共生極楽成仏(ぐしょーごくらくじょーぶつどー)
      皆一緒に極楽浄土に往生して悟りの道を成就しましょう。
    三唱礼(さんしょうらい) : 南無阿弥陀仏(なぁむぅあみだーぶー)3回×3
    送佛偈(そうぶつげ) : 最初に諸佛菩薩をお招きしましたが、
     今は勤行(ごんぎょう)が終わりましたので、お帰りを願う心で拝みましょう。
     ★♪請仏随縁還本国♪(しょーぶつずぅいえーんげーんぽーんごぉくぅ)
      どうぞもろもろのみ佛よ、それぞれの縁にしたがって本国にお還り下さい。
     ★普散香華心送仏(ふさーんこーけぇしぃんそーぶつ)
      香を焚いて、華を散りばめて心をこめてお送りいたします。
     ★願仏慈心遥護念(がーんぶつじしんよーごねぇん)
      み佛よ、慈悲のみ心をもって、遥かかなたより護念下さいますように。
     ★♪同生相勧尽須(どうしょうそうかーんじーんしゅらぁい)
      私と同じ信仰によって極楽浄土へと往生された方々も、
      皆共に勧めあってお出で下さり、私たちをお護り下さい。
    三身礼(さんじんらい)
     ★南無西方極楽世界(なむさいほう ごくらくせかい)西方極楽におられ
     ★本願成就身阿弥陀佛(ほんがんじょうじゅしんあみだぶ)
      御本願(衆生救済)を成就された阿弥陀佛に帰依いたします。
     ★南無西方極楽世界(なむさいほうごくらくせかい)西方極楽におられ
     ★光明摂取身阿弥陀佛(こうみょうせっしゅあみだぶ)
      計り知れない光明によって私たちを救ってくださる阿弥陀佛に帰依いたします。
    三尊礼(さんぞんらい) : 唐の善導大師「往生礼讃」の「日中礼讃」から。
     内容は、「南無至心帰命禮」西方阿弥陀佛から始まり、佛浄土宗弥陀三尊を讃えている。
     浄土宗独特の美しい唱和で、頻繁に唱えられている。
                           (浄土宗信徒日常勤行式、浄土日用勤行式などより引用)
お遍路(おへんろ) = お遍路(お遍路関連に別掲)
お盆(おぼん) → 盂蘭盆
お身拭い式(おみぬぐいしき) : 御身拭式。
    本尊や祖師像などの仏像への感謝の気持ちを込めて1年間のほこりや汚れを拭い清める儀式。
    僧侶と参拝者が本堂に会し、お念仏の声が響き渡る中、普段は触れることのない仏像などを
    白布(知恩院の御門跡の場合、香染の羽二重の布)で掃除をする。
    12月15日〜29日頃の年末に行われることが多いが、
    年始に行われることもあり、特に時期が決まっているわけではない。ちなみに、
    季語での御身拭(おみぬぐい)は[春−生活]で、京都嵯峨の清涼寺釈迦堂で行われる儀式をいう。
開眼供養(かいげんくよう) : 仏像や仏画像を新しく作り、最後に眼を入れて仏の霊を迎えるときに行う法要。
    新しくつくった仏像の眼(まなこ)を開き、入魂する儀式のことで、位牌や墓、石塔などを
    新しくする際には菩提寺の住職に開眼供養を依頼する。お墓など、この開眼の供養を経てはじめて、
    ただの石の塔ではなく、先祖のお参りをするための仏塔として供養をささげる、信仰、崇拝の対象となる。
開眼式(かいげんしき) : 宗派や土地によって入魂式、入仏式、お霊入れ、魂入れ、お性根入れ等と
    呼び方は様々だが、本来の意味はその文字が示す通り、新たに仏像の眼を開く、ということである。
    現在では一般的に、位牌・石塔なども含めた入魂の儀式のことを言っている。仏教では、
    お墓を建てるということは「徳の高いこと」とされ、開眼式を執り行って、お墓の建立をお祝いする。
    また、生前にお墓を建てることは縁起の良いこととされ、生前に自分のお墓を建てる人も少なくない。
    したがって、開眼式は、納骨式とは別に一つの儀式として執り行われるので「開眼法要」とも言い、
    生前墓の開眼式の場合、空っぽのお墓に対しても法要を行う。ただし、たいていは
    新仏があることがほとんどなので、納骨式も一緒に行われ、仏事としての要素も色濃くなる。
    新仏の納骨がない石碑の建て替えの場合は、開眼式と、お性根抜きした先祖のお魂を
    仏石(棹石)に入れていただく「入仏式」を併せて執り行うケースが多い。この場合は若干仏事の
    要素は薄れるが、先祖の回忌法要もあわせて行う場合は、納骨式と同じように仏事の要素が濃くなる。
    また、改葬して先祖のお骨を移し替える場合もこのケースとなる。
    「開眼」とは、供養して仏の魂を迎え入れるという意味で、この儀式を済ませて初めて礼拝の対象となる。
    またお墓の場合は、先祖の家であるお墓が完成したことを祝うという意味もある。また、
    仏像にしろ位牌にしろ、それ以前のものがあれば俗に「魂抜き」といわれる「撥遣(はっけん)式」も行う。
    開眼式のお供え物
     開眼式のお祝いとして、紅白の餅もしくは紅白の饅頭に加えて、「乾物」や「野菜」、「果物」といった
     ものもお供えするのが一般的で、基本的に鯛などの生臭ものは仏式の場合はお供えしない。
     また宗旨やお寺にもよるが、新しいお墓を清める意味合いで、
     塩(粗塩)とお酒、お米や小豆といったものもお供えし、墓所に撒く場合もある。
     ちなみに霊園や石材店によっては、別途料金で開眼式のお供え物を一通り揃えてくれるところもある。
開帳(かいちょう) = 開帳(別掲)
花岳寺(かがくじ) = 花岳寺(別掲)
香川葆晃(かがわ・ほうこう) = 香川葆晃(周防五傑僧に別掲)
春日大社(かすがたいしゃ) = 春日大社(別掲)
合掌(がっしょう) = 合掌(別掲)
神棚(the family altar)かみだな : 家の中で、神社で戴いてきた大神宮や氏神などの
    御神符(おふだ)を祀(まつ)るための棚のことだが、現在では、御神符・神札などを奉安する
    お社(本来は「宮形(みやがた)」と言う)を含めた一式を指すことが多い。この様な風習は昔、
    伊勢の神宮の神官たちが大神宮の御神符を全国各地に頒布したことから始まったとされている。
    もともと我が国は遠い昔より農耕を始め、自然の中のあらゆる神様の御恵に感謝してきた。
    さらにその感謝の念をあらわすため、神社から戴いてきた御神符を
    より丁重にお祀りするために神棚を設けるようになった。
    神棚をお祀りする基本
    宮形の購入時期 : 特に決まった時期というのはなく、年明けや、
     古くなって傷んだ時や家を新築した時に新しい宮形を購入するのが良い機会である。
     設置する際、近くの神社の神職さんに神事を依頼しましょう。
    設置場所 : 清浄な所で、家族が集まってお参りし易い所(居間・床の間・リビング等)が良い。
     また、出来るだけ目線より高い場所で、南向きか東向きになるようにする。
     アパート、マンションなどでは、神棚の上にお手洗い(上階の部屋のお手洗い)などがある場所は
     避けたほうが良いが、建物の構造上やむを得ず神棚の上を通る場合は、
     天井に「雲」と書いた紙を貼り神棚の上が空であるとして、お許しをいただく。
    神棚が置けない場合 : 目線より高い、棚や家具の上にきれいな布を敷いて、
     南向きか東向きになるようにお札を祀る。適当な場所がなければ、北向きだけを避ければよい。
     お札は画びょうなどで留めず、壁にそっと立てかけましょう。
    お社(宮形)の配置と御神符の祀り方 : 宮形には扉が3つあるもの(三社造り)や、
     一つしかないもの(一社造り)が一般的だが、他にも形や大きさは様々なので
     お祀りする場所に応じて適当なものを選ぶ。神棚にお祀りする御神符は基本的には、
     伊勢の神宮の御神符の「神宮大麻」と氏神様(地域の神社)の御神符と
     その他よくお参りする崇敬(すうけい)神社の御神符になる。
     一社造りの宮形の場合は、手前から神宮大麻、氏神様、崇敬する神社の御神符という様に重ねて
      お祀する。崇敬されている神社が複数ある場合、氏神様の御神符の後ろに重ねてお祀りする。
     三社造りの宮形の場合は、中央に最上位である伊勢神宮の神宮大麻、
      向かって右に氏神様、左にその他崇敬しいる神社の御神符というようにお祀りする。
      崇敬している神社が複数ある場合、崇敬の厚い神社の御神符を手前にお祀りする。
     このようにしてお祀りした御神符は、年が明けたら感謝を込めて氏神様へお返しする。
    お供え物について : 毎朝お供えをして、その日の夕方にお下げするというのが本義である。
     しかし、何か事情があってそれができない場合は、なるべく本来の方法に近付けるようにする。
     お供え物の種類は、基本的には米(洗米またはご飯)・塩・水で、御神酒を添えることもあるが、
     横に並べる場合の順序は向かって左から水、(酒)、米、(酒)、塩の順とする。
     それに加えてお正月や家族にとって特別な日などには野菜や果物、お菓子といったものを、
     また親戚や知人から頂いたおみやげ物や珍しい物はその都度お供えして、
     神棚からお下げしたお供え物は、神様の「お下がり」としてご家族でいただきましょう。
    神棚にお飾りする榊 : 神様の近くに青々とした緑を絶やさないようにするためのものなので、
     1週間に1回などと、ある程度の期間を決めて取り替えるか、枯れ始めたら取り替えてもよい。
     出来たら毎朝御供え物をあげる際に、榊立ての水を替えるのが最も良い。
     神棚から下げてきた榊は家庭の敷地内でお焚き上げするか、
     または神社で冬に執り行われる左義長神事の際にお焚き上げしていただいても構わない。
    拝礼について : 神棚にお参りする際は、まず自分の体を清める(手を洗う、口をすすぐ等)。
     この際、朝一番にお参りする人が米・御神酒・塩・水等をお供えする。そして二礼(二度深いおじぎ)、
     二拍手(二度手をたたく)、一礼(最後にもう一度深いおじぎ)の作法にてお参りをする。
     夕方にお供え物を下げる際も、一日の感謝をこめて同じ作法でお参りをしてお供え物を下げる。
    忌中について : 忌中の期間については、各地域の習慣などにより違いがあるが、
     一般的に忌明けは50日とされている。この間は神棚の正面に白紙を貼り、お参りするのをひかえる。
     そして忌明けと共に近くの神社でお祓いを受け、白紙を取り外す。
    参 : 八幡宮
カルマ(karma:梵) : 元々はサンスクリット語で「行為」という意味で、
    日本では「業(ごう)」や「因縁」「過去世」といった言葉で解釈される。
    仏教では、前世の善悪の行いによって、現世の生きる環境の質に大きな影響があることをいう。
    つまり、前世や先祖達が誰かを苦しめたり、逆に相当に苦しんだ場合は、
    現世やその子孫がその報いや苦しみを背負い、解消していくことになるという。 参 : 輪廻転生
願掛け(がんかけ) : 自分の努力や実力だけでは目標を達成できないと感じたとき、
    人知を超えた神仏の力に頼ってお願いすること。願掛の方法は動機とも絡み合って様々あるが、
    病気の平癒(へいゆ)、商売繁盛、縁結び、厄除(やくよけ)祈願、受験や資格取得時の願掛けなどの
    個人祈願や代参のものが多く、雨乞いや豊作・大漁祈願、千人垢離(ごり)
    七人籠(こもり)などの共同で祈願したり、百度参り、千社参りと回数を重ね、灯籠(とうろう)
    鳥居・絵馬・わらじ・毛髪などを奉納して祈願の効果をあげようとする形態もある。
    通常、願掛けによって願いが叶った場合は、額や幡(ばん)を奉納したり、お礼参りを行うことで
    その恩寵(おんちょう)・霊験に感謝することが行われ、願果たしの祝宴などが開かれることもある。
    また、生前にかけた願をそのまま放置すると、亡き魂が浮かばれないことから、
    葬儀後に願を撤回する、願もどし・願ほどきといった儀式を行う地方もあった。        
受験で願掛けしましたか?
「はい」の人(49%)が答えた
願掛けの方法は?(複数回答)
回答者
数(人)
「いいえ」の人(51%)が答えた
その理由は?(二つまで選択)
回答者
数(人)
お守り、お札、絵馬などを購入 1218 そもそも信じない 965
近所の神社でお参り 1137 時間の無駄 385
験担ぎのカツ丼などを食べる 313 自分の能力、努力に自信がある 305
語呂がいい菓子を食べる 168 近くに神社や縁起の良い場所がない 256
高得点だった時の文具を使う 139 報われなかったら、より落ち込む 210
集中力などにいいとされる機能性食品  105 金の無駄 182
幸運の色を身につける  67 やっている友人、ライバルがいない   105
家族がお百度参り  54 近くで商品を売っていない   69
もらった縁起ものを持参   49 家族や教師らが批判的   55
その他   129 友人、家族らに冷笑される   23
    その他   457
「はい」の人(49%)が答えた
その理由は?(三つまで選択、8位まで)
「はい」の人(49%)が答えた
効果はあった?
 %
しないよりした方がいい  928 合格したけどわからない 54
最後の一押しがあると落ち着く  860 合格したのであった 34
気合を入れ、勢いをつけたい  461 多少あったが自分の力不足で不合格  6
見守れている安心感 414 不合格だったのではない  6
自信がないので、わらをもつかみたい 377
息抜き、イペントとして楽しむ 234
家族、教師らのすすめ  189
ずっと信じてきた  172
2011.3.5、朝日新聞「be」より。「アスパラクラブ」会員によるアンケート。回答者数:4132人、沖縄県以外に住む人は4442人
私は「いいえ」の一人で、当時は自分の能力、努力に自信があった。
観自在寺(かんじざいじ) = 観自在寺(お遍路関連へ別掲)
鑑真(がんじん) : 688(嗣聖5)〜763(天平宝字7)年。「かんじん」と読むこともある。
    「過海(かかい)大師」、「唐大和上(とうだいわじょう)」、「授戒の大師」などとも尊称される。
    奈良時代に渡来した唐の僧で、日本における律宗(りっしゅう)の開祖。
    律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、
    鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。
    中国揚州江陽県(江蘇省)に生まれる。俗姓は淳于(じゅんう)
    14歳で智満について出家し、道岸、弘景について、律宗・天台宗を学び、
    中国揚州の大明寺で律を講じていたが、唐にわたった日本の学問僧の栄叡(えいえい)
    普照(ふしょう)の要請に応じ、5回の渡航失敗と失明にもかかわらず、
    6度目の754(天平勝宝6)(てんぴょうしょうほう)年12月20日に薩摩坊津に無事到着、
    実に10年余の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は、宿願の渡日を果たすことができた。
    東大寺大仏殿前に戒壇を設けて授戒の根本道場とし、聖武上皇以下に授戒を行う。
    のち大和上(だいわじょう)の称号を贈られ、また唐招提寺のもとを築き、戒律の教導に尽した。
    天平宝字7年5月6日に76歳で死去。
    鑑真の墓所は唐招提寺にあり、開山堂には国宝の鑑真像を安置している。
    鑑真のことば : 是れ法のための事なり。何ぞ身命を惜しまんや。
     諸人去(ゆ)かざれば、我れ即ち去くのみ(日本への渡海を懇望されて)
    
    鑑真和上坐像(奈良・唐招提寺所蔵)
    参 : 鑑真忌
観蔵寺(かんぞうじ) = 観蔵寺(別掲)
ガンダーラ(Gandhara、Ghandara) : 古代北インドに興隆した有力な国家群、十六大国の一つで、
    現在のアフガニスタン東部、およびパキスタン北西部にあった中心都市プルシャプラ(現ペシャーワル)に
    ほぼ相当する地方の古称。カブール河北岸に位置し、その東端はインダス川を越えて
    カシミール渓谷の境界部まで達していた。アフガニスタンからヒンドゥークシュ山脈を越えて
    インド平原に通ずる道にあり、古来様々な民族が侵入を繰り返したため独特の文化を形成した。
    ガンダーラの王国は紀元前6世紀〜11世紀の間存続し、特に1〜5世紀には仏教を信奉した
    クシャーナ朝のもとで最盛期を迎え、展開されたガンダーラ美術の名で呼ばれる仏教美術でも有名で、
    ガンダーラからその造形技法が広がり、世界の仏教国で仏像が作られるようになった。
    ガンダーラは仏教発祥の地であることから、玄奘三蔵がこの地を目指したことで知られる。
    1021年にガズナ朝のスルタン・マフムードにより征服された後、ガンダーラの地名は失われた。
    イスラム支配下ではラホール、またはカブールが周辺地域の中心となり、
    ムガル帝国の支配下ではカブール州の一部とされた。
    日本では飛鳥時代から中国の仏像の影響を受けながら、日本独自の仏像が作られるようになった。
潅仏会(かんぶつえ) = 仏生会
漢陽寺(かんようじ) = 漢陽寺(別掲)
帰依(in Buddhism)きえ : 帰も依も「よる」の意。帰命ともいう。
    神仏や高僧などのすぐれた者を信じ、それによりすがること。絶対の信を捧げ、よりどころとすること。
    つまり、仏教の考え方に共鳴し、また同様な生き方・考え方をして異を唱えず、
    その教え導きに従って生きて行きますと誓うことである。
    「帰依仏」とは、悟りを開き仏となられた真理の体現者を敬い、
    私たちもそうなれるように努力すると誓うことであり、
    「帰依法」とは、悟りの内容である真理そのものを敬い、
    大きく私たちをとりまく世界のあるがままの姿をとらえ、その正しい価値を認識し敬うことである。
    「帰依憎」とは、悟りに向かう人々と、その集いを敬い、
    ともに人間の命をたしかめあい、ともに慈しみあうことをいう。
祇園祭(ぎおんまつり) = 祇園祭(別掲)
鬼子母神(Goddess for the Birth)きしもじん、きしぼじん : 歓喜母。愛子母。訶梨帝母(かりていも)
    鬼女。安産や育児の神や、法華経護持の神ともされる。天女の姿をとり、胸に一子を抱いて左手を添え、
    右手には吉祥果(きちじようか)を捧げる。ときには鬼神形のものもある。
    もと幼児を食う悪女であったが、仏に自分の末子を隠されて親の心を知り、
    仏教帰依し、後に子授けや安産、子育ての神としてまつられたという。
北野天満宮(きたのてんまんぐう) = 北野天満宮(別掲)
吉田寺(きちでんじ) = 吉田寺(ぽっくり・ぼけ関連に別掲)
吉祥天(きっしょうてん、きちじょうてん) : 吉祥天女。功徳天(くどくてん)。宝蔵天女。天部の一つ。
    もとインド神話の美と幸福の女神で、ビシュヌ神の妃とされたが、仏教では徳叉迦(とくさか)を父に、
    鬼子母を母に生まれ、毘沙門天の妃とされる。福徳安楽を与え、仏法を護持する天女。
    通常、天衣宝冠を着け、左手に如意宝珠を捧げ持ち、中国の宮廷女性の姿であらわされる。
行基(ぎょうき) : 668(天智天皇7)年〜749年2月23日(天平21)年2月2日)は日本の奈良時代
    法相宗(ほっそうしゅう)の僧で、民衆の生活向上に尽力した。677年4月に生まれたという説もある。
    和泉(いずみ)国(現・大阪府)大島郡の母の家に生まれ、俗姓、高志氏。
    生家は、のちに家原寺(えばらじ)という寺院になっている。
    
    行基が自分の生家を寺にした堺市にある家原寺
    父は百済(くだら)から渡来した王仁(わに)の子孫にあたる高志(こし)才智とされる。
    母は河内国(のち和泉国)大鳥郡の蜂田首(現在の華林寺)の出。
    14歳で出家して飛鳥寺や薬師寺で修業をつみ、法相宗初伝の道昭(どうしょう)や義淵らに
    法相教学を学ぶ。のち薬師寺の僧となり、土木技術の知識を学び、諸国をめぐり各地に橋を架け、
    堤を築き、池や溝を掘り、道をつけ、樋(ひ)を渡し、船息(ふなやど)をつくった。
    また当時、税として納められた諸国の産物を都へ運ぶ運脚夫は帰国の途中餓死する者が多かったので、
    彼らを収容し救うための施設として河川などの交通の要所ごとに布施屋(ふせや)を8カ所つくったと
    伝えられる。行基はまた、放置された死人の埋葬にもつとめ、遺体を集めて供養し、墓地も開いている。
    また、行基は各地を周遊したが、とどまった所に寺(道場)を建て、その数は49にものぼっている。
    民衆への伝道・教化にも努め、彼を慕って従う者1000名にも及び、行基菩薩(ぼさつ)と称された。
    717(養老1)年の詔(みことのり)では、行基とその徒が、町でみだりに罪福を説き、
    多くの人が仕事を放棄して集団をなして食物を乞(こ)い、仏教と国法とに違反している、
    と叱責(しっせき)されているが、のちに政府は、高齢の追随者には出家を認めるなど融和策をとった。
    さらに聖武(しょうむ)天皇の大仏造営に際しては、絶大な民衆への影響力により、
    大仏造営費の勧進(かんじん)に起用され、東大寺・国分寺の造営に尽力した。
    745(天平17)年に78歳で大僧正に任ぜられ、仏教界における最高の地位を占めた。
    僧正は以前からあったが、行基が大僧正の初めである。なお、行基が迎えた菩提僊那は、752年、
    聖武天皇(749年に退位し当時は、太上天皇)の命により、東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた。
    大仏完成の3年前の749(天平(てんぴょう)21年2月2日)、菅原寺(すがわらでら)で81歳で没し、
    生駒市の往生院で火葬後竹林寺に遺骨が奉納された。
    
    有馬にある行基の銅像。俳優の火野正平さんに似ているような気がする。
    
    東大寺・鐘楼のある広場「俊乗堂」の東に建つ「行基堂」。
    公慶上人の発願で江戸時代に作られた像高80.9cmの「行基菩薩坐像」が安置されている。

御忌(ぎょき) = 御忌(忌日に別掲)
清水寺(きよみずでら) = 清水寺(別掲)
清水磨崖仏(きよみずまがいぶつ) = 清水磨崖仏(磨崖仏関連に別掲)
清め塩(きよめじお) = 清め塩(別掲)
清めの水(きよめのみず) = 清めの水(別掲)
キリスト教(Christianity) : ナザレのイエスを救世主キリストと信じ、イエスの行動と教えを中心に
    神の愛と罪の赦しを説き、旧・新両聖書に基づき個人と社会の再生を促す宗教
    ユダヤ教を母体として1世紀中ごろパレスチナに起こり、4世紀初めローマ帝国の国教となり、
    さらに世界各地に広まった。現在、各国に多くの信徒を有し、
    仏教イスラム教とともに三大宗教の一つである。ローマ-カトリック教会、プロテスタント諸教会、
    東方正教会の三つの流れがある。古く、耶蘇教(やそきょう)ともいった。
    正典は「聖書」(テスタメント、バイブル、ザ・ブック)で、旧約聖書と新約聖書の2部に分かれ、
    旧約聖書の部分は、ユダヤ教と一部が共通である。
    参 : 福音書パレスチナ問題ダヴィンチ・コードサビエル列福式
切幡寺(きりはたじ) = 切幡寺(お遍路関連に別掲)
金閣寺(きんかくじ) = 金閣寺(別掲)
銀閣寺(ぎんかくじ) = 銀閣寺(別掲)
空海(くうかい) : (774〜835)平安初期の僧。日本の真言宗の開祖で、俗姓は佐伯氏。遍照金剛。
    空海というより諡号(しごう)は、四国の室戸岬の近く、御蔵洞という洞窟で修行をしていた際、
    「わが心空の如く、わが心海の如く」という境地を体験したことから名付けらけたそうで、
    死後、朝廷から受けた「弘法大師」の称号の方が親しみやすく一般的である。774(宝亀5)年6月15日、
    讃岐(さぬき)国多度津の屏風ケ浦(現・香川県善通寺)で生まれ、幼名は真魚(まお)という。
    804(延暦23)年31歳の時に、最澄(さいちょう)らとともに遣唐使として入唐し、
    長安(現・西安)の青竜寺において、恵果(けいか)和尚から真言密教を約2年学んで帰国した。
    帰国後3年間、九州の太宰府や和泉(いずみ:現・大阪府)の植尾山で、密教の体系をつくることに
    心を砕いた。多くの経典・曼荼羅(まんだら)・仏具を携え、806(大同元)年に帰朝した。
    816(弘仁7)年、大陸文化に強いあこがれを抱いていた嵯峨(さが)天皇(786〜842)より
    高野山を与えられ、金剛峰寺(こんごうぶじ)を建立し、真言宗の根本霊場として栄えることになる。
    その7年後には、京都の玄関口ともいえる地に東寺(教王護国寺)を与えられ、
    これを国家鎮護の真言道場とし、真言宗の開祖となった。その翌年には大僧都に任ぜられた。
    また、京都に日本最初の庶民学校である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開いて子弟を教育した。
    四国八十八カ所は、空海が42歳の時に開いたとされている。
    
    弘法大師坐像(金剛峰寺蔵)
    
    高野山奥の院にある弘法大師像

    835(承和2)年に真言宗年分度者三人の設置が勅許され、62才で高野山に入定されるまでの間、
    即身成仏と社会教化を宗旨として、教育・文化・社会事業と幅広い活動をした。
    死後、大僧正、法印大和尚位を贈られ、921(延喜21)年には「弘法大師」の諡(おくりな)号を賜り、
    後世、広く庶民信仰の対象として尊ばれた。
    詩文にもすぐれ、書は三筆の一人にあげられ、書簡「風信帖」などの名品がある。
    著に「三教指帰(さんごうしいき)」「十住心論」「弁顕密二教論」「性霊(しようりよう)集」
    「文鏡秘府論」「篆隷(てんれい)万象名義」「文筆眼心抄」「秘蔵宝鑰」「即身成仏義」などがある。
    優れた書家「三筆」の1人としても有名で、「弘法も筆の誤り」「弘法筆を選ばず」などの諺を残している。
    空海のことば
    師に二種あり。一には法、二には人
    人に真実を教える本当の師匠は、「法」、すなわち仏の教えとなる真実それ自身であり、
    もう一つは真実を求めて、それを私たちに伝える「人」である。
    風葉(ふうは)に因縁(いんねん)を知る。輪廻幾(りんねいく)ばくの年にか覚(さと)
    「風葉に因縁を知る」とは、自然の営みとなる飛花落葉(ひからくよう)の中に
    無常の自然ということを知って、その因縁を悟ることである。また「輪廻幾ばくの年にか覚える」とは、
    流転輪廻をくり返す自然の中に生きる人間の生き方を悟るということである。
     自然に包まれている人間も、それを包んでいる自然も、みな大きな流転と輪廻の中である。
    それを知って、それをさらに肯定することで仏教の本質に立つことができる、と空海は説く。
    妙薬(みょうやく)は病を悲しんで興(おこ)り、仏法は障(さわり)を愍(あわれ)んであらわる
    病気に効き目がある薬は、病気を克服したいという思いから作られる。
    同じく人生には多くの障害が立ちふさがるものであるから、それを乗りこえるために仏法がある。
    吾れ百年の後、荼毘(だび)を願わず、これを墳せきに封じ、これを自化(じか)に任せよ
    私の死後は、火葬にすることは望まない。墳墓に埋めて、自然に骨になることに任せよ。
    つまり、葬儀は簡単にし、追悼の法事は改めて行うことはない、という空海の葬送観だという。
    「百年の後」とは死後のこと、「荼毘」は火葬のこと、「墳せき」は墳墓のことである。
倶会一処(くえいっしょ、くえいちしょ) : ともに一カ所に会すること。
    阿弥陀経の「諸上善人倶会一処」から出た仏語で、
    死後、浄土に往生すると、凡夫も聖者たちとひと所に暮らせること。
    また、この世で死ぬのは別々でも、浄土で再び会する意にも解される。
     浄土真宗では、念仏の信仰に生きる人は、この世の命が終わるとただちに浄土に生れるとし、
    そこで墓碑に「倶会一処」と刻むことがある。それは、先に浄土に往生している先祖たちと、
    共に同じ浄土に生まれたいと思う心持ちを表したものであるし、
    また同じ浄土へ往生させていただくことを喜ぶ姿でもある。
櫛田神社(くしだじんじゃ) = 櫛田神社(別掲)
功徳(a pious charitable act)くどく : @仏教用語で、よい果報を得られるような善行をいい、
     普通、供養(くよう)・布施(ふせ)の類のことをいう。
     梵語(サンスクリット語)で「グナ」といい、現在や未来に幸福をもたらす善い行いをいう。
     善い行いをした報いとして、神仏のご利益を頂くこと、
     御加護(ごかご・神仏が導き、守って、救ってくれる力)によって救われることをいう。
     「功」とは「難しい仕事に対して努力と工夫をこらした仕事とできばえ」であり、
     「徳」とは「人間本来の素直な心(良心・本性)に基づいて行動した結果得られる人柄や信頼」のこと。
     (例)功徳を施す。
    A以前によいことをしたために、実現したよい報い。神仏が与えるよい報い。
九品(くぼん、くほん) : @ここのしな。三三之品。仏教の言葉で、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)という
     お経に書いてある往生の仕方で、極楽浄土へ往生する者が、生前の性質や行いによって受ける
     九つの段階をいう。上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)の三品(さんぼん)
     さらに上中下で三分し、@上品上生(じょうぼんじょうしょう:上上品)・A上品中生・
     B上品下生(げしょう)・C中品上生・D中品中生・E中品下生・F下品(げぼん)上生・
     G下品中生・H下品下生(下下品)の九つの段階に分けた。ちなみに、仏教の教えでは
     「誠実な心、仏様の教えを深く信じる心、いっさいの善行の功徳を振り向けて仏道修行の完成を願う者」
     などが上品上生の人といわれている。つまり、最も上品な人のことである。
     「九品仏」は、浄土に居られる阿弥陀様の姿のこと。
    Aここのしな。物事について九種に分けた等級。上中下の三種を、それぞれさらに上中下に分けたもの。
    B「九品浄土」「九品蓮台(れんだい)」九品往生」などの略。
猊下(His Holiness)げいか : 「猊座下」の意。「猊」は獅子の意で、仏をたとえた語。
    @高僧のそば。仏陀の説法を師子吼(ししく:師子は獅子に同じ)、説法の座を師子座という。
     すなわち、猊下とは「師子座の下(=の側近の方)にまで申し上げます」の意。
    A最高位の聖職者・高僧・碩学(せきがく)に対する敬称。
     主としてダライ・ラマや宗教上の権威者に対して用いられる。
     またはそれ自体が独立した呼称として用いられる(例)法王猊下。ダライ・ラマ猊下。
    B一つの宗派の門主・管長に対する敬称。キリスト教ではローマ教皇・枢機卿・正教会の総主教など、
     仏教でいえば教主、門主、門跡、管長、僧正、などに対して用いる。ローマ教皇の場合に
     「聖下(せいか)」を使う場合がある。(例)現在の浄土宗門主は、坪井俊映・猊下である。
     ちなみに、猊下に続いて大本山の各寺院の法王の敬称などに「台下」がある。
    C高僧に送る書簡の脇付(わきづけ)に用いる語。
袈裟(a surplice)けさ : @梵語のカシャーヤの音写で、インドで仏教者の着る法衣(ほうえ)のこと。
     赤褐色の意で、染衣(せんえ)・壊色(えじき)などと訳す。
     青・黄・赤・白・黒の正色を避けて濁色の布を用いたところからの名とされる。
     元は墓地で朽ちていく死体からはぎ取った死衣を柿渋色に染め、戒律にしたがって縫い合わせた
     粗末な法衣で、縫い合わせた布の数により、五条、七条、九〜二五条の3種がある。
     インドの貧しい出家者の身を纏(まと)うだけの法衣が、中国を経由し我国に伝わり、
     仏教の標幟(ひょうじ)としての法衣にかわり、衣(ころも)の上に左肩から右腋下へかける
     長方形の布となり、華美で装飾的なものとなった。つまり糞掃衣(ふんぞうえ)と言って、
     世間的な欲を捨て去るため、捨てられた服や布きれボロギレを細かく切って継ぎ合わせた
     粗末な布切れがいつの頃か、仏教の「法階」と呼ばれる位階と、
     仏教の「権威」の象徴として今日に伝わったのである。宗派によって各種の形式のものがあり、
     功徳衣(くどくい)、無垢衣(むくい)、福田衣、忍辱鎧(にんにくがい)、卓衣などと多くの呼び名がある。
     また、これを身に着ければ、人生の悩みから解脱できるということで、解脱服とも言われる。
     普段坊さんがタスキのようなものを首からさげているのは「輪袈裟」といって簡略化されたものであり、
     お遍路巡拝にも欠かせない。いずれにしても袈裟を着ければ、仏さまにお仕えする、
     仏の教えに従って生きていくことの決意表明、証とされるそうである。
    A「袈裟懸け」の略。
月性(げっしょう) = 月性(周防五傑僧に別掲)
玄奘(げんじょう) : 600(602年説も)〜664年。中国、唐代初期の僧。経典漢訳者の代表的人物で、
    後世、法相・倶舎両宗の開祖とされる。629年に長安を出発し、中央アジアの西域を経てインドに入り、
    ナーランダー僧院で戒賢について唯識の思想などを学ぶ。645年に仏舎利・仏像および経論を携えて
    帰国し、太宗の庇護のもとに「大般若経」「瑜珈師地論」などの仏典を漢訳し、法相宗を伝える。
    インド旅行記である「大唐西域記」は、弟子がまとめた玄奘の重要な地誌的資料である。
    のちにその旅を素材にして「西遊記」が作られ、玄奘が三蔵法師(玄奘三蔵)のモデルとされる。

    玄奘は664年に死去後、遺体は火葬に付されないまま、生前、仏典の翻訳作業を続けた
    長安(現在の西安)の大慈恩寺に一時保管された。まもなく長安郊外の白鹿原に葬られたが、
    669年に現在の興教寺の地に移されたとされる。ところが、日中戦争当時の1942年、
    旧日本軍が工事中に南京市内の寺の跡地から偶然、頭骨の入った石棺を発掘し、
    石棺の銘文には1027年に供養されたとの記述のほか、唐末の農民の反乱、
    黄巣の乱(875〜884年)の際、玄奘の遺体が埋葬されていた墓塔が暴かれ、
    僧の可政が頭骨を長安から南京に運んだ、とあった。日中両国の専門家が頭骨を玄奘のものと認め、
    日本軍は当時の南京政府側に引き渡した。一部は日本にも分骨され、
    1944年に埼玉県の慈恩寺に移された。同寺には今も保存され、奈良の薬師寺や台湾にも分骨された。
源信(げんしん ) : 恵心(えしん)。942(天慶:てんぎょう5)年〜1017年7月6日(寛仁元年6月10日は、
    平安時代中期の天台宗の僧侶で、浄土真宗では七高僧の1人に数えられている。
    大和(やまと)国(奈良県)葛城(かづらき)郡当麻(たいま)郷に生まれる。
    父は占部正親(うらべ・まさちか)、母は清原氏。伝えによれば、7歳で父と死別、その遺命により出家し、
    9歳のとき比叡山に登り良源(りょうげん)(慈慧大師:じえだいし、元三大師:がんざんだいし)に師事し、
    13歳のとき得度受戒したという。横川恵心院(よかわえしんいん)に住んで修行と著述に従事したので、
    横川僧都(よかわそうず)、恵心僧都とも尊称された。
    
    比叡山延暦寺横川にある源信の居住跡と伝えられる「元三大師堂(がんざんだいしどう)」
    978(天元1)年、37歳にして処女作である仏教論理学の
    「因明論疏(いんみょうろんしょ)四相違略註釈(ちゅうしゃく)」を著し、学僧として出発した。
    985(寛和1)年に主著「往生要集(おうじょうようしゅう)」を著わし、念仏することで阿弥陀仏に
    導かれて、極楽に往生ができるという信仰を打ち立て、日本の浄土信仰に多大な影響を与えた。
    同時に地獄の様相を描くことで、その恐ろしさを宗教的心理に根づかせた人でもあった。
    彼はここで多くの経典のほかに、インド、中国、日本の諸師の論疏を引用して、
    人間は穢土(えど)を厭離(おんり)し極楽に往生することにより初めて仏陀(ぶっだ)の悟りに
    分け入ることができると述べ、「往生の業は、念仏をもって本となす」と説く。
    「往生要集」はこの後、宋(そう)人の手により中国の天台山国清寺にもたらされて賛仰の的となり、
    源信の名は中国の仏教界にも知られるに至った。
    
    比叡山延暦寺横川にある「恵心堂」。源信はこの堂において「往生要集」などを著した
    986年および988年に著された「二十五三昧(さんまい)式』は、
    往生要集の教説に基づいて念仏三昧を勤修する三昧会(さんまいえ)の結衆の指針となるもので、
    三昧会が25人の発起衆の呼びかけにより結成されたので、この名称がある。
    正暦(しょうりゃく)年中(990〜995)、霊山院を造営、
    また華台(けだい)院に丈六弥陀(みだ)三尊を安置し、迎講(むかえこう)を始めた。
    1005(寛弘2)年には、大乗仏教概論ともいうべき「大乗対倶舎抄(くしゃしょう)」を完成させ、
    また翌年には、一切衆生(いっさいしゅじょう)の成仏を説く「一乗要決(いちじょうようけつ)」をまとめた。
    1007年撰述(せんじゅつ)の「観心略要集」は、理観の念仏を強調した書として往生要集と並び称される。
    さらに1014(長和3)年には「阿弥陀経略記」を著し、生涯を学問と修行に終始し、
    浄土教の興隆に大きく貢献し、また文学・芸術にも多くの影響を与えた。
    一方、天台宗恵心流の祖とされ、中古・中世の天台本覚思想の先駆をなし、76歳で示寂した。
    彼の伝記は「楞厳院(りょうごんいん)源信僧都伝」のほか多数あり、
    さらに往生伝、説話集などにも採録されている。
    源信の地獄・極楽の浄土信仰は、念仏の信心の教えとともに、法然親鸞の信仰形成に深く影響した。
    源信のことば
    (く)といい、楽(らく)といいて、遠く解脱(げだつ)を離(はな)
    この世の中は、修行しても成果をえることは難しい。
    何故ならば、苦しみを受ける人は、いつも憂いに満ち、楽しみを受ける人は、それに執着する。
    そのため苦しみといい、楽しみといい、どちらも解脱(悟り)からはほど遠いものである。
建長寺(けんちょうじ) : 神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山である。
    山号を巨福山(こふくざん)と称し、寺号は詳しくは建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)という。
    本尊は地蔵菩薩で、境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定されている。
    鎌倉時代の1253(建長5)年、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼(ときより)(1227〜1263年)が
    中国南宋(なんそう)より来朝した大覚禅師・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(1213〜1278年)の
    ために創建した禅寺で、日本最初の本格的中国風禅道場である。つまり、開基(創立者)が北条時頼、
    開山(初代住職)が蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧(ごったんふねい)である。
    当時の日本は、承久の乱(1221年)を経て北条氏の権力基盤が安定し、
    京都の中央政府の支配力は相対的に弱まり、鎌倉が事実上、日本の首府となっていた時代であった。
    北条時頼は熱心な仏教信者であり、専門禅寺建立を志しつつ新興の禅宗に深く帰依していたが、
    蘭渓が鎌倉の常楽寺に入るとともに意を決し、京都の聖一国師(しょういちこくし)
    円爾弁円(えんにべんえん)に諮って鎌倉地獄谷巨福呂(こぶくろ)の地を定め、
    中国の径山万寿寺(きんざんまんじゅじ)を模して大伽藍(がらん)を建立した。
    したがって、創建以来、本寺は鎌倉幕府の官寺であるのみならず、新興の禅宗の
    拠点寺院としての役割を担った寺院であり、つねに鎌倉五山第一位に置かれた寺であった。
    開山第1世の蘭渓道隆は「法語規則」などを衆僧に示し、宋朝の純粋な禅風をもって武士や
    民衆を指導した。彼は66歳で示寂したが、その後も、兀庵普寧、
    無学祖元(むがくそげん)などの宋・元朝より帰投した高僧や入宋(にっそう)僧らが相次いで住持し、
    鎌倉禅の中心となった。室町江戸時代においてもその禅風は異彩を放って保たれたが、
    現在は白隠(はくいん)下の法脈を伝えて僧堂を経営し、有為の人材を多数輩出させている。
高岩寺(こうがんじ) : 東京都豊島区巣鴨3−35−2にある寺院で、
    正式には曹洞宗萬頂山(ばんちょうざん)高岩寺という。1596(慶長元)年に江戸湯島に開かれ、
    約60年後下谷屏風坂に移り、巣鴨には1891(明治24)年に移転し、
    「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる巣鴨地蔵通り商店街の中程にある。
    本尊の延命地蔵菩薩は「とげぬき地蔵」の名で知られ、体の痛みや心の病など、
    人々を苦しめるあらゆるトゲを抜いてくれると言われている。秘仏なので残念ながら拝観はできないが、
    その姿を元に作られた御影(おみかげ)に祈願しても効果があるとされ、のどに魚の骨が刺さった時は、
    これを飲んだり、痛いところに貼ったりする。心の罪(とが)を抜いてくれるという説もある。
    とげぬきのいわれは、江戸時代に口にくわえた針を誤って飲み込んだ女中が地蔵尊の御影を1枚飲むと、
    まもなく飲み込んだ針が御影を貫いてでてきたという霊験によるものとされる。
    「とげぬき地蔵」の名の由来となった本尊の「御影」は高岩寺のご本堂で授与しているが、
    財布や定期入れなどに入れて肌身離さず持っておくと、ご利益があると言われる。
    高岩寺の境内にある「洗い観音(聖観世音菩薩)」を自分の身体に見立てて、
    観音さまに水をかけながら「おみぬぐい」という白い手拭いで病んでいる部分を洗いながら祈願すると、
    洗った身体の部分の調子が良くなると言われている。
    洗い観音は大変な人気で、いつも順番待ちの列ができている。
    商店街では毎月4のつく日に「とげぬき地蔵尊」の縁日を催していて、いっそうの賑わいを見せている。
    1月24日、5月24日、9月24日は大祭で、10万人以上の参詣客でにぎわう。
    商店街には、名物の塩大福や「下の世話にならない」という願いを込めた赤い下着や肌着、
    巣鴨健康茶、漢方薬、地下鉄漫才の「春日三球の店」などさまざまな店があり、
    縁日にはお守り袋や耳かきなどの名物露店が所狭しと軒を連ね、
    大変な賑わいに歩くこともままならないほどである。
    洗い観音様を拭った手拭は、お風呂等で普通に使用してよいそうです。
    参 : 巣鴨地蔵通り商店街振興組合(HP)
    
    高岩寺山門。途中の托鉢僧に1人100円のお布施をしたが、
    この山門には3人もいて、お賽銭とともに千円近くになった

    
    高岩寺
    
    高岩寺の境内にある「洗い観音(聖観世音菩薩)」
功山寺(こうさんじ) = 功山寺(別掲)
合祀(enshrine together)ごうし : 合祭。二柱以上の神や霊を一神社に合わせ祀(まつ)ること。
    また、ある神社の祭神を他の神社に合わせ祀ること。
    神社合祀とは、神社の合併・整理を意図した政府の政策で、地方改良運動の一環として、
              一町村一社の方向で数多くの神社の整理統合が行われたことを指す。
    靖国神社の合祀とは、戦没者のみたまを清めて神とし、その神となった魂を
                   直接靖国神社の祭神に迎えることとされている。
    A級戦犯合祀とはA級戦犯と一般戦没者が、ともに靖国神社に祭神として祀られること。
                 詳細は「A級戦犯と合祀」で。

    朝鮮戦争で掃海作業中に殉職した元海上保安庁職員の遺族が、
    靖国神社に「戦死者」として合祀するよう求めたのに対し、同神社が拒否していたことが分かった。
    神社は遺族への回答書で、合祀範囲を「大東亜戦争まで。朝鮮戦争は基準外」と明示した。
    遺族は、大阪市浪速区の会社役員、中谷藤市さん(79)。
    1950(昭和25)年10月、弟の坂太郎さん(当時21歳)が米軍の極秘要請を受け、
    掃海艇で北朝鮮の元山(ウォンサン)沖に出動。機雷に触れて死亡した。
    事故後、米軍と海保は「瀬戸内海での作業中に殉職したことにしてほしい」と求めたという。
    現行憲法に抵触する疑いが濃いためで、中谷さんは事故記録を照会したが、「記録はない」と回答された。
    その後、除籍謄本に海保の報告として死亡日時と場所が記載されていることが分かり、
    中谷さんは2006年2月、靖国神社に合祀を求める申請書を提出したが、
    8月25日付の神社の回答書では「その時代ごとの基準で国が戦没者と認め、
    名前が判明した方をお祀りしてきた。朝鮮戦争は現在のところ基準外となるから、合祀できない」と
    結論付けていた。中谷さんは「弟は戦死したのだから祀られて当然。合祀を願い続けてきた。
    義憤を禁じえない。再考してほしい」と、要請を続ける考えである。
    国が戦死者と認めていないから合祀できない理由なら、神社は国に再確認を求めたのだろうか。
    合祀されることを望まない戦没者遺族にも、国が合祀を強行しているのだから、
    合祀を希望する遺族には、朝鮮戦争への参加として国が認めるべきだ。
    朝鮮戦争でのアメリカへの協力については、憲法違反になるから基準外としているのでしょう。
    海上保安庁職員の殉職は、国が法を犯して国民を戦争に参加させたためで、
    戦死者と認めないのは私も納得できない。

国府宮神社(こうのみやじんじゃ)
    正式名称を「尾張大國霊(おわりおおくにたま)神社といい、愛知県稲沢市にある。尾張の
    守護神として崇め祀られ、農業、商工業の神、厄除けの神、家内安全の神として広く信仰されている。
    境内には尾張式建築様式の本殿・渡殿・祭文殿・東西の廻廊・拝殿・楼門が建ち並んでいる。
    毎年旧暦1月13日に行われる「国府宮はだか祭り」は全国的な奇祭として特に有名である。
    国府宮はだか祭り : 奈良時代の767(神護景雲元)年に称徳天皇が、
     「全国の国分寺に悪疫退散を祈れ」と勅命を発した時、尾張国司が尾張総社である尾張大國霊神社で
     厄払いをしたのが発祥の由来となっている。「はだか祭り」として知られるこの祭りは、
     正しくは「儺追神事(なおいしんじ)」といい、現在の祭りになったのは、江戸時代末期のことで、
     裸の激突という形態は昔、いやがる見知らぬ男を神官が取り押さえ、捕まえてきて
     儺負人(なおいにん)こと神男(しんおとこ)に仕立て、そのもみ合いを受け継ぐものとされている。
     現在は、大勢の志願者の中からクジで神男が選び出される。
     毎年旧暦正月の13日に行われ、人々のあらゆる災難を背負うといわれる体毛を剃った全裸の神男が、
     数千人の裸男たちがもみ合う渦の中へ飛び込むと、褌一丁の1万人にもおよぶ男たちが、
     神男に触って厄落としをしようと殺到し、祭りは最高潮を迎える。
     神男が儺追殿に逃げ込んで昼の祭りが終わり、その後、夜儺追神事へと移っていく。
      神男は3日3晩難追殿(なおいでん)にこもり、祭の本番にそなえる。
     また、当日は早朝から厄除けの御祈祷を受ける人と、お守りの”なおいぎれ”等を受ける人で雑踏し、
     午後には裸男の集団が、裸になれない老若男女が厄除けの祈願を込めた布を結び付けた
     ”なおい笹”を捧げて威勢よく拝殿へ駆けこんでいく姿がみられる。
     参 : 尾張大國霊神社(公式HP)、国府宮はだか祭り(ちば☆フォトギャラリーHP)
光背(halo)こうはい : 後光(ごこう)。御光(ごこう)仏像の背後の後光。
    仏像の背後についている、仏身から放射される光明を象徴的に表す装飾。頭部のものを頭光(ずこう)
    身体部分のものを身光、両者をともに持っているものを挙身(こしん)光という。
興福寺(こうふくじ) = 興福寺(別掲)
弘法大師(こうぼうだいし) = 空海
高野山(こうやさん) = 高野山(別掲)
コーラン(Koran、Qu’ran) : クルアーン。
    預言者ムハンマドが7世紀、唯一絶対神(アッラー)から受けた啓示をまとめたとされる聖典。
    コーランは、20余年にわたって神(アッラー)が、天使ガブリエルを通してムハンマド(マホメット)に、
    天にある「啓典の母体」から読み聞かせたとされる啓示を人々が記憶し、
    ムハンマドの死後、114章からなる1冊の本に集録したものである。
    アラビア語で書かれた原典のみがイスラム教の根本聖典で、
    他言語への翻訳は解釈本とみなされる。神の唯一性についての説明のほか、
    結婚や相続のあり方なども記述され、イスラム教徒にとっては信仰のみならず、
    生活規範を定めた絶対的な存在になっている。
     米紙が2005年、キューバのグアンタナモ米軍基地で米兵がコーランをトイレに流したと
    報道(後に撤回)すると、イスラム諸国で反米デモが広がり、
    日本でも2001年、富山県の路上で破り捨てられたコーランが見つかると、
    東京などでパキスタン人らによる抗議デモが発生した。
廣隆寺(こうりゅうじ) = 廣隆寺(別掲)
御詠歌(ごえいか) : 宗祖などが詠まれた和歌に曲を付けたものを「詠歌」という。
    一方、行事の意味や教えを七五調の歌詞にして曲をつけたものを「和讃」という。
    両者を合わせて「詠讃歌」というが、広い意味で「御詠歌」と呼ばれる。
五戒(five command−ments)ごかい : 釈迦が在家の人のために説かれた五つの戒めのことで、
    六波羅蜜(ろくはらみつ)の一つ、「持戒(じかい)」の基本的な戒律である。
    (1)不殺生戒(ふせつしょうかい:殺すなかれ。生き物を殺さない。
    (2)不偸盗戒(ふちゅうとうかい、ふゆうとうかい:盗むなかれ。他人のものを盗まない。
    (3)不邪淫戒(ふじゃいんかい:浮気するなかれ。よこしまでみだらな行いをしない。
    (4)不妄語戒(ふもうごかい:うそをつくなかれ。うそをつかない。
    (5)不飲酒戒(ふおんじゅかい:お酒を飲むなかれ飲酒をいない。ことである。
    この中の不邪淫戒は、出家者の場合は「不淫戒」になるので、当然ながら結婚することは
    許されていない。不殺生戒は、雨期の間は、たとえそれが宗教活動であろうと、
    外出が許されなかったのは、生き物の生命を奪う可能性があったからである。
    出家者は、自らが生きるための労働を許されていなかったので、
    すべての生活必需品は、在家信者からの布施(ふせ)によってまかなわれていたが、
    毎日の食事を得るために、早朝の乞食(こつじき)か行われていた。
    この食事は、午前中に限って許されており、正午過ぎには、いかなる固形食物も摂取できなかった。
    参 : 八戒十戒五戒を守る僧侶の会(HP)
国分寺(こくぶんじ) : @西暦741(天平13)年、聖武天皇の勅願により、国ごとに建てられた官寺のこと。
     正式には僧寺を金光明四天王護国之寺、国分尼寺を法華滅罪之寺といい、
     奈良の東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺とした。
     普通には僧寺を指し、国内の僧尼の監督に当たり、また朝廷の特別の保護があった。    
現国分寺所蔵の仏像で国宝または重要文化財であるもの
釈迦如来 尾張、淡路
薬師如来 美濃、飛騨、若狭、佐渡、土佐、筑前
観世音菩薩 飛騨、讃岐
阿弥陀如来 周防
日光、月光菩薩 周防
四天王 周防
不動明王 長門
     周防国分寺(すおうこくぶんじ) = 周防国分寺(別掲)
    A京都中部、武蔵野台地にある市。市南部に武蔵国分寺跡があり、住宅地として発展している。
    B栃木県南部、下都賀(しもつが)郡の町。カンピョウの産地。下野(しもつけ)国分尼寺跡がある。
    C第15番札所。徳島県徳島市国府町矢野718−1にある曹洞宗の寺院。
     741(天正13)年、聖武天皇が天下泰平を祈願して
     全国66カ所に建立した国分寺の一つ。本尊の薬師如来行基の作と言われている。
     一般公開されていない本堂横の池泉観賞式の大庭園は、事前に連絡を入れれば、見学できる。
     TEL:088−642−0525
    D第29番札所。高知県南国市国分546にある真言宗智山派の寺院。
     741(天正13)年に聖武天皇の勅願により行基が建立した。
     後に弘法大師が真言宗の寺として中興した。平安時代後期の檜の一本造りの薬師如来立像、
     鎌倉時代の寄木造りの薬師如来立像はいづれも国の重要文化財に指定されている。
     本尊は千手観世音菩薩。阿波や讃岐の大寺のほとんどは、長曽我部元親の戦火に焼かれたという。
     ために、現代でも土佐出身の遍路は、阿波や讃岐の札所ではその出身をつい隠すということである。
     その悪名高い元親も、土佐ではこの国分寺を再建したりしている。
     その柿葺(こけらぶ)きの金堂は悪名とは似ても似つかぬ優雅さを持っている。
     宿泊80人。遍路用品・単品あり。TEL:088−862−0055
    E第59番札所。愛媛県今治市国分4‐1‐33にある真言律宗の寺院。
     741(天平13)年に行基が開基した。広々とした境内には大師堂、毘沙門天、書院などが並ぶ。
     本尊は薬師如来。寺の歴史は興廃の歴史でもあり、それを象徴するものの一つとして、
     所属宗派の変遷がある。例えば、阿波の国分寺は、法相宗から真言宗そして現在の曹洞宗へと
     3回も変わっている。これに対してこの寺は、4度の戦火にもめげず時の政治権力にも流されず、
     真言律宗を守り通してきている。遍路用品・単品あり。TEL:0898−48−0533
    F第80番札所。香川県綾歌(あやうた)郡国分寺町国分2065にある真言宗御室派の寺院で、
     本津(ほんづ)川上流域に位置する。讃岐(さぬき)国分寺、国分尼寺跡がある。
     行基が十一面千手観世音菩薩像を安置して開基した。
     弘仁年間(810〜824)に弘法大師が本尊を修復し、堂塔を増築したという。
     本堂は鎌倉中期の建築で、重要文化財。本尊はケヤキの一本造りで開帳されない秘仏となっている。
     この寺の鐘は、もと香川郡塩江町安原の鮎滝の渕に住む大蛇がかぶっていたものという。
     その音色が素晴らしいので、藩主生駒一正が時報に使おうと、田2ヘクタールと交換に城へ持ち帰った。
     ところがさっぱり鳴らず、遂には「もとの国分寺へいぬ!」と鳴った。
     殿様が鐘を返したときの証文が今に残っている。遍路用品・一式あり。TEL:087−874−0033
極楽(a paradise、a heaven)ごくらく : @「極楽浄土」の略。
    A安楽で何の心配もない場所や境遇。天国。【対義語】地獄
極楽浄土(ごくらくじょうど) : 極楽。西方浄土。極楽世界。極楽界。極楽安養浄土。阿弥陀仏のいる世界。
    西方十万億土の彼方にあり、まったく苦しみのない理想郷で、今も阿弥陀仏が法を説いているとされる。
    阿弥陀仏を信じ、ひたすら念仏を唱えると、死後ここに迎えられるという。
    誰も見たことのない死後の世界だが、平安時代中期にその様相を具体的に書いた
    源信(恵心僧都:えしんそうず)の「往生要集」という書物によって地獄六道を厭離(えんり)して、
    極楽を求め、そこに往生するために観想の方法が説かれ、浄土という概念が知れ渡ったという。
    恐ろしい地獄と六道を描いた源信は、一転して極楽浄土を展開して、以下の十の楽を説いた。
    十の楽
     聖衆来迎(しょうじゅらいごう) : 浄土の菩薩たちが来迎して手を差しのべる。
     蓮華初開(れんげしょかい) : 蓮華が開いて宝飾に飾られる。
     身相神通(しんそうじんづう) : 32の仏の相をそなえる。
     五妙境界(ごみょうきょうがい) : 五官の色、声、味、香、触がすぐれて
                          極楽の様相をとらえることができる。
     快楽無退(けらくむたい) : 極楽の快楽を無限に享受できる。
     引接結縁(いんじょうけちえん) : 友や妻子などと自由に合うことができる。
     聖衆具会(しょうじゅくえ) : 菩薩たちと会うことができる。
     見仏聞法(けんぶつもんぽう) : 阿弥陀仏を目として仏の教えを聞くことができる。
     随心供仏(ずいしんくぶつ) : 阿弥陀仏に供養できる。
     増進仏道(ぞうしんぶつどう) : 仏道を修して悟りを得ることができる。
    ジパング倶楽部の「旅のアトリエ(2010年11月号)」に
    極楽浄土のことが分かりやすくまとめられていたので、以下に紹介します。
    
    
    極楽までの距離は100000000000000000光年だが、結論は「自分の心に存在」
     「十万億土」といわれる極楽までの距離を、近畿数学史学会長で大阪工業大元教授の
    山内 俊平さん(1992年当時89歳)が、仏教書などをもとに算出した結果は、
    十京(10の17乗)光年だった。光の速さでも、山内さんは
    「どんなにもがいても、行けない距離。日々精進して、来世のことは仏様におまかせする。
    極楽への道はこうした心の持ちようだと、改めて悟りました」と話している。
     阿弥陀経に「これより西方十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽という」と書かれている。
    そこで、山内さんは十万億土の「土」を仏教でいう大千世界と考えた。
    小世界が千個集まって小千世界、小千世界千個で中千世界、中千世界千個で
    大千世界をつくるとされている。大千世界には小世界が千の3乗、つまり10億個が集まっている。
     山内さんは小世界が星のように配列されていると考え、銀河系の恒星間の距離などから、
    小世界は3.35光年(1光年は9兆4千6百億km)の間隔で並んでいると仮定した。
    大千世界は正方形と推定、一辺の長さは十億の平方根に3.35光年をかければ出る。
    極楽は、これに十万億(1億の10万倍)をかけ、10京光年となった。
    1億は10の8乗だが、山内さんは億をサンスクリット語のコーティの訳語と解釈、10の7乗としている。
     故・高田好胤・薬師寺管主は「仏教の経典は、世界についてかなり理詰めに書かれているので、
    この数字には意味があります。極楽は自分の心にあると結論を出されたのは立派なことです」と話していた。
     89歳になってもこんなことを考え付くとは、数学者はどんな脳を持っているのだろうか。
    89歳までには私は18年あるが、今でも桁の多い数は苦手で計算する気になれない。
    私が今までやってきた行いは良かったとは思えず、三途の川の急流を流されて早く地獄へ
    たどり着く方がよいと思っているが、太鼓橋を渡って極楽浄土に行ける夢も捨ててはいない。
    山内さんはすでに他界されているが、計算間違いをされるはずはなく、
    無事に極楽浄土にたどり着かれているでしょう。老人の願いは、家族の世話にならずに
    「ぽっくり死ねる」ことと、善き妻や善き夫を含め、親しい人たちと一緒に極楽に行けることでしょう。

    参 : ぽっくり寺
五山送り火(ござんのおくりび) = 五山送り火(別掲)
金刀比羅宮(ことひらぐう) : 金毘羅(こんぴら)様。讃岐のこんぴらさん。金毘羅宮。琴平神社。
    香川県仲多度(なかたど)郡琴平(ことひら)町の象頭山(ぞうずさん)中腹にある神社で、
    明治初頭までは神仏習合で、象頭山金毘羅大権現と称していた。
    全国の金刀比羅神社(金毘羅神社・琴平神社)の総本社である。長く続く参道の石段が有名で、
    大門まで365段、本宮までは785段だが、奥社まで登ると1368段にもなる。
    祭神は大国主命の和魂(にぎみたま)である大物主神(おおものぬしのかみ)で、
    鳥羽天皇の第1皇子で、第75代天皇の崇徳(すとく)天皇(1119〜1164)が配祀(はいし)されている。
    航海や漁業の海上安全の守護神として信仰され、また、雷神・水神・農耕神・留守神としても信仰された。
    祈願のための流し樽の風習が残る。各地に多くの分社があり、
    出雲、神戸、松山、尾張、鳥羽のほか東京にも水道橋に東京分社がある。
    祭事は、歳旦祭(1月1日)、はつこんぴら(1月10日)、祈年祭(2月17日)、桜花祭(4月10日)、
    夏越の祓(6月30日)、例大祭(10月9日〜10月11日)、新嘗祭(11月23日)などある。
    ここでは、健康と幸せを祈るウコン色の肌守りが人気である。
    東京では毎月10日の縁日に、えびす・大黒様の「宝撒き」があるが、何の祭りだろう。
    参 : 金刀比羅宮(HP)
困ったときの神頼み = 困ったときの神頼み(別掲)
勤行(service)ごんぎょう : @仏道の実践に努めること。仏道を修行すること。
    Aお勤め。仏前で手を合わせて経を読み、祈ること。
     仏前で、一定の時を定めて行う読経・唱題・回向などをいう。
金剛三昧院(こんごうさんまいいん) = 金剛三昧院(別掲)
金剛峰寺(こんごうぶじ) = 金剛峰寺(別掲)
金剛力士(こんごうりきし) : あらゆるものを打ち砕く金剛杵(こんごうしょ) を持ち、
    寺の門や仏像を安置する須弥壇(しゅみだん)に配置される守護神。忿怒(ふんぬ) の相をなし、
    仁王ともいい、口を開けた阿形(あぎょう)と口を閉じた吽形(うんぎょう)がある。
言語道断(ごんごどうだん) = 言語道断(別掲)
金毘羅宮(こんぴらぐう) = 金刀比羅宮(ことひらぐう)
金輪際(こんりんざい) = 金輪際(別掲)
在世出世(ざいせしゅっせ) : 体は俗世間にあっても、心はそういう世間を超越しようということ。
    漱石は「世をすてて太古に似たり市(まち)のうち」の句を得ている。森閑とした心で
    自分や自分のまわりを改めて見回せば、見慣れた風景もまた、おのずから違ってくるだろう。
    (例)性善説の人生哲学『菜根譚(さいこんたん)』より、
     「真空不空。執相非真。破相亦非真。問、世尊如何発付」。
     「真に空(くう)ずるは空ぜず。相(そう)に執(しゅう)するは真に非(あら)ず。
     相を破(は)するも亦(また)真に非ず。問う、世尊(せそん)は如何(いか)にか発付(はっぷ)するや」の
     訳「真に自由であるとは、全てを否定することではない。現象に執着するとは、真実では無い。
     現象を否定しても、真実ではない。質問する。「釈尊は、どのように仰っておられるだろうか」に、
     「在世出世、狗欲是苦、絶欲亦是苦。聴、吾儕善自修持」
     「在世出世、欲に狗(したが)うも是(こ)れ苦、欲を絶つも亦是れ苦、
     我儕(われ)が善(よく)自ら修持(しゅうじ)するを聴け」と答えられるとされ、
     「在家の者でも、出家の者でも、欲望に従うのも、断つのも供に苦であり、
     この問題を解決するには、我々は自発的な心身の修養に待つしかない」ということである。
     つまり、欲望に従って生きれば生きる苦労があり、欲望を捨て去って生きるのも苦労がある。
     同じ苦労をするなら、欲望に従い何かを手に出来たとしても、次にはもっと、
     ないしは無くしたくないという欲望の連鎖で苦しむより、欲望を捨てるまでは苦しいが、
     捨て去れば苦しみ心其のものを捨ててしまうに出から二度と苦しむことの無い人生である、
     多くを得てきた達人にとっては、それ以上手に入れ、無くす不安を増大させるより、
     捨て去る人生が、達人には似合いである。言換えれば、そもそも達人と言われる人間は欲望極め、
     何が大安心なのかを解かった人間といえるかもしれない。
最澄(さいちょう) : 767(神護景雲元)年〜822(弘仁13)年6月。57歳で没。
    平安時代初期の僧で、日本天台宗の開祖。
    別名に叡山(えいざん)大師、山家(さんげ)大師、根本(こんぽん)大師がある。
    近江(おうみ)(現在の滋賀県)の三津ケ浜の生まれで、姓は三津首(みつのおびと)
    父親は熱心な仏教徒で、子どものいないことを悲しんで、比叡山に上って祈願したところ、
    最澄を授かったという。比叡山に入り法華一乗思想に傾倒し、延暦寺の根本中堂を創建した。
    平安初期の804(延暦23)年に空海とともに入唐(にっとう:日本から僧や留学生が中国の唐に行くこと) 
    し、わずか8カ月の滞在だったが、天台山で道邃(どうずい)と行満(ぎょうまん)から天台宗の法門を
    受けて、天台宗門の第八祖と認められたが、空海は唐の留学僧として2年3カ月も修行し、
    正式な密教を修得して、真言宗第八祖となった。しかし、唐への渡航は別の船であり、
    二人は相知らず、また会うこともなく帰国し、会ったのは後に、最澄が7歳年下の空海に真言密教の
    教えを請うためであった。翌年帰国した最澄は、天台宗を開創した。南都諸宗の学僧と対論し、
    「山家学生式(さんげがくしょうしき)」をつくって大乗戒壇(だいじょうかいだん)の設立を請願したが、
    南都六宗の仏教教団の反対にあい、最澄の死後7日目に勅許(戒壇設置の許可)がおりた。
    戒壇(かいだん)とは、天台宗として正式な僧侶を認定すること。
    日本最初の大師号(天皇から徳の高い僧に与えられる号)である
    「伝教大師(でんぎょうだいし)」を勅諡(ちょくし:天皇の命令によっておくりなをたまわること)される。
    伝(傳)教大師とは、最澄の諡号(しごう:生前のおこないをたたえ、死後におくる名。おくりな。戒名)。
    書状「久隔帖(きゅうかくじょう)」は名筆として知られる。
    主要著書に「顕戒論(けんかいろん)」「守護国界章」などがある。
     最澄が開いた天台宗と比叡山は、よく「総合大学」であると形容されている。
    それは、密教・禅・念仏・法華の各教学が修されていて、そこにある禅門からは
    栄西道元が、念仏門からは法然親鸞、法華門からは日蓮が、それぞれ輩出していたからである。
    最澄のことば
    (おのれ)が長(ちょう)を恃(たの)むことなし、何(なん)ぞ彼(か)の短(たん)を談(だん)ぜん
    意味は、「自分が優れていると思っているものでも、実は短所ばかりで、それに頼ることができない。
    それなのに、どうして他人の短所をあれこれと批判できようか」
    ただ耳より入り、口より出(い)ずるを貴(たっと)び、内心を治(おさ)むることを得ず
    師匠から仏の教えを耳から聞き、経文を口で読んで唱えることだけが仏教を修行することではない。
    また、経論を解釈することだけが、仏教を学ぶということではない。
    つまり、仏教を心の内からとらえるということが、もっとも大切なことである、ということを最澄は伝えた。
    (う)まるると雖(いえど)も、徒(いたず)らに生(い)きて生(しょう)の故(ゆえ)を知らず
    生まれてきても、無駄に一生を過ごして、生きている意味を知らない。
    死ぬとしても、無駄に死んで、死ぬことの意義を知ることがない。
    生死を自覚するためには、本来的に悟っている「本覚(ほんがく)」に早く目覚めよ、と説いている。
    
    伝教大師最澄像(比叡山延暦寺蔵)「ダーナ」2010年初夏号より
    参 : 一灯照隅、万灯照国
座禅(Zen meditation、contemplation)ざぜん : 坐禅。仏教の基本的な修行法の一つで、
    静座(せいざ)をして座禅の三要素である調身・調息・調心(姿勢を調え、呼吸を調え、心を調える)により
    精神を統一し、悟りを開く為に行う修行を言う。 特に禅宗においては根幹をなす修行とされる瞑想法で、
    心の迷いを払い、無念無想の境地を得て、自己と宇宙が一体となることを目指す。
    状況に応じて変更することが許されるが、原則としては「姿勢を正して座布団の上で
    結跏趺坐(けっかふざ)、半跏趺坐(はんかふざ)などの形で座り、
    手に法界定印(ほっかいじょういん)を結び、呼吸を緩やかにして、
    精神を集中して悟りの道を求めること」が本来の意味で、これは、釈尊が出家後6年を費やした
    苦行をやめ、“ありとあらゆるものの、あるべき姿を正しく見極める」ことを念じつつ座禅をし、
    これによって悟りを開いたという事実に基づいているとされる。
    つまり、常に正しい判断をするためには、心の働きを整えておくことが必要であり、
    そのために、座禅をして心を一カ所に集中し、心の安定を図ることを修行の一つとしている。
    座禅の作法 : 自分が座る位置を示されたら、後ろから合掌して頭を下げる。
     座る両隣の人への挨拶で、「隣位問訊(りんいもんじん)」という。挨拶を受けた人は合掌して返す。
     挨拶が終わったら、合掌を解き、そのまま坐蒲(ざふ:丸い座布団のようなもの)の上に腰をおろし、
     足を組]。両方の足をモモの上にのせる座り方を「結跏趺坐」といい、
     これができない人はいわゆるアグラをかいて座る。これを「半跏趺坐」という。
     右手をお尻の横で床を押さえ、左手で坐蒲を持ち、右回りをして壁に向かう。
     ここからが座禅のスタートで、背骨を真っすぐにし、お尻を突き出すようにして座る。
     両肩と首の力を抜き、顎を引くと同時に頭で天を突き上げるようにすると背骨が真っすぐになる。
     手は、「法界定印」という形に組む。右の手のひらを上向きにして組んだ足の上に置き、
     その上に左の手のひらを同じように上向きにして置き、親指の先同士をかすかに接触させる。
     力を入れず、さりとて手が離れないようにする。目は開いたまま、1メートル前方、
     およそ45度の角度に落とす。息を深々と鼻から吸い込み、口から徐々に吐き出すのという
     呼吸法を数回行って呼吸を整えた後、座禅に入り、心を無にしていく。座禅中、心が乱れたり、
     姿勢が崩れたりしたときには「警策(きょうさく)」を受ける。
    参 : 曹洞宗公式サイト臨済禅・黄檗禅公式ホームページ東京禅センター(HP)
ザビエル= フランシスコ・ザビエル
三悪道(さんあくどう) : 三悪趣(さんあくしゅ)。三趣。連声(れんじょう)して「さんなくどう」
    「さんまくどう」「さんなくしゅ」「さんまくしゅ」ともいう仏語で、
    死者が悪業(あくごう)のために行く、地獄道・餓鬼道・畜生道の三つの世界のこと。 参 : 六道
三界に家なし(さんがいにいえなし) = 三界に家なし(別掲)
三帰(さんき) : 三歸。「仏法僧の三宝(さんぼう:仏・法・僧)に帰依(きえ)します」という意味で、
    「三帰依」の略称。三とは、三宝を意味し、三宝とは、さとりを開いた人(仏陀)と
    その教え(仏法)とそれを奉ずる教団(僧伽)の、「三つの優れたもの」を指す。
    仏教信者となるために行う、もっとも伝統的な方法で、
    あくまで信仰することの宣言であって「戒」ではない。
三竟(さんきょう) : 「竟」という字には、「おわる」・「きわまる」・「つきる」・「ついに」等の意味があり、
    帰依仏竟 帰依法竟 帰依僧竟は、「すでに仏陀を深く信じ、すでに仏陀を深く信じ、
    すでに戒律を守り生活する僧達を深く信じて篤く敬っている」ことを意味している。
    つまり、三竟とは、前に唱えた三帰に対して、自分が「三宝に帰依し竟(おわ)った」ということで、
    三宝への帰依を、今から将釆に向かって保ち続け、決して捨て去ることがありませんと誓うことである。
    三帰とこの三竟を続けて唱えることにより、三帰依を自覚し信仰の確信を持つ。
    つまり三帰依を私たち仏教徒の「使命」であることを自覚したとき、はじめて三竟の心となるわけで、
    み仏の心をわが心とし、強く自覚していくことである。「三帰の念押し」という意味と考えていいでしょう。
三光神社(さんこうじんじゃ) = 三光神社(別掲)
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう) = 三十三間堂(別掲)
三心義(さんじんぎ、さんしんぎ) : 仏語。浄土宗がよりどころとする経典の一つ『観無量寿経』では、
    往生を願う者が具(そな)えるべき心がまえとして至誠心(しじょうしん)・深心(じんしん)
    回向発願心(えこうほつがんしん)の三心(浄土に生まれるために必要な3種の心)を挙げている。
    この書は、三心を具えれば必ず往生がかなうことを、善導大師の所説をもとに、
    わかりやすく説いたものである。
    三心義 : 出離生死(しゅつりしょうじ)のみちおおしといえども、大いにわかちて二つあり。
     一つには聖道門(しょうどうもん)、二つには浄土門(じょうどもん)なり。
     聖道門というは、この娑婆(しゃば)世界にて煩悩を断じ、菩提を証するみちなり。
     浄土門というは、この娑婆世界をいとい、かの極楽をねがいて、善根(ぜんごん)を修する門なり。
     現代語訳 : 生き死にを繰り返すこの世界を離れ出る道は多いとはいえ、
     それらを大きく分ければ二つになります。一つには聖道門、二つには浄土門です。
     聖道門というのは、この娑婆世界にありながら煩悩を断ち切って覚りをめざす道程です。
     浄土門というのはこの娑婆世界を厭(いと)い、極楽浄土への往生を願って善根を修める道程です。
      その行の性格から、聖道門を「難行道(なんぎようどう)」、浄土門を「易行道(いぎょうどう)」とも言う。
    お釈迦さまが説かれたすべての教えによる分類
     聖道門(しょうどうもん) : 難行道。この世で一生懸命修行(難行:なんぎょう)をして、
     いま生きているうちに覚りを得ることを目指す教え。戒律を厳しく守り、禅定(ぜんじょう)を究め、
     智慧(ちえ)を磨き、悩み苦しみをもたらす根源ともいえる煩悩を断じて、覚りを開くというもの。
     自らの覚りを得るためにご縁のある仏・菩薩さまなどに帰依する。
     天台宗真言宗禅宗曹洞宗日蓮宗臨済宗法華宗、タイやスリランカなどの南伝仏教。
     浄土門(じょうどもん) : 易行道。この世では直接さとりを目指さず、まず
     阿弥陀さまのお力によって極楽浄土往生(易行)し、そこでさとりを目指そうという教え。
     煩悩を具(そな)えたまま、阿弥陀仏の平等の慈悲にすがり、浄土に往生して救われるというもの。
     往生浄土を目的にするので、私たちを往生させてくださる阿弥陀さまに帰依をする。
     浄土宗浄土真宗時宗
    (2000年9月・No,403、浄土新聞などより)
三途の川(the Styx)さんずのかわ : 三瀬川(みつせがわ)。三途川。葬頭河(そうずがわ)。渡り川。
    仏教用語の一つで、中国で作られた十王経から、冥土(めいど)への途中にあり、
    死んで7日目に極善・極悪でない人が渡るという3つの種類の川があるとされる。
    流れの速さの違う3つの瀬があり、生前の業(ごう)によって善人は橋を、軽い罪人は浅瀬を、
    重い罪人は流れの速い深みを渡ることから、「三つの道」の意味で「三途の川」や「三瀬川」と
    呼ばれるようになったといわれる。川のほとりには奪衣婆(だつうば)と老翁の鬼がいて、
    亡者の衣を奪うという。三途の川を渡って長い旅をするための葬式の時につける装束を旅装束と呼ぶ。
    その旅の途中7日を一つの単位として7回裁きと教えを受ける事になる。
    最後に閻魔様(えんまさま)によって生前の行いを裁く審判があるとされ、
    それが終わって判決が言い渡されるのが49日目である。すべての審判が終わった故人の魂は、
    仏様の世界にたどり着くことが出来る。遺族も「忌明け(きあけ)」として、
    仏様の世界(極楽浄土)に入って安心ということで日常生活に戻ることが出来る。
    そこで最後の締めとして親戚や故人と親しかった友人・知人と故人の功徳が報われて
    極楽往生できるようにと祈ることが49日の法要である。

    交通事故などで瀕死の重傷を負った人が、三途の川を経験したという話で、
    綺麗な花がそこらじゅうに咲き、太鼓橋がかかっていて、向う岸には顔と手しかはっきり見えない
    老人が手招きしていたということをよく聞くが、三途の川は亡くなってから1週間も経ってから
    渡ることになっているのに、生き返ることはあり得ないと思う。死の間際で家族が大声で呼んだことから
    生きる力が働いたことはあっても、三途の川からは戻れることはないでしょう。
    誰もが急流の深みを渡ることなく、善人のみが渡れる太鼓橋を見たというのも嘘っぽいね。
    私は悪人が通る急流を渡り、一刻も早く仏界にたどり着いた方がよいのではないかと思う。
    たとえ天国であっても地獄であっても。

参拝(worship)さんぱい : 社寺、特に神社にお参りして拝むこと。
    神道形式の参拝とは@神職におはらいを受けて昇殿しA玉ぐしを供えB二礼二拍手一礼する。
    神社参拝の作法 : 入口の鳥居をくぐる前に会釈をし、気持ちを引き締めてから境内に入る。
     鳥居から先は神様のいらっしゃる神聖な場所である。
     境内(けいだい)の真ん中は、神様の通り道なので、端を歩いて進む。
     手水舎(ちょうずや、てみずしゃ)にて意義を正し、必ず手と口を洗う。
      @右手で柄杓(ひしゃく)を持ち、水盤の水を汲んで左手にかけて清める。
      A次に柄杓を左手に持ち替えて、同じように右手を清める。
      B再び柄杓を右手に持ち、左の手のひらに一口分の水を受けて口をすすぐ。
       (注)直接柄杓に口はつけてはいけない。
      C口をすすぎ終えたら、もう一度水を左手に流して洗う。
      D最後に水の入った右手の柄杓を立て、柄に水を流して洗い、元の位置に伏せて置く。
     賽銭箱の前に立ったら一揖(背中を丸めず真っ直ぐにして腰を15度に折ったの会釈)をし、
     鈴の緒を大きく振り、神さまに捧げる真心のしるしとして、賽銭箱にお賽銭をそっと奉納する。
     神様に失礼にあたるので、そのときにお金は放らない方が良いとされる。
     二拝二拍手一拝出雲大社宇佐神宮では、二拝四拍手一拝)
      @背中を丸めず真っ直ぐにして腰を90度に折った深揖(深いお辞儀)を2回繰り返す。 [二拝]
      A次に両手を胸の高さで合わせ、右手を少し下にずらし、
       肩幅程度に両手を開いて拍手を2回(4回)打つ。 [二拍手(四拍手)]
      Bそのあとに両手をきちんと合わせながら普段の暮らしに感謝して心を込めて祈る。
       その際、名前と住所を伝える。「仕事がうまくいきますように」「健康でありますように」
       「金運がよくなりますように」などとお願い事をしてもよいが、
       実利的なことよりも今、元気にいることなどに感謝を伝える。
       願い事が叶うかどうかは、「努力」次第で、努力なしでは神様も聞いてくださらないとか。
      C両手をおろし、最後にもう一度90度の深いお辞儀をする。 [一拝]
     細木數子さんによると、女性は拍手は禁物で合掌だけでよいとのことである。
    参 : 八幡宮
三仏寺(さんぶつじ) = 三徳山三仏寺
三宝院(さんぼういん) = 三宝院(醍醐寺関連に別掲)
寺院(a temple)じいん : 寺(てら)のこと。仏像を安置し、僧尼がそこに住んで、
    自分の研修や布教のための礼拝(らいはい)・修行場、儀式場として用いる建物をいう。
    最近ではそれに附帯して養老院、幼稚園、保育園、学校などが設けられ経営管理しているところもある。
    寺院の建造物は、礼拝の対象を祀る「堂塔」と、僧衆が居住する「僧坊」とに区分される。
    本来寺院は仏教の言葉で、出家者が起居し宗教的儀式を行う施設の事であるが、
    現在の日本語では、神道キリスト教を除く諸宗教の宗教施設を指す語としても広く用いられている。
    広義にはキリスト教の教会、イスラム教のモスク、ユダヤ教のシナゴーグも寺院と称する場合がある。
    寺(じ)は助数詞で、寺院の数を数えるのに用いる。寺(てら)とは、中国の漢の時代に
    外国の主賓を泊める官庁をさし、それがしだいに僧侶の住居というようになったものである。
    寺には山号がついているが、そもそも中国では寺院が山のなかに建てられたことに由来している。
    その所在地の山の名前がつけられたわけで、そののち平地に建てられた寺院でも
    山号をつけるようになった。一つの寺院で山号、院号、寺号をもつところがある。
    たとえぱ金竜山伝法院浅草寺というぐあいである。お寺は活動目的によって3つに大別することができる。
    一つは菩提寺、一つは祈願寺、一つほ修行寺である。これらの活動目的をすぺて有している寺院と、
    一部のみを有している寺院とがある。菩提寺とは、檀家を持ち葬儀や法事を行い、
    墓地なども有してそれを管理する寺院である。日本の仏教が葬式仏教といわれるのも、
    葬祭を中心として活動する寺院が圧倒的なためであるo祈願寺とは商売繁盛、病気回復、
    交通安全など現世利益を授ける寺院で、天台、真言系、特に密教系寺院に多い。
    修行寺とは自己研俸の道場で、 一般俗人の出入りをあまり許さず、公開しないのを原則としている。
    院とは回廊や垣根をめぐらした園という意味で、のちには寺を総合とし、
    院を寺中の別舎(宿泊所)とし、これらを総称して寺院と呼ぷようになったものである。
    日本では、僧侶が定住することから、「院」と付く施設はすべて仏教関係の施設ということになった。
    参 : アジサイ寺阿弥陀寺医王寺弥谷寺永平寺延暦寺花岳寺吉田寺金閣寺
        高岩寺功山寺興福寺廣隆寺国分寺金剛三昧院金剛峰寺三徳山三仏寺
        三宝院焼山寺勝常寺常楽寺真勝院清涼寺泉岳寺善光寺禅師峰寺
        浅草寺善通寺増上寺題経寺醍醐寺大日寺大寧寺知恩院竹林寺
        中宮寺中尊寺転法輪寺天龍寺東寺唐招提寺東大寺東福寺道隆寺
        南禅寺南蔵院南明寺八正寺平等院法起寺宝生院法隆寺法輪寺ぽっくり寺
        本能寺万福寺薬師寺八栗寺屋島寺龍文寺龍安寺良観寺楞厳寺霊宝館    
巡礼したい奈良の寺社ベスト20    
順位 寺社(場所) 回答数(人) 記          事
東大寺(奈良市)  1985 聖武天皇が建立。大仏以外にも、境内最古の
法華堂やお水取りを行う二月堂など見どころは
多い。大仏殿などの入堂料大人500円
法隆寺(斑鳩町)  1853 聖徳太子ゆかりの寺で、歴史は平城遷都より
さらに古い。西院伽藍(がらん)は世界最古の
木造建築として知られる。拝観料大人1000円
唐招提寺(奈良市) 1768 唐から来た高僧鑑真が建立。2009年11月、
「平成の大修理」を終え、金堂の一般拝観が
9年ぶりに再開された。拝観料大人600円 
薬師寺(奈良市) 1288 平城遷都に伴い、藤原京から移設された。
金堂や西塔は昭和の再建で、奈良時代の
建築は東塔のみが残る。拝観料大人800円
興福寺(奈良市)  1170 藤原氏の氏寺で、一時は強大な力を持った。
境内の塀は明治の廃仏政策で撤去。阿修羅
像を展示する国宝館の拝観料大人600円 
春日大社(奈良市) 985 創建時の伝承から、シカを神の使いとする。
特別参拝初穂料500円 
室生寺(宇陀市)  879 女性の参拝が許されていた山岳寺院で
別名女人高野。入山料大人600円 
長谷寺(桜井市)  688 本堂は初瀬山中腹に立つ。
登廊から見たボタンが名物。入山料大人500円 
飛鳥寺(明日香村) 575 前身は日本最古の本格寺院法興寺。
飛鳥大仏も有名。拝観料大人300円 
10 秋篠寺(奈良市)  364 優しい顔の伎芸天立像と静かな境内に、
愛好家の評価も高い。拝観料500円 
11 新薬師寺(奈良市)   339  
12 橿原神宮(橿原市)   316  
13 朝護孫子寺(平群町) 210  
14 当麻寺(葛城市)   205  
15 中宮寺(斑鳩町)   195  
16 西大寺(奈良市)   186  
17 金剛寺(五條市)   168  
18 談山(だんだん)神社(桜井市)   165  
19 金峯山寺(吉野町)   143  
20 法華寺(奈良市)   104  
朝日新聞「アスパラクラブ」会員によるアンケートより(2010.4.24掲載、回答総数3566人)
奈良県発行の奈良・大和路観光ガイドブックに掲載される50の寺社から五つまで選んだ。
同時に聞いた散策したい地域を聞いた質問では、「奈良公園周辺」が全体の約3分の1の
支持を集めてトップで、「飛鳥」「斑鳩」「西ノ京」「吉野山」「山の辺の道」「室生」と続いた。  
慈円(じえん) : 1155年5月17日(久寿2年4月15日)〜1225年10月28日(嘉禄1年9月25日)は、
    平安時代末期〜鎌倉時代前期の天台宗の僧侶。歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』の著者、
    鎌倉時代初期の主要な歌人としても知られる。没後13年目に慈鎮(じちん)と諡された。
    一般に吉水僧正とも呼ばれ、また『小倉百人一首』では、前大僧正慈円と称されている。
    父の藤原忠通(ただみち)は白河,鳥羽院政下に37年間摂政(せっしょう)関白の地位を保ち、
    貴族社会の頂点に立ち続けた人物で、母は加賀局(藤原仲光(なかみつ))の娘。
    忠通の第六子・九条兼実(かねざね)の弟で、異母兄たちのなかで近衛基実(このえ・もとざね)
    松殿基房(まつどの・もとふさ)、九条兼実は摂政関白に、兼房は太政大臣になった。
    2歳で母を、10歳で父をなくした慈円は、6歳年上の兼実と親愛の情を交わし、父親のように慕った。
    1165(永万1)年、11歳で延暦寺の青蓮院に入り、
    翌々年に覚快法親王(鳥羽天皇第7皇子)の下で出家して道快と名乗ったが、
    平清盛が亡くなった1181(養和元)年に慈円と改め、平家が壇ノ浦で滅亡した1185(文治元)年までの
    4年間に、慈円は極楽寺、法興院の別当、三昧院、成就院、無動寺(むどうじ)の検校(けんぎょう)
    任じられ、青蓮院(しょうれんいん)、白川坊、善峰寺(よしみねでら)の住職を兼務している。
    混乱の続く貴族社会のなかで、慈円は、関東の武家との協調を図る同母兄の
    兼実の庇護の下で活動し、1192(建久3)年に38歳という若さで天台座主という延暦寺の最高位に、
    1203(建仁3)年には大僧正に任ぜられ、後鳥羽上皇の護持僧にもなったが、
    貴族社会の政局の推移につれて天台座主の辞退と復帰を繰り返し、補任は4度におよんだ。
    源頼朝の死後、後鳥羽上皇の周りは討幕に傾いていったが、
    兼実と同じ立場に立っていた慈円は1221年の承久の乱の直前、兼実の曾孫九条(藤原)頼経が
    征夷大将軍になる予定で鎌倉に下ったことを、公武協調の現れと考えた。
    討幕の動きが起これば、九条家の立場が崩れることを恐れた慈円は、
    焦燥にかられながら、国初以来の歴史をたどり、歴史のなかに流れている道理に基づいて、
    日本国のあるべき姿を明らかにしようとして、史書・史論書として名高い『愚管抄』を著した。
    後鳥羽上皇は、慈円の平明な歌風を高く評価し、『新古今和歌集』には、西行の94首に次いで、
    91首もの歌が収められている。百人一首には「おほけなくうき世の民(たみ)におほふ哉(かな)
    わか立つ杣(そま)にすみ染の袖(そで)」が入り、家集『拾玉集』には4300首の歌が収められている。
    慈円は自分の一生をかえりみて、「名利(みょうり)の二道をあゆむ」と素直に告白している。
    71歳で病のため没し、名誉と利得の「名利に満ちた生涯を終えた。
    墓は終焉の地,比叡山東坂本にある。
慈雲(じうん) : @1718年8月24日(享保3年7月28日)〜1805年1月22日(文化1年12月22日)は、
     江戸時代中・後期の真言宗の僧。慈雲尊者。慈雲飲光。大坂の人。
     戒律復興、梵(サンスクリット)学研究、民衆教化に偉大な足跡を残した近世真言宗の巨人。
     諱(いみな)は飲光(おんこう)。父上月安範は侠客的人物,母阿清は高松藩士の養女。
     母の勧めにより13歳で出家、14歳から密教を修学。さらに儒学を学ぶ。19歳、河内野中寺で
     梵文原典の研究に着手。インド渡航の大志も抱く。20〜24歳にかけて密教諸流を相承。
     このころ、諸師や母の感化により戒律を重視し、宗派、学問の偏重を排する姿勢を固めた。
     1744(延享1)年27歳のとき、河内長栄寺にブッダ在世時の正しい戒律、「正法律」の実践運動を開始。
     1749(寛延2)年そのための「根本僧制」を定めた。以後、各地に巡錫し教化につとめる。
     1758(宝暦8)年41歳の時、生駒山中の双竜庵に隠棲。禅観(瞑想)を修しつつ梵学研究に邁進し、
     独力で文法を理解して10余年をかけ1000巻の大著『梵学津梁』を完成。
     ヨーロッパのビュルヌフらに半世紀先行する偉業を成し遂げた。
     その後、京都阿弥陀寺に移り戒律の基本、十善戒法を説く。
     1786(天明6)年69歳、幕府の許可を得て葛城山の高貴寺を正法律の根本道場とした。
     晩年、神道を研究し、古代諸神の活動を曼荼羅の展開と同趣意とする雲伝(葛城)神道を提唱。
     慈雲の生涯は根本仏教への回帰に貫かれ、梵学研究も戒律復興もその一環であった。
     母親の影が常に濃いことも関心を引く。『慈雲全集』(19巻)がある。
     仮名法語『人となる道』など民衆教化の著作も注目される。弟子に親証、覚法、護明など。
     慈雲のことば
     一切世間の治生産業(ちしょうさんごう)、ことごとく取り用いて我が実相智印(じっそうちいん)となす
     「治生産業」とは、日常生活に役立ち、人のためになる活動をいい、
     「実相智印」とは、この世の中のことは、すべて真実のあらわれである、ということで、
     社会や人のためになる活動は、すべて真実の現れであり、
     ここに仏教の神髄が示されているという考え方。
    A大道慈雲 : 江戸後期の臨済宗の僧。出雲生。大林寺天桂に就き古月に法を受く。
     春光寺に僧堂を開き諸国を巡ったのち、南禅寺に住む。
     肥後正宗庵にて1823(文政6)年寂、享年未詳。
持戒(じかい) : 「戒」とは仏道修行における規範(きまり)、「持」はそれを守るという意味で、
    「仏様のおっしゃったきまりを守りましょう」ということ。 参 : 十戒
色即是空(All is vanity)しきそくぜくう : この世にある一切の物(色)は、
    因と縁によって存在しているだけで、固有の本質をもっていない(空)という、仏教の基本的な教義。
    『色』は、目に見えるすべての存在の事を総称していて、『空』は、空っぽと言う意味で、
    何も無い、と言うことなのだが、これと言う実体が無いと言う事だといわれている。
    従って、『色即是空』とは、『すべての存在、実はこれらは一切これと言う実体が無い』と直訳される。
    『仏教学辞典』の「色即是空」とは現実の物質的存在(色)の真相が、
    人間の理性を超えてそこに何等執着されるべきもののない、
    空しい存在であることを色即ち是れ空といい、「空即是色(くうそくぜしき)」とは、空しいことにおいて
    現実の存在がそのまま真実に肯定され価値づけられることを空即ちこれ色という意味である。

    この世に存在する一切の物(目に見えるもの)は空(実体のないもの)であることが
    「色即是空」だと言われても、私のような凡人は哲学者や宗教家のような思想には至らず、
    有が無だとの悟りはあの世に行っても開けないでしょう。
    四方八方どの方向に何億光年も突き進んだとしても、
    行き止まりのない無限の宇宙からみた有限の人間は、細菌のようなものだから、
    くよくよするなと自分に言い聞かしても、細菌になりきれないのだからどうしようもないね。

四弘誓願(しぐせいがん) :  総願。仏語の一つで、すべての仏・菩薩が共通して発する四つの誓願をいい、
    仏道を修行する者が必ず成し遂げようと誓う大きな願いである。
    限りなく多くの衆生(しゅじよう)を救おうとする衆生無辺誓願度、
    計り知れない煩悩(ぼんのう)を絶とうという煩悩無量誓願断、
    尽きることのないほど広大な法の教えを学びとろうという法門無尽誓願知(または学)、
    最高の悟りに達したいという仏道無上誓願成(または証)の総称。
    浄土宗のおつとめでは、
     衆生無辺誓願度(しゅじょう・むへん・せいがんど) : 衆生(人々)は数知れないが、
                                       皆をさとりの世界に導きたい。
     煩悩無辺誓願断(ぼんのう・むへん・せいがんだん) : 煩悩は尽きることがないが、
                                        すべてを断滅したい。
     法門無尽誓願知(ほうもん・むじん・せいがんち) : み仏の教えは数限りないが、
                                      すべてを学び知り尽くしたい。
     無上菩提誓願証(むじょう・ぼだい・せいがんじょう) : 最上のさとりを体得したい。
     の四句に、
     自他法界同利益(じた・ほうかい・どうりやく) : 私も他の人もおなじようにお念仏の功徳にあずかり、
     共生極楽成仏道(ぐしょう・ごくらく・じょうぶつどう) : 共々に極楽浄土に往生して、
                                       さとりへの道を成就しよう。
     の二句を加えて唱える。
    禅宗(臨済宗・曹洞宗)のおつとめでは、
     衆生無辺誓願度(しゅじょう・むへん・せいがんど) : 衆生は無辺なれども、誓ってどせんことを願う。
      この世の中には迷い・苦しみが多く、助けを必要としているものがたくさんいます。
      自己中心を捨て、他の優先を常に考慮し、心に誓って、苦しんでいる人・自然環境などの
      あらゆるものたちに、温かい手をさしのべようと思います。身近な人に奉仕(布施)しよう。
     煩悩無尽誓願断(ぼんのう・むじん・せいがんだん) : 煩悩は尽きることなけれども、
      誓ってだんぜんことを願う。煩悩は尽きることがないけれども、心に誓って、わき起こる欲や煩悩と戦い、
      迷い・煩いに束縛されない、素直な生活ができるように、精進努力します。足下のごみを一つ拾おう。
     法門無量誓願学(ほうもん・むりょう・せいがんがく) : 法門は無量なれども、
      誓ってまなばんことを願う。仏教の教えを学ぶことは、簡単なことではありませんが、
      心に誓って、これらの教えを理解・実践するように心がけます。1日に一つ教えを学ぼう。
     仏道無上誓願成(ぶつどう・むじょう・せいがんじょう) : 仏道は無上なれども、
      誓ってじょうぜんことを願う。おさとりを開くまでには、長い道のりを覚悟しなければならないでしょう。
      しかし、本来私たちは、いつでもおさとりを持ち合わせていて、それに気が付かないだけなのだ、
      ということを常に信じて、心に誓って、仏道成就を願いましょう。永遠の路を一歩一歩ゆっくり歩もう。
      
と唱える。赤字は、臨済宗の泰斗、松原泰道師が四弘誓願を人生論として、具体的に解釈されたもの。
    天台宗浄土真宗日蓮宗など、他の宗派にもわずかな違いがあるが、
    真言宗では、「五大願」といい、下記のように唱える。
     衆生無辺誓願度 : 衆生は無辺なり、誓ってすくわんことを願う。
     福知誓願 : 福知は無辺なり、誓ってあつめんことを願う。
     法門無誓願学 : 法門は無辺なり、誓ってまなばんことを願う。
     如来無辺誓願事 : 如来は無辺なり、誓ってつかえんことを願う。
     菩提無上誓願 : 菩提は無上なり、誓ってさとらんことを願う。
四苦八苦(agony)しくはっく : @非常に苦しむこと。大変苦労すること。
     【類語】●艱難辛苦(かんなんしんく:辛く苦しい思いをする)
    A元々は仏語で、仏教では、人間が背負っているあらゆる悲しみ、意のままにならぬ苦しみをいい、
     (しょう・ろう・びょう・し)の四苦に
     愛別離苦(あいべつりく) = 愛別離苦(別掲)
     怨憎会苦(おんぞうえく) : 憎んでいる人と会う苦しみで、厭で嫌いでたまらない人に会ったり、
                       一緒にいなければならないという苦しみ。
     求不得苦(ぐふとっく) : 欲しいものが手に入らない苦しみ。
     五蘊盛苦(ごうんじょうく) : 心身の構成要素(五蘊)から生じる苦しみ。
     の四苦を加えての八苦(はっく)を四苦八苦という。
     釈迦はこれらの苦しみに直面し、その苦しみからの開放を目指し、出家した。
     恐らく、私達が感じる苦と言うものは、すべて、この四苦八苦に分類され、
     例外なく総ての人が、四苦八苦の総てを人生の中で経験するといわれている。
     八苦だけでよいのに四苦をダブらせたのは、非常に苦しいことを表したのか、
     それとも中国の針小棒大からきたものだろうか。

地獄(hell、Hades、the inferno)じごく : @悪業をした者が死後苦報をうけると信じられている世界。
    A仏教用語で、六道の最下位。奈落。死を迎えると閻魔(えんま)さまの裁きが下され、
     生前の行いによって、再びいずれかの世界に転生(てんしょう)し、
     特に重い罪を犯した罪人は地獄に堕とされ、罪に応じた責め苦を受ける。
     地獄は大別して8つ、八熱地獄・八寒地獄・八大地獄など136種類の呵責(かしゃく)がある。
     芥川龍之介の「蜘蛛(くも)の糸」には血の海が出てくる。
     「方丈記」にはさながら生き地獄が語られているが、
     「病草子(やまいぞうし)」や「餓鬼草子」「地獄草子」の絵巻に描かれている絵は、
     死体をかき分けて食をあさる人間のあさましい姿である。
     反対に、西方十万億土(さいほうじゅうまんおくど)には、
     阿弥陀仏(あみだぶつ)が居る極楽の世界という浄土があって、
     諸事もの足りて何の苦しみも、患(わずら)いもない。
     そこで恵心(えしん)や隠者(いんじゃ)の多くは、念仏を唱え、
     ふだんから弥陀の姿や来迎(らいごう)の光景を幻想する習慣によって、すでに死期迫った時、
     心身ともに恍惚(こうこつ)として浄土に往生(おうじょう)すると信じていた。
     天台の学僧であった恵心僧都・源信えしんそうずげんしん:942〜1017)は、
     華厳経巻35の10地品第26の2の引用から、地獄行きの原因をさらに分析し、
     @殺生、A偸盗(ちゅうとう=どろぼう)、B邪淫、C妄語(デタラメな語)、D綺語(けったいな話)、
     E両舌(あっちこっちに違う事を言い、人を迷わせる)、F悪口、G貪欲、H瞋恚(しんに=怒り)、
     I邪見(正しく物事が見えない)の10種としている。 【対義語】極楽
     八熱地獄(はちねつじごく) : これも源信が地獄を8つに別け、
      一つの地獄にはそれぞれ16の副地獄があり、総計では128の地獄があるとした。
      この地獄のほかにも餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六道を想定して、そこを輪廻するとしている。
      阿鼻地獄に無間地獄を含め、黒縄地獄を加えることもある。
      等活地獄(とうかつじごく) : 生き物を殺した者(殺生の罪)が落ちる。
       八熱地獄の中で最も責め苦が軽いとされるが、鬼たち(獄卒)に、罪人の頭のてっぺんから
       足の先まで砂のかたまりになるまで刀で切り刻まれ、鉄棒で骨が粉々に打ち砕かれる。
       ところが涼しい風が吹くと、再び生き返って、同じ苦しみが無限にくり返される。
      黒縄地獄(こくじょうじごく) : 盗みをおかした者が落ちる。
       熱鉄の上に寝かされて、焼けただれた鉄縄で身体が打ちつけられて、切り裂かれる。
       また、煮えたぎる釜に落とされて、地獄の鬼に食われる。
      衆合地獄(しゅごうじごく) : 殺生、盗みのほか、邪淫を犯した人間が落ちる地獄ですさまじい。
       男の亡者は刀の形をした葉の林に連れて置かれる。木の上を見上げると、美しい女がいる。
       男は女を求めて木に登ろうとすると、木の葉はすべて鋭利な刃(やいば)となって、
       男の身体を引き裂いていく。男は血まみれになって、木の上にたどりつくが、
       女はいつの間にか地上に降りていて、「あなたのために地獄におちたのよ。
       どうして私を抱いてくださらないの」と女の呼びかけに、男はまた欲情をもよおして、
       無我夢中で木から降りる。すると今度は葉の刃が上を向いて、降りようとする男の身体を
       ずたずたに切り裂く。邪淫をおかした亡者は、何百年何千億年も、このくり返しが行われる。
      叫喚地獄きょうかんじごく) : 殺生、盗み、邪淫のほか、飲酒の罪を犯した者がおちる。
       獄卒は、背が高く、手足が長く、恐ろしい赤鬼。
       逃げる罪人を捕まえては鉄の鍋に投げ込んで煮たり、煮えたぎる汁を口に流し込んだりする。
      大叫喚地獄(だいきょうかんじごく) : 叫喚地獄に加えて虚言(嘘つき)の罪を犯した者がおちる。
       刑の内容は同じでも苦痛は10倍。
      焦熱地獄(しょうねつじごく) : この地獄の熱さは、今までの熱さが雪のように冷たく感じられるくらい
       すさまじい。ほんの豆粒くらいの火を人間世界に持ち帰ると一瞬のうちに大地を燃え尽くしてしまうと
       されている。ここにおとされるのは殺生、盗み、邪淫のほか、飲酒、虚言のほかに
       仏教を否定するという罪が加わった者。熱い熱い鉄の上で焼かれ、紙のように薄く延ばされるとか。
      大焦熱地獄(だいしょうねつじごく) : 焦熱地獄よりも10倍苦痛が重くさらに刑期も長い。
      無間地獄(むげんじごく) : 大焦熱地獄より千倍の苦痛で最大の地獄。
       ここにおちる罪人は五逆罪(父を殺す、母を殺す、徳のある仏弟子を殺す、
       仏教教団を分裂させる、仏に危害を加えて血を流させる)を犯した者。
       さらに寺や塔を壊したり、仏像を焼いたりする者も該当する。
      阿鼻地獄(あびじごく) : 現世で五逆などの最悪の大罪を犯した物が落ちる地獄。
      参 : 阿鼻叫喚
     八寒地獄(はっかんじごく)
      アブダ地獄 : 厳しい寒さのために、体中にぶつぶつができる。
      ニラブタ地獄 : さらに寒く、ぶつぶつがつぶれる苦痛が加わる。
      アタタ地獄 : あまりの寒さに声も出ず、
       ただ舌だけが「アタタ」と悲鳴をあげるからこの名前がつけられた。
      アババ地獄 : 「アババ」と悲鳴をあげるほどの寒い地獄。
      フフバ地獄 : のどが震えて「フフバ」と発する地獄。
      ウバラ地獄 : ウバラとは青蓮華のことで寒さのために身が裂けて、青蓮華のようになる地獄。
      パドマ地獄 : パドマは紅蓮華のこと。裂けた体がめくれて真紅に。
      マカパドマ地獄 : 真紅になった体がついにはバラバラになって白骨と化す。別名白蓮華地獄。
     地獄絵図 : 愛知県西尾市にある浄土宗「縁心寺(えんしんじ)」蔵の仏画(地獄絵図)。
      西尾藩の絵師・矢内楳秀により明治3年に描かれた。畳にして22畳分もあり、国内でも最大級。
      極彩色でリアルな描写が見事。8月6日から16日まで本堂に展覧される。
    Bキリスト教で、神と神の言葉を拒む者が落とされる最も恐るべき運命または世界。【反対語】天国
    C非常に苦しく、つらいこと。(例)通勤地獄。
    D火山や温泉地で、常に噴煙や熱湯の噴き出している所。(例)地獄谷。
    E劇場の舞台の床下。奈落。
    F売春婦。私娼(ししよう)
地獄で仏に会う(じごくでほとけにあう) : 「地獄で仏」とも言われ、非常に危険な目に遭(あ)ったり、
    大変困ったりしている時に、予期もしなかった偶然の助け舟に出会った喜びを言う。
     「地獄」とは、生前の罪によって色々な責め苦を受けるところ、悪行の報いで堕(お)ちて行くような
    ところで、苦しみ極まった世界である。このような閻魔(えんま)さまがいて、血の池や、
    針の山があったりする恐ろしい地獄で、おもいがけなく、みんなの悲しみや苦しみを救ってくれる
    情け深い仏さまに出会い、助けてもらって大変うれしいということである。
    【類語】●地獄の地蔵●地獄に仏
時宗(じしゅう) : 鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派で、僧・一遍智真(いっぺんちしん)が開祖である。
    壇ノ浦で平家を滅亡させた河野水軍の末裔(まつえい)として、
    伊予道後(現・愛媛県松山市)に豪族の子として生まれました。10歳の時に母を亡くして出家し、
    浄土宗を開いた法然の弟子・西山派の開祖・証空上人に学んだ。
    時宗の名は一般に『阿弥陀経(あみだきょう)』の「臨命終時(りんみょうじゅうじ)」に由来するといわれ、
    平生を臨命終時と心得て、怠りなく称名念仏(しょうみょうねんぶつ)することを意味する。
    一遍は、同志として彼と同行する個人および集団を「時衆(じしゅう)」とよんでいる
    (『一遍聖絵(ひじりえ)』第5その他)。また、一向(いっこう)に(ひたすら)阿弥陀仏
    名号(みょうごう)を唱えることを肝要としたので一向衆とよばれ、一所不住を本旨としたから
    遊行衆(ゆぎょうしゅう)ともいわれた。時宗として宗名が確立し一般化するのは、
    江戸時代に入ってからのことである。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。
七福神(しちふくじん) = 七福神(別掲)
十戒(じっかい) : @沙弥(しゃみ) : 20歳未満の出家者である沙弥・沙弥尼の
     守らなければならない10の戒めのこと。
     不殺生(ふせっしょう:生きものの生命を大切にする、不偸盗(ふちゅうとう:盗みや不正を犯さない
     不邪淫(ふじゃいん:淫欲にふけらない、不妄語(ふもうご:うそ・いつわりを言わない
     不飲酒(ふおんじゅ:酒を飲まない、不塗飾香鬘(ふずじきこうまん:装身具・香料などを身につけない
     不歌舞観聴(ふかぶかんちょう:歌をうたったり舞をまったりしない。 またそれを観てもいけない
     不坐高広大牀(ふざこうこうだいしょう:高くゆったりとした寝台に寝ない
     不非時食(ふひじじき:昼以後、 何も食べない
     不蓄金銀宝(ふちくこんごんほう:金銀財宝をたくわえない
    A十善戒(じゅうぜんかい) : 初期の仏教ですでに説かれていた十善を戒としたものであり、
                        大乗仏教の基本的な戒の一つである。
     不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語(ふきご:飾った言葉、意味のない言葉を言わない
     不悪口(ふあっく:悪口を言わない、不両舌(ふりょうぜつ:仲たがいさせることを言わない
     不貪欲(ふどんよく:むさぼらない、不瞋恚(ふしんに:怒らない
     不邪見(ふじゃけん:誤った人生観を持たない
    B十重禁戒(じゅうじゅうきんかい) : 仏の弟子になるための心がけ。
     不殺生戒(ふせっしょうかい)、不偸盗戒(ふちゅうとうかい)不淫戒(ふいんかい)
     不妄語戒(ふもうごかい)、不コ酒戒(ふこしゅかい:迷いの酒や思想におぼれてはいけない
     不説過戒(ふせっかかい:他人の過ちを言いふらしてはならない
     不自讃毀他戒(ふじさんきたかい:己の自慢他人の悪口を言ってはならない
     不慳法財戒(ふけんほうざいかい:物でも心でも与えることを惜しんではならない
     不瞋恚戒(ふしんいかい:激しい怒りで自分を失ってはならない
     不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい:仏陀の教えを疑ってはならない
    Cモーセの十戒(Decalogue,Ten Commandments) : 十誡。旧約聖書の出エジプト記にある、
     モーセがシナイ山でヤーウェ神から与えられた10カ条の啓示のこと。
     「わたしのほかに、なにものも神としてはならない」と唯一神への信仰を求める第一戒に始まり、
     偶像礼拝の禁、神の名の尊厳、安息日の厳守、父母を敬うこと、
     以下、殺人・姦淫(かんいん)・盗み・偽証・貪欲・偶像を作ることなどを戒めている。
    参 : 五戒八戒持戒一生不犯
四天王寺(してんのうじ) = 四天王寺(別掲)
柴又七福神(しばまちしちふくじん) = 柴又七福神(七福神関連に別掲)
慈悲(じひ) = 慈悲(別掲)
島地黙雷(しまじ・もくらい) = 島地黙雷(周防五傑僧に別掲)
四万六千日(しまんろくせんにち) : 7月10日に浅草の浅草寺の観音に詣でると、
    46000日参詣したのと同じご利益や功徳(くどく)があるといわれ、お参りに出かける行事。
    境内ではいろいろな物が売られ、なかでもほうずき市が有名。
釈迦(Buddha、Shakyamuni、Sakya)しゃか、サークヤ
    @紀元前7〜6世紀頃、ヒマラヤ山麓ネパールに居住していた部族。釈迦も釈迦族の出身。
    A仏教の開祖で釈迦牟尼(しゃかむに)、釈尊(しゃそん)、釈迦如来(しゃかにょらい)などと
     いわれる世界4聖人の一人。姓はゴータマ、名はシッタルタ。仏陀(ぶつだ)は釈迦の尊称。
     中部ネパールの釈迦族の中心地迦毘羅(かびら)城に浄飯王(じょうぼんのう)の子として生まれる。
     母は摩耶夫人(まやぶにん)。王族として不自由のない生活を送った釈迦は16歳で結婚したが、
     やがて老い・病・死などの根源的な諸問題に思い悩むようになった。
     そして29歳のとき、すべての地位と家族を捨てて出家し、6年間の苦行や瞑想のすえに35歳で
     悟りを得ると、以後北インドのガンジス川流域を放浪して布教を行った。のち鹿野園(ろくやおん)
     5人の修行者を教化し(仏教教団の成立)、以後80歳で入滅(にゅうめつ)するまで教化の旅を続けた。
     教説は四諦(したい)八正道(はっしょうどう)・十二縁起などでまとめられる。
     生没年は紀元前463〜383年のほか、同565〜480年など諸説ある。
      日本人は、仏教の開祖であるこの人物を、親しみをこめて『お釈迦さま』と呼んでいるが、
     これは、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)という呼び名の上2文字をとって、
     上下に敬称を付けただけのものなのである。釈迦というのは、この人が出身した種族の名であり、
     牟尼というのは、聖者・智者といった意味の言葉であり、そして、仏はもちろん仏陀の省略であるから、
     釈迦牟尼仏というのは「釈迦族出身の聖者で、この世の真理にめざめた者」といった意味になる。
     このお釈迦さまは、「仏の十号」などといって、経典の中ではさまざまな呼び方があるが、
     その中でも、一般的には「釈尊」と呼ばれることが最も多いと思われる。
     これは、釈迦牟尼世尊を省略したもの。「世尊(せそん)」というのは、
     この世における尊いお方といったことで、仏陀に成った者に対する尊称である。
     4月8日は釈迦の誕生日で、生まれてすぐに「天上天下唯我独尊」と言われたと伝えられる。
     この日に各寺院では潅仏会(かんぶつえ)の行事があり、
     参詣者が花御堂(はなみどう)の中に安置された誕生仏に、
     甘茶を頭上にそそぐ法会で、「花まつり」の通称で親しまれている。
     ちなみに世界の4聖人とは、 孔子(BC551頃〜BC479)、ソクラテス(BC469頃〜BC399)、
     仏陀(釈迦)(BC463〜BC383)、 イエス・キリスト(BC4〜AD30)である。
     私は、宗教の創始者が聖人だと思い込んでいて、イスラム教の開祖である
     マホメット(ムハンマド)(AD570頃〜AD632)もその一人だと思っていた。

     参 : 唯我独尊涅槃会
社会参加仏教(Socially Engaged Buddhism、Engaged Buddhism)しゃかいさんかぶっきょう
    「社会参加の仏教」とか「行動する仏教」、「闘う仏教」のほか、「社会をつくりかえる仏教」、
    「社会をつくる仏教」などとも呼ばれ、社会問題にもかかわる仏教のあり方を指す。
    エンゲイジという言葉には、思想や言葉だけではなく
    行動によって社会変革に参加してゆくという意味がある。
    世界各地域における仏教徒や仏教団体による様々な社会活動、環境保護運動、
    政治運動、などへの参加、つまり仏教の「対社会的姿勢」を示し、
    同業者や檀家の内部に安住するのではなく、積極的に社会的な問題に関与し、
    それをつうじて、人々の生々しい生と死の現場に出会っていこうという試みである。
    社会参加仏教の事例(東京大学文学部・大学院人文社会系研究科・学術データベースを引用)
    法音寺(ほうおんじ) : 3人の宗教者、創立者の杉山 辰子(すぎやま たつこ)
     協力者として努めていた医師の村上 斎(むらかみ いつき)
     そして法音寺を開いた鈴木 修学(すずき しゅうがく)の宗教活動並びに福祉活動によって創立された
     日蓮系の仏教団体である。1909(明治42)年に名古屋で杉山 辰子によって法音寺の前身である
     仏教感化救済会が開教されたことに遡る。前身の仏教感化救済会また現在の法音寺では、
     法華経への信仰による精神的救済と、医学など近代科学的方法に基づく
     社会事業による身体的救済とを合わせた救済活動が行われている。
      近代化以降、日本仏教による福祉活動は、近代的知識を積極的に取り入れることによって
     前近代の慈善活動から近代的な福祉活動への脱皮を図っており、法音寺にも同様の傾向が見られる。
     これが、法音寺による社会参加の「社会化」である。
     また、社会変化と共に法音寺による福祉活動の内容も変化している。
     以前のハンセン病患者保護活動から児童福祉、高齢者福祉そして福祉教育の分野へ拡大されてきた。
     また、法音寺は日本社会の福祉に関するニーズへの対応として日本福祉大学を設立した。
     これが法音寺の社会参加の「大衆化」である。 参 : 日蓮宗・大乗山・法音寺(HP)
    立正佼成会(りっしょうこうせいかい) : 1938(昭和13)年、開祖・庭野 日敬(にわの にっきょう)
     脇祖・長沼 妙佼(ながぬま みょうこう)によって「宗教法人 立正佼成会」として設立され、
     1969(昭和44)年に庭野が「明るい社会づくり運動」(明社運動)という地域運動を提唱した。
     明社運動の背景には、立正佼成会、とりわけ庭野 日敬による宗教協力及び
     世界平和活動への進出があり、立正佼成会の海外援助活動、平和活動は、
     地域レベルで行われている国際貢献活動の延長線上にある。
     立正佼成会の社会参加においては「国際化」は重要な側面である。
     立正佼成会の社会参加のあり方は、他の宗教団体、市民団体などとのネットワークづくり・
     結社活動を通じての社会活動の実践、教団による社会活動の「社会化」を示している。
     さらに、明社運動における国際貢献活動・社会活動は地域住民にできる奉仕活動であり、
     「大衆参加」的な側面を現している。こうした社会参加は、
     社会問題に実践的に取り組みながら人々の精神的な高揚を図るのが特徴である。
     参 : 立正佼成会(HP)
    参 : 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科(HP)
釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう) : 釈迦如来像は、単独の像のほかに、
    脇に二体の菩薩像を従えた三尊形式で表現されることもある。
    脇に従う菩薩(脇侍:わきじ)は、本尊(中尊:ちゅうそん)である釈迦如来の手伝いをしている。
    釈迦に従う脇侍は、普通文殊(もんじゅ)菩薩と普賢(ふげん)菩薩で、
    釈迦の左側、向かって右に位置するのが文殊菩薩で、獅子に乗った姿で表現される。
    釈迦の右側、向かって左に位置しているのが普賢菩薩で、
    白象(びゃくぞう:白い象のこと)に乗った姿が一般的である。
    このように釈迦像を中心として、文殊・普賢両菩薩を脇侍にすえた形式を、とくに釈迦三尊像という。
釈迦に説法(しゃかにせっぽう) : お釈迦様(釈迦)に仏教の教えを説いて聞かせる意味から、
    相手のほうがよく知っていて、今さら言う必要がないことのたとえ。
    【類語】●釈迦に経●河童に水練●孔子に悟道●月夜に提灯
(a scepter、a mace)しゃく : さく。こつ。手板(しゅはん)。日本において束帯の着用の際、
    右手に持つ細長い板で、象牙製の牙笏(げしゃく)と木製の木笏(もくしゃく)とがある。
    「笏」の本来の読みは「コツ」であるが、「骨」に通じて縁起が悪いので、
    長さが1尺ほどであるところから「尺」の音を借りて当てたもの。
    今日では束帯を日常的に着用するのは神職ぐらいであり、したがって笏も神職が持つ物となっている。
    中国発祥のものであり、中国では官人が備忘として書きつけをするための板であったとされている。
    六世紀に中国から伝来し、日本では初めは、朝廷の公事を行うときに、
    備忘のため式次第を笏紙(しゃくがみ)という紙に書いて笏の裏に貼って備忘用としたが、
    後に、重要な儀式や神事に際し、持つ人の威儀を正すために持つようになった。
    笏には、かつては五位以上の者は牙笏、六位以下は木笏と決まっていたが、
    後に位に関係なく礼服のときにのみ牙笏を用い、普段は木笏を用いるようになった。
    今日神職が用いているのは木笏である。
沙弥(しゃみ、さみ) : @僧に従って雑用を勤めながら修行し、正式の僧を目指す見習僧のこと。息慈。息悪。
     仏門に入り髪をそって沙弥十戒(十戒参照)を受け、正式の僧となるための具足戒を受けるために
     修行している初心の男子をいい、主に7歳以上、20歳未満の修行未熟な少年僧を指す。
     「沙弥」とは、サンスクリット語で、俗情を離れて慈悲の心を起こすという意味を持つことから、
     正式の僧(比丘)になろうと努める者のことを指すようになった。その後、仏門に入って剃髪し、
     十戒を授かった男子で、未熟な僧侶のことを一般に沙弥と称するようになった。さらに後には、
     Aのように剃髪していても妻子を持ち在家の生活を行なう者のことを言うようにもなった。
    A剃髪して僧形にありながら、妻帯して世俗の生活をしている者のこと。
     つまり、心は仏門にあるが身は俗人といった状態の人を指す。
十一面観音(じゅういちめんかんのん) : 変化観音のうち最初に作られたものとされる。
    サンスクリット語では「エカーダシャムッカ」で、「11の顔を持つもの」の意味。
    仏教の信仰対象である菩薩の一尊で、大光普照(だいこうふしょう)観音とも呼ばれる。
    観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一つでもある。十一面の顔は
    無限の救済範囲をあらわし、全ての方角に顔を向けて全ての人々を救ってくれる十一面観音。
    中心の顔を本面とし、頭上の前3面が『菩薩面』、左(向かって右)の3面が明王のような怒り
    『瞋怒相』(しんもくそう)、右の3面が牙を見せながら微笑む『狗牙上出面』、
    怒りの後に安堵感の笑いがある1面の『暴悪大笑面』(たいしょう)で、
    一番上に如来の顔(阿弥陀仏の尊顔)を載せるのが一般的である。
    仏教での多面多臂(ためんたひ)『たくさんの手や顔をもつ意』をもつ像は、
    十一面観音が最初で平安時代に千手観音が登場するまでは十一面観音は、
    日本の「観音さま」信仰を独占し、観音といえば十一面とされるほど多くの仏像が作られた。
    女神のような官能的な容姿に造られたものも多い。これらは人間の喜怒哀楽を表現しているとされ、
    それらの表情で人々を正しい方向に導こうとするとされる。
    右手は下にたらして数珠を持ち、左手には紅蓮を挿した花瓶を持つことが多い。
    各地の十一面観音像
    ★奈良県桜井市下・聖林寺の十一面観音立像(国宝)
    ★滋賀県高月町・向源寺の十一面観音立像(国宝)
    ★京都府宇治田原町・禅底寺の十一面観音立像(重文)
    ★東京国立博物館保管・中国西安市宝慶寺伝来の十一面観音立像(重文)
    などが有名で、その他に古くの壁画では中国の敦煌莫高窟壁画の十一面観音座像、
    朝鮮半島の石窟庵に浮き彫りされている十一面観音菩薩像、
    日本では那智経塚出土の十一面観音像(金剛仏)、法隆寺金剛壁画に描かれている十一面観音、
    奈良・法隆寺の九面観音菩薩立像(重文)(十一面観世音菩薩の変化観音で頭上に八面)などがある。
    
    滋賀県甲賀郡にある浄土宗・正福時所蔵の十一面観音立像(浄土宗発行の「かるな」2002年冬号より)
    国指定重要文化財。造像の時期は右から平安時代の12世紀、11世紀前半、12世紀と考えられる。
    像高は右から177.5cm、215.0cm、175.7cm。

宗教(religion)しゅうきょう : @神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。
     信仰であって、自分の心の拠(よ)り所として信じるもの。
    A〔religion〕経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、
     積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。
     アニミズム・トーテミズム・シャーマニズムから、ユダヤ教・バラモン教・神道などの民族宗教、
     さらにキリスト教仏教イスラム教など、世界各地にさまざまな形態のものがみられる。
     世界三大宗教 : ●イスラム教●キリスト教●仏教
     日本三大新宗教 : ●天理教●金光教●黒住教
     日本の既存宗教 : 浄土宗浄土真宗時宗真言宗神道禅宗
                   曹洞宗天台宗日蓮宗法華宗臨済宗、など。
       明治以降に設立された宗派団体は「新興宗教(新宗教)」とくくられることが多い。
       さらに1970(昭和45)年代以降に台頭した宗派団体を「新新宗教」と区別することもある。
     宗教に関する日本人の意識 : 国民の4人に3人が特定の宗教を信じておらず、
       宗教を大切だと思わない人も多数派を占めているが、
       「神や仏にすがりたい」と思ったことがある人は過半数に上っていることが、
       読売新聞社の2005年8月6、7の両日に実施された全国世論調査(面接方式)で明らかになった。
     参 : 宗旨宗派バハイ教仏教各宗派比較表

     先祖あっての自分なので、何百年と続いた家の宗教(浄土宗)を守り続けていくつもりだが、
     これから息子、孫の時代になると、お寺にも参らずに宗教はすたれて行くのでしょうか。
     平々凡々に暮らしている時はよいが、何かに行き詰った時に神仏にすがりたい心が芽生え、
     その時に拠り所とする宗教がないと、新興宗教に向かうことになるのでしょうね。
      「高野山教報」(第1500号)に宗教に関して述べられていることを以下に抜粋しました。
     宗教に対して人々の求めているものが多様化してきています。例えば、これまでは先祖供養や
     加持祈祷が中心でしたが、近年は、阿字感や写経など自己探求の実修機会を提供すること、
     悩みを持たれている方の話を聞いてあげること(傾聴)、そして時には率先して社会活動に
     参加すること、こういった総合的な活動が求められています。

宗教法人の税制(しゅうきょうほうじんのぜいせい) : 宗教法人がお布施など宗教行為で得た所得は
    公益事業として非課税となる。物品販売業など税法で定められた収益事業は課税されるが、
    収益事業で得た所得の2割まで控除できるうえ、残った8割に対する税率も22%(一般法人は30%)
    と優遇されている。このため、宗教法人を受け皿にして税負担を軽くしたり、
    宗教行為による所得を装って税逃れをしたりして、国税当局から追徴課税されるケースが後を絶たない。
    国税庁によると、2008年6月までの1年間に法人税の税務調査を受けた宗教法人のうち、
    所得隠しを指摘された割合は6.3%(公益法人全体は4.7%)だった。
    参 : 財団法人日本宗教連盟(略称「日宗連」HP)、財団法人全日本仏教会(HP)

    宗教法人の公益事業にも課税せよ(2008.10.1、フロイデより)
     別にタブーでも何でもない。当然のことだ。
    現在、宗教法人は通常の営利法人と異なり、税制で圧倒的とも言えるほどの優遇を受けている。
    宗教法人が行う事業は@公共事業とA収益事業の2つに分類できる。
    前者は非課税、後者は課税されるが、大変優遇されている。
    ではまず、課税される後者のA収益事業からみてみよう。
    A収益事業とは、布教や活動の経費をまかなうために認められたもので、印刷業や出版業、
     医療保険業等33業種がある。しかし、一般企業よりどう優遇されているかというと、
     一般企業=A社と宗教法人=Bとがそれぞれ、1億円の収益を計上したとしよう。
     A社にはそのまま30%が課税されて、3,000万円納税しまければならない。
     ところが、Bは、まず、1億円のうち、30%である3,000万円は免税され、
     課税対象額=7,000万円である。これに課税される率はA社のように30%ではなく、
     22%なので、7,000万円×22%=1,540万円となり、
     A社の3,000万円の約2分の1(半額)でよいのだ。収益事業だけだけでも、これだけ優遇されている。
     では、本題である@の公益事業を見てみよう。
    @公益事業とは、おみくじ、お札、信者が拠出する「会費」、寄付金、お布施、戒名料、賽銭、
     祈祷料等である。これらには一切課税されない=非課税だのだ。
     しかも、このようにして集めたお金による貯金、株式投資、債券運用における利子や配当金についても
     何と非課税。さらに、同様に同「基金」により購入した土地、建物に係る所有財産の固定資産税、
     不動産取得税、登録免許税、都市開発税なども一切「非課税」なのだ。驚くべきことである。
    Aについても、一般法人と同じ扱いにすべきだし、それよりも何よりも@についての課税は、
    国民として絶対に要求すべきものだ。そうしたことや、役人の公費ムダ使いをさて置いたままで、
    消費税を上げるとしたら大反対である。こうした不公平部分を解消したうえでの消費税見直しなら、
    ある程度、国民も考えざるを得ないだろう。順序を逆にしようものなら、優しく温厚な国民である日本人も、
    さすがに怒り出すに違いないし、怒らないようではダメである。公務員は国民の下僕であることを
    忘れないこと。間違っても。「殿様商売」感覚で公務たる行政は行わないこと。
    宗教法人は、税金の話を持ち出すと、すぐに、「心の問題に税金はふさわしくない」みたいなことを
    言いだすらしい。冗談じゃない、おふざけじゃないぜ。「心の問題」なんてものは、1人1人、
    濃淡こそあれ、人間である以上、全員に在るのだ。そしてそれは、何も「宗教」というかたち、
    宗教法人に帰属するかたちをとるか否かなどということとは、全く本質的な問題ではなく、
    あくまでも個人が自身の心や様々な問題に対して最善の解答を見つけて毎日を生きているわけである。
    したがって、「宗教法人に特権を与える理由、根拠など、どこにも存在しない」、のである。
    この点を、自ら宗教者(と名乗る人)達は、厳に戒めるべきである。それこそ宗教家であり、
    国民の義務である納税を果たす責任を全て例外無く負うべきことなのである。
     「ネットリサーチ政治」のアンケートで、89.9%の人が「課税すべきだ」と回答しているように、
    ほとんどの人が課税の実施を希望している。しかし、檀家からのお布施が全ての収入である
    地方の小さな寺院への課税は酷だと思う。なぜなら近年の日本では道徳や修身を学ぶことがなく、
    先祖を敬うことが遠ざかっていることから、若者のほとんどは寺院へ足を運ぶことが少なくなっている。
    すでに、毎年行っている施餓鬼法要には老人ばかりで、子供を除いて40代以下の人は皆無である。
    したがって先祖あっての自分ということを保育園、幼稚園から教え、
    もっと寺との関係を密にするような教育をしなければ、将来は寺院の存在自体が危ぶまれることになる。
    国民の不満を解消するには、あるレベル以上の収入のある寺院に、
    金額に応じて累進課税とする方法がよいかもしれない。
    しかし、神社・仏閣の土地・建物は檀家の寄進などによって生じたと言っても過言ではないのだが、
    その土地を社寺が勝手に有料の駐車場にしたり、店舗などに賃貸している場合は課税すべきである。

    宗教法人6割課税漏れ<近畿の925法人、国税局>
     大阪国税局が税務調査した近畿2府4県にある1476の宗教法人のうち、
    6割以上の925法人で平成20年6月までの3年間に源泉所得税の課税漏れがあり、
    計約7億8800万円を追徴課税されていたことが2009年2月3日、分かった。
     課税漏れのうち212法人は重加算税の対象となる不正が見つかったという。
     関係者によると、税務調査は京都や大阪の寺院などで行われた。
    法人が所有する不動産を売却して得た代金を個人で使ったり、
    僧侶が法要で受け取った謝礼金を私的に支出したりするなどのケースがあった。
     これらの金銭的なやりとりについて、大阪国税局は法人収入に当たると判断し、
    個人使用分は法人から個人への給与に当たると認定したとみられる。
    宗教法人と税金(2009.8.24、迷馬の隠れ家より)
     本来なら、“創価学会の話”として取り上げるべきだろうが、
    ここでは一般的な“宗教法人”に関する法律(宗教法人法)上での収支決算や税金について、
    誤解してる方も多いと思うのでかいつまんで説明する事にしよう。
    基本的に、宗教そのものは憲法に於いて信仰の自由が保障されている限り、
    どんな理由があれ(と言っても、一般市民を巻き込んだテロや暴動をやった場合は別)
    政府が弾圧してはいけない事になっている。したがって、正式な“宗教団体”として各都道府県に
    法人としての手続きを提出した場合、認可が下りた時点で“宗教法人”として活動する事が可能となる。
    コレが、宗教法人法が存在する意義であり、コレに基づいて法人化した宗教団体は、
    法令を遵守しなくてはいけない…つまり、提出すべき書類は、
    必ず期日までに提出する事が義務付けられていて、コレが守れない場合、
    都道府県知事(活動範囲が全国区な宗教法人の場合は文部科学大臣)が大ナタを振る事になる。
     で、気になる話をするにはまず、宗教法人法第6条を理解してないとムリ というのも、
    その2項に公益事業以外での事業…要するに物販等の商売をやっても構わないが、
    その収益は、宗教法人の公益事業に使わなけれなならないという規定がある。つまり、“公益事業”って
    のがネックになるが、平たく言えば慈善ボランティア活動全般と考えるといいだろう。
    例えば、孤児院や身障者の作業所の運営等がコレに該当してて、そのための運営資金を、
    信徒の寄付金だけじゃなく作業所で作られたグッズ(キーホルダーやペンケース等)の収益も、
    “運営資金”として用いなければいけない訳である。(わかりやすい事例で言えば、
    園田競馬場で販売されている所属騎手の勝負服キーホルダーとかのオリジナルグッズの一部は、
    その近隣にある身障者作業所の製作である。)つまり、公益事業を行う費用の一部を負担するために、
    お布施やら賽銭を信徒から徴収する訳である。当然だが、一般の観光客から徴収する拝観料等も、
    基本的には寺院・社殿等の維持費や付属の学校法人の運営費等に回される訳である。
    当然だが、私立の学校に宗教法人が関わっている可能性は非常に高く、
    関西でも有名どころの大学だと、“関関同立”は当然キリスト教系の学校法人であり、
    高校野球で有名なPL学園や天理高校も、いうまでもなく宗教団体が運営する学校法人である。
    龍谷大も大谷、相愛も仏教系の学校法人だ。(関西創価学園も当然ですが…)
     そういう公益事業で使う事が多いから、税制的に優遇される訳であり、その法律の“隙”を狙って、
    資産を隠そうとする欲ボケした資産家が多い。事実、現在休眠中の宗教団体が、
    その“特権”をインターネットで売買して脱税の“手助け”をしてるケースがある。
    また、宗教団体に属する僧侶(宣教師)の中には、信徒達の浄財を自分の遊楽のために
    散財するバカもいる訳である。当然だが、オウムの“過激派”がやった様な、
    凶行の“軍資金”として使う迷惑千万な連中もあるから、宗教を毛嫌う人から批判を喰らう訳である。
    休眠宗教法人、税優遇許すな
    (朝日新聞2011.2.12「声」より、大阪府吹田市の税理士・小林 俊範さん(79歳)の投稿文紹介)
     活動実態のない休眠状態の宗教法人が急増しており、この法人が、税制上の優遇を目的に事実上
    「売買」されているという記事(1月30日)を読んだ。これに対して行政側の対応が進んでいないという。
     休眠宗教法人の売買で金もうけする悪徳業者の行為は許せないが、十分な対策が取れない
    行政側も情けない。宗教法人の優遇されすぎる税制措置は問題で、見直すべきだと思う。
    宗教法人を名乗れば法人税法上の大きなメリットが得られるのである。
     行政はいつも、悪徳業者の後手に回っている。
    今回は、本気で一丸となって「宗教法人お買い得」へ厳しい対応をとってほしい。
     私が思うところ、宗教法人の監督官庁である文化庁、都道府県が単独で対応できるものではない。
    文化庁を中心に法務局、国税庁、警察なども協力して対処しなければ解決しないのである。
    それとともに、宗教法人法に懲罰規定を設けるよう検討してほしい。
    従来の過料を科すだけでは悪徳業者の追放は難しい。
宗旨(a doctrine、a sect)しゅうし : @ある宗教宗派の教義の中心となる趣旨。
    A一つの宗教の中の分派。キリスト教仏教イスラム教神道、新興宗教、等の旨が違うこと。
    Bその人のもっている主義・主張・嗜好(しこう)・趣味など。
十二神将(じゅうにしんしょう、じゅうにじんしょう) : 十二神。薬師十二神将。
    仏教の守護神で、薬師如来につき従い、薬師経を行ずる人を守護する12の夜叉大将をいう。
    それぞれ諸仏を本地とし、順に子から亥までの12時を守るとされることから、十二支と結びつき、
    それぞれ頭上に十二支の動物を付けている。その名称は諸説あって一定しない。
宗派(a sect、a denomination)しゅうは : @ (技芸などの)流派。流儀。
    A同じ宗教の中での分派。宗旨の流派。釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)の教えである仏教の教え方。
     仏陀になるには、どんな修行をすればよいか、どの経典を拠り所とすればよいか、そして、仏陀に
     なれる時期はいつなのか等々について、考え方の相違が出てくる。そこで、約三千あるといわれる
     経典の中からこれぞというものを選び出して、各自の体系を作り上げていったのが宗派の始まりと
     されている。仏教では、釈迦の教えの解釈の違いから、経典がそれぞれ違うので宗派というが、
     キリスト教では経典が共通しているので主に教派という。
     日本の仏教には浄土門聖道門に大きく分かれ「13宗56派」あるといわれている。
    参 : 仏教各宗派比較表宗旨三心義
儒教(Confucianism)じゅきょう : 儒学の教え。春秋時代(BC770〜BC403)末期の
    思想家・孔子(BC551〜BC479)を祖とする中国の教説で、
    仁を根本とする政治・道徳を説いた中国を代表する思想である。
    始祖の孔子にちなんで、孔教・孔子教とも呼ぶ。また、その思想的側面から名教・礼教ともいう。
    周代(東周、BC1044〜BC771)の理想的な治世を再現しようと試みたことから、
    「先王の道の教え」という意味で「道教」と呼ばれることもあった。
    儒教は、中国本国のみならず、朝鮮半島、日本など東アジア全域へと広まっていき、
    封建主義を支える政治哲学や祖先崇拝の宗教教義としての地位を高めていった。
    日本には5世紀のころ伝えられたといわれ、政治や社会に影響をあたえてきたが、
    奈良時代から平安時代にかけて、空海が「三教指帰」により道教とともに批判するなど、
    仏教の隆盛が、律令儒教の衰退の原因のひとつとなった。しかし、最も盛んになったのは江戸時代で、
    徳川家康に仕えた藤原惺窩(ふじわらせいか)や林羅山は朱子学者(しゅしがくしゃ)であったため、
    朱子学が幕府や諸藩でさかんになり、封建制度をささえる道徳として発達した。
    やがて朱子学を批判する立場の陽明学派(中江藤樹や熊沢蕃山などが有名)や、
    伊藤仁斎らの古学派もおこり、多くの学者が活躍した。
修験道(しゅげんどう) : 修験宗。日本古来の山岳信仰が外来の仏教道教儒教などの影響を受け
    平安時代後期ごろに一つの宗教の形に習合された日本独特の宗教である。
    山岳信仰に神道・密教・陰陽道(おんようどう)などの諸要素が混成したもので、
    開祖は和歌山県の葛城山で呪禁道の修行をしていた役行者(えんのぎょうじゃ)
    諡号神変大菩薩といわれた役小角(えんのおづの)とされ、
    7世紀飛鳥時代に活躍した山岳修行の祖である。役行者の開いた修行の道は、
    日本古来の山岳信仰に、外来の仏教・道教・儒教や神道などの思想を包含しながら、
    平安期から中世にかけて、修験道として体系化されていった。
    修行得験、実修実験の道と言われ、山中深く分け入り、自らの身心を使って限界まで修行をする、
    それによって様々な験(しるし)を得ていく、そういった呪術(じゅじゅつ)宗教的活動を行う
    山伏宗教である。 参 : 先達
衆生(humankind、the people、all living things)しゅじょう : 仏の救済対象である、
    人間を含む全ての生き物。心をもつすべての存在。苦のある世界である三界を輪廻(りんね)する。
    「人々」という意味で使われることが多い。時として、仏・菩薩をも含めることがある。
修證義(しゅしょうぎ) : 曹洞宗そうとうしゅう禅宗の一派)の開祖・道元禅師は95巻から成る
    「正法眼藏(しょうほうげんぞう)」を著した。明治に至り当時の高僧方が、
    これを分り易く要約したものを「修證義」と名付けた。第1章の「総序」の部分では、
    人間に生まれた尊さ、仏の教えと出会えた素晴らしさ、因果に対する道理を述べている。
    以下、第2章「懺悔滅罪(さんげめつざい)」第3章「受戒入位(じゅかいにゅうい)
    第4章「発願利生(ほつがんりしょう)」第5章「行持報恩(ぎょうじほうおん)」からなり、
    仏の道を正しく生きるための導(みちび)きが順をおって記されている。明治23年12月1日の公布から
    現在に至るまで曹洞宗のみならず宗派を超えて広く檀信徒の心のよりどころとなっている。
    曹洞宗のお経の一つであり、般若心経、観音経、舎利礼文などと一緒に読経される。
呪術(じゅじゅつ) : 非人格的・超自然的な存在にはたらきかけて、種々の現象を起こそうとする信仰と慣行。
数珠(a Buddhist rosary)じゅず、じゅじゅ、ずず : 「念珠(ねんじゅ)」とも言い、
    お経を唱える回数を数えるのに用いたり、お経を念じるために使われたのでこの名が付いた。
    数多くの玉を糸で貫いて一つの輪形にした仏具で、ときにはそれに房(ふさ)をつける。
    宗教儀礼の際や巡礼、仏事・法要の際、手や首にかけて、あるいは、もみ、
    また念仏の回数を数えるのに玉を爪(つま)ぐりながら、無言のまま祈念し、または聖句を唱えて、
    深い帰依(きえ)を表明し、また厄(やく)を祓(はら)うことに用いる。称名念仏の流行につれて普及した。
    左手は仏様の清浄な世界、右手は私達の信仰の世界であり、
    この両手を合わせて合掌する時に手に掛けて、仏様と心を通い合わせる仏具が数珠なのである。
    玉の数は煩悩の数によるとされる108個を基本とするが、
    54・27・36・18など宗派により数・形式ともに一定しない。
    その珠は、菩提樹(ぼだいじゅ)の実や水晶などを本来の材料とするが、ときにはそれらにかえて、
    ガラスや合成樹脂などの簡素なものや、金・ヒスイ・紫檀・白檀などの豪奢(ごうしゃ)なものもある。
    
    周防阿弥陀寺の住職からいただいた境内にある菩提樹の大木の実。この実から数珠ができる
    原語はサンスクリット語のジャパ・マーラ(念誦の輪)で、これがインドから西方に伝えられる間に、
    ジャパー・マーラーとして広まり、キリスト教圏にも普及した。
    ちなみに、仏前結婚式では「寿数授与(じゅず・じゅよ)」といって、
    新郎・新婦が戒師から渡された数珠を互いに合掌の手にかけ合い、仏教の教えのもとに
    生涯の伴侶となることを誓い、縁あって結ばれる二人の幸せを願って数珠の交換をする。
    お遍路では一般的に真言宗用だが、手持ちの他宗派のものを使ってもいいが、
    お参り用は普通、尺二寸の物を使用する。食事や手洗いの際は外す。
    浄土宗で使用する二連の数珠の意味
     浄土宗徒が使用する一般的な数珠は二連になっており、これを「日課念珠」または「日課数珠」と呼ぶ。
     文字通り「毎日決めてするお念仏を数える珠」という意味で、その二連の形態は、
     称えた念仏を数えるという、実用的な意味合いから工夫がなされたものである。
      合掌した場合の数珠のかけ方は、合掌の親指にかけ、自分の胸の方へ数珠をたらす。
     親珠は2連とも最上部にそろえるのが正式。合掌をしていない場合は左の手首にかけておく。
      代表的なものに6万遍の念珠があり、これは40顆(粒)の珠の輪と、
     間に小珠をはさんだ27顆の珠の輪からなる二連数珠で、
     さらに金属の環で10個の小珠の房と、6個の小珠を束ねた2つの房(記子:でし)が付属し、
     これらの珠の組み合わせにより6万遍の念仏が称えられる仕組みになっている。
     念仏を数えるときの持ち方は、右手(木魚を打つときは左手)の親指と人差し指の間に
     40顆の輪をかけ、小珠の入った27顆の輪を人差し指と中指の間にかける。
     6万遍繰り : 1回の念仏で、40顆側の珠を1つ繰り、親珠に戻ったところで27顆側の珠を1つ繰る。
      27顆側が1周したら、房の10顆側の記子を1つ上げる。その10顆が尽きれば、
      房の6顆側の記子を1つ上げ、房の10顆を戻す。そうすれば、40×27×10×6=
      64800。1巡で6万回以上の念仏を称えられることから「6万遍繰り」と呼ぶ。
     3万遍繰り : 2連の顆子を27顆と小珠をはさんだ20顆にしたもので、
      数の合計は半数の32400回となる。
      浄土宗は、阿弥陀仏の本願に頼り、もっぱら念仏を唱えて
     極楽に往生することを教義としていることから、念仏を唱える回数が多いからでしょうね。

出家(pravrajyaa)しゅっけ : 家庭生活を離れて剃髪(ていはつ)染衣して仏門に専心すること、
    またその人(僧侶)をいう。比丘(びく)・比丘尼・沙弥・沙弥尼(四衆)をいい、落飾ともいう。
    また僧の通称として用いる。現代では、各宗派の定めにしたがって、僧としての資格を得ること。
    宗教的な目的をもって、世俗生活を捨てることを意味する。
    そこには、家を捨てるという悲壮感、あるいは、隠遁・逃避という暗いイメージは拭いきれない。
    ところが、インドにおける「出家」という言葉の原語(pabbajita)の語源には、
    家を出るという直接の意味はなく、それは“積極的に前に進むこと”という意味である。
    ブッダ(釈迦)は、王子としての栄華を極め、結婚をして一子ももうけたが、老・病・死という人間として
    どうしても避けることのできない現実を直視して、29歳で出家した。すなわち、ブッダにとって出家とは、
    目的をもった第二の人生への積極的出発であり、家を出ることはその一つの手段であった。
    つまり、幸福な生活を約束されていた仏陀 が、あえてそれを捨て去ったことを指す。
    (例)世をはかなんで出家する。【対義語】■在家
須弥山(しゅみせん、すみせん) : スメール。蘇迷盧(そめいろ)。梵語Sumeruの音訳。
    漢訳は「妙高山」「妙光山」。古代インドの世界観が仏教に取り入れられたもので、
    仏教の宇宙観において、世界の中央にそびえるという高山のこと。
    風輪・水輪・金輪と重なった上にあり、高さは八万由旬(ゆじゅん)(1由旬は40里)で、
    金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)の四宝からなり、頂上の宮殿には帝釈天(たいしゃくてん)が、
    中腹には四天王や諸天が階層を異にして住み、日月はその中腹の高さを回っている。
    須弥山の周囲には同心円状に七重の山があり、
    その外側の東西南北に勝身・贍部(せんぶ)・牛貨(ごけ)・倶盧(くる)の四大州が広がり、
    さらに、いちばん外側の海を鉄囲山(てっちせん)が囲っている。
    贍部州(閻浮提(えんぶだい)ともいう)が人々の住む世界に当たるとされる。
     日本で有名なのは奈良県明日香村で見つかった7世紀の須弥山石で、
    一部が失われたものの、山などが刻まれている。
撞木(しゅもく) = 撞木(別掲)
修羅場(しゅらば) = 修羅場(別掲)
松陰神社(しょういんじんじゃ) = 松陰神社(別掲)
定恵(じょうえ) : @643(皇極天皇2)年〜666年2月2日(天智天皇4)年12月23日は、
     飛鳥時代の学僧。定慧(じょうえ)、貞恵とも書かれる。
     父は中臣鎌足(藤原鎌足:614〜669)。母は車持国子の娘・与志古娘。
     出家前の俗名は「中臣真人(なかとみのまひと)」、弟に藤原不比等(ふひと)がいる。
     653(白雉4)年5月遣唐使約240人とともに唐へ渡る。
     長安懐徳坊にある慧日道場に住し、神泰法師に師事した。遊学して内経外典に通じたという。
     665(天暦年9)月、唐の劉徳高の船により朝鮮半島の百済を経て日本に帰国したが、
     同年12月大和国大原(現在の奈良県高市郡明日香村小原)で亡くなった。時に23歳。
     百済人による毒殺であるという。高句麗の僧道賢が誄(しのびごと)をつくっている。
     後世、彼を天智天皇の落胤とする説や、708(和銅1)年に帰国して大和多武峯を開き、
     鎌足の遺骸を摂津国安威山(大阪府)より改葬して十三重塔を建立、
     同7年に70歳で没したとする説もあるが、信憑性には疑問がある。
    A定恵(じょうえ)上人。定恵は仏蓮社良誉といい、法号の一つである誉号を最初に用いたことでも
     知られている。鎌倉の大本山光明寺第三世として、各地を巡っては法然上人のみ心を広め、
     庶民教化に努めた。晩年は自ら建立した浄蓮寺に隠棲した。
     法然上人の滅後は、遺弟の信空、源智、聖覚らは京に、次祖・聖光(しょうこう)上人は九州へ、
     親鸞、幸西は北越、隆覚、金光は東北に散り、布教に勤めた。
     さらに三祖・良忠(りょうちゅう)上人、四祖・良暁(りょうぎょう)上人とうけ継がれた。
     上人門下は、やがて関東三派、京都三派に分かれていくが、寂恵(じゃくえ)が派祖となって、
     五祖・定恵(じょうえ)、蓮勝(れんしょう)、了実(りょうじつ)と浄土教を伝えていった。
    
    神奈川県小田原市にある浄土宗・浄蓮寺所蔵の定恵上人尊影
    (浄土宗発行の「かるな」2002年夏号より)
    定恵が晩年、弟子の育成に努めたところが浄蓮寺であり、その地名から桑原道場として名を馳せた。
    作成年次は不詳だが、裏面に安政5(1858)年に修復した旨が記されている。


    下記の寺社は定恵が亡くなったとされる666年の後に創建されたとされ、
    藤原鎌足の長男である定恵と浄土宗の第5祖である定恵は別人だろうか?
    ●兵庫県三田市天神の丘陵地にある如意山・ 金心寺(こんしんじ)は天智天皇7年(668)、
     藤原鎌足の長男・定恵上人が唐より帰朝後、異母弟に当たる有間皇子の供養と、
     鎌足の菩提を弔い、平和祈願と鎮護国家のために七堂伽藍を完備する大金心寺を
     建立されたことに始まる。 参 :  金心寺(HP)
    ●伊川谷町前開の三身山・太山寺は西暦716年藤原鎌足の子、
     定恵和尚の草創、藤原宇合(うまかい)の建立と言い伝えられている。
    ●栃木県足利市内の西に位置する鶏足寺は旧名が世尊寺、嵯峨天皇の大同四年(809)に
     東大寺の僧である定恵上人により世尊寺一乗坊(天台宗の寺)として創建された。
     平将門が朝廷に背き、天慶の乱をおこした際、将門調伏の祈願を行ったところ
     「三本足の鶏」の奇瑞があったことから勅命により鶏足寺と改められた。その後の鎌倉期の
     文永六年(1269)前後に下野の薬師寺から慈猛を迎えて真言宗の改宗したと伝わっている。
     参 : 鶏足寺(HP)
    ●栃木県足利市月谷町の断崖絶壁に囲まれた山中にあり、
     「関東の高野山」とも呼ばれる行道山・浄因寺は、和銅7年行基上人の開創と伝えられる。
    ●奈良県桜井市の聖林寺 参 : 聖林寺(HP)
    ●奈良県桜井市の談山神社 参 : 談山神社(HP)
    ●神戸にある太山寺 : 藤原鎌足の子供の定恵和尚によって開山され、
     716年になって、定恵和尚の子供の宇合が建立したと伝えられている。 参 : 太山寺(HP)
    ●近江安土市にある桑実寺(桑峰薬師)は奈良時代の前期、天智天皇の勅願により建てられたと
     伝えられており、藤原鎌足の長男で、中国より桑の木を持ち帰り、
     養蚕を教えたことでも知られる定恵和尚が開山した。
焼山寺(しょうさんじ) = 焼山寺(お遍路関連に別掲)
勝常寺(しょうじょうじ) : 福島県河沼郡湯川村にある真言宗豊山派(ぶざんは)の寺院。
    磐梯山や飯豊連山など、四方を山で囲まれた会津盆地のほぼ中央の水田地帯の中に
    位置しているので「中央薬師」と呼ばれ、会津五薬師の中心として「会津中央薬師」とも称される。
    山号は瑠璃光山。本尊は木造の薬師如来坐像及び両脇侍像の三尊像である。
    鎌倉時代後期からは真言宗に属するようになり、近世まで仁和寺の末寺であった。
     806(大同元)年の磐梯山の大噴火の翌年、伝教大師(最澄)と激しい宗教論争をしたといわれ、
    貴族の出とされる高僧・徳一によって磐梯山の麓に開かれた東北を代表する古刹である。
    恐ろしい天変地異の後のこともあり、農民達は仏教を心のよりどころとし、仏教文化が花開いた。
    徳一上人によって建立された往時、境内は二町(約220m)四方の広さにおよんだそうで、七堂伽藍が
    備わり、多くの附属屋、十二の坊舎、百余カ寺の子院を有する一大寺院であったと伝えられている。
    1398(応永5)年に火災があり、その後室町時代初期に蘆名氏家臣・富田祐持によって
    講堂(現・薬師堂)が再建された。現在残されている建物はその薬師堂以外は近世以降の建物であり、
    元講堂(薬師堂)、本坊(客殿)、庫裏、中門等で仏像も30余体ある。
    国宝の薬師三尊(薬師如来、日光・月光菩薩)をはじめ、
    国重要文化財の指定をうけた仏像9体は平安時代初期の9世紀にさかのぼる造立である。
     毎年4月28日には薬師如来の祭礼として念仏踊りが催されている。
    ちなみに、間違われることのある会津美里町の「常勝寺」境内には「陶祖廟(とうそびょう)」があり、
    陶器焼成を始めた「陶祖・水野源左衛門」と、磁器焼成を始めた「磁祖・佐藤伊兵衛」が祀られ、
    毎年9月16日に「陶祖祭」が行われる。
精進(rellgious purification)しょうじん : @仏語。肉食をやめ、菜食し、飲食行動を慎むこと。
     さらには「精進料理」「精進揚げ」というように、菜食のことをいうようになった。
    A仏語。戒律を守ったり、禁忌を避けたりして心身を清らかに保ち、信仰に励むこと。
    B仏語。仏道に精励すること。ひたすら仏道修行に努め励むこと。また、そのような心の働き。
     参 : 六波羅蜜
    Cそのことだけに心を集中して努力すること。(例)芸道に精進する。
精進料理(しょうじんりょうり) = 精進料理(料理に別掲)
聖道門(しょうどうもん) → 三心義
浄土宗(じょうどしゅう) : 浄土専念宗。国内有数の伝統仏教教団で、
    総本山は京都市東山区にある知恩院である。末寺は約7000あり、檀信徒は600万人といわれる。
    平安時代末期、法然(1133〜1212年)が浄土三部教や浄土論に基づいて創始した浄土教の一派で、
    阿弥陀仏の本願に頼り、もっぱら念仏を唱えて極楽浄土往生することを教義とする。
    浄土宗の教えの趣旨
     @何を目的とするか=極楽浄土への往生
     A誰に帰依(きえ)するのか=阿弥陀さま
     B何を実践するのか=称名念仏
    つまり浄土宗の教えとは、阿弥陀さまに帰依して称名念仏を実践し、
    極楽浄土への往生を目指す教えである。
    浄土宗の宗歌(御詠歌「月かげ」) 法然上人御作
    月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ
    意味は、月の光はこの世をあまねく照らし、どんな辺鄙な山里にも届くけれども、
    それを見る人の心が澄んでいるからこそ、その美しさを感じ取ることができる。
    そのように、仏による救いも、実は人の心の中に宿っているのである。
    「すむ」は(月光が)澄む・(阿弥陀仏の光明が)住む、の掛詞。
    参 : 宗派仏教各宗派比較表善導大師

    知恩院の宗務庁で、約7億円が使途不明になっていることが2006年6月16日に分かった。
    同庁財務局の男性職員が約9年間もの長期にわたって商品先物取引につぎ込んだとみられ、
    教団は6月8日、京都府警に被害を届けた。職員は教団に対して、使い込みを認めているという。
    教団の一般会計は年間約18億円で、総予算は年間約85億円。
    最近になって、6月末の決算に向けて教団の財政状況などを調べているうちに、
    多額の使途不明金の存在が判明したというが、この職員が虚偽の決算書を作成していたにせよ、
    9年もの長き期間で、毎年の会計監査に問題があると思う。

浄土真宗(じょうどしんしゅう) : 浄土の一宗を創唱した法然(ほうねん)(源空)(1133〜1212)の
    門弟・親鸞(しんらん)(1173〜1262)によって開かれた仏教の一派で、
    師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し展開させる。
    鎌倉時代浄土宗から分かれ、親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させた。
    真宗とも略称し、古くは俗に一向宗(いっこうしゅう)、門徒宗ともいわれた。
    浄土宗鎮西派(ちんぜいは)や浄土宗西山派(せいざんは)、時宗(じしゅう)などとともに
    日本浄土教の主流を形成し、日本の総人口の約20%を占めている。
    本願寺は元来親鸞の廟堂で、親鸞の子孫が管理した。三代覚如(1270〜1351)の時、本願寺となり、
    第8代の蓮如(1415〜1499)が中興の祖、今日の大教団の基礎を築いた。
    東本願寺は、徳川家康が大きすぎる勢力を分散するため
    現職を離れていた教如(光寿)に施与したもの。現在十派に分かれる。
    浄土宗と同じ浄土三部経を所依とし、阿弥陀如来の他力本願の信によって往生成仏を期する。
    南無阿弥陀仏の称名念仏は仏恩報謝の行であるとする。
    浄土真宗の浄土とは、仏や菩薩の住む安らかな国土を指す。浄土の数は210億もあるといわれ、
    数ある浄土のうち、日本の浄土真宗は、特に阿弥陀仏が住むという西方浄土(すなわち極楽浄土)に
    往生することを願うものである。浄土真宗とは往生浄土の真実の宗旨という意味で、
    阿弥陀仏の願力によって、いかなる者も救われる法であり、そのために、阿弥陀仏の名号を称える。
    参 : 宗派仏教各宗派比較表
浄土曼陀羅(じょうど・まんだら) = 浄土曼陀羅(曼荼羅関連に別掲)
浄土門(じょうどもん) → 三心義
成仏(enter Nirvan、adie in peace)じょうぶつ : @仏語。得仏。文字通り仏に成ることである。
     煩悩(ぼんのう)を解脱(げだつ)し、無上の悟(さと)りを開いて仏となること。
     悟りを開いて、仏陀(ぶっだ)(如来)になること。自身の内に仏の生命を「成(ひら)く」こと。
    A死んで、この世に未練を残さず仏となること。(例)安らかに成仏する
    B死ぬこと。
常楽寺(じょうらくじ) = 常楽寺(お遍路関連に別掲)
精霊流し(しょうりょうながし、しょうろうながし) : @しょうりょうながし。しょうろながし。
     灯篭流し(とうろうながし)。精霊送りの一つ。盆の終わりの8月15日の夕方か16日の早朝に、
     盆の供え物をわらや木で作った舟に乗せて川や海に流して精霊を送ること。
     精霊送りと送り火とを兼ね、点火した灯篭を川や海に流す「灯篭流し」を行う地方もある。
     東北の松島瑞巖寺や九州長崎の灯篭流しが有名である。[季語]秋−行事。
     島根県「隠岐の島」の精霊流し : 隠岐郡西ノ島町の浦郷など、
     この海辺の町は、8月16日の朝、シャーラ舟という精霊舟を日本海に流す。
     黄泉から盆還りしていた先祖の霊を、再び、西方浄土に送り帰すのである。
     シャーラ舟(精霊舟)の舟体は8メートルほどもあり、孟宗竹、麦藁、稲藁などで作られている。
     帆は高く掲げられる。帆材は各戸や墓地から集められた色とりどりの盆旗(和紙)が利用される。
     黄泉から戻っていた先祖の霊は、8月16日、浄土の門が閉まるまでに帰らなくてはならない。
     シャーラ舟が旅立つ浜には御詠歌が流れている。念仏講のお年寄りたちの声が別離の時を縮めていく。
     舟には様々な供物が乗せられる。御霊に土産を持たせるのである。
     曳航船に曳かれてシャーラ舟は出て行く。いよいよ高まる御詠歌。
     目頭にハンカチを当てている人は新盆の家族。舟は、まるで未練でもあるかのように、
     湾内を三廻りする。それから沖をめざして家郷を離れていく。
     
     隠岐の島の精霊流し。西方浄土の沖をめざすシャーラ舟(日経BP社セカンドステージ・マガジンより)
     
     曳航船に曳かれた精霊舟は、外海で手綱が解かれる(宮嶋康彦氏の記事・写真を部分引用)
     1枚目のおみくじののようなお札はどこへ行ったのでしょう。
     2枚目の宝船のように変化する過程が分からない。

    Aしょうろうながし。長崎市をはじめ、長崎県内各地でお盆に行われ、
     故人の霊を船に乗せ、極楽浄土へ送り出す日本の伝統行事で伝統行事である。
     初盆を迎えた故人の家族らが、盆提灯や造花などで飾られた精霊船(しょうろうぶね)と呼ばれる
     船に故人の霊を乗せて、流し場と呼ばれる終着点まで運ぶ。
     毎年8月15日の夕刻から開催され、爆竹の破裂音・鉦の音・掛け声が交錯する
     喧騒のなかで行われる。精霊船は山車を連想させる華美なものであり、見物客が集まる。
     「祭り」と誤解されることもあるが、あくまでも故人を追悼する仏教の行事である。
諸行無常(All is vanity)しょぎょうむじょう : 仏教の基本的教義である三法印の一つで、この世の中の
    あらゆるものは変化・生滅して、永久不変なものはないということ。この世のすべてがはかないこと。
    三法印の他の二つは、「諸法無我」と「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」である。
    万物(諸行)はときの流れと共に流れて(無常)いるということを意味し、
    人はいつかは滅びるということだが、無常だからこそ「現在の幸福」を大切に生きなさいと解釈できる。
    強者が落ちぶれることも諸行無常なら、逆に弱者がはい上がるのもまた諸行無常で、
    始まり(出会い)があれば必ず終わり(別れ)があるも諸行無常で、諸行無常イコール盛者必衰ではない。
    参 : 不老不死
    
    ライブドアの堀江貴文社長の座右の銘が「諸行無常」なのには驚いたが、
    努力すれば強者になれるということだろうか。弱者にならないように頑張るということだろうか。
    世の中はどうせ変わるので、くよくよするなということだろうか。

除夜の鐘(じょやのかね) : 12月31日の大晦日の夜、まもなく新年という時間の午前0時を挟んで、
    寺院でいっせいに鳴らす鐘のことで、百八の煩悩を除去するためとして、108回衝(つ)き鳴らす。
    [季語]冬−行事。
    除夜の鐘を108回つき鳴らす習慣は中国に始まるものだが、その108のいわれは
    12カ月+24節気+72候で108というものや、見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる・考える、という
    6つの欲に対し、好き・嫌い・普通・苦しい・楽しい・諦め、という6つの意識が生じるので36の煩悩。
    またそれぞれに現在・過去・未来があるので36×3=108となるというものや、
    眼(げん)・耳(に)・鼻(に)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の6根(欲)×好(好き)・悪(嫌い)・
    平(普通)の3種×浄(きれい)・染(きたない)の2種×現在・過去・未来の3種で6×3×2×3=108
    とするものや、四苦八苦を取り払うという意味で、4×9(しく)+8×9(はっく)=108という説など
    色々あるが、実際には時代・部派・教派・宗派により、数は小は3にはじまり、
    通俗的には108、大は約64,000といわれるようにまちまちであり、すべて俗説とされる。
知らぬが仏(しらぬがほとけ) : 知れば腹も立ち、苦悩や面倒も起こるが、知らないから腹も立たず、
    仏さまのようにおだやかな顔でいられる。本当のことを知ると、アタマにきたりくやしくなったりするが、
    知らないままでいれば、そんな思いをしないですむということ。転じて、
    当人だけが知らないで平気でいることを嘲(あざけ)っていうことに使われる。【類語】●見ぬが仏
神宮(a shinto shrine)じんぐう : @神宮の称号をもつ格式の高い神社のことで、
     単に「神宮」と言えば、「伊勢神宮」のを示す正式名称となる。
     明治時代にはいると、国が神道を管理し整備した結果、古代神話や天皇家と関わりが深い神社として、
     熱田・石上・鹿島・香取などの神社に対しても「神宮」が使われるようになった。
     その後、天皇を祀った橿原(かしはら)・平安・明治に対しても使用されている。
    A神をまつる建物。神殿。やしろ。宗教別では神道(しんとう)。 参 : 大社赤間神宮
真言宗(しんごんしゅう) : 真言陀羅尼(だらに)宗。秘密宗。曼荼羅宗。東密。
    日本仏教の一宗派。平安時代初期に入唐した空海(弘法大師)が恵果から密教を受けて帰国、
    開宗した。金剛峰寺・東寺を根本道場とし、修法と門弟の教育などを行なった。
    主に大日経・金剛頂経に基づき大日如来の悟りの世界を直接明らかにしようとするもので、
    身口意(しんくい)三密の加持力で即身成仏(じょうぶつ)させるのを本旨とする。
    加持祈祷(きとう)を行なって平安時代の貴族の間に浸透し、13世紀末に古義と新義に分裂した。
    参 : 仏教各宗派比較表
神社(a shinto shrine)じんじゃ : やしろ。お宮。一般の神社に対する社号で、
    宗教別では神道(しんとう)である。産土神(うぶすながみ) 、天神地祇(ちぎ)
    皇室や氏族の祖神、国家に功労のあった者、偉人・義士などの霊を神として祀(まつ) った所である。
    御神体をお祀りする場所として本殿、御神体を拝むための拝殿が造られたもので、
    本来は土地と結びついている神様をお祀りしていたそうで、
    時代の流れとともに霊力の強いと思われる神様も、祀られるようになった。
    ちなみに神主は、神様と衆生の仲介役で、衆生に代わって神様に奉仕を行い、
    時として神様の意思を神主を媒体として、衆生に伝える役目も果たしているといわれる。
    宮司は、神職の長のことで、すべての神社のトップのことをいい、神社の祭祀の長として、
    管理運営の責任者であり、宗教法人の代表役員を兼ねている。
    宮司を社長とすると、神主は取締役でしょう。
    神社参拝の作法 → 参拝を参照。
    玉串拝礼の作法 : 玉串拝礼を、正しくは「玉串を奉(たてまつ)りて拝礼」という。
    改まった参拝や祈祷、祭典に参列したときなどには、神さまへ「玉串(榊や杉などの常緑樹の小枝に、
    紙垂や木綿を付けたもの)」を奉って拝礼する。まず神職から玉串を渡されるときに軽く会釈をし、
     @右手で榊の元(根元)の方を上から、左手で穂先の方を下から支え、
      胸の高さに捧げ、やや左高に、少し両方の肘(ひじ)を張って持つ。
      そのまま、玉串を捧げる机(案)の前まで進み、一揖(軽いお辞儀)する。
     A玉串の先を時計回りに90度回して、玉串の元を手前(玉串の穂先は神前向き)にする。
     B左手を下げて元を持ち、祈念をこめる。
     C右手を離して、玉串をさらに時計回りに回し、玉串の中程を下から支える。
     D左手を右手下に添える。
     Eやや進んで、榊の元を神前に向けて、玉串捧げる案上におく。
      やや下がり、二拝二拍手一拝し再び一揖して退く。
      (例外として出雲大社の二拝四拍手一拝、伊勢神宮の八度拝・八開手がある)
    神社分類 : 全国の神社に祭られている神様(祭神)で最も多いのは八幡神社で、
     以下は全国約7万9千の神社を祭神に注目して分類したものである。
    信仰別の神社数 : @八幡(7817)A伊勢(4425)B天神(3953)C稲荷(2970)D熊野(2693)
     E諏訪(2616)F祇園(2299)G白山(1893)H日吉(1724)I山神(1571)J春日(1072)
     K愛宕(872)L三島・大山祇(704)M鹿島(604)N金毘羅(601)O住吉(591)P大歳(548)
     Q厳島(530)R貴船(463)S香取(463)以下、えびす(408)、浅間(397)、秋葉(362)、
     荒神(317)、加茂・水神(277)と続く。
     (注)八幡信仰には八幡神社、八幡宮、若宮神社、若宮八幡神社を含み、伊勢信仰には
      神明社、皇大神社、天祖神社、大神宮を含み、天神信仰には天満神社、天神社、菅原神社、
      北野神社などが含まれる。(朝日新聞2007.2.22の神社分類を一部引用)
     八幡が全国に広がっていることや、白山が東海、北陸、甲信に多いことはわかるが、
     近畿地方に春日・稲荷が多くて、熊野は関東、東北、北海道、九州に多いのは意外だった。中国に多い
     荒神、四国に多い山神、九州に多い貴船だが、中国に住んでいて荒神にお参りしたことはない。

    参 : 神宮大社靖国神社八幡宮天神金刀比羅宮かなまら祭
神社本庁(じんじゃほんちょう) : 全国大多数の神社を統括する宗教法人およびその中央事務所の名称。
    第二次大戦後、伊勢神宮を本宗とし、国家管理を離れた全国約7万9千の神社を包括・管理する。
    地方組織として各都道府県に神社庁がある。
    明治維新による新体制において神社は国家の宗祀と定められ、全国の神社、神職は、
    国家・地方公共団体による管理・監督のもとに祭祀を執り行なってきた。
    しかし、1945(昭和20)年、我が国が連合軍のポツダム宣言を受諾し終戦を迎へた後、
    進駐してきたGHQ(連合国軍総司令部)は矢継早に日本改造に着手し、
    その一貫として同年12月15日に「神道指令」を発し、神社の国家からの分離を命じた。
    そのため神社界は、当時民間の神社関係団体であった皇典講究所・大日本神祇会・神宮奉斎会の
    3団体が相寄り、占領行政に対処して神道を守るため、1946(昭和21)年2月13日に
    新たに「神社本庁」を設立した。宗教法人法に基づく設立登記は1952(昭和27)年に行われた。
     神社本庁の目的は、包括下の神社の管理と指導を中心に、伝統を重んじて祭祀の振興や
    道義の昂揚をはかり、祖国日本の繁栄を祈念して、世界の平安に寄与することにある。
    なお、靖国神社、明治神宮、日光東照宮は神社本庁に属していない。
    参 : 神社本庁(HP)

    靖国神社(南部利昭宮司)の運営方針を決める崇敬者総代(計10人)の1人に2006年11月1日から、
    神社本庁のトップ矢田部正巳総長が就任することになった。靖国神社は本庁と協力関係にあるが、
    その傘下には入らない単独の宗教法人として運営されてきた。今後、矢田部総長が靖国神社の
    意思決定に関与することで、A級戦犯の分祀や国有化による非宗教法人化などの見直し論に対し、
    神社界全体で靖国神社の宗教性を守る狙いがあると見られる。総長が総代に就任しても、
    靖国神社が組織として神社本庁に加わるわけではないが、両者の関係は密接になる。
真勝院(しんしょういん) = 真勝院(別掲)
神道(shinto)しんとう : @かんながらの道。日本民族固有の伝統的な宗教的実践と、
     それを支えている生活態度および理念をいう。アニミズムやシャーマニズムなどから発し、
     次第に祖先神・氏神・国祖神の崇拝を中心とするものになり、
     大和朝廷によって国家的祭祀(さいし)として制度化された。外来信仰である仏教に対して
     形成された概念で、その後、仏教儒教の影響を受けながら、両部神道・伊勢神道・吉田神道・
     垂加神道・復古神道など多くの神道理論が生まれた。明治以後、神社は国家の管理下に置かれ、
     伊勢神宮を頂点とする国家神道が形成されたが、第二次大戦後、神道指令により解体された。
    A仏教に対して、鬼神を信ずる邪教。
尽未来際(じんみらいさい、じんみらいざい) : 「尽未来」は略称で、「盡未来際」とも書く。
    仏教用語で「際限がない永遠の未来」、「未来の果てに至るまで」、「未来永劫(みらいえいごう)」、
    「永遠」などの意で、仏陀やその教えに帰依の気持ちを示す場合に用い、「未来際を尽すまで」とよむ。
    誓いを立てるときなどに、「永久に」の意で副詞的にも用いられる。
    無限ではなく、「未来の際(きわ)が尽きるまで」という有限性を暗示している。
    仏教では、「世界は始まりも終わりも無く、ただ生じては滅することを無限に繰り返している」と
    考えるので、「未来のはてが尽きる」ことはない。
    つまりは「永遠に」ということだが、輪廻からの仏教は解脱を志す宗教なので、
    「完全な悟りを得て、輪廻転生する苦なる生存が尽きるまで」という意味になる。
     日蓮正宗の御聖訓には「末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、
    日興嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(乃至)日興嫡々相承の
    曼荼羅(まんだら)を以て本堂の正本尊と為す可きなり」とある。
    真言宗のお経「三帰依」や「五戒文」にも尽未来際がよまれている。
神馬(しんめ、じんめ、しんば) → 
深揖(しんゆう) : @神社などの参拝で、背筋をのばして背を畳と90度(45度もある)になるまで
     腰を折り、頭を下げること。 参 : 一揖
    A朝廷における作法で、両手に笏(しやく)を持ち、腰を折って頭を下げる敬礼の仕方。
親鸞(しんらん) : 鎌倉時代初期の日本の僧である。浄土真宗の宗祖とされる。
    平安時代末期の1173(承安3)年に生まれる。浄土信仰が盛んに行われていた
    比叡山の横川(よかわ)で修行した。29歳のときの1201(建仁元)年に、
    比叡山を下りて京都の六角堂に参籠したときに、聖徳太子の示現に導かれて、
    東山の吉水(よしみず)にいる法然を師と仰いでから生涯に渡り、
    「真の宗教である浄土宗の教えを継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。
    自らが開宗する意志は無かったと考えられる。念仏を禁止した興福寺の追及は厳しく、
    35歳の親鸞は越後(現新潟県)に流されて、赦免されるまでの5年間を過ごしている。
    このとき法然は土佐(現高知県)に流罪となり、半年後には摂津(現大阪府)箕面の勝尾寺に
    蟄居している。1214(建保2)年、42歳のとき、善光寺信仰と、それと同体となる
    聖徳太子信仰が定着していた関東に向かい、上野(こうずけ・現群馬県)の佐貫(さぬき)
    浄土三部経を千回読もうとしたが、数日して、「これは自力の行だ」と思い直して、
    常陸(ひたち・現)に向かった。関東時代の後半から常陸の笠間にある稲田草庵(西念寺)に住み、
    そこで布教のために書き集めていた経典を整理して、「教行信証」を書き、
    聞法のために訪ねてくる人に教えを説いて、20数年過したと言われる。
    独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形をとる。
    布教の対象は、主に河川や湖沼の周辺にある念仏堂や太子堂で念仏信仰を説くことで、
    信仰集団を形成していた堂主や聖(ひじり)たちだった。
    その結果で生じたのが、関東24輩という門弟たちだった。彼らは親鸞に導かれて、
    土着的な信仰を棄てて、阿弥陀如来への純粋な信仰に回心した人たちだった。
    関東を去って京都に戻ったのは、1235(嘉禎元)年、
    親鸞が63歳のころのことで、鎌倉幕府から念仏禁止令が出されたからとされる。
    親鸞が説く悪人こそが往生できるという教えを曲解して、悪行を犯しても往生できるとして、
    ことさら悪行をする「本願ぼこり」といわれた念仏者が現れたことから、幕府の禁止の対象となった。
    関東の門弟たちには手紙で教化と指導を行っていた。
    晩年の84歳のころに、自分の代わりに関東に派遣していた子供の善鸞が、
    親鸞が説いていた教説とはまったく違うことを教えて、門弟の中で混乱と分裂が生じたため、
    親鸞は、善鸞と親子の縁を切ることで、阿弥陀如来信仰への純粋性を保った。
    1262(弘長2)年に娘の覚信尼らに看取られながら90歳で亡くなった。
    親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、
    宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。
    浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)が完成した
    1247(寛元5)年とされるが、定められたのは親鸞の没後である。
    親鸞のことば
     無上仏(むじょうぶつ)ともうすは、かたちもなくまします
     意味は、「無上仏」である阿弥陀如来が誓った本願は、人が人為で計らうことから離れて、
     「南無阿弥陀仏」と仏にたのむとき、これを迎え入れようとすることである。
     そのため阿弥陀如来の真実の悟りには、形というものがない。
    
    親鸞聖人
    
    親鸞聖人、熊皮の御影(重要文化財、奈良国立博物館蔵)
    
    広島市安芸区矢野大浜の東光園内の親鸞聖人像
    
    京都市東山区にある浄土真宗・西本願寺派の宗祖・親鸞の墓所である
    大谷本廟(おおたにほんびょう)の総門前にある親鸞聖人像(大阪のK.Kさん提供)

周防五傑僧(すおうごけつそう) = 周防五傑僧(別掲)
住吉大社(すみよしたいしゃ) = 住吉大社(別掲)
清海曼陀羅(せいかい・まんだら) = 清海曼陀羅(曼荼羅関連に別掲)
清涼寺(せいりょうじ) : 「しょうりょうじ」とも読む。京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤の木町46にある
    浄土宗・知恩院派の寺院(Tel:075-861-0343)で、山号を五台山(ごだいさん)と称する。
    嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の通称で知られ、中世以来「融通念仏の道場」としても知られている。
    宗派は初め華厳宗、後に浄土宗となる。開基(創立者)は奈良東大寺の僧、「然(ちょうねん)上人、
    開山(初代住職)はその弟子の盛算(じょうさん)で、棲霞寺内の釈迦堂を清涼寺と号し、
    「然上人がその尊像を模刻し、985(寛和元)に宋から持ち帰って釈迦像を安置したことに始まる。
     本尊の生身釈迦如来(しょうしんしゃかにょらい)像は、身長162cmで、
    頭の中には鏡(脳)があり、両目には黒水晶が入り、口の中には象牙で作られた歯まであり、
    釈迦37歳の頃の生き姿を忠実に表わした仏像だといわれている。
    模刻したとき五人の中国尼僧により釈迦如来像体内に絹で作られた五臓六腑などが収められ、
    1953(昭和28)年にその五臓六腑が発見された。これは中国では千年以上前から体の構造が
    解剖学的に解明されていたことを示しており、体内に封籠された経文も含め全て国宝である。
    この釈迦如来像は日本三如来の一つとしても知られ、
    4月19日の「お身拭式」の時と12月の仏名会の時に開帳される。
     現在の本堂は1701(元禄14)年に再建されたもので、
    徳川綱吉と母桂昌院の寄進により華麗な宮殿が堂内に造られている。
    本堂横にある石碑は豊臣秀頼の首塚で、昭和55年、大阪城の三の丸跡地の
    発掘で出土した秀頼の首を秀頼再興の由緒を持つ清涼寺で祀ったものである。
     法然24歳の時の1156(保元元)年に比叡山から下り真直ぐ清涼寺を訪ね、
    広く人々を救うための仏教を求めて釈尊像の前に七日間のおこもりを行ったという。
    そこには、身分の低い武士や流浪の僧、市女笠の女など女人や下層の庶民の群れが
    釈迦如来に祈る姿を見て「仏の救済は、僧俗の差別を撤廃して平等に分たれている筈である。
    法然は、ここで真の大乗仏教とは山の僧の仏教ではなく、
    町の庶民生活の中の仏教でなければならないと覚めされた」という。
施餓鬼(mass for the dead)せがき : 施餓鬼会(せがきえ)お釈迦さまが、
    弟子の阿難尊者(あなんそんじゃ)に説き明かされた教えに基づき、
    餓鬼の世界に堕(お)ちて飢え苦しむ餓鬼(亡者)たちに食物を供えて弔(とむら)
    布施(ふせ:ほどこし)の法要をいう。盂蘭盆会(うらぼんえ)がきても祀(まつ)ってくれる
    縁者のない無縁仏を、盆の前後に施餓鬼壇を設け、三界万霊の位牌(いはい)や新霊の位牌を祀り、
    如来の名を書いた五色の施餓鬼幡(せがきばた)を立て、供物を供え読経供養する。
    もともと時節を選ばずに行われたが、盂蘭盆会とともに行われることが多く、
    両者が混同されるようになった。多くの宗派で広く勤められている。[季語]秋−行事。
    参 : 和讃

    毎年8月11日に行われるお寺(浄土宗)の施餓鬼には、私と妻が交互にお参りしているが、
    それは春・秋のお彼岸と年末のお布施と共に、お寺に対するお礼の意味が強く、
    施餓鬼には毎年特上の先祖代々の永代供養をしてもらっている。
    しかし、施餓鬼は餓鬼の世界に堕ちて苦しんでいる亡者を救うためとすると、
    私の先祖は天国ではなく、地獄の世界で苦しんでいるから供養することになるのではと思っていたが、
    供養してくれる縁者のない亡者を救うための法要なので、先祖は天国だと思えばよいことだ。

(ぜん) = (別掲)
泉岳寺(せんがくじ) = 泉岳寺(別掲)
善光寺(ぜんこうじ) = 善光寺(別掲)
禅師峰寺(ぜんじぶじ) = 禅師峰寺(お遍路関連に別掲)
禅宗(the Zensect)ぜんしゅう : 大乗仏教の宗派の一つ。禅門。もっぱら座禅によって
    悟りの境地に入ることを説く教えで、内観・自省によって心性の本源を悟ろうとする宗門である。
    以心伝心・教外(きょうげ)別伝を重んじ、仏の心をただちに人々の心に伝えるのを旨とするので、
    「仏心宗」ともいう。日本では臨済宗曹洞宗黄檗宗(おうばくしゅう)の総称をいう。
    その先行形態はインドに見られたが、6世紀前半にお釈迦様から28代目の祖師である
    達磨(だるま)大師が中国へ伝えてから発達した。
    7世紀には達磨大師より6代目の慧能大鑑禅師の南宗と神秀の北宗とに分かれ、
    主流となった前者から曹洞宗と臨済宗が派生した。
    更に慧能大鑑禅師のもとに南嶽懐譲禅師と青原行思の二大禅匠が現れ、
    数代経るうちに雲門宗、い仰宗、法眼宗、曹洞宗、臨済宗の五つの宗派に分かれた。
    また、臨済宗が楊岐派と黄竜派の二派に分かれ、総称して五家七宗と呼ばれている。
    日本へは鎌倉時代の初めに栄西が臨済宗を、次いで道元が曹洞宗をそれぞれ伝え、
    江戸時代に明の隠元が来朝して黄檗宗を伝えた。現在この三派が並び行われている。
    座禅を中心においた修行によって心の本性が明らかにされ悟りが得られるとし、
    不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)
    直指人心(じきしにんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)を唱える。
    ただし、道元に始まる日本の曹洞宗は只管打坐(しかんたざ)を説く。    
臨済宗と曹洞宗の違い
  臨済宗  曹洞宗 
歴史 幕府の庇護を受け、中国からも多数の
僧が渡来。特に室町時代に大きく発展した
京都や鎌倉から遠く離れた越前を拠点とし、
民衆や地方武士を中心に支持された
修行の
特徴
『看話禅(かんなぜん)』座禅に加え、
悟りに気づくために禅問答(公案)を行う 
『黙照禅(もくしょうぜん)』ただひたすらに
座禅することこそが悟りである
(只管打坐:しかんただ) 
著書と
教え
『興禅護国論』
三宗兼学 :  三宗とは天台、密教、禅の
こと。それまで弾圧の対象だった禅の教え
は、旧仏教(台・密)に対立するものでなく
国家に有益と説き、幕府の信頼を得た
『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)
修証一如 : 修行とその証(悟り)は一体で
あると提唱。掃除・畑仕事・洗濯・食事・
入浴など日常生活のひとつ(行住坐臥)を
重要な修行とする
ジパング倶楽部「旅のアトリエ」2011年5月号の禅の歴史より引用 
    参 : 仏教各宗派比較表
浅草寺(せんそうじ、あさくさでら) = 浅草寺(別掲)
善通寺(ぜんつうじ) = 善通寺(お遍路関連に別掲)
善導大師(ぜんどうだいし) = 善導大師(善導大師に別掲)
千日回峰行(せんにちかいほうぎょう) : 京都、大津両市にまたがる比叡山の峰や谷などを文字通り
    一千日間歩いて巡り、礼拝し続けるという天台宗独特の不動明王と一体となるための厳しい修行のこと。
     839年、天台宗第三世座主、慈覚大師円仁が遣唐使として唐に渡り、山西省五台山で修行、
    当時行われていた五台山五峰を巡拝する行を、帰国後弟子の相応和尚(そうおうかしょう)に伝授、
    これに「山川草木悉有仏性」(山や川、一木一草、石ころに至るまで仏性あり)の
    天台の教義と、日本古来の山岳信仰の流れが加わり、
    一千日を7年間で比叡山の峰々を回峰巡拝する修行法の基礎が創られたと伝えられる。
    この行は法華経中の出会う人すべてに礼拝を続けた功徳で仏になることができた、
    という「常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)」の精神を具現化したものとも言われている。
     現在の千日回峰行は、「12年籠山」「回峰一千日」「堂入り」の全てを満行する厳しい行となっている。
    千日回峰行者は、未開の蓮の葉を象(かたど)った桧笠をいただき、白装束に八葉蓮華の草鞋ばき、
    死出紐と宝剣を腰に、もし行半ばで挫折すれば自ら生命を絶つ掟のもとに、千日の回峰をする。
     千日といっても連続して3年間という意味ではなく、7年間をかけて通算1000日の間行なわれる。
    最初の3年間は、1年のうち100日だけ行が許され、
    1日当たり30kmを休まず歩いて比叡山中の255カ所の霊場を巡拝する。
    続く4年目と5年目の2年間は1年に200日、同じ修行を行ない、この5年間で通算700日の回峰をする。
    700日終了の後、中心道場の無動寺谷明王堂(むどうじだにみょうおうどう)に9日間こもり、
    「断食、断水、不眠、不臥(ふが)」で真言を10万回唱え、不動明王と一体になる「堂入り」の行に入る。
    終盤になると、瞳孔は開き死臭が漂うとも言われ、まさに命がけの荒修行である。
    この行を修めないと次の行に進むことは許されない。通常、人間が断食・断水状態で生きられる
    生理的限界は3日間とされていることを考えれば、信じがたいほどの苦行といえる。
    厳しさの増す6年目からの行に備えて、「五穀断ち」の「前行」が100日間行なわれ、
    この間、修行者はそばと少量の野菜以外はいっさい口にできない。
    人間の細胞は3カ月で入れ替わるとされているが、この期間に、
    その後の厳しい修行に耐え得るだけの肉体と精神力を養うのではないかと考えられている。
    この行の後、6年目は1年間に100日の行となる。京都市内赤山禅院往復が加わり、
    1日に歩く距離は60kmと倍増し、巡拝する場所も266カ所に増す。
    7年目は、前半の100日間を僧坊を出て京都市内寺社を巡拝往復する1日84km、
    「京都大廻り」の300カ所の巡拝となる。1日にこれだけの距離を歩くとなると睡眠時間は
    わずか2時間しかとれず、夜中の12時に起きて歩き始めるそうである。
    最後の100日間は当初の1日30kmの行に戻る。
    このうち、700日までの行は自分自身のための「自利行」、「堂入り」の後の800日以降は
    “生きた不動明王”として加持を行い、衆生を救済する「利他行」の行としている。
    7年間で合計1000日を回峰し「満行」とする厳しい修行で、
    歩く距離は地球1周に匹敵する4万km近くにも及ぶ。延暦寺の記録に残る千日回峰行を成し遂げた
    「大行満大阿闍梨(だいぎょうまんだいあじゃり)」は、記録に残る織田信長の比叡山焼き打ち以降、
    2003(平成15)年9月満行の酒井大阿闍梨の弟子藤波源信師迄49人しかいない。
    その内二千日は僅か3人である。延暦寺大乗院住職の星野圓道師(32歳)は、
    2007(平成19)年10月に700日を終え「堂入り」を達成したが、満行になるのはあと2年先になる。
葬儀(そうぎ) = 葬儀(別掲)
増上寺(ぞうじょうじ) : 東京都港区芝公園内にある浄土宗鎮西流の大本山。
    山号は「三縁山(さんえんざん)」。関東十八檀林の一つ。空海の弟子宗叡の開創した真言宗光明寺を、
    1385(至徳2)年に聖聡が改宗して現名称の浄土宗増上寺に改め、
    のち徳川家康の入府とともに徳川将軍家の菩提所(ぼだいしょ)となって興隆した。
    江戸時代に関東の浄土宗を統括する寺院となり、上野の寛永寺と権勢を競った。
    1598(慶長3)年に現在地に移転した。
    明治時代には半官半民の神仏共同教導職養成機関である大教院の本部となり大教院神殿が置かれた。
    のち排仏主義者により放火される。徳川幕府の崩壊、明治維新の政教分離によって
    境内の広範囲が芝公園となるが、現在なお、大寺の風格を残している。
    第二次世界大戦の空襲によって徳川家霊廟、五重塔をはじめとした遺構を失う大きな被害を受けた。
    なお、この付近の町名や地下鉄の駅名に使われている「大門」(だいもん)は、
    増上寺の総門のことを指す。現在の総門は1937(昭和12)年に作られた、コンクリート造のものである。
    
    
    
    東京タワーよりの増上寺全景
曹洞宗(Soto Zen Buddhism)そうとうしゅう : 禅宗の一派。
    9世紀頃の唐の洞山良价(とうざんりょうかい)とその弟子曹山本寂の門流をいう。
    鎌倉時代の1227年に高祖・道元禅師が入宋して日本に伝え、
    永平寺4世の太祖・瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師のときに地方の武士・農民に教勢を伸ばした。
    臨済宗と並ぶ禅宗の2大宗派の一つで、「南無釈迦牟尼仏」をご本尊唱名としている。
    福井県の永平寺と横浜市鶴見区の総持寺とを大本山とする。只管打坐(しかんたざ)をもっぱら重視。
    お経は『修証義(しゅしょうぎ)、般若心経(はんにゃしんぎょう)、観音経(かんのんぎょう)
    寿量品(じゅりょうほん)等の諸経典を読誦する。
    「曹洞」の名は、中国で大成した洞山良价と弟子の曹山本寂によるとする説と、
    禅宗六祖慧能(えのう)が説法した曹渓と洞山良价の活躍した洞山によるとする説とがある。
    参 : 仏教各宗派比較表泉岳寺花岳寺良寛
即身仏(そくしんぶつ) : 死んだ後も人々の救済を願い、生きたまま自ら土中に入り、
    瞑想状態のまま絶命した僧のこと。また、そのようにして死んだ後、ミイラ化した身体のこと。
    即身仏になるための修行というのは、木食修行(もくじきしゅぎょう)と土中入定(どちゅうにゅうじょう)
    という二段階になっている。木食修行は土中入定のための準備のようなもので、
    米や麦などの五穀、十穀を断って木の実などで命を繋ぎながら体の脂肪や水分などを落としていき、
    ほとんど即身仏そのものの状態にまで体を作っていくという大変な荒行である。
    木食修行を終えると土中入定に移り、これは地面に深さ3メートルほどの穴を掘ってそこに
    石室(いしむろ)を築き、更にそこへ呼吸のために節を抜いた竹筒の先が地上に出るようになっている
    木棺を入れ、その中に生きたままで入って埋められる。行者はその中で断食をしながら鐘を鳴らして
    お経を読み続け、その鐘の音が地上の人に聞こえなくなると、息が絶えたということで一旦掘り出され、
    すぐにまた埋められる。そうして1000日後(3年3カ月後とも)に再び掘り出されると、
    それだけであとは何もしなくてもミイラになっているそうである。
    即身仏とミイラの違い : ミイラとは「病死や事故死などで普通に死んだ後、腐らないようにする為に、
     臓器を取り出したり薬草などの防腐剤を詰めたりと、後からなんらかの手を加えて作り上げられたもの」、
     もしくは「死後、その土地の気候や風土で、白骨化されずに自然にミイラ化されたもの」などを言う。
     一方、即身仏とは行者が「信仰のもとに、自らの意思で、自らが即身仏になる為の厳しい修行を積んで
     仏になる」ことを言う。ちなみに、現在の法律では即身仏になることは禁止されている。
    日本最古の即身仏 : 現在全国に約24体の即身仏が祀られている。そのほとんどの即身仏が
     江戸時代以降に修行された行者さんのものである。唯一、新潟県中越地方の海側に位置し、
     県内一の賑わいをみせる海水浴場や「魚のアメ横」で有名な寺泊にある西生寺(さいしょうじ)
     弘智法印即身仏だけが江戸時代からさらに300年さかのぼった鎌倉時代の即身仏で、
     今から約640年前のものとされている。
     私は新潟の親戚に車で案内してもらい、西生寺の日本最古の即身仏を拝観させていただいたが、
     衆生救済を願ったとはいえ、何故こんなに苦しみながら念仏往生できるのか驚嘆するしかなかった。
     恐怖心が強くなり、「止めます。出してください」と言っても掘り出してはくれなかったのでしょうね。
     MRI検査でも「ちょっと待って」というくらい閉所恐怖症の私は、
     穴を塞がれたとたんに暗闇の恐怖でショック死し、とてもミイラにはなれないでしょう。
     でも今は法律で禁止されているから出来ないことにしておきましょう。
     話は生に変わり、土砂崩れで生き埋めになり、わずかの隙間があったために呼吸ができ、
     自分の小便を飲みながら1週間後に助け出された人の話では、
     「声も出さず、じっとしていて体力を消耗しないこと」だそうです。

即身成仏(そくしんじょうぶつ) : 即身菩提(そくしんぼだい)
    仏教用語で、人間が現在の身体のままで究極の悟りを開き、仏になることである。
    天台宗・真言宗日蓮宗・禅宗など諸宗派で説かれるが、特に真言宗では根本的教義とされ、
    大日如来の真実の姿と修行者が一体となることで即身成仏が実現されるとする。
    即身仏になることと誤解されがちであるが、
    即身仏は生きたままで仏になることであるが、即身成仏は死後に仏になることである。
卒塔婆(a stupa)そとうば、そとば : @卒都婆。浮図(ふと)。塔婆。塔。
     供養・報恩のため、仏舎利や遺物などを安置した建造物。
    A板塔婆。塔婆。供養・追善のため、墓などに立てる細長い板。
     塔の形の切り込みがつけられ、梵字・経文などが記されている。
     昔インドではえらいお坊さんの遺骨等を埋葬し、その上に土を盛りあげ、石でその周りをおおった。
     このお墓は「天と地を結ぶ軸」という意味のステゥーパという言葉で呼ばれていた。
     卒塔婆は下から順に宇宙を構成する五大要素と考えられる、「地・水・火・風・空」の梵語の文字が
     書かれている。身心が五大要素に還元されるという意味を表し、供養している。
     善光寺開帳時に本堂前に立てられる「回向柱(えこうばしら)」も卒塔婆の一種である。
台下(だいか) : @高殿の下。台(うてな)の下。高楼下。楼下。
    A身分の高い人を敬っていう語。閣下。
    B相手に対する敬意を表し、相手を敬って手紙の脇付(わきづけ)に用いる語の一つ。貴下。
    C高位の聖職者の敬称。仏教で言えば教主、門主、門跡、管長、僧正、などに対して用いる。
     (例)各大本山の門主。
     聖下が天皇に用いられる語である聖上と混同しやすいという理由から、
     ローマ教皇に対して日本政府では台下を使用している。 参 : 猊下
大寒みそぎ(だいかんみそぎ) : 大寒禊。暦の上で最も寒いとされる「大寒」の日に、
    冷水につかって心身を清め、無病息災を祈る行事のこと。
    「みそぎ」とは、海や川の水で体を清め、穢(けが)れを洗い落とすこと。
    寒中等に水をかぶって心身を引き締め何事かの願望成就を祈念すること。
    「禊」の[季語]は「名越の祓(なごしのはらえ)」を参照。
    春日神社(山口県防府市(ほうふし)牟礼(むれ)上坂本)Tel.0835−38−1185
     1186(文治2)年、藤原氏が周防の国司としてこの地に下向された際、
     その藤原氏の祖神である奈良の春日神社の分霊をお祀りされたとされる。
     境内には太鼓楼(たいころう)、神庫(しんこ)、社務所の他、禊所(みそぎしょ)がある。
      「大寒みそぎ」は、大寒の1月20日前後から3日間、朝6:30、昼12:00、夕18:00の1日3回ある。
     最終日は朝と夕の2回のみ開催となり、合計8回老若男女がみそぐ。
     禊所は社殿の横にあって、縦4m、横2.5m、深さ0.9mの水槽に冷たい水が張られている
     男性は褌一丁、女性は白装束姿で例年気温1〜5℃、水温5〜10℃ほどの冷たい水槽に入り、
     一年間の無病息災を祈る。タオル持参で誰でも参加できる(初回の人は要予約)。
     みそぎ終了後、参加者に暖かいあめ湯と餅入りお粥のふるまいがある。
     この行事に参加すると、その年は風邪をひかないといわれている。
     参 : ちば☆フォトギャラリー(HP)
    大槌稲荷神社(岩手県上閉伊郡大槌町)Tel.0193−42−3070
     1月第3日曜日、男たちが下帯ひとつで打ち寄せる波しぶきを浴びながら海中を進み、
     大漁と新しい1年の無病息災健康を祈る行事。寄せる波はあっても返す波のない「片寄せ波」として
     有名な浪板海岸で、始めに「鳥船」と呼ばれる神事で精神を集中させ、
     30〜50人ほどが一斉に水温7度の身を切る真冬の荒海に入る。 参 : 大槌商工会(HP)
    日吉神社(秋田市新屋日吉町10番67号)Tel.018−828−3033
     「大寒禊」は、ふんどしや白衣姿になった20〜40歳の神職らが、心身の鍛練と景気回復などを願い、
     境内で神を呼び込むお祈りをした後、「エイヤ」と気合を入れ、
     寒さをこらえながら冷水を浴びて身を清める。2002年から行われている。 参 : 日吉神社(HP)
    和田八幡宮(福井市和田)Tel.0776−26−0367
     天徳3年(平安時代中期)国主、源の義仲より創建。安産子育ての守護神・神功皇后、
     厄除開運の守護神・応神天皇、繁産興業の守護神・伸哀天皇を祭り、
     親子神として八幡大神と称される。
      「大寒みそぎ」は、1月の晦日に近い日曜日、午前10時から3回にわたって禊が行われる。
     参加費は、5,000円で、参加費の中には、お札、祈祷料、懇親会費用、日赤寄付などが含まれている。
    鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)Tel.0299−82−1209
     「大寒禊」は、大寒の日の20日、一般参加、 同神宮の神職ら、例年約120人の男女が、
     船を漕ぐ動作に似た 「鳥船」 と呼ばれる独特の準備体操を入念にした後、
     男子は白い鉢巻きに下帯ひとつ、女子は白い長襦袢姿で、
     清水を湛えた御手洗池(みたらしのいけ)に身を浸して心身の罪けがれをはらい清める。
     参加費2,000円、事前申込制。10時からだが、参加者は9時集合。
    三峯神社(みつみねじんじゃ)(埼玉県秩父市三峰298−1)Tel.0494−55−0241
     「大寒みそぎ」は、自らの心身を見つめ直し、己の御霊(みたま)を磨くための錬成研修として行われる。
     参加資格は、健康な成人男女、特に心臓や血圧に異常のない方、正座の出来る人、
     山岳登拝があるため足に自信がある方。参加費・保険費等は、3,000円。
     参 : 三峯神社(HP)
    多田野本神社(ただのほんじんじゃ)(福島県郡山市逢瀬町多田野)Tel.
     「寒中みそぎ」は、 身体壮健・精神修養を祈願して、毎年大寒に近い日曜日に行われる。
     参 : 郡山市観光協会(HP)、郡山観光交通株式会社(HP)
    角館鎮守神明社(かくのだてちんじゅしんめいしゃ)(秋田県仙北市角館町岩瀬149−2)Tel.
     天照皇大神(あまてらすおおみかみ)を祭る鎮守。
     江戸時代後期の紀行家、菅江真澄(すがえますみ)が亡くなった場所で、境内には碑が立っている。
     「大寒みそぎ」は、社務所で開講式を行い、本殿前で鳥船行事(とりふねぎょうじ)を執り行う。
     御製(ぎょせい)という神様に対する和歌を斉唱して、船を漕ぐような動作をする。
     その後社務所の前で冷水を浴びる禊行(みそぎぎょう)を行い
     最後にまた神社にて鳥船行事の禊が繰り返される。 参 : 角館町観光協会(HP)
題経寺(だいきょうじ) = 題経寺(別掲)
醍醐寺(だいごじ) = 醍醐寺(別掲)
大社(たいしゃ) : @名高い神社のことをいい、古来、神社を大・小、
     または大・中・小に分けたうちの最高位に格付けされる大社のことで、伊勢大神宮・八幡宮などがある。
    A大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀る「出雲大社」のみに用いられてきたが、
     現在では、春日・住吉・諏訪などが「大社」を使用している。
     出雲大社では、自らを「いずもおおやしろ」と名乗ってもいる。 参 : 神宮
帝釈天(たいしゃくてん) : 古代インドの武神で雷神。神々の最高神として、
    梵天と一対で仏法の守護神とされる。十二天の一つで東方を守り、中国の貴人の姿であらわされる。
    須弥山(しゅみせん)頂の主で喜見城に住む。ベーダ神話のインドラ神が仏教に取り入れられたもの。
    参 : 四天王題経寺
大日寺(だいにちじ) = 大日寺(お遍路関連に別掲)
大寧寺(たいねいじ) = 大寧寺(別掲)
大仏(だいぶつ) = 大仏(大仏関連に別掲)
大仏の日(だいぶつのひ) = 大仏の日(大仏関連に別掲)
当麻寺(たいまでら) : 正しくは「當麻寺」。正称(号)は「二上山禅林寺(にじょうさんぜんりんじ)」。
    奈良県葛城(かつらぎ)市当麻1263にある寺で、
    高野山真言宗浄土宗(曼荼羅堂のみ)の両宗に兼属する。
    
    本尊の蓮糸大曼荼羅がある本堂(曼荼羅堂)
    寺伝によれば、612(推古天皇20)年に用明(ようめい)天皇の皇子で聖徳太子の弟の
    麻呂子王(まろこのきみ)が建立した河内(かわち)(現・大阪府)の万法蔵院(まんぼうぞういん)を、
    王の孫当麻国見(たいまのくにみ)が役行者(えんのぎょうじゃ)を開山として681(天武天皇10)年に
    現在地に移転、改称したといわれる。しかし、東西両塔(国宝)並立の奈良時代伽藍(がらん)配置の
    遺構を存するところから、天平(てんぴょう)年間の初頭(730年頃)に
    当麻氏の氏寺として創建されたとの説もあり有力である。
    763(天平宝字7)に横佩(よこはぎ)の大臣(おとど)とよばれる藤原豊成(とよなり)の女(むすめ)
    中将姫が當麻寺に入って法如(ほうにょ)と号し、阿弥陀如来(あみだにょらい)の助力によって
    織り成したと伝える浄土変相(じょうどへんそう)図があり、蓮糸(はすいと)の「當麻曼荼羅(たいままんだら)
    として有名だが、実際は絹糸の綴織(つづれおり)である。破損が甚だしいため何度も複製され、
    現在、曼荼羅堂(本堂)厨子(ずし)に安置されているのは1685(貞享2)年作のもので、
    曼荼羅堂や厨子とともに国宝となっている。
    また前に複製された「文亀(ぶんき)曼荼羅」は国の重要文化財に指定されている。
    1180(治承4)年、平氏の南都焼討ちの際、東西両塔を除いて被災、
    以後は浄土教中心の道場として栄えた。
    当寺の近傍に出生したといわれる源信の影響からか、5月14日には「當麻寺のお練(ね)り」で知られる
    「聖衆来迎練供養会式(しょうじゅらいごうねりくようえしき)」が行われ、いわゆる迎講(むかえこう)
    姿を伝える数少ない現存例の一つとして有名である。金堂、講堂は鎌倉時代の建築で、国の重要文化財。
    塔頭(たっちゅう)中之坊は室町時代の美しい建築で、書院、円窓席茶室は国の重要文化財、
    庭園は国指定名勝。本尊の塑造弥勒仏坐像(そぞうみろくぶつざぞう)や銅鐘(いずれも奈良時代作、国宝)
    など宝物も多く、當麻寺だけで、国宝8件、国指定重要文化財28件を数える。
    寺宝の展示施設(中之坊霊宝館、奥院(おくのいん)宝物館)もある。
    また、ボタンの名所として知られ、多くの観光客を集めている。
    
    當麻寺の塔頭「中の坊」
    
    日本最古(白鳳時代)の梵鐘(国宝)
    
    當麻寺境内図
    當麻寺の中之坊と西南院に入るには、それぞれ500円と300円が、
    さらに奥の院に入ると300円の拝観料が必要になる。
    参 : 當麻寺(HP)
當麻曼陀羅(たいま・まんだら) = 當麻曼陀羅(曼荼羅関連に別掲)
大文字焼き(だいもんじやき) = 五山送り火(別掲)
沢庵(たくあん) = 沢庵(漬物関連Aに別掲)
托鉢((religious mendicancy)たくはつ
    @乞食行(こつじきぎょう)。頭陀行(ずだぎょう)。行乞(ぎょうこつ)
     修行僧が、鉢を持って市中を廻り、他人の家の前に立って施しの米や金銭を受けて歩く修行を言う。
     仏教やジャイナ教を含む古代インド宗教の出家者の修行形態の一つで、信者の家々を巡り、
     生活に必要な最低限の食糧などを乞い、信者に功徳を積ませる修行である。
      お釈迦様が托鉢をしていたとき、農夫から「人に恵んでもらわずに、自分で耕して食べろ」と言われ、
     お釈迦様は、「信仰が種であり、修行は雨、智慧が人々の心を耕し、全ての苦悩からの解放を実らせます。
     私は、托鉢をすることで、信仰の種をまき耕しているのです」と答えたと言う。
     このことは、托鉢が、執着を越え、衣食住に「少欲知足」を旨とし、人々が僧侶に金銭や食物を施す
     善根(布施・財施)を積ませる尊い行為であることを教えている。
     また托鉢は、僧侶が在家者に法を説く布施(法施)と一体になっている。
    A禅寺で食事の際、僧が鉢を持って僧堂に行くこと。
托鉢僧(a mendicant)たくはつそう : 鉢を手に各地を廻り、施しの米や金銭を受けて歩く修行僧のこと。
    家々を歩くことをしないで街角や観光地などに終日立ちっぱなしの僧は、
    修行とはかけ離れた「街頭募金」そのもので、限りなく「ニセ托鉢」であると言われているが、
    私は僧侶の身なりをしていれば、常に100円を施し、最近でも大阪城で妻とともに施した。

太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう) = 太宰府天満宮(別掲)
奪衣婆(だつえば) : 奪衣鬼、脱衣婆、葬頭河(しょうずか)婆、正塚婆(しょうづかのばば)とも言う。
    三途の川(葬頭河)のほとりにいて、
    三途の川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取り、
    衣領樹(えりょうじゅ)のうえにいる懸衣翁(けんえおう)という老爺に渡すという鬼婆。
    衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、
    その重さによって死後の処遇を決めるとされる。
    俗説ではあるが、奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もある。
    江戸時代末期には民間信仰の対象とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立された。
    民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の咳止めに効き目があるといわれた。
    東京都世田谷区の宗円寺、新宿区の正受院が奪衣婆を祀る寺として知られる。
    正受院の奪衣婆尊は、咳が治ると綿が奉納され、
    像に綿がかぶせられたことから「綿のおばあさん」「綿のおばば」などとも呼ばれた。
    
    埼玉県川口市の「西福寺(さいふくじ)」地蔵堂の奪衣婆像
知恩院(ちおんいん) = 知恩院(別掲)
竹林寺(ちくりんじ) = 竹林寺(お遍路関連に別掲)
智光曼陀羅(ちこう・まんだら) = 智光曼陀羅(曼荼羅関連に別掲)
中宮寺(ちゅうぐうじ) = 中宮寺(法隆寺関連に別掲)
中尊寺(ちゅうそんじ) : 岩手県西磐井(にしいわい)郡平泉(ひらいずみ)町平泉にある
    天台宗の東北大本山の寺院。奥州観音札所番外。山号は関山(かんざん)で、
    山内の寺塔僧房を総称して中尊寺という。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)
    開山は850(嘉祥3)年、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が建てた弘台寿院(こうだいじゅいん)
    始まるとされ、859(貞観1)年に清和(せいわ)天皇勅命によって現寺号に改められた。
    1105(長治2)年、藤原清衡(ふじわらりきよひら)が堀河(ほりかわ)天皇の勅命を受け、
    21年間にわたって大長寿院、金堂、三重塔3基、鐘楼、経蔵、阿弥陀堂、大門などを建立し、
    1126(大治1)年には盛大な落慶供養が行われた。その発願文(ほつがんもん)はいまも残されており、
    前9年・後3年の役の戦功で陸奥押領使(むつおうりょうし)に任ぜられた清衡が、戦没者を供養し、
    奥州に仏国土建設を図った趣意が記されている。このときに中尊寺は堀河、鳥羽(とば)両天皇の
    勅願所となり、慶源が別当に任ぜられた。清衡の子基衡(もとひら)、孫秀衡(ひでひら)も後を継いで
    毛越寺(もうつじ)、観自在王院(かんじざいおういん)、無量光院(むりょうこういん)などを建立、
    堂塔40余、僧房300余を数えるに至り、藤原三代ゆかりの寺として著名であり、
    平泉文化の中心として栄えた。しかし1189(文治5)年、4代泰衡(やすひら)
    源頼朝(みなもとのよりとも)に討たれて藤原氏は滅亡、寺は頼朝によって保護修理され守られたが、
    1337(延元2・建武4)年の火災で国宝の金色堂(こんじきどう)、経蔵(国の重要文化財)の一部を
    残して焼失した。金色堂は1288(正応1)年、鎌倉将軍惟康(これやす)親王が
    執権・北条貞時(ほうじょうさだとき)に命じて再建させ、覆堂(さやどう)によって守られた。
    天正(てんしょう)年間(1573〜1592)に豊臣秀吉が寺領に7カ村を寄付、
    さらに江戸時代には伊達(だて)氏が諸堂舎を再建修理した。
    1665(寛文5)には東叡(とうえい)山輪王寺(りんのうじ)の直末(じきまつ)となり、
    1675(延宝4)年、輪王寺宮により法度(はっと)を下され、維新後は比叡山直末となる。
    現在、山内に平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂、経蔵のほか、
    弁慶堂、本坊、鐘楼、開山堂、鎮守社白山社などが点在し、境内は特別史跡に指定されている。
     1979(昭和54)年5月22日、「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定された。
    2001年に世界遺産登録の前提となる暫定リストに「平泉−浄土思想を基調とする文化的景観」の
    一部として記載された。2008年の第32回世界遺産委員会の審議では、登録延期が決定したが、
    2011年6月に世界遺産(文化)の登録が決定された。
    
    中尊寺金色堂
    金色堂 : 1124(天治1)年、清衡が自らの葬堂として財力を惜しまずに建てた阿弥陀堂形式の堂で、
     光堂(ひかりどう)とも呼ばれる。のち基衡、秀衡の遺体を納めた廟所(びょうしょ)ともなった。
     内陣には藤原氏三代の遺体を納めた三つの須弥壇(しゅみだん)があり、
     各壇上にはそれぞれ阿弥陀如来を本尊とする11体の仏像(国の重要文化財)が安置されている。
     須弥壇、柱、天井、組物などには金銀、螺鈿(らでん)、珠玉がちりばめられ、平安末期の
     美術工芸の極致といわれる。なお1962(昭和37)年から6年にわたって解体修理が行われ、
     旧覆堂(国の重要文化財)を他に移し、新しく鉄筋コンクリート造の覆堂がつくられた。
     寺宝は非常に多く、金色堂堂内具の孔雀文磬(くじゃくもんけい)および磬架(けいか)
     木造天蓋(てんがい)、金銅華鬘(けまん)などと、経蔵内陣の螺鈿八角須弥壇、
     紺紙金字一切経(こんしきんじいっさいきょう)(2739巻)などが国宝に指定。
     そのほか金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅(こんこうみょうさいしょうおうきょうきんじほうとうまんだら)
     紙本墨書供養願文、木造一字金輪(きんりん)像(以上国の重要文化財)のほか多数の仏像、
     仏具など、山内17カ院に伝わる文化財や美術品3000余点が
     讃衡蔵(さんこうぞう)(宝蔵)に収蔵保管されている。
    
     中尊寺金色堂内陣
    
     中尊寺金色堂内陣正面
    
     国宝の中尊寺金色堂西北壇壇上諸仏(中尊寺金色院)。
     中央に阿弥陀如来座像、周りを観音菩薩や地蔵菩薩が囲む。やさしい顔があり、いかめしい顔もある。
     さして広くもない壇上に11体の御仏(みほとけ)がひしめいている。
     この御仏たち、造り方が微妙に異なり、広葉樹や針葉樹でできた中央の3体は、
     内側がくりぬかれ、前後に接ぎ合わされているのに対して、
     他の8体は針葉樹で、主に左右から接ぎ合わされているのである。

長久寺(ちょうきゅうじ) = 長久寺(七福神に別掲)
重源(ちょうげん) : 重源上人(ちょうげんしょうにん)
    1121(保安)2年〜1206年7月12日(建永元年6月5日)は、中世初期の日本に生きた人物。
    平安時代末期から鎌倉時代にかけて活動した僧である。
    房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。
    東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。
    紀氏の出身で紀季重の子。1133(長承2)年、真言宗の醍醐寺に入り、出家する。
    のち、浄土宗の開祖・法然に学ぶ。四国、熊野など各地で修行をする。中国(南宋)を3度訪れたという。
    東大寺は1180(治承4)年、源平の戦いで平重衡の南都焼き打ちによって伽藍の大部分を焼失。
    大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏(盧舎那仏像)もほとんどが焼け落ちた。
    1181(養和元)年、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に
    東大寺再建を進言した。その後、壇ノ浦の合戦で平家が滅亡し1186(文治(改元)2)年、
    東大寺再建の大勧進(総責任者)に任命された重源上人は、用材切り出しのため、
    佐波川上流(現・山口市)の徳地(とくぢ)に大木を求めてを訪れ、その指揮をとると同時に、
    周防国(現・山口県東部)の国司として政務も執行した。当時、重源は61歳であった。
    その当時切り出された大木は、東大寺の南大門や、仁王像に姿を変え現存している。
    東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があった。
    周防国の税収を再建費用に当てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、
    土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、
    勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。
    また、重源自身も京の後白河法皇や九条兼実、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼し、
    それに成功している。重源自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、
    中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導した。
    自ら巨木を求めて山に入り、奈良まで移送する方法も工夫したという。
    また、伊賀・紀伊・周防・備中・播磨・摂津に別所を築き、信仰と造営事業の拠点とした。
    途中、いくつもの課題もあった。最大のものは大仏殿の次にどの施設を再興するかという点で
    塔頭を再建したい重源と僧たちの住まいである僧房すら失っていた大衆たちとの間に意見対立があり、
    重源はその調整に苦慮している。なお、重源は東大寺再建に際し、
    西行に奥羽への砂金勧進を依頼している。こうした幾多の困難を克服して、
    重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。
    1185年9月23日(文治元年8月28日)には大仏の開眼供養が行われ、
    1195(建久6)年には大仏殿を再建し、1203(建仁3)年に総供養を行っている。
    以上の功績から重源は大和尚の称号を贈られている。
    重源の死後は、臨済宗の開祖として知られる栄西が東大寺大勧進職を継いだ。
    東大寺には重源を祀った俊乗堂があり、「重源上人坐像」(国宝)が祀られている。
    鎌倉時代の彫刻に顕著なリアリズムの傑作として名高い。
    浄土寺(播磨別所)、新大仏寺(伊賀別所)、阿弥陀寺(周防別所)にも重源上人坐像が現存する。
    重源が再建した大仏殿は戦国時代の1567(永禄10)年、
    三好三人衆との戦闘で松永久秀によって再び焼き払われてしまった。
    現在の大仏殿は江戸時代の宝永年間の再建で、
    天平創建・鎌倉再建の大仏殿に比べて規模が縮小されている。
    参 : 重源の郷重源の郷(HP)
追善(a memorial service)ついぜん : 追福。死者の苦を除き冥福を祈るため、法会などの善事を行うこと。
    亡くなった人の冥福を祈るため、生きている人が善行を修めること。
(てら) = 寺院(別掲)
天海(てんかい) : 1536(天文5)年〜1643年11月13日(寛永20年10月2日)は、
    安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した天台宗の僧侶。号は南光坊。
    諡号(しごう)は慈眼大師(じげんだいし)。大僧正。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。
    会津の人で、幼名は兵太郎、10歳のとき随風といい、55歳のとき天海と改めた。
    比叡山興福寺などで諸宗について学び、川越の喜多院などに住した。
    徳川家康の帰依をうけて政治(朝廷政策・宗教政策)にも参与し、
    日光山を授けられた。徳川家康、秀忠、家光の3代にわたって参謀を務め、
    絶対の信頼を受けた人物で、享年108歳というご長寿僧侶である。
    家康死後、家康を久能山から日光山に東照大権現として改葬。また、江戸上野に寛永寺を創建。
    天海版と呼ばれる「大蔵経」の版行を発願、その死後に完成。
    
    埼玉県川越市の喜多院山門前にある銅像
    天海が家光から長寿の秘訣を尋ねられた際に詠んだとされる和歌(2首)
    ★「長命は、粗食、正直、日湯(ひゆ)、陀羅尼(だらに)、おりおり御下風(ごかふう)あそばさるべし」。
     「長生きのコツは、粗食と、心のストレスとなる嘘をつかないこと、毎日風呂に入り、お経を読むこと。
     それから時には屁(御下風)でもこいて、張り詰めた気持ちを緩めること」という意味である。
    ★「気は長く、勤めは堅く、色うすく、食は細くして、心広かれ」。
     「短気にならず気は長く持って、真面目に仕事をこなし、色欲はほどほど、
     食事は腹八分目にして、心は広く持ちなさい」という意味である。
天上天下唯我独尊 = 天上天下唯我独尊(別掲)
天神(heavenly gods)てんじん、てんしん : @あまつかみ。高天原(たかまのはら) 系統の神。地祇(ちぎ)
    A菅原道真の神号、天満大自在天神の略。また、菅原道真をまつった天満宮。
     学業の神様と言われ、合格祈願と学業成就のご利益があるとされる。 参 : 天神祭太宰府天満宮
    B〔揚げ代の25文を天神の縁日(25日)にかけていう〕遊女の階級の一つ。
     上方で、太夫(たゆう)に次ぐもの。天職。
    C梅干しの核(さね) の俗称。D天神髷(まげ) の略。E能面の一。怒りの相を表した神霊用の面。
天台宗(てんだいしゅう) : 日本八宗・中国一三宗の一つ。天台法華宗。法華宗。止観宗。天台円宗。台密。
    インドの竜樹に始まり、北斉の慧文(えもん)・慧思(えし)を経て隋の智(ちぎ)により大成された
    大乗仏教の一宗派で、法華経を所依とし、止観の実践に基づき、中道・実相の世界を説く。
    日本へは奈良時代に唐の僧鑑真(がんじん)が初めて伝えたが定着せず、
    平安初期に入唐した最澄が比叡山に寺院を建て宣教して以後、大いに広まり、
    次第に密教色を深めていった。のち山門派と寺門派に分裂し、
    さらに下って真盛派(しんぜいは)も生まれた。
    参 : 天台宗(HP)、千日回峰行仏教各宗派比較表
伝統仏教(でんとうぶっきょう) : 日本の伝統仏教は13宗五十何派といわれ、この「伝統仏教型」と、
    「新宗教型」と二分される。一般的には江戸時代末期までに成立した宗派(教団)を指す。
    主なものに「天台宗」「真言宗」「浄土宗」「浄土真宗本願寺派」
    「真宗大谷派」「臨済宗」「曹洞宗」「日蓮宗」などがある。
     文化庁によると仏教系のお寺の数が約8万6千、信者数は約9100万人(2005年12月現在)。
    伝統仏教のお寺は9割以上を占めるとみられている。
    参 : 仏教各宗派比較表(財)全日本仏教会(HP)
    
    寺離れ、地方も都会も(朝日新聞2008.6.2より引用)
     お寺が危ない。過疎・高齢化が進む地方では「葬式のたびに檀家(だんか)が一つ減る」と言われ、
    若者が集まる都市部もお寺離れが止まらない。収入の柱のお布施は減って運営は苦しい。
    「葬式仏教」という皮肉交じりの言葉すら成り立たなくなる危機感のなか、
    伝統仏教の生き残りをかけた手探りが各地で始まっている。
    伝統仏教の停滞について
    ●宗教学者の井上順孝・国学院大教授は、「深刻な悩みを抱え、生き方を模索している人はたくさんいる。
     大都市圏でも、仏教に対する潜在的期待は大きいはず。寺に人を呼び戻そうという発想ではなく、
     自ら寺の外に出て、積極的に教えを広める姿勢が必要だ。失敗を恐れることなく、組織として考え、
     行動する時期だろう」日本人の宗教意識が変化する中、これら教団の首都圏での試みは、
     どんな展開を見せるのか。伝統仏教教団の真価が間われる場面でもある。と、見ている。
    ●文化人類学者の上田紀行・東京工業大学大学院准教授の話しでは、
     かつてのお寺は、人々の苦しみをいやし、教えを説き、楽しみを与える場所だった。
     しかし、明治以来お寺の多様な役割が衰退し、葬式と法事のみへと縮小していった。
      「家」を基盤とした寺と時代のギャップも大きい。江戸時代以降、
     檀家制度に守られ布施収入を確保し、明治以降は、人質ならぬ「墓質」をとることで存続してきた。
     だが、このシステムは少子高齢、核家族化、地域の共同体の希薄化で壊れつつある。
      右肩上がりの成長が終わり、今ほど不安、生きづらさを実感している時はない。
     人々の心をケアし、地域の一翼を担えれば道は開ける。
    ●伝統仏教教団は、昔からの歴史文化の遺産とこれまで受け伝えられてきた教義の質の高さの
     おかげで今のところはなんとか体面を保っているが、社会に対する行動力や布教の努力においては
     新興宗教の活動に遠く及ばないと言わざるをえない。怪しい新興宗教が孤独で不安な人に
     見せかけの温かい声をかけて近づいていくとしても、見せかけの声すらかけていない伝統仏教には
     何を言う資格もないのだと思う。しかし逆に言えば、本物の教えに深く根ざしたところから
     本物の行動が出てくるとしたら、それほど強いものはない。諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教。
     見せかけのもの、にせものが横行する今こそ、お坊さんは余計なことを考えず「ほんとうにいいこと」に
     取り組みはじめるときではないだろうか。と、東京・神谷町光明寺所属の浄土真宗本願寺派僧侶・
     松本圭介氏(法名・釈紹圭)は自己のブログ「お寺の未来」で伝統仏教の停滞の一因を述べている。
    ●伝統仏教諸宗派では、大抵、本山や宗門への「賦課金」という制度があり、
     各末寺に所属する檀家の数に一定の率を掛けた金額を毎年、本山や宗門に「上納」せねばならず、
     そのため、「少しでも賦課金を少なくするために、檀家の数を過小報告している」場合が多く、
     実際には、1カ寺あたりの信者数は、「公式の数字」である諸数値よりも多い(すなわち、豊かである)
     場合が多いと考えられる。一宗を維持する上で必要な措置とはいえ、
     この「賦課金制度」があるために、「肉山(豊かな寺)」ほど宗門から
     独立する(単立の宗教法人になる)傾向が強く、また、さして教義上の違いがないにもかかわらず、
     おもに経済的要因によって、多数の宗派が乱立する要因になっている。

    昔のお寺は、赤飯や甘茶の接待、日曜寺子屋での紙芝居など、
    子供にも喜ばれる行事が数々あったが、今や葬式と法事のみに偏っていて
    平素からのお寺との関わりは規模の大きい寺院の「彼岸会」「施餓鬼会」での説法や
    寺院経営の幼稚園・保育園の教育くらいになっている。
    私は小さい頃からの「先祖を敬う」という親や教育機関の教育の衰退につきると思う。
    したがって、これからは昔のようなに道徳・修身教育を充実させ、
    寺院も「地域に開かれたお寺」を取り戻さない限り、寺離れは食い止められない。

転法輪寺(てんぽうりんじ) = 転法輪寺(別掲)
天龍寺(てんりゅうじ) = 天龍寺(別掲)
遠石八幡宮(といしはちまんぐう) = 遠石八幡宮(八幡宮関連に別掲)
道教(Taoism)どうきょう : 中国固有の宗教儒教仏教と並ぶ三教の一つ。
    不老長生をめざす神仙術と原始的な民間宗教が結合し、老荘思想と仏教を取り入れて形成されたもの。
    後漢末の五斗米道(ごとべいどう)に起源し、のち次第に宗教の形を整え、
    中国の民間習俗に強い影響力をもった。
道元(どうげん) : 1200年1月19日(正治2年1月2日)〜1253年9月22日(建長5年8月28日)〈旧暦〉。
    鎌倉時代初期の曹洞宗(そうとうしゅう)の禅僧で、日本曹洞宗の開祖。
    別名を道玄とも称し、晩年には希玄(きげん)という異称も用いた。俗姓は源氏。
    諡号(しごう)は、仏性伝東国師、承陽大師。一般には道元禅師と呼ばれる。同宗旨では高祖と尊称される。
    京都の人。久我通親の子。比叡山で天台宗を、建仁寺で禅を学んだ。
    1223年に入宋し、帰国後、建仁寺に住み,著作と学問に専心し京都深草に興聖寺を開創するが、
    説法を延暦寺の僧侶にとがめられ、寺を焼き討ちされたという(異説あり)。
    1243年に貴族・権勢に近づくことを避け、説法に感激した波多野義重の領地・越前国志比荘に移る。
    そこで大仏寺(後、永平寺と改める)を開創する。のち波多野義重と北条時頼に請われて
    鎌倉に入り説法などを行うが、鎌倉幕府から寄進の申し出があった寺院建立は固辞し、また越前に戻る。
    徒に見性を追い求めず、座禅している姿そのものが仏であり、
    修行の中に悟りがあるという修証一如・只管打坐(しかんたざ)の純一の禅を伝えた。
    なお、道元本人は曹洞宗などという宗派はないといい、「私がやっているのが釈迦以来の
    本当の仏教であり、宗派などというものはない」と宗派そのものを否定しているが、
    後になって曹洞宗の開祖とされた。諡も明治時代になってから受けたものであり、
    本人は政府に極力近づかず越前の山の中、永平寺で弟子の育成に努めた。
    これは師匠の天童如浄から「権力に近づかずに山の中で仏教を守れ」と教えられたためだという。
    一説には、空海と並んで釈迦の悟りに最も近づいた日本人の一人ではないかといい、
    釈迦の教えた原始仏教から見ても行動が正しいとされる、数少ない僧侶の一人である。
    また行儀作法を厳しくしつけ、「威儀即仏法」と厳しく弟子を育てた。顔の洗い方など
    細かい行儀まで指導している。精進料理も教え、「典座教訓」には料理人の心得が記されている。
    これらの教えが日本文化に影響を与え、後に鈴木大拙によって欧米に紹介された。
    主な著書に、ハイデッガーなど西欧の現代哲学者からも注目を集めた「正法眼蔵」や
    「永平清規」、「学道用心集」、「典座教訓」などがある。
    道元のことば
     海は海を辞(じ)せざるがゆえに海をなし、おおきなることをなす
     意味は、大自然となる海は、海としての働きを拒まないがゆえに、海をなしているのである。
     海は、そこに流れ込む河川を選択することなく受け入れて、海となっている。
     海の営みは、「あれがよい」「これはダメ」という選別するものはなく、一切を受容する。
     そこにあるのは、「無私」である。無私であるからこそ、大海原を造り出しているのである。
     じつは人間もまた自然の一部であるから、無私になることで大自然と同化することができるのである。
     悪友にひかれ、魔障(ましょう)におうて、しばらく断善根(だんぜんこん)となり
     意味は、悪い友だちの行為に染まって悪行を行ったとしても、それで仏性が無くなったわけではない。
     悪行を反省して、そこから立ち上がれば、内在している仏性によって
     私たちは蘇(よみがえ)ることができるばかりか、善根を増長することができるということ。
     布施(ふせ)というは、不貪(ふとん)なり。不貪というは、貪(むさぼ)らずなり
     意味は、財物を施す「財施」、教えを説き聞かせる「法施」、恐れを取り除く「無畏施」の3つの布施を
     行うには、「貪らない」というすべて清らかなことである。しかも、そこには布施を惜しんだり、
     布施をしてやったりという驕(おご)りの心や、諂(へつら)い、
     おもねる気持ちがあってはならないということである。
     如何(いか)にしてか自己を転じて、山河大地(さんがだいち)に帰(き)せしめん
     どのようにして、自分という存在を自然の山河や大地と同化することができるだろうか、の問いかけに、
     自分という存在が、自然そのものであり、自分が山河であり、大地である。
     同じように仏法が自然であり、自然が仏法であるととらえ、そこに真の自分と自然が生きてくる、
     自分と仏法が生きてくるのである。
     (しん)とは山河大地(さんがだいち)なり、日月星辰(にちげつせいしん)なり
     地上(山河大地)や宇宙(日月星辰)の現象は、すべて私たちの「心」である、ととらえている。
     生はひとときのくらいにて、すでにさきありのちあり
     生は、一瞬のあり方であって、その先にも、その後にも生は連続している。
     つまり、生が終わったから、死にいたるというのではなく、生死はつながっているのである。
東寺とうじ) = 東寺(別掲)
唐招提寺(とうしょうだいじ) = 唐招提寺(別掲)
道祖神(どうそじん) : 障(さえ)の神・塞(さい)の神・みちの神・手向(たむ)けの神・ちまたの神・
    峠の神・岐(ふなど)の神など、全国各地に多くの呼び名がある。日本の民間信仰の一つで、
    悪霊の侵入を防ぐため、村境・峠・辻などの道端や道の分かれ目にまつられる旅の安全を守る神。
    また、生殖の神、縁結びの神ともする。道祖神の文字碑などには台石や表石に猿田彦神と記し、
    神話では猿田彦神が道案内役をしたことから旅の守護神となっている。
    道祖神は全国的に小正月に祭られ、ドンド焼きが行われる。ドンド焼きの火であぶった
    焼きだんごを食べれば、歯痛を病まぬとされ、焼いた灰を用いれば農作物の悪虫害の防ぐなどとされ、
    多様な信仰に発展している。神体は石造りで、主に「道祖神」などの文字が彫られたり、
    男女の姿を石の半分を刻んだレリーフ(浮かしき彫り)になっていたりする。
    多くの場合、道祖神と同じところに庚申塔・二十三夜塔が奉られている。
    もともとは村の内と外を区別し、悪霊などの侵入を防ぐ村の守り神とされていたようだが、
    今では五穀豊穣・無病息災・子孫繁栄を祈願し、男女の縁結びの神だとか、
    子供と親しむ優しい神だともいわれている。
    
    湯野温泉公園の隅にある道祖神(2008.9.3撮影)
    昔はなかったので近くの道祖神を移したものと思っていたが、石彫家の鈴木政夫氏の作だった

    
    湯野温泉「寿仙荘」近くにある道祖神。萬延元康申?と読める
東大寺(とうだいじ) = 東大寺(東大寺関連に別掲)
東福寺(とうふくじ) = 東福寺(別掲)
道隆寺(どうりゅうじ) = 道隆寺(お遍路関連に別掲)
貧瞋痴(とんじんち) : お釈迦さまの教えの中にある、人間の3つの代表する罪である「三毒」のことで、
    「貧(とん)」とは、「むさぼる」ことで、人間の「欲」を表し、「瞋(じん)」とは、「怒り」や「憎悪」のことで、
    「痴(ち)」は、理解できないために、間違いを起こすことから「愚痴」や「愚かさ」を表し、
    人間のどうしようもない無知の煩悩「欲・憎悪・愚痴」を表している。
    つまり、自分が不幸の道を歩みたくなければ、三毒(貧瞋痴)の煩悩の病患(びょうげん)を除く
    ことが必要で、心の過ちを離れて、心を正しく保つことが大切だということを示している。
    参 : お経(懺悔偈)
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) : 南無阿弥陀佛。南無阿彌陀佛。阿弥陀仏に帰依する意。
    浄土宗で、阿弥陀仏の救済を願って唱える語。六字の名号。
    インドの言葉「ナマス アミターバ・アミターユス ブッダ」が漢字に音写されたもので、
    ナマスは「南無」(sanskritの「namo」)で、「帰命(きみょう)、帰依(きえ)、敬礼(きょうらい)
    発願(はつがん)」などの意味があり、音写語で「わたくしは帰依します」となる。
    帰命・帰依とは、すべてをおまかせすること。また、敬礼は尊敬し、拝むこと、
    発願は、仏の世界へ生まれるように願うことである。「阿弥陀仏」は、そのサンスクリット語の
    「無量の寿命の大仏(amitaayus)」「無量の光明の仏(amitaabha)」の「はかることのできない」という
    部分のsanskritの「amita」を略出したものである。『一遍聖絵』には「なもあみたふ」と
    表記されているので、鎌倉時代には「なもあみだぶ」と発音していたようである。
    阿弥陀仏は、みずからの名号を称える者を浄土に往生せしめると本願に誓い、
    衆生の積むべき往生行の功徳のすべてを代って完成し、
    これを名号(南無阿弥陀仏)に収めて衆生に回向している。
    善導は、「南無」の二字と「阿弥陀仏」の四字、合わせて六字に関する釈義(六字釈)で明らかにしている。
    善導の書を見た浄土宗の開祖法然は南無阿弥陀仏と唱え阿弥陀仏に「どうか、私を救って下さい」と
    願う事で「阿弥陀仏に極楽浄土へ導かれる」と説いたが、法然の弟子であった親鸞は、
    これから「南無阿弥陀仏」は衆生が浄土に往生する因であるから、名号のいわれである
    「まかせなさい。必ず救うぞという仏の呼び声」を聞信すべきであるという、師法然とは異なる理解をした。
    親鸞は名号を本尊とし、六字のほかに九字、十字の名号を書いている。
    ちなみに、親鸞は「南無」を「なも」と発音しているから、浄土真宗本願寺派では「なもあみだぶつ」と
    呼び習わしている。俗に「なまんだぶ」「なんまいだー」としばしば唱えられる。
    南無阿弥陀仏と唱えることを念仏を唱える・名号を唱えるとも言う。
    インドの人はよく「ナマステ」と挨拶するが、ナマスは南無、テは貴方の意味で「貴方に帰依します」となる。
    アミターバとは無量光(むりょうこう)、アミターユスとは無量寿(むりょうじゅ)の意味で、
    無量とは、はかり知れないほどに多いことの意味なので、
    阿弥陀には限りない光明、限りない寿命という二つの意味がある。
    ブッダとは目覚めた者の意味で、「仏」と音写された。
    つまり南無阿弥陀仏とは「限りない光明を放ち、限りない寿命をもつ目覚めた者である阿弥陀仏に
    帰依して阿弥陀仏の世界(西方極楽浄土)に往生することを願う」という意味である。
南禅寺(なんぜんじ) = 南禅寺(別掲)
南蔵院(なんぞういん) : 福岡県粕屋郡篠栗町大字篠栗1035にある高野山真言宗の寺院(である。
    篠栗四国八十八箇所霊場の総本寺として、願いが叶うと噂のお札と数珠がある。
    ブロンズ製としては世界最大の涅槃像が安置されている。
    参 : 南蔵院(HP)
南明寺(なんみょうじ) = 南明寺(別掲)
二河白道図(にがびゃくどうず) → 善導大師(善導大師に別掲)
日蓮(にちれん) = 日蓮(日蓮関連に別掲)
日蓮宗(にちれんしゅう) = 日蓮宗(日蓮関連に別掲)
日光東照宮(にっこうとうしょうぐう) = 日光東照宮(別掲)
女人堂(にょにんどう) = 女人堂(高野山に別掲)
如来(Buddha)にょらい : 釈迦(しゃか)の異名(これを「名号(みょうごう)」と称する)の一つ。
    「如来」とはサンスクリットが元で、「真理(如)の世界から来た人」のことで、
    これが漢訳されて如去如来や如来如去となり、さらに縮まって如来となった。
    音写である多陀阿伽陀(ただあがだ)も同じ意味である。
    「(ほとけ)」は、古代インドの言葉であるサンスクリット語の「ブッダ」という音を中国で
    「仏陀」という漢字に写し、これが省略されて「仏(ぶつ、ほとけ)」という言葉になった。
    ちなみにブッダとは如来のことで、「悟りを開いた人」という意味であり、
    仏教上の最高の状態にある存在、すなわち仏(ほとけ)のことである。
    「菩薩」は悟りはいつでも開けるが、如来と人間界の橋渡しをする人とされている。
    原語は「修行完成者」「完全な人格者」を意味し、初めはバラモン教以外の出家者一般のうち、
    とくに優れた人への尊称として広く用いられたが、のちには仏教だけが用いるようになった。
    釈迦の異名は数多くあり、そのうちとくに仏の「十号」(10の名号)がよく知られているが、
    そのなかでもこの「真如から来て衆生(しゅじょう)を導く」意の「如来」は、もっとも尊ばれ親しまれた。
    のちに大乗仏教がおこり諸仏がたてられると、そのなかに、
    薬師如来や大日如来のように、如来名をとるものも現れる。
    代表的な如来である釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来のことを四如来という。
    如来像の特徴 : 如来像は悟りを開いた釈迦の姿を基本にしている。
     衣服は、全身を覆う一枚の布(衲衣:のうえ、大衣:だいえ)を着ているだけで
     (下半身に裳などをつけているものもある)、装飾品は身につけていない。
     髪の毛は、螺髪(らほつ)と呼ばれるブツブツの髪(俗に言うパンチパーマ)で表現され、
     また頭の中央部が盛り上がっている(頂髻相:ちょうけいそう、肉髻:にっけい)。
     そのほかの身体的特徴として眉間にある白毫(びゃくごう)や印相があり、
     また持物をなにも持っていないこと(薬師如来を除く)も如来像の特徴の一つといえる。
    参 : 釈迦三尊像
人間晩晴を尊ぶべし = 人間晩晴を尊ぶべし(別掲)
仁和寺(にんなじ) = 仁和寺(別掲)
涅槃会(ねはんえ) : 「常楽会(じょうらくえ)」、「涅槃講」、「涅槃忌」、「仏忌」、
    「更衣(きさらぎ)の別れ」などとも称し、釈迦(しゃか)が80歳で入滅(死去)された日とされる
    陰暦2月15日(現在は3月15日に行うところも多い)の忌日(きにち)に、
    釈迦の徳をたたえて全国の各寺院で営まれる法会(ほうえ)のこと。
    釈尊入涅槃の年次は「衆聖点記」によってその年代を西暦紀元前486年とし
    「大般涅槃経」によってその日を2月15日と定めている。
    この日に、釈迦がシゾンニャバティ河畔の娑羅双樹の下で涅槃に入った際の、
    頭を北にして西を向き右脇を下にした姿で足を重ねて臥し、床をしかせた弟子の阿難はじめ
    周囲に十大弟子を始め諸菩薩、天部や獣畜、虫類などまでが嘆き悲しむさまを描いた
    釈尊涅槃図をかかげて、『涅槃経』や『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)』を読誦(どくじゅ)して、
    釈迦の遺徳追慕と報恩供養(くよう)の法要を行う。仏涅槃図の絵解きを行うところもある。
    日本では推古天皇の時代、奈良の元興寺(がんごうじ)で行われたのが最初で、
    現在では奈良興福寺の常楽会が有名である。平安時代には、山階寺の涅槃会がとりわけ有名であり、
    『三宝絵』の中でも「年中主要法会」の一として記されている。[季語]春−行事。
     涅槃とは、ニルヴァーナの訳語であり、貪(むさぼ)りや怒りなどの煩悩(ぼんのう)の炎が
    吹き消された状態を指す言葉であったが、この場合には、釈迦が亡くなったという意味で用いられる。
    すでに煩悩を滅している仏がその肉身をも滅することを、完全涅槃という意味で
    般涅槃(はつねはん)という。釈迦牟尼仏(むにぶつ)は2月15日に入滅したとされ、
    後世この日に釈尊涅槃画像を掲げ釈尊が生まれた4月8日の「仏生会」(降誕会(こうたんえ))、
    悟りを開いた12月8日の成道会(じょうどうえ)(臘八:ろうはち)、
    とあわせて釈尊の三大法会(三仏忌)という。
    
    「涅槃図」(知恩院蔵)。
    お釈迦さまはクシナガラの煕連河(きれんが)のほとり沙羅双樹(さらそうじゅ)の間で入滅されたが、
    絵は頭北面西で右手枕し右脇を下にして横になっている(仏般泥こう経:ぶつはつないおんきょう)。
    そのまわりには弟子、諸王、長者、信者、そして牛馬・猛獣・悪鬼悪獣・毒蛇毒虫・水牛・
    魚類たちも集まり、全ての生きものが如来の入滅を悲しんでいる。
    左の沙羅双樹の一本には赤い包み(鉄鉢)と錫杖(しゃくじょう)が見え、
    また右上には阿那律(あなりつ)に先導された母摩耶(まや)夫人一行が飛来している。
    沙羅双樹の右4本は悲しみを表しているのか、茶色に枯れているように表現されている。

    (浄土宗機関誌「華頂」第512号より、佛教大学名誉教授・成田俊治氏の説明を部分引用)
    
    釈迦涅槃図(徳山毛利家の菩提寺・大成寺蔵)
バーミヤンの大仏(バーミヤンのだいぶつ) = バーミヤンの大仏(大仏関連に別掲)
(はか) = (墓関連に別掲)
墓石(はかいし) = 墓石(墓関連に別掲)
墓参り(はかまいり) = 墓参り(墓関連に別掲)
筥崎宮(はこざきぐう) = 筥崎宮(別掲)
パゴダ(Pagoda) : 東南アジア様式の仏教寺院、とくに仏塔、仏舎利塔のことで、萬佛賓塔とも呼ばれる。
    パゴダには仏陀の髪や骨、歯など遺骸の一部を収めたもの、仏の8種の聖具を納めたもの、
    仏像を安置したもの、聖典を蔵したものの4種があるが、いずれも主として在家(ざいけ)信者の
    信仰の対象であり、また彼らの憩いや社交の場ともなっている。
    ミャンマー(旧・ビルマ)に圧倒的に多く、ヤンゴン(ラングーン)にあるシュエダゴン・パゴダは
    代表的なもので、金箔(きんぱく)で覆われた100メートルほどの円錐尖(えんすいせん)形の
    大仏塔である。ミャンマー語ではパゴダは「尊敬されるべきもの」を意味するゼーディ(zedi)や
    プドゥーとかパヤー(paya)と呼ばれる。ミャンマーの人々にとって、パゴダは釈迦がいなくなって以来、
    釈迦に代わるものであり、「釈迦の住む家」であるとされる。従ってパゴダを建てることは、
    ミャンマーでは「人生最大の功徳」とされ、そうすることにより幸福な輪廻転生が得られるとされる。
    「釈迦の住む家」であるパゴダに入るときは履物を脱ぐことが求められ、
    靴や靴下(ストッキングを含む)を履いて入ることは許されない。
    世界平和パゴダ
    福岡県北九州市門司区和布刈(もじく・めかり)公園にある世界平和パゴダ。
    世界平和を祈り、第2次世界大戦の戦没者の霊を祀る日本における唯一のビルマ様式の寺院。
    ミャンマー・ヤンゴンにあるバーエー・パゴダを模写し、1958(昭和33)年に創建された。
    3人のビルマ僧が常駐している。
    
    和布刈公園の世界平和パゴダ。下の写真を撮って50年近くなって同じ位置から
    撮るつもりで訪れたのに、「国民宿舎めかり山荘」が建っていて大きく様変わりしていた。
    こんな電線もなかったのに・・・

    
    パゴダ横の涅槃像
    
    和布刈公園の世界平和パゴダ(1959年撮影)
    
    龍安寺のパコダ(大東亜戦ビルマ方面戦没者慰霊之碑)
    参 : 国民宿舎めかり山荘(HP)
八幡宮(はちまんぐう) = 八幡宮(八幡宮関連に別掲)
初午(はつうま) = 初午(別掲)
八戒(はっかい) : 八斎戒(はっさいかい)。八戒斎(はっかいさい)。仏教用語で「はちかい」とも読む。
    在家の男女(信者)が、六斎日に一日だけ出家生活にならって守る八つの戒(いまし)めをいう。
    五戒の不邪淫戒を不淫戒とし、さらに
    装身・化粧をやめ歌舞を視聴しない(衣や遊びの贅沢を戒めている)、
    高く立派な寝台に寝ない(住の贅沢を戒めている)、
    お昼以後の非時(ひじ)の食をとらない(食の贅沢を戒めている)、の3つを加えたもの。
    ちなみに、「猪八戒(ちょ・はっかい、Zhu Bajie)」とは名前のとおり三蔵法師により
    八つの戒めである八戒を課せられた豚っぽい妖怪のこと。
    中国語では家猪は. ブタ、野猪がイノシシを意味し、単に「猪」といえば通常は「豚」のことを指す。
    参 : 十戒一生不犯
八苦(はっく) → 四苦八苦
八正寺(はっしょうじ) = 八正寺(別掲)
八正道(はっしょうどう) : 「八聖道」とも書き、仏陀(釈迦)が最初に説いた仏教の基本的な教えの一つ。
    以下に記す8種の道をつねに守り行うことによって、悟りが得られ、理想の境地である
    涅槃(ねはん)に到達されると説かれている。八つの正しい行いとは、私たちが歩むべき八つの道である
    @正見(しょうけん)…正しい見解、正しい認識、人生観、世界観。
                 自己中心的な考え方や偏見にとらわれず真実の姿を見極めるということ。
    A正思(しょうし)…正しい思惟(しい)、正しい考え、意欲。正しく認識した上でそれを
                さらに思い巡らすということ。経典では次の3つが重要と説かれている。
                1.欲がないこと : 我欲を抑えて自己中心的な考えをしないということ。
                2.怒りがないこと : 何事にも冷静に判断しなさいということ。
                3.害心がないこと : 相手の身体や心を傷つけないということ。
    B正語(しょうご)…正しい言葉。言葉づかいに気をつけなさいということ。
                経典では次の4つを特に戒めている。
                1.妄語(もうご) : 嘘をつかないこと。
                2.悪口(あっく) : 他人をむやみに非難しないこと。
                3.両舌(りょうぜつ) : 両者に対し違ったことを言うこと。
                4.綺語(きご) : 心にもないお世辞や、無駄なおしゃべりをすること。
    C正業(しょうごう)…正しい行い、責任負担、主体的行為。仏の戒(いまし)めにかなった
                 正しい行いをすること。経典では次の3つを特に戒めている。
                 1.殺生(せっしょう) : 生き物を故意に殺すこと。
                 2.愉盗(ちゅうとう) : 他人の物を盗むこと。
                 3.邪淫(じゃいん) : 婬欲(性欲)におぼれること。
    D正命(しょうみょう)…正しい生活。正しい生活を営むこと。
                  経典には「規則正しい生活をすること」と説かれている。
    E正精進(しょうしょうじん)…正しい努力、修養。正しい努力をしなさいということ。
                      1.まだ起こっていない悪は、これを防止するように努力せよ。
                      2.起こってしまった悪は、すみやかに消滅させよ。
                      3.まだ起こっていない善は、これを喚起するように努力せよ。
                      4.すでに起こった善は、それを一層拡大せよ。
    F正念(しょうねん)…正しい気遣い、正しい思念、思慮。対象に心を留めて注意を怠らないこと。
                  1.(しん) : 身は肉体のことで、自分の不浄を考えること。
                  2.(じゅ) : 自身の感受性、感覚を観察すること。
                  3.(しん) : 精神作用のこと。
                  4.(ほう) : 真理ということ。 以上を四念処(しねんじょ)という。
    G正定(しょうじょう)…正しい精神統一、集注。精神が安定していること。
                  禅定(ぜんじょう)ともいい、深い精神統一によって
                  心身ともに動揺することが無くなる状態を指す。
    それぞれの「」とは「正しい」、「精進」とは「努力」を意味する。
    したがって、「正精進」とは「正しい努力」と解釈できる。
    しかし、私たちが自分で正しい努力だと思っていることが、他人にとっても正しい努力になるとは限らない。
    実は「八正道」という教えで説かれている「正」とは、結果や損得を優先してしまうような
    私たちの身勝手な判断基準による正しさではなく、お釈迦さまの教えをよりどころとした偏りのない
    正しさのことをいう。もっと言うと、結果や損得に振り回される必要のない自分を、
    その教えを通して見つけ出していく歩みを「正精進」という。
     お釈迦さまの教説のうち、おそらく最初にこの「八正道」が確立し、
    それに基づいて「四諦(したい)」説が成立すると、
    その第四の「道諦(どうたい)」(苦の滅を実現する道に関する真理)はかならず「八正道」を内容とした。
    逆にいえば、八正道から道諦へ、そして四諦説が導かれた。
    しかも八正道―四諦説は、後代の部派や大乗仏教においても、けっして変わることなく、
    出家・在家の別なく、仏教者の実践のあり方を指示して、今日に至る。
ハッド法令(はっどほうれい) : イスラム教の聖典コーランや、預言者ムハマンド(マホメット)の
    言行伝承で定められた罪とその罰則(ハッド刑)を明記したパキスタンの国内法で、
    @姦通(むちうち刑、または投石による死刑)A姦通の中傷(むちうち刑)B飲酒(むちうち刑)
    C窃盗(手足の切断)D追いはぎ(死刑など)という5つの刑が、4つの法令に定められている。
    罰則は人間の意志で変更することはできないとされる。
    ハッド刑はイスラム法が定める刑罰の中で最もイスラム的なもので、それを導入することは、
    イスラムの教えを順守していることを明白に示す指標になることから、
    1977(昭和52)年に無血クーデターで権力を握った故ジアウル・ハク大統領が権力維持のため、
    イスラム保守派の意向に沿って政策を推し進めた。その一環がハッド法であり、
    1979(昭和54)年に施行された。施行時の時点で拘留・服役中の女性は全国で70人だったが、
    施行後は約6000人に急増した。その多くは、レイプの被害を立証できなかった女性だという。

    男にレイプされたことを女性が訴えただけで、逆に姦通罪になるような不正義を許す「悪法」とされる
    「ハッド法令」に対する批判が強まり、マスコミなどを通じて改正を求める声が多く聞かれることに
    なったことから、パキスタン政府もようやく重い腰を上げたそうだが、
    3人もの男にレイプされたのに、それを立証するには被告が犯行を自白するか、
    少なくとも4人の成人男性ムスリム(イスラム教徒)の目撃者が証言することを必要とする
    ハッド法令は女性蔑視のなにものでもない。死刑になるかもしれない犯人が自白するわけがなく、
    レイプするような場所に4人もの目撃者がいるはずもない。
    また、強盗の罪で手足を切断されたら、矯正して服役後に社会復帰できないではないか。
    パキスタンやアラブ諸国などのイスラム圏を旅行する時には飲酒には気を付けましょう。
    飲酒酩酊し、鞭打ち100回の刑と1年の服役刑となり、量刑不当とその国の大使館に訴えたら
    「この国の法に従わなかったあなたが悪い」と一蹴されたそうです。

初詣(はつもうで) : 本来は「初詣で」と表記し、初参り(はつまいり)ともいう。
    新年に初めて社寺(神社・寺院)にお参りすること。元々は元日の朝早く鎮守の社、
    あるいは恵方(えほう)に当たる社寺に詣でることであった。信州では初庭といって、
    元朝早く産土(うぶすな)神に詣でている。日本では、特に仏教神道の信者でなくても、
    正月にはその年の健康や幸せを祈るために社寺にお参りに行くという習慣がある。
    初詣の際はさい銭を捧げ、おみくじをひいたり、お守り、破魔矢、風車、熊手などの縁起物を買ったりする。
    沿道の両脇にはたくさんの屋台が並んでいて、射的、お面などもあるが食べ物の店が一番多く、
    イカやフランクフルト・ソーセージ、りんごあめ、たいやき、やきそば、綿菓子、甘栗など、
    大人までも手をだしたくなるものがある。有名な寺社は大変な人出となる。
    初詣の習慣は新しく明治時代以降のことで、それまで恵方詣としてお参りしていた。[季語]新年−行事。
    <三が日>初詣で過去最多の人出
     警察庁は2008年1月8日、正月三が日の初詣でと主な行楽地への人出状況をまとめた。
    いずれも主催者発表で、全国の主な神社・仏閣への人出は9818万人と2007年より23万人増加し、
    統計の残る1974(昭和49)年以降で過去最多を更新した。
     行楽地への人出は339万人(前年比28万人減)だった。人出の多かった行楽地は
    ★東京ディズニーリゾート(千葉)…36万6000人★HOT☆FANTASY ODAIBA(東京)…17万人
    ★ナガシマスパーランド(三重)…9万5000人。
    2007年14万人の人出のあったユニバーサル・スタジオ・ジャパン(大阪)は人出数を公表していない。
    人手でが少なくて恥ずかしいわけではないだろうが、よそ並みに調査・公表してほしいね。
     年末年始(12月29日〜1月3日)の主要山岳の登山者数は1万2587人で、前年より3447人減った。
    遭難は20件(同4件増)発生し、死者・行方不明者7人、負傷者8人が出た。
    初詣での人出(単位・万人) : @明治神宮(東京)…317、A成田山新勝寺(千葉)…298、
     B川崎大師(神奈川)…296、C伏見稲荷大社(京都)…269、D鶴岡八幡宮(神奈川)…247、
     E熱田神宮(愛知)…235、F住吉大社(大阪)…234、G浅草寺(東京)…221、
     H大宮氷川神社(埼玉)…203、I太宰府天満宮(福岡)…202
    ちなみに、我が氏神様の山口県周南市の遠石八幡宮は、宇佐、石清水、
    鶴岡とともに日本四大八幡宮のひとつで、例年の人出は18万人程度ですが、
    それでも県内では防府天満宮の45万人に次いで2番目に位置しています。

花祭(Budda’s birthday festival)はなまつり : 釈迦の誕生日といわれる旧暦4月8日に
    寺院で行う法会で、花で飾った御堂の中に甘茶または水をそそぐ。
    花祭りは俗称で、仏生会、潅仏会(かんぶつえ)、浴仏会などと呼ぶ。[季語]春−行事。
バハイ教(Baha’i) : 日本のバハーイー共同体は「バハイ」と呼んでおり、「バハーイー教」「バハウラ」
    「バハイ信教」とも表記される。1844年にペルシャ(現在のイラン)に発祥し、農民反乱のなかで
    バハーウッラーを名乗るイラン人ミルザー・ホセイン・アリーが創始した独自の聖典、法、暦、
    祝祭日を持つイスラム教シーア派から分かれたバーブ教の後継宗教である。
    わずか一世紀余りで、キリスト教に次いで、20世紀初頭に欧米への布教で信者を増やし、
    世界で最も地理的に広まった世界宗教だと自負しているが、イスラム教からは、異端視されている。
    イスラム教の十二イマーム派のマーディ(約束された者)の予言を果たしたバーブ教(ハバイ教の前身)
    の新たなる予言に基づき発展したものだが、イスラム教とは別の宗教であると考えられている。
    イランでは初期から布教を禁止され、バハーウッラーと信者はイランからイラク、トルコを得て
    当時オスマン帝国の牢獄の町アッカ(今日のイスラエルの町)へと追放され、本拠をアメリカにおいていた。
    アッカで一生を終えたため、現在はイスラエル北西部のハイファに本部を置いている。
    バハイ教の特色は、世界の諸宗教の本源的一致を説き、宗教間の提携協力を強調する点にあり、
    国際的活動を展開していた。彼らは、仏陀やキリスト、モハメットら世界の主要な宗教の教祖は、
    同じ一なる神が、それぞれその時代と地域の発展段階にふさわしい教育をするために遣わした
    「聖なる教育者」だと教え、同教の教祖「バブ」とその後継者「バハオラ」を、
    現代の聖なる教師と位置付けている。人類の平和、人権民族差別の撤廃、男女平等と一夫一婦制、
    科学と宗教の調和などを唱え、今後も新たな宗教的啓示が下されるとしている。
    現在の信徒数は191カ国に約600万人とされる。

    イラク戦争後、非寛容なイスラム主義が勢いを強め、少数派宗教を迫害し、
    エジプトではバハイ教の信者が当局に身分証を没収されたうえ、
    2006年内にも事実上の改宗か国外退去を迫られている。
    バハイ教徒の身分証没収は信教の自由を保障した憲法に反するとして、
    2004年にエジプト政府を訴えた建築技師ムーサさん(41)の提訴に対して行政裁判所は
    2006年4月、「没収は憲法と国際法に反する」とした判決を下し、バハイ教徒であることを
    認める身分証の発行を政府に命じたが、判決後エジプト政府は直ちに控訴し、
    2006年12月にも最高行政裁判所の判決が出る見込みである。
    宗教行政を統括するザクズーク寄進財産相は議会で「政府の方針は宗教指導者の意見に従ったものだ」
    と述べているが、国家が1宗教を擁護して他宗教を排除するなど許されることではないでしょう。

般若心経(はんにゃしんぎょう) : 摩訶般若波羅蜜多心経。般若波羅蜜多心経。心経。大乗仏教の経典。
    仏の知恵をいただき、彼岸(悟りの境地)へと至る心や空(くう)の思想など、般若経の精要を簡潔に説く。
    サンスクリット本2種、漢訳本7種があり、日本で一般的に知られている般若心経は、
    西遊記の三蔵法師のモデルである玄奘三蔵の翻訳によるもので、
    これは、全600巻という膨大な量の「大般若経」から、要点だけを抜き出してまとめたものが流布。
    天台宗真言宗臨済宗曹洞宗などで読まれ、字数にしてわずか262文字の短いお経であるが、
    その中には素晴しい尊い仏教の真髄が秘められている。
    その教えるところによれば、人間の心身を形成している五つの要素である
    色(物質性)、受(感受作用)、想(表象作用)、行(形成作用)、識(識別作用)の五蘊はすべて空である。
    人生は苦悩に満ちているが、これから解脱するには、物質界、
    精神界を支配する因果応報の理をわきまえ、あらゆる執着を断ち切って空に生きることにあるという。
    空の境地とは何事にもこだわりのない心のことで、
    悟りにもこだわるな、煩悩の克服にもこだわるな、の教え。
    般若心経の全文と現代語訳は、常光円満寺のホームページをおすすめします。
比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ) → 延暦寺
彼岸(equinoctial week)ひがん : 彼岸の中日(なかび)が春分としても知られており、
    この日の前後3日を加えた7日間が春彼岸と呼ばれる。
    また、この時期に営む仏事。俳句では、彼岸といえば春彼岸のこと。
    彼岸は仏教に由来しており、仏教では“この世”を「此岸:しがん」、“あの世”を「彼岸:ひがん」と呼ぶ。
    彼岸は西の方にあり、そこには阿弥陀如来極楽浄土があると信じられている。
    春分の日はちょうど真西に日が落ちるために西方にある「極楽浄土」の位置を正しく示し、
    「彼岸」にいたる事ができる日になる。また、昼と夜の長さが同じになる日は、
    私たちの心のなかの「この世」と「あの世」の比重が等しくなり、
    「此岸」と「彼岸」の交流がさかんになる日と考えられていた。
    つまり、先祖の霊との交流を行える日といわれている。[季語]春−時候

    春分の日は「この世」と「あの世」が一番近い日なので、是非お墓参りに行きましょう。
彼岸会(ひがんえ) : 彼岸の7日間に行われる春秋2度の仏事。平安初期に始まるという。
    現在も墓参などが広く行われている。日本独自の習俗が仏教と結びついたものと考えられる。
    [季語]春−行事。
平等院(びょうどういん) = 平等院(別掲)
不淫戒(ふいんかい) : 仏教用語で、「みだらな交わりをしてはならない」という戒律のこと。
    出家者は性的関係をいっさい結ばないということで、当然ながら結婚することは許されていなかった。
    在家の場合は「不倫をしない」ということで「不邪淫戒(ふじゃいんかい)」という。
    「お酒を飲んではいけない」という「不飲酒戒」は、仏教五戒のうちの一つだが、
    酒は、寺院内で「般若湯(はんにゃとう):悟りに近づくための薬湯」として飲まれていたように、
    「不邪淫」という戒律も、般若湯のような抜け道があり、女犯は禁じられていたものの、
    僧侶と稚児との親密な関係は、寺では常住坐臥の一部、日常のことであった。 参 : 十戒
福音書(Gospel)ふくいんしょ : ゴスペル。イエス・キリストの言葉とおこないを記した文書(言行録)のこと。
    単なる伝記ではなくイエスの死の意味を問い、その生と生涯の言行や受難、
    死と復活に力点をおく内容とする。新約聖書にはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによる四福音書が含まれる。
    なお、外典にはトマスによる福音書などがある。

    ナショナル ジオグラフィック協会の支援する専門家の国際チームが、
    エジプトで発見された1700年前のパピルス文書を鑑定し、その修復と翻訳を行った結果、この文書は
    『ユダの福音書』の名で知られる初期キリスト教文書の、現存する唯一の写本であることが判明した。
    『ユダの福音書』写本は“裏切り者”というユダ像をくつがえすものである。
    聖書では、イエスは弟子のユダに裏切られて、十字架にかけられた結果、
    ユダの名前は裏切り者の代名詞になり、ユダヤ人迫害の根拠にもなった。
    しかし写本の内容は180度異なり、イエスは自らの魂を“肉体の牢獄”から解放するために、
    ユダに指示して密告させたとある。これはユダの名誉回復だけでなく、
    イエスの死と復活を重視するキリスト教を揺るがしかねない衝撃的な内容である。
    放射性炭素年代測定法、インクの成分分析、マルチスペクトル画像の解析、
    文章構造の分析、古文書学的な検証という五つの手法で鑑定を行った結果、
    この写本は後世の偽書ではなく、古代に記された本物の聖書外典であることが確認された。
普賢寺(ふげんじ) = 普賢寺(別掲)
藤井寺(ふじいでら) = 藤井寺(お遍路関連に別掲)
伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ) = 伏見稲荷大社(稲荷神社関連に別掲)
不邪淫(ふじゃいん) : 僧侶の戒律で、妻帯しないこと。異性とのエッチな行為をしないこと。
    僧侶は一生独身で、他の多くの佛教国と同様に不犯(ふぼん:女性と交わらない)が
    世間の常識とされていたが、日本では明治5年の布告で
    「僧侶の妻帯は好きなようにしなさい」ということになり、妻子のいる僧侶は日本では普通のことになった。
    しかし、法律には違反していないが、仏教の戒律をそのまま当てはめると戒律違反になる。
    参 : 不淫戒一生不犯十戒

    お遍路では、不邪淫はマナー違反とされていますよ。僧侶でなくてもいけません。
    いや、お寺からの授戒なので不邪淫はルール違反になるでしょう。
    妻帯できなかった頃の戒律なので、同性との行為は許されたのでしょうか?

不惜身命(ふしゃくしんみょう) = 不惜身命(別掲)
不退転(ふたいてん) = 不退転(別掲)
仏教(Buddhism)ぷっきょう : 仏陀が説いた教えの意。紀元前5〜6世紀に釈迦が開いた宗教で、
    イスラム教キリスト教とともに三大宗教の一つである。インドにおこり、ほぼアジア全域に広まった。
    この世を苦しみ・迷いの世界と見、苦行にも悦楽にも偏らない正しい実践によってそこから脱け出ること、
    さらには迷いに沈む生きとし生けるものを救うことを目ざす。
    4世紀にグプタ朝が興った頃から、仏教に対する逆風が吹きはじめ、
    バラモン教と土着の信仰が結びついたヒンドゥー教が興隆してきたため、密教などの宗派は、
    ヒンドゥー教に吸収されてしまい、民衆の間では釈迦はヒンドゥー教の神々のひとりと考えられる
    ようになった。その後、仏教は僧院の中で細々と存続し続けたが、1203年にイスラム教徒によって
    ビクラマシラー寺院が破壊されたのを最後に、発祥国のインドから姿を消した。
    しかし、インドで滅亡した仏教は、周辺のアジア諸国で栄えることになる。
    また、チベットでは、密教系の独自の仏教が発展した。
    発展史的に「原始仏教」、スリランカを経てタイやカンボジアなどの東南アジアに伝わった
    「上座部仏教(部派仏教)」(小乗仏教は大乗仏教による蔑称とされ、変更された)、
    中国を経て朝鮮や日本に伝わった「大乗仏教」、伝来の相違により南伝(南方仏教)・北伝(北方仏教)
    などの区別が立てられるが、受容された地域の特殊性や社会変動によって多様な信仰に展開した。
    参 : 宗派精進料理八正道
仏生会(ぶっしょうえ) : 灌仏会(かんぶつえ)とも言われる花祭りのこと。4月8日は釈迦の誕生日にあたり、
    各寺院でお祭りをする。釈迦は生まれながら「天上天下唯我独尊」と唱えたというので、
    右手で高く天を、左手で地を指した仏像を水盤の中に立て、八大龍王が降らせた甘露の雨で
    産湯をつかったという故事から、各寺院で仏像に甘茶をそそぐのが灌仏であり、
    それを行う小さなお堂は美しいいろいろな花で飾られているので花御堂(はなみどう)と呼ばれている。
    お参りした人が甘茶をいただいて帰り、この甘茶ですった墨で虫除けの歌を書き、
    これを便所に貼れば虫が入らないという言い伝えがある。[季語]春−行事。
仏像(a Buddhist image、an image of Buddha)ぶつぞう
    彫刻や絵画などの造形方式によって表された、信仰の対象としての仏の形像。
    多く彫像をいう。釈迦仏のみならず諸尊仏の像をも指す。仏像の数え方は「座(ざ)」または「体(たい)」。
    仏像の種類
    仏像はだいたい如来(にょらい)菩薩(ぼさつ)、明王(みょうおう)、天王(てんのう)などで、
    如来は仏教で最高の境地に立つものである。一般的な特徴は、頭髪が螺髪(らはつ:小さな旋毛が
    粒状になっている)
で、頭上には肉髻(にくけい:盛り上がった肉のかたまり)がついていることである。
    如来はふつう出家姿で、装身具をいっさい身につけず、衲衣(のうい)だけであらわされる。
    また、手指の間の水かきのようなものは、衆生(しゅじょう)を救うことを表している。
    両手の印相(いんぞう)もいろいろである。
    如来には釈迦・阿弥陀・薬師・大日などがあり、釈迦は悟りをひらいた実在のもの。
    阿弥陀は衆生を救われる極楽浄土の如来、薬師は病を治す如来、
    大日は大毘廬遮那仏(おおびるしゃなぶつ)で、仏教本源の仏である。
    大日如来はふつう菩薩の姿で表される。 参 : 六道金剛力士円空仏木喰仏光背

    あなたが好きな仏像ベスト10(朝日新聞会員サービス「アスパラクラブ」でのアンケート)
    @奈良の大仏(奈良市・東大寺)A千手観音(京都市・三十三間堂)
    B弥勒菩薩半跏像(京都市・広隆寺)C釈迦三尊像(奈良県斑鳩町・法隆寺)
    D鎌倉大仏(神奈川県鎌倉市・高徳院)E阿弥陀如来(岩手県平泉町・中尊寺)
    F阿修羅像(奈良県・興福寺)G阿弥陀如来坐像(京都府宇治市・平等院)
    H戒壇院四天王(東大寺)I菩薩半跏像(奈良県斑鳩町・中宮寺)
仏壇(family Buddhist shrine)ぶつだん : 広義には仏像を安置する壇のことで、
    須弥壇(しゅみだん)をさす。石壇、土(ど)壇、木壇はその材質による呼び名である。
    狭義には寺院の内仏堂や一般家庭に設けられた仏像・先祖の位牌(いはい)を安置する
    厨子(ずし)をいう。大きく分類する場合は、金仏壇・唐木仏壇・家具調仏壇に分けられる。
    広義の仏壇と特に区別するため、家庭内に安置する仏壇のことを「御内仏(おないぶつ)」とも言う。
    宗旨によって様式を異にするが、総じて須弥壇に本尊を安置し、小型の場合には左右に位牌を祀る。
    また、三段からなる大型の場合には、上段の中央に本尊、左右に脇侍(きようじ)または祖師像ないし
    掛軸を祀り、前方左右に位牌を祀り、位牌の間に向かって右から仏飯器、茶台を飾り、
    中段には香炉(こうろ)、過去帳(かこちょう)を中心に左右に吊灯籠(つりとうろう)
    高杯(たかつき)、常花(じょうか)、花立(はなだて)を配置し、下段には右から生花立て、
    燭台(しょくだい)、線香差し、鈴(りん)、線香用前香炉、燭台、生花立ての順に配置する。
    仏壇の前には経机(きょうづくえ)を置き、右側に木魚(もくぎよ)を置く。
    浄土宗の仏壇の配置例
     上段中央には信仰の中心である阿弥陀さまをおまつりする。阿弥陀さまに向かって右に観音、
    左に勢至の2菩薩、そしてさらにその右に善導、左に法然の両大師がまつられていたが、
    こうした仏壇は残念ながら少なくなり、地方や旧家などでしか見ることができなくなった。
    無理しておまつりすることはなく、地方や家によってのまつり方に従ってかまわない。
    仏壇内に位牌棚がある仏壇では向かって右側が上座になる。
    要は阿弥陀さまを中心とすることを原則とし、あとはその時の事情にあわせ、臨機応変にしたらよい。
フランシスコ・ザビエル(Francis Xavier) : 1506年4月7日生まれ。「ザビエル」は通称。
    バスク語名はシャビエル。日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン出身でバスク人の
    キリスト教宣教師。聖人。イグナティウス=デ=ロヨラとともにイエズス会を設立し、
    インドやマラッカ(マレーシア)などで宣教した。1547年12月、ザビエルはマラッカの地で
    日本人ヤジローに出会う。ヤジローは片言のポルトガル語しか話せなかったが、
    日本の良さをザビエルに伝えた。日本に興味を持ったザビエルは、ヤジローをインドのゴアに送り、
    サン・パウロ学院でポルトガル語とキリスト教を学ばせた。
    インド洋と東シナ海を越えた彼方に、「日本」という西欧に比する優れた文化を持ち、
    知識欲旺盛な、篤実な人たちがいることを知り、是非日本に渡り、キリストの教えを広め、
    自分が学んだパリ大学のような大学を日本の都に創ろうと志した。
    幾多の困難を乗り越え1549(天文18)年8月、42歳のザビエルは鹿児島の山川に上陸し、
    同年9月、薩摩の島津貴久と会い、布教の許可を求めた。
    ポルトガルとの貿易を望んでいた島津貴久は、これを認めた。
    ここに1年間滞在し、その間100人が洗礼を受け、島津貴久も受洗している。
    眼病の患者を診療し、新鮮な水で、目を洗わせて、快癒させるなどの方法で、信頼を得て、
    信者を獲得した。1550年、ポルトガル船が平戸に来航し、鹿児島から平戸に移った。
    そこで、領主松浦隆信から布教の許可を得て2カ月滞在し、100人が洗礼を受けた。
    1551年、ザビエル(44歳)は、博多、山口、室津を通って、京都に入った。
    しかし、荒廃した京都では、ザビエルは、近江にいる将軍足利義輝にも会えず、山口に戻り、そこで、
    大内義隆から布教の許可を得た。ここに、4カ月滞在して、500人以上が洗礼を受けた。
    その後、ザビエルは、豊後の府内(現大分県)に行き、領主大友宗麟から布教の許可を得た。
    大友宗麟は、2番目の妻ジュリアと娘キンタとともにカトリックへ改宗した。
    1551年11月、中国宣教を志し、豊後を出港した。そして、広東(カントン)港外の
    上川(サンチャン)島に着いたが、熱病で倒れて1952年12月2日、46歳で客死した。
     ザビエルが困ったことに、日本では教理を広めようにも適切な誤訳がない。
    神を意味するデウスを当初、あやまって「大日」と言い換えた。
    大日如来を信仰する人々から「同門の高僧だ」と大歓迎されたそうだ。
    そんな思い違いも手伝ってか、布教2カ月で500人を入信させている。
    だが、もてはやされた時期はごく短く、弾圧が始まるとバテレンは追放され、キリシタンは火刑に処された。
     山口市では、1952(昭和27)年に亀山町に記念聖堂が建立されたときに「サビエル」と名付けられ、
    その時から「サビエル記念聖堂」の名称が定着した。 参 : 山口サビエル記念聖堂(HP)
平安神宮(へいあんじんぐう) = 平安神宮(別掲)
法案寺(ほうあんじ) = 法案寺(七福神に別掲)
法起寺(ほうきじ、ほっきじ) = 法起寺(別掲)
法事(ほうじ) = 法事(別掲)
宝生院(ほうしょういん) = 宝生院(別掲)
法然(ほうねん) = 法然(別掲)
防府天満宮(ほうふてんまんぐう) = 防府天満宮(別掲)
方便(ほうべん) = 方便(別掲)
法隆寺(ほうりゅうじ) = 法隆寺(別掲)
法輪寺(ほうりんじ) = 法輪寺(別掲)
菩薩(a Buddhist saint)ぼさつ : @大士。覚有情。最高の悟りを開いて、
     仏になろうと発心して、修行に励む人のことで、如来(にょらい)の下位に位置付けられる。
     上半身はほとんど裸で、下半身に裳(も)をつけている。長髪が普通だが、坊主頭のものもあり、
     相好(そうこう)は柔和である。初めは前世で修行者だった釈迦をさす名称であったが、
     のちに大乗仏教では自己の悟りのみを目指す声聞(しようもん) ・縁覚(えんがく) に対し、
     自利利他の両者を目指す大乗の修行者をいう。
     観音・文殊(もんじゅ)・普賢(ふげん)・日光・月光(がっこう)・地蔵などがある。
     観音には、千の慈眼(じがん)と千の慈手で衆生(しゅじょう)を救う千手(せんじゅ)観音・十一面観音・
     不空羂索(ふくうけんじゃく)観音・如意輪(にょいりん)観音がある。弥勒菩薩は釈迦(しゃか)
     の後継者とみなされる実在の弟子である。文殊・普賢は釈迦の入滅(にゅうめつ)後に生まれた智者。
     日光・月光は薬師如来の脇侍(わきじ)で、宝冠に日輪と月輪がつく。
     地蔵は釈迦入滅後、弥勒仏が現れるまでの間衆生を救うもの。
     虚空蔵(こくうぞう)は、虚空のように無限の功徳(くどく)をもつ菩薩。
     ふつう釈迦如来には文殊・普賢、阿弥陀如来には観音・勢至(せいし)
     薬師如来には日光・月光と、左右に菩薩が脇侍した三尊(さんぞん)の形式でまつられている。
     弥勒・観世音・地蔵などの高位の菩薩は仏に次ぐ存在として信仰される。
     参 : 仏像釈迦三尊像
    A高徳の僧をたたえて付ける尊称。日本では行基菩薩のように朝廷から正式に与えられる場合もある。
    B神仏習合の思想により、日本の神に与えられる称号。
墓石(ぼせき) = 墓石(墓関連に別掲)
ぽっくり寺(ぽっくりでら) = ぽっくり寺(別掲)
法華宗(ほっけしゅう) : 妙法蓮華経を依拠教典とする仏教宗派で、
     法華経に基づいて信心をすすめ、この世の中に真の幸福な世界を築くことを目的としている。
    @古く、天台宗の異称。隋代の智を開祖とし、
     平安時代最澄が日本に伝来した宗派。天台法華宗。
    A日蓮を開祖とする宗派の呼称。1253(建長5)年4月28日に、
     日蓮大聖人がはじめて「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」と唱えられたときに始まる。
     広義の意味での日蓮宗(伝統仏教十三宗旨の一つとしての呼称)。
     日蓮門下の全門流・本門流・真門流・陣門流の総称としての呼称。
     1334年に後醍醐天皇より日像が宗派の名として法華宗の宗号を賜ったという。
    B日蓮を開祖とする宗派のうち、勝劣派の諸門流が形成した宗教法人の多くによって用られる名称。
法華の太鼓(ほっけのたいこ) : 法華とは法華経を経典とする日蓮宗を指し、その信徒が用いる
    片手に持つテニスのラケットのような柄の付いた一枚張りの団扇太鼓(うちわだいこ)のこと。
    「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」の御題目(おだいもく)を唱えながら
    この太鼓を「どんつくどんどん」と打ち鳴らす。
    だんだんよく鳴る法華の太鼓 : 音が「ダンダンとよく鳴る」を、
     状態などが「段々に良くなる」にかけた「鳴る」と「成る」の掛詞(かけことば)
最御崎寺(ほつみさきじ) = 最御崎寺(お遍路関連に別掲)
(Buddha)ほとけ : @仏教の完全な悟りを開いた聖者。仏陀(ぶっだ)。覚者。
    A特に、釈迦(しゃか)のこと。(例)釈迦の慈悲にすがる。
    B仏・菩薩およびそれに準ずる優れた聖者・高僧。
    C仏像・仏画や、仏の名号を記したもの。(例)仏像を刻む。
    D仏教。仏法。仏事。仏教徒。
    E死者。死体。死者の霊。(例)死者の霊が浮かばれない。
    F素直で善良な人物。温厚で慈悲心の深い人をたとえていう。
    G仏事を営むこと。
仏作って魂入れず(ほとけつくってたましいいれず) : 努力して物事を殆ど成し遂げながら、
    最も肝要な点を欠いていることのたとえ。肝心な一点が抜けていたら、完成したとは言えない。
    【類語】●仏造って眼(まなこ)を入れず【反対語】●画龍点睛
仏の顔も三度(ほとけのかおもさんど) : 「仏の顔も三度撫(な)ずれば腹立つ」の略。
    いかに慈悲深い仏様といえども、その顔を三度も撫でられれば腹を立てるという意味で、
    どんなに温厚な人でも、無法なことを何度もされれば、終(しま)いには怒るということ。
    【類語】●地蔵の顔も三度●仏の顔も日に三度●兎も七日弄れば噛み付く
仏の目を抜く(ほとけのめをぬく) : 利欲のために仏像の目をも抜き取る。神仏をも騙して悪事を働く。
    【類語】●仏の眼(まなこ)を抜く
煩悩(worldly desires、passions)ぼんのう : 染(ぜん)。漏。結。暴流(ぼる)。使。塵労。随眠。垢(く)
    苦悩・心痛の意の仏語。人間の身心を悩まし苦しめ、煩(わずら)わせ、けがす精神のはたらきを言う。
    肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着などがある。
    心や身を悩まし、迷いの中につなぎとめるものであり、貪(とん)=むさぼり・瞋(じん)=憎しみ怒り・
    痴(ち)=ものごとの道理に愚かなこと、が煩悩の根源とされる「三毒」で、「九十八随眠」、「百八煩悩」、
    「八万四千煩悩」などと分類され、これらを仏道の修行によって消滅させることによって悟りを開く。
    「百八回」は人が持っている煩悩の数を表している。
    煩悩は大きく「貪」「瞋」「痴」の3つに分けられるが、それらをさらに細かくすると百八になる。
    「四苦八苦」を「四九八九」にあて、「四かける九」の36と「八かける九」の72を足した数など、諸説がある。
    除夜の鐘はそれらをすべて取り除く意味を込めて108回撞(つ)かれる。
本能寺(ほんのうじ) : 京都市中京区寺町通御池にある法華宗本門流の大本山。山号は、卯木山。
    1415(応永22)年に日蓮上人の教えを受けた日隆(にちりゅう)上人(1385〜1464)が
    京都油小路高辻と五条坊門の間(現・仏光寺付近)に創建し、本応寺(ほんおうじ)と称したが、
    のちに本能寺と改称された。1582年6月21日(天正10年6月2日、
    織田信長が明智光秀に討たれた天文法華の乱、「本能寺の変」により焼失した。
    再建途中、1589(天正17)年に豊臣秀吉の命により現在地に移る。
    ちなみに本能寺は度々火災にあったことから、能の字の右側が「ヒヒ」(火)と重なるのを嫌い、
    代りに「去」(「ヒ」(火)が去る)を使うのが慣わしでとされている。
    現在の建物は1928(昭和3)年建立された。境内に織田信長の供養塔がある。
磨崖仏(まがいぶつ) = 磨崖仏(磨崖仏関連に別掲)
麻羅観音(まらかんのん) = 麻羅観音(別掲)
曼荼羅(まんだら) = 曼荼羅(別掲)
万福寺(まんぷくじ) = 万福寺(別掲)
密教(Esoteric buddhism)みっきょう : 仏教の一流派とされ、一般の民衆から秘匿されており、
    選ばれた者に対してのみ、秘儀が伝授されてきた宗教をいう。顕教(けんぎょう)に対しての呼称で、
    秘密仏教、真言(しんごん)密教ともいう。秘密仏教(ひみつぶっきょう)の略称であるともされ、
    「秘密の教え」を意味するともされる。密教徒の用語では「金剛乗」(vajrayana)ともいう。
    これは、大乗(mahayana)、小乗((hinayana)と対比した表現である。
    あるいは真言乗(mantrayana)とも言う。 英語ではEsoteric buddhismと呼び、
    9世紀以降の後期密教についてはTantric Buddhismタントラ仏教と呼ぶ。
    一般の大乗仏教(顕教)が民衆に向かい広く教義を言葉や文字で説くに対し、密教は極めて
    神秘主義的・象徴主義的な教義を教団内部の師資相承によって伝持する点に特徴がある。
    「秘密の教え」という意味の表現が用いられる理由としては、
    顕教が全ての信者に開かれているのに対して、灌頂の儀式を受けた者以外には
    示してはならないとされた点で「秘密の教え」だともされ、また、言語では表現できない仏の悟り、
    それ自体を伝えるもので、凡夫の理解を超えているという点で「秘密の教え」だからだとも言う。
    師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい、
    教えが余すところなく伝えられたことを称して「瀉瓶の如し(瓶から瓶へ水を漏らさず移しかえたようだ)」
    という。インド密教を継承したチベット仏教がかつて「ラマ教」と俗称されたのは、
    師資相承における「師(ラマ)」に絶対的に帰依する特徴を捉えたものである。
     日本には、奈良時代に密教経典が伝えられ、密教の修法、陀羅尼誦持(だらにじゅじ)
    密教像の信仰など行われていたが、平安時代の初めに弘法大師・空海によって
    唐代の純粋密教が伝えられ、さらに空海によって再組織され、日本化されて日本仏教の一宗としての
    真言宗が開かれた。また、伝教(でんぎょう)大師・最澄(さいちょう)、慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)
    智証(ちしょう)大師円珍(えんちん)天台宗の人々によって伝えられた密教は、
    天台と密教との一致を強調する特異の密教を成立せしめた。
    そこで、空海が伝えた真言宗の密教を東密(とうみつ)(東寺の密教)というのに対して、
    最澄が伝えた天台宗の密教を台密(たいみつ)という。そして、空海は顕密二教の教判をたて、
    あるいは十住心の教判をたてて、密教の特質を明らかにした。
    大日如来が自らの悟りのなかで、自らの悟りを楽しみながら説く、奥深い絶対の真理の教えで、
    「大日経」「金剛頂経」などがその代表的経典である。
    仏教の中で特に祈祷を重視し、そのための呪文や儀式を整備している。
三具足(みつぐそく)
    三具。仏前に供える香炉、燭台(しょくだい:ろうそく立て)、花瓶(華瓶:けびょう)の三つの法具のこと。
    香炉を中央にして、向かって右が灯明(ろうそく)、左が花になる。
三徳山三仏寺(みとくさんさんぶつじ)
    鳥取県三朝町三徳1010にある天台宗の仏教寺院で、山号を三徳山(みとくさん)と称し、
    「中国観音霊場第三十一番札所」と「伯耆観音霊場第二十九番札所」でもある。
    706(慶雲3)年に修験道の修行の場として開かれた古刹で、
    標高900mの三徳山のふもとに建てられている。その後、809(嘉祥2)年に慈覚大師円仁により
    釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来の三尊が安置されたので「三仏寺」と称されるようになった。
    標高440m付近に位置する文殊堂は崖の上の岩角に建てられ、周囲は回廊になっている。
    標高470mの断崖絶壁に造られた奥の院「投入堂(なげいれどう)」は他に類を見ない建築物である。
    投入堂、愛染堂などが国宝に、「文殊堂」「地蔵堂」「納経堂」などが国の重要文化財に指定されている。
    また、三徳山は1934(昭和9)年7月7日に国の名勝、史跡に指定されている。
     3日前までに予約しておけば、山内の宿坊で名物の精進料理を味わえる。
    参 : 三徳山三仏寺(HP)、三朝温泉
都七福神(みやこしちふくじん) = 都七福神(七福神関連に別掲)
弥勒菩薩(みろくぼさつ) : 慈尊。弥勒仏。釈迦入滅後約56億7千万年に至ると、仏となって人々を救う
    未来仏。現在は兜率天(とそつてん) という天界で、釈迦の教えを説いているという。
    慈恩大師基(じおんだいしき)に始まる仏教学派の法相宗(ほっそうしゅう)は弥勒菩薩を
    教主としている。4〜5世紀頃のインドで、唯識を提唱した弥勒(インド名:マイトレーヤ:Maitreya)
    という実在の学僧が後世、弥勒菩薩と同一視されて信仰された。
    
    弥勒菩薩像は多く制作されたが、京都の廣隆寺(kouryu−ji temple)の弥勒菩薩・半跏思惟像は
    特によく知られており、その芸術性の高さから国宝第一号に指定されている。
    写真ではプロンズ像に見えるが、1本の赤松の木で作られた一木造(いちぼくづくり)で、
    当初は全身が金箔で覆われていたそうである。
    弥勒如来像としては、奈良の当麻寺(當麻寺、たいまでら)の弥勒如来像(国宝)や、
    京都の醍醐寺(だいごじ)の三宝院本堂に安置されている快慶の代表作ともいえる
    弥勒如来像(国重要文化財)などが知られる。 参 : 菩薩仏像白鳳時代

    私のとっておきの仏像は、写真の京都広隆寺の弥勒菩薩で、中学の美術教科書の写真から
    その魅力にとりつかれたが、いまだに実像にはお目にかかっていない。
夢幻泡影(むげんほうよう) : 金剛般若経の仏教用語で、夢のように儚(はかな)
    幻(まぼろし)のように脆(もろ)く泡のように壊れ影のように消えるということから、
    夢や幻、泡や影のように、人生は儚いものであるということのたとえ。
    【類語】●泡沫夢幻(ほうまつむげん)
無言の行(むごんのぎょう) : @仏教用語。無言を保って行なう修行。A転じて、口を利かずに黙っていること。
無財の七施(むざいのしちせ) : お釈迦様の教え「雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)」に説かれる「ありがとう」
    「おかげさま」の気持ちを行動で表す身近な慈悲の実践をいい、地位や財産がなくても、
    誰もがいつでも容易にできる布施の行のこと。仏教には、施(ほどこ)すべき財の「財施(ざいせ)」、
    説くべき教えの「法施(ほうせ)」、恐れを取り除く力の「無畏施(むいせ)」という3つの布施の行が
    あるといわれているが、これらの地位や財産がなくてもできる布施の行が「無財の七施」である。
    「無財の七施」とは、次の7つの施しをいう。
    @眼施(がんせ) : 慈眼施ともいい、慈(いつく)しみに満ちた優しい眼差しで全てに接することをいう。
     温かい心は、自らの目を通して相手に伝わる。
    A和顔施(わげんせ) : 和顔悦色施ともいい、にこやかな微笑みをたたえた顔のことから、
     いつも和やかで穏やかな顔つきで人に接すること。喜びを素直に顔の表情にあらわしましょう。
    B言辞施(ごんじせ) : 愛語施(あいごせ)ともいい、
     優しい言葉、思いやりある態度で言葉を交わす行い。
    C身施(しんせ) : 捨身施ともいい、勤労奉仕、対価を求めぬ労働など、自分の身体で奉仕をすること。
     少しでも世のため、人のためになることを思いついたら、損得を抜きにしてすぐに身をもって行動すること。
    D心施(しんせ) : 心慮施ともいい、他のために心を配り、心底から共に喜び共に悲しむことができ、
     他の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れる心を持つこと、真心を込めて行うこと。
    E牀座施(しょうざせ) : 単に座施ともいい、自分の座を譲ること。
     電車のシルバーシートは勿論の事だが、自分が疲れていても喜んで席を譲る行為をいう。
     また、競争相手にさえも自分の地位を譲って悔いなく過ごせることをいう。
    F房舎施(ぼうしゃせ) : 風や雨露をしのぐ所を与えること。簡単に言えば自宅を皆に貸し与えなさい!
     ということで、雨露をしのぐ場を提供するということを敷衍(ふえん)しての、
     「自分が多少濡れても、相手に雨がかからないように傘を差しかけてあげる」という解釈もある。
    以上、 どれをとっても、人に対する思いやり、優しさに溢れた言葉である。
無情(むじょう) = 無情
無常(むじょう) = 無常
明治神宮(めいじじんぐう) = 明治神宮(別掲)
冥途(the other world、the world of the dead、the realm of the shages)めいど : 冥界。よみじ。
    死者の霊魂が行く暗黒の世界。「冥土」とも書くが、冥界は死者が住みつく場所ではなく、
    ただそこを通過するだけの土地であるために、「冥途」という書き方のほうがふさわしいとされる。
    ちなみに「冥福」とは、「冥途で幸福になる」と言う意味で、遺族に「ご冥福をお祈りします」と
    挨拶することは、「亡くなられた方は、浄土には行けずに冥途の世界をさ迷っている」と言うことを意味し、
    「浄土の故人を侮辱する無責任で心ない表現」と言われる。では、どのような挨拶がふさわしいかというと、
    「お悔やみ申し上げます」だとか、「○○さんのご遺徳を偲び、哀悼の意を表します」とか、
    「ご生前のご苦労を偲び 、謹んで敬弔の意を表します」、「お浄土でお遇いさせていただくまで、
    しばらくのお別れです。長い間お世話になり、有難うございました」などがある。
木魚(a mokugyo、a wooden gong)もくぎょ : 経を読む時にたたいて鳴らす木製の仏具のこと。
    ほぼ球形で中空、横に割れ目があり、表に魚の鱗(うろこ)が彫りつけられている。
    浄土宗禅宗でよく用いられ、布などで先端を包んだ棒で打つ。
    魚は昼夜を問わず目を開けていることから、お坊さんが読経中に寝てしまわないように
    たたくようになったと言われている。禅寺で庫裏(くり)につるし、
    食事時などの合図に打ち鳴らす魚の形をした平たい魚板(かいばん)から変化したもの。
木喰仏(もくじきぶつ、もくじきぼとけ) : 木喰上人の作った木彫の仏像のこと。
    「微笑仏(みしょうぼとけ)」とも呼ばれ、「木喰仏は笑顔を堪能せよ」と言われるように、
    見ているだけで心が和んでくる優しい微笑みに最大の魅力がある。
    大きな団子鼻、山なりにまがる太い眉、大きな弧をえがく目、鼻のすぐ下の口などが特徴で
    不思議とやさしい笑いをたたえた表情が独特である。
    木喰上人は、日本全国の遍路の際、各地で供養仏を彫ったことから、木喰仏は日本中に数多くある。
    荒削りで野性味のある円空仏に対して、正当派の仏像師とは別の手法の素朴な木彫で、
    柔和で丸味が持ち味の木喰仏である。木喰仏は欅(けやき)や銀杏などの硬い木が中心で、
    円空仏は檜(ひのき)、さわらなどの柔らかい木が大半であるように、
    素材の違いが、木喰仏の円やかさ、円空仏の鋭さに影響を与えているという。
         
    耳の神様として信仰された        地蔵菩薩像(70.0cm)
    如意輪観音菩薩像(84.0cm)     東京都目黒区駒場「日本民芸館蔵」蔵

    新潟県南魚沼市大月「大月観音堂」蔵
    木喰上人(1718:享保3年〜1810年)は、
     甲斐の国の山村(現在の山梨県南巨摩郡身延町古関丸畑)で伊藤六兵衛の次男として生まれ、
     14歳で江戸へ出て、21才の時、神奈川県の大山不動尊に参詣し、
     真言宗の高僧・大徳から教えを受けて仏門に入った江戸後期の遊行僧(木喰五行上人)である。
     44才の時、肉食を採らず、また一切火を通したものを食べない戒、「木喰戒」を受ける。
     晩年に日本回国と千体仏造像を発願して各地を遍歴、日本全土に特異な木彫仏を残す。
     1773年、55才で、日本廻国修行に旅立ち、61歳で仏像造りを始め、20年以上をかけて
     北海道から九州まで日本中の遍路を続け、行く先々に仏像を残しているが、
     笑顔の仏を彫るようになったのは80歳を超えてからである。
     ついに郷里に戻ったときには83才になっていた。木喰は村人から頼まれ、お堂の建立を始めたが、
     人々の間で費用をめぐるいさかいが起き、大勢が離反していった。なんとかお堂は完成したものの、
     醜い争いを目にした木喰は心を痛め、2年後に新たな願をかけ再びあてのない旅に出た。
     自分の非力を痛感した木喰は旅の中で、人々が本当に救われるには何が大切なのかを問い直した。
     この頃木喰が作った歌に「みな人の心を丸くまんまるに どこもかしこも丸くまん丸」があり、
     人の心がまるくなるような仏を彫ろうと決意したとされる。各地で修行を積み、1810年92才で没した。
     終焉の地は定かでない。非常に多くの供養仏を彫り、その数は千体を越えた。
     しばしば、 1日3体を仕上げるという速さで彫ったといわれている。
     
     木喰上人自身像(61.0cm)京都府南丹市八木町「蔭凉寺」蔵
    木喰とは、米、麦、粟、黍、豆の五穀と塩味を断ち、火にかけて調理した食物、火食絶ち行をし、
     体内の余分な油分を落として、即身成仏を目指す行を「木喰戒」といい、
     その行を終えた僧(木喰僧)の一般名称となっている。しかし、「木喰仏」といわれた場合の木喰は
     一般に「木喰行道(ぎょうどう)」という一人の人物を指しており、「木喰仏」はその手になる仏像をいう。
    木喰仏作品所在地(一部抜粋、道府県の多い順)
    焼失像や盗難像を含め710体の内、全国に現存する像は2007年7月現在で617体ある。
    ★新潟県小千谷市小栗山(こぐりやま)「集落のお堂」 : 三十三観音像。
    ★新潟県長岡市小国町「真福寺」 : 観音菩薩像。
    ★新潟県長岡市上前島 : 自刻像ほか
    ★新潟県柏崎市関町4−34「十王堂(じゅうおうどう)」 : 十王堂木喰仏像。
    ★新潟県柏崎市西港町3−9「潮風園(ちょうふうえん)」 : 潮風園木喰仏。
    ★新潟県柏崎市大清水1502「大泉寺」 : 大泉寺木喰上人木額。
    ★新潟県柏崎市野田「個人」 : 観音菩薩像。
    ★新潟県南魚沼市大月「大月観音堂」 : 如意輪観音菩薩像。
    ★山梨県南巨摩郡身延町丸畑「永寿庵」 : 木喰上人の生家・伊藤家の五智如来像。
    ★山梨県下部町木喰の里「微笑館」 : 仏像のレプリカや上人の来歴、文書類などが展示されている。
    ★静岡県周智郡森町「蓮華寺」 : 子安地蔵菩薩像。
    ★静岡県焼津市「宝積寺」 : 地蔵菩薩像。
    ★山口県萩市福栄地区「願行寺」 : 立木薬師如来像。
    ★山口県萩市中小川「友信公会堂」 : 釈迦如来像。
    ★山口県萩市福井上「宝宗寺」 : 不動明王像。
    ★山口県防府市大字奈美「普門寺」 : 木造子安観世音菩薩半跏像。
    ★山口県防府市桑山「観音堂」 : 観音菩薩像。
    ★山口県防府市岩畠「極楽寺」 : 子安観音菩薩像。
    ★山口県宇部市木田「極楽寺」 : 大日如来・釈迦如来・無量寿如来・宝生如来像ほか。
    ★山口県山口市大内御堀「山根観音堂」 : 地蔵菩薩像。
    ★京都府南丹市「清源寺」 : 十六羅漢像
    ★兵庫県川辺郡猪名川町 : 26体の木喰仏。
     北田原字寺前452「東光寺」 : 自刻像と閻魔大王などの十王像・
                          葬頭河婆・白鬼・立木子安観音ほか。
    ★兵庫県川辺郡猪名川町万善「天乳寺」 : 自刻像と観音・勢至菩薩像。他にも毘沙門堂にある。
    ★北海道二海郡八雲町熊石泊川町765「薬師寺」 : 薬師如来立像。
    ★北海道江差町「泊観音寺」 : 地蔵菩薩像。
    ★長野県長野市元善町「善光寺」 : 地蔵菩薩像。
    ★宮崎県日向市大字平岩328「平岩地蔵堂」 : 勝軍地蔵尊像。
    ★宮崎県西都市大字三宅国分「日向国分寺・五堂伽藍」
     宝生・薬師・ 大日・阿弥陀・釈迦の五智如来像。
    ★栃木県
    ★鳥取県
    ★愛知県新城市日吉「観音堂」 : 十一面観音菩薩像。
    ★滋賀県東近江氏鋳物師町「竹田神社」 : 狛犬像。
    ★香川県坂出市加茂町「鴨神社」 : 神像。
    ★島根県温泉津町「龍澤寺」 : 釈迦如来座像。
    ★岐阜県
    ★群馬県
    ★愛媛県四国中央市中之庄光明「光明寺」 : 子安観音像。
    ★長崎県
    ★福井県
    ★徳島県
    ★熊本県
 2008年2月17日、木喰展に行ってきました。
 木喰上人は60歳を過ぎてから仏像を彫り始め、
 80歳で1000体、90歳で2000体もの
 仏像を制作したと言われる。
 80歳頃に特有の微笑みを見せ始め、
 90歳を過ぎた頃には心の底からにじみ出るような
 微笑みを表した傑作を数多く生み出している。
 「微笑みの仏たち」の実物像との出会いは感動のみ。
 また、「龍水図」のように龍と水を絵として表したり、
 利剣文字や五点具足阿字などの独自の漢字表現や
 描画のセンスは200年以上も前の人とは思えない。

 


















門前町(もんぜんまち、もんぜんちょう) = 門前町(別掲)
薬師寺(やくしじ) = 薬師寺(別掲)
八栗寺(やくりじ) = 八栗寺(お遍路関連に別掲)
八坂神社・京都(やさかじんじゃ) = 八坂神社(京都)(八坂神社に別掲)
八坂神社・小倉(やさかじんじゃ) = 八坂神社(小倉)(八坂神社に別掲)
屋島寺(やしまじ) = 屋島寺(お遍路関連に別掲)
靖国神社(やすくにじんじゃ) = 靖国神社(別掲)
唯我独尊(ゆいがどくそん) = 唯我独尊(別掲)
唯識(ゆいしき) : @この世の事物・現象は、客体として実在しているのではなく、
     人間の心の根源である阿頼耶識(あらやしき) が展開して生じたものであるとする思想。
     つまり、「あらゆるものは、ただ心のあらわれにすぎない」という立場から、
     自己の心のあり方を瑜伽(ヨーガ)の実践を通して、覚りに到達させようとする教え。
     法相宗(ほっそうしゆう) の根本教義で、弥勒菩薩を教主としている。
     「西遊記」の三蔵法師のモデルになった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)もこの唯識思想を学ぶため、
     単身インドに渡り、これを中国に伝え、膨大な経典を持ち帰り翻訳している。
    A 「唯識宗」の略。
ユダヤ教(ユダヤきょう) : 唯一絶対の神ヤーウェ(ヤハウェ)を信仰するユダヤ人という
    単一民族のための民族宗教で、主要聖典は旧約聖書とタルムードである。
    その中心思想は、唯一の神に対する厳格な信仰であり、道徳律への服従である。バビロン捕囚から
    帰還後の前517年、エルサレム神殿の再建・祭祀(さいし)の確立をもって成立とされる。
    正統的なユダヤ教徒の信仰では、彼らの掟(おきて)は、3000年以上も前にトーラー(律法)として
    モーゼに示されたものと信じられている。このトーラーと後のヘブライの預言者たちの教えは、
    膨大な解説文書タルムードにまとめられ、ユダヤ教徒の信仰のよりどころになった。
    紀元前4世紀頃から発達し、モーゼの律法と神との契約に基づき、
    選民思想・終末観およびメシアの来臨を信ずることなどが特徴で、ユダヤ人を神の選民と自覚し、
    イエスを救い主と認めず、神の国を地上にもたらすメシアの到来を信ずる点でキリスト教と対立している。
    19世紀末におこったシオニズムの思想的基盤であり、精神的支柱である。
(ゆみ) = (別掲)
寄代(よりしろ) : 寄り代。依り代。憑代。神が降臨する為の目印で、
    人間の側から呼べば「招代(おぎしろ)」となる。そして、神が降臨する土地が「標山(しめやま)」である。
    神仏がこの世に姿を現す際に使う、仮の事物のことで、
    樹木・岩石・御幣(ごへい)・動物など種類が多く、神霊に代わってまつられる。
    福岡の筥崎宮(はこざきぐう)の「玉せせり」の木の玉、長野の諏訪神社の「御柱祭」の大木などがあり、
    祭りの「稚児(ちご)」をはじめ、愛知県豊川市の「うなごうじ祭」、鹿児島の登院町の「田の神さあ」、
    秋田県の男鹿半島の「なまはげ」などは、人間が寄代の代役をしているのである。
羅漢山磨崖仏(らかんざんまがいぶつ) = 羅漢山磨崖仏(磨崖仏関連に別掲)
立教開宗の文(りっきょうかいしゅうのぶん) : 立宗宣言。
    この文は、唐(中国)の浄土教の大成者・善導大師が、「浄土三部経」の一つ「観無量寿経」を
    釈した『観経疏』に記したもので、従来の佛教に疑問を抱き続けていた法然上人(当時43歳)が、
    善導大師の「観経の疏」からこの一文を発見し1174(承安4)年に開宗を決意したという。
    『観経疏』の「一心にもっぱら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久遠を問わず、
    念々に捨てざる者、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」という一文を見て、
    お念仏こそすべての人々が救われる教えであることに間違いはない、との確信を得たとされる。
    法然上人は、「偏(ひとえ)に善導大師に依(よ)る」と言っている。
    浄土宗では、宗祖・法然上人に対し、善導大師を高祖と仰いでいる。
    立教開宗の文の意訳
    一心専念(いっしんせんねん)弥陀名号(みだみょうごう)
    一心に専ら阿弥陀仏の名をとなえ、
    行往座臥(ぎょうじゅうざが)不問時節久近(ふもんじせつくごん)
    いついかなる時も、時間の長短に関わらず
    念々不捨者(ねんねんふしゃしゃ)是名定之業(ぜみょうしょうじょうしごう)
    これを続ければ必ず往生がかないます。
    順彼仏願故(じゅんぴぶつがんこ)
    なぜならば、これこそが彼の阿弥陀仏の本願に順ずることだからです。
    「寝ても覚めても、時間の長短を問わず、一心にもっぱら弥陀の名号を念じ、
    念々に捨てざる者、これを正定業と言う。彼の仏の願に順ずるが故に」
龍文寺(りゅうもんじ) = 龍文寺(別掲)
龍安寺(りょうあんじ、りゅうあんじ) = 龍安寺(別掲)
良寛(りょうかん) = 良寛(別掲)
良観寺(りょうかんじ) = 良観寺(別掲)
楞厳寺(りょうごんじ) : @愛知県刈谷市天王町6−7にある曹洞宗の寺院。山号は「神守山」。
     室町時代中期の1413(応永20)年、浜松市にある普済寺の利山義聡によって創建された。
     離縁されて近隣に住んでいた徳川家康の生母於大の方が、たびたび当寺を参詣している。
     第7世・古堂周鑑の際に、刈谷城主である水野家の菩提寺となっている。
    A京都府綾部市にある山号を塩岳山(えんがくさん)という高野山真言宗の寺で、
     本尊は薬師瑠璃光菩薩である。天平年中(729〜48)に林聖上人が開創し、もと吉祥院と称していた。
     幾多の時代変遷と再三の兵火により、寺坊はほとんど焼失している。
     1337(建武4)年の乱により広大な寺領が奪われた記録が、1349(貞和5)年の敷地紛失状である。
     また江戸時代初期の筆と考えられる楞厳寺縁起は、当寺の伽藍および宝物について記されている。
     現在の本堂は、元禄16年から1708(宝永5)年にかけて建立されており、
     庫裡は1758(宝歴8)年のもので、内部の絵は、長井一画伯筆の絵で知られ、
     四季に分けて30面に描かれている。境内の菩提樹、百日紅、椿は三古木として知られる。
    B茨城県笠間市にある笠間氏の菩提寺。律宗の寺であったが、
     鎌倉時代に笠間時朝が大拙和尚を招い て再興し禅宗の寺としたもの。
      境内裏山の「姫春蝉」は、北限の地として天然記念物の指定を 受けている。
    C山口県周南市の湯野温泉の北に位置した湯野牧(ゆのまき)1929にある寺院で、
     楞厳寺に蔵される金造菩薩形坐像(きんぞうぼさつぎょうざぞう)は、
     1987(昭和62)3月27日に山口県の指定有形重要文化財に指定されている。
     像高は4.29cm、横は2.92cmと両手に収まるほど小さく素朴な作りで、
     重さは35g、金の純度は99.18%で、頭部前面に三角形の宝冠をいただく。
     体部は左肩から右肩に条帛(じょうはく)をかけ、背面にも条帛が表現される。
     右ひじは前にして手先は膝頭(ひざがしら)におき、左手は臂(ひじ)を曲げて手の平を上にむける。
     結跏趺座(けっかふざ)という坐り方をした、菩薩形の仏様で、
     右足のみが前面に見え、左足の表現はない。
     天然の砂金を原料として中型を用いて鋳造した中空の像であるが、
     湯廻りが悪く胸部・後頭部・背中に小孔が見られる。
     この像は発見場所に建立された石碑により、1853(嘉永6)年、
     楞厳寺裏手で標高408mの現・観音岳(かんのんだけ)の日尾山(ひごやま)の頂上付近の土中から
     松田好松(よしまつ)という村人により発見され、楞厳寺へ奉納されたことがわかる。
     頭部が大きく膝張りが小さい、膝高が低く衣の先の流れが見られないなどの作風から、
     制作は11〜12世紀の藤原時代のものと推定される。
      黄金仏は満12年に1度の開帳供養が行われるが、毎月17日に7時〜17時まで一般公開される。
      全国で発見された黄金仏は、1983(昭和58)年に山伏の修験場として知られる
     奈良県の大峰山寺(おおみねさんじ)から出土した、阿弥陀如来坐像(像高3.12センチ)と
     菩薩形坐像(像高2.85センチ)の2体のみである。

      1978(昭和53)年に指定された湯野観音岳ハイキングコースは、
     山全体を四国に見立てていて八十八カ所をめぐりながらハイキングが楽しめる。
     途中に、「延命水」と呼ばれる湧水があり、これを飲むと10年長生きするといわれている。
       毎年11月3日(祝)には、ハイキング大会が行われ、600人〜700人の人々が楽しみ、
     元旦には御来光を拝む為に新春登山が開催され、朝暗い時間から大勢の人で賑う。
     参 : 周南市教育委員会生涯学習課(HP)
臨済宗(りんざいしゅう) : 中国禅宗五家(臨済、い仰(いぎょう)、曹洞、雲門、法眼)の一派で、
    のち楊岐・黄竜二派に分かれた。鋭く厳しい宗風をもち、公案の工夫による修行を重視する。
    達磨大師から数えて11代目の祖師である唐の臨済義玄(?〜867年)を宗祖とする。
    彼は「喝の臨済」「臨済将軍」の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。
    公案に参究することにより見性しようとする看話禅(かんなぜん)で、
    ただ座禅する曹洞宗の黙照禅とはこの点が異なる。
    日本では鎌倉時代初期に入宋した明庵栄西(みょうあんえいさい)
    黄竜派(おうりゅうは)の法を受けて1191(建久2)年に帰国し、を伝えたのに始まる。
    その後の伝来は楊岐派(ようぎは)の系統が圧倒的で、鎌倉・室町時代に大いに興隆し、
    室町幕府は五山の制をつくって保護した。
    現在は、天竜寺派・相国寺(しょうこくじ)派・建仁寺派・南禅寺派・妙心寺派・建長寺派・東福寺派・
    大徳寺派・円覚寺派・永源寺派・方広寺派・国泰寺派・仏通寺派・向岳寺派の14寺派、
    および相国寺派から分かれた興聖寺派がある。 参 : 仏教各宗派比較表
臨終(りんじゅう) = 臨終(別掲)
輪廻(samsara:梵語で「流れる」の意)りんね : ヴェーダ、仏典などに見られる仏教用語。
    人間は死後もなんらかの形で存続し、また動物なども含めた生類に生まれ変わること、
    また、そう考える思想のことをいい、とくにインドで発展した。漢字の輪廻は
    生命が無限に転生を繰り返すさまを、輪を描いて元に戻る車輪の軌跡にたとえたことから来ている。
    人間の本質は実体的な霊魂である。一方、人間の行為(カルマ、業(ごう)の余力)は
    のちに影響を及ぼす潜在的な力(カルマン、業力)を生み、霊魂(魂)がこれを担うから、
    人は死後、生前の業に従ってしかるべき死後世界に生まれ変わる。
    こうして生と死を無限に繰り返すのが輪廻であり、私たち人間の迷いを顕わす言葉として伝えられてきた。
    【類語】●流転
輪廻転生(りんねてんしょう、りんねてんせい) : 転生輪廻(てんしょうりんね)とも言い、
    人間(あるいは、すべての生命)が死んであの世に還った霊魂(魂)が、
    また、別の人間(あるいは別の生き物)に生まれ変わる、という思想をいう。
    元来はインドのバラモン教の思想であるとされ、仏教など東洋思想において顕著だが、
    古代のエジプトやギリシャなど世界の各地に見られる。
    輪廻転生観が存在しないイスラム教においても、アラウィー派やドゥルーズ派等は
    輪廻転生の考え方を持つ。また、近年の「ニューエイジ」思想も、この思想を採用するものが多い。
    参 : カルマ
流転(るてん) = 流転(別掲)
霊宝館(れいほうかん) = 霊宝館(醍醐寺関連に別掲)
列福(れっぷく) = 列福(別掲)
列福式(れっぷくしき) = 列福式(別掲)
老少不定(ろうしょうふじょう) = 老少不定(別掲)
鹿苑寺(ろくおんじ) = 金閣寺(別掲)
六道(ろくどう) : りくどう。六趣(ろくしゅ)。六界(ろっかい)
    すべての衆生(しゆじよう) が前世・現世の業因(ごういん)によって生死を繰り返す六つの世界をいう。
    迷いのない浄土に対して、まだ迷いのある六つの世界で、地獄道(じごくどう)餓鬼道(がきどう)
    畜生道(ちくしょうどう)修羅道(しゅらどう)人間道(にんげんどう)天道(てんどう、天上道とも)をいい、
    前の三つを三悪道または三悪趣、あとの三つを三善道というインド古来の思想である。
     @地獄 : 人を裁き、いじめ、憎む、苦しみの絶え間のない世界。
     A餓鬼 : 絶えず欲望に追い立てられて、引きづりまわされている生活から、
            欲しい欲しいと常に飢えている欲求不満の世界。
            ここに堕ちるのは、生前に嫉妬深かったり、者惜しみやむさぼりをした者と言われる。
     B畜生 : 倫理も道徳心もなく、礼儀や恥を知らない動物的生活から、
            迷惑をかけても平気ではじることのない世界。
     C修羅 : 暴力によって憎しみ争う弱肉強食の状態から、一所懸命で他の世界の見えない世界。
     D人間 : 喜怒哀楽に悩み悲しむ世界。
     E天上 : 人間よりもも少し多くの善を行じて天人となるとしても、
            将来の見えぬ、いつか滅びる退没苦の世界。
     この六道で生死を繰り返すことを「六道輪廻(ろくどうりんね)」と言い、
     たとえ「天界」といえども苦しみの輪廻する世界を脱せず、
     輪廻しない永遠不滅の世界が「仏の世界(仏界)」であると言われている。
    六道とは仏教の世界観で、あらゆるものの現にある状態をいう。
    人間に限れば人間の堕ち込んでいく世界、人間の今ある状態を六道という。
    この六道の世界にいることを、身を受けるという。地獄の身を受けることを地獄身という。
    人間の身を受けることを人身という。三帰依というのがあってその始めに「人身受け難し今すでに受く」と
    ある。人間の身を受けたという喜びを言っている。何が身を受けるのかというと、
    自分の長い過去の働き、今までの行業、業が身を受けるのである。
    参 : 極楽浄土
六波羅密(ろくはらみつ) : 六波羅密とは悟りを得るための6つの修行目標をいう。
    1.布施(ふせ)・・・ (施し)思いやりを持つこと。めぐみあい。お布施をすることだけでなく、
       人助けも布施に変わりはない。見返りを求めず、人のためにできることをしよう。
       寺院に納める金銭というだけでなく、数ある布施行の一つ、財施(ざいせ)にあたり、
       経済的に苦しむ人に財物を与えることも含める。ほかに、仏の教えを説く法施(ほうせ)
       恐れを取り除く無畏施(むいせ)があり、合わせて「三施(さんせ)」という。
       さらには、財物が無くてもできる「無財の七施むざいのしちせ)」という布施もあり、
       慈しみの心で人を見る「眼施(がんせ)」、笑顔で接する「和顔悦色施(わげんえつじきせ)」、
       優しい言葉をかける「言辞施(ごんじせ)」、身体でする布施「身施(しんせ)」、
       思いやりの心「心施(しんせ)」、場所を譲る「床座施(しょうざせ)」、
       安らぎの場所を与える「房舎施(ぼうしゃせ)」がそれである。
    2.持戒(じかい)・・・ (戒律を守る)してはならないことをしないこと。規律ある生活。
       守ろうとする心。ルールを守ろう。仏教徒が守るべき戒律を保つことで、
       その基本的なものに、五戒(ごかい)がある。
    3.忍辱(にんにく)・・・ (がまん)つらいことにも耐えること。耐え忍び、許し合う。
       欲を抑え、ツライからといってすぐに投げ出したりせず、じっと耐えよう。
       辱(はずかし)めを忍ぶ、耐え忍ぶことで、人は恥をかかされると怒りの心を起こしたり、
       グチをこぼしたりする。また、欲しい物に飛びつき、得られなければやはりグチが出てしまう。
       仏教では、こうしたむさぼりの心を貪欲(どんよく)、怒りの心を瞋恚(しんに)
       そしてグチは正しく愚痴ぐち=道理に暗い)といい、「三毒」という煩悩を表す。
    4.精進(しょうじん)・・・ (努力)一生懸命はげむこと。勤め励む。一生懸命に努力しよう。
       ひたすらに仏道修行に励むことをいうが、一般には精進落し(明け)や
       精進料理という言葉が知られ、スポーツ選手などが、その競技を極めるために努力を重ねることを、
       精進する、などとも使う。いずれにせよ、精進とは何かの目標に向かって
       継続して努力することが大事なのである。
    5.禅定(ぜんじょう)・・・ (心の統一)心を強くし、落ち着くこと。心を静かに安定させる。
       静かに心を落ち着ける時間をもとう。心を静かに保ち、
       お念仏の継続の中に、自(おの)ずと安心(あんじん)がそなわってくるものだといわれる。
    6.智慧(ちえ)・・・ (正しい洞察力)真理を悟り、仏道を体得する力。正しい智慧をみがく。
       よく学び、考えぶかい人になろう。一般的には「知恵」と書き、
       頭がいいとか知識があるという意味でとらえられているが、
       仏教語としての智慧は、真理を明らかにしてさとりを開く、という意味になる。
    「彼岸」は、サンスクリットの「パーラミター」に由来し、
    般若心経でも「般若波羅密多」という節がこのことを表している。
    意味は「涅槃の岸に到る」ということ。この世が「此岸」で、悟りの世界が「彼岸」なわけで、
    そういう悟りの世界に精進修行して行きましょうというのが、彼岸の行事の起こりである。今では、
    お墓参りや先祖供養が主だが、「六波羅密」という正しい行いをすることが本来の彼岸のあり方である。
    これら6つを一生懸命努めれば極楽浄土へ到れるということである。
    何か難しそうだなと思われるが、お墓や仏壇の前でしていることの中に、この六波羅密が含まれている。
    お墓や仏壇に向って、まず、お水やお茶をさしあげる「布施」をして、
    お花を飾る「忍辱」をして、ご飯や食ベ物をさしあげる「禅定」をして、
    口ーソクに火をつける「智慧」をして、線香に火をつける「精進」をして、
    線香の煙で身を清める「持戒」をするように六波羅密の修行を知らず知らずに行っている。
和顔愛語(わげんあいご、わがんあいご) = 和顔愛語(別掲)
和讃(わさん) : 仏・菩薩(ぼさつ)、祖師・先人の徳、経典・教義などに対し、仮名まじりの平易な言葉を用いて
    ほめたたえる讃歌である。声明の曲種の一つ。サンスクリット語を用いてほめたたえる「梵讃」、
    漢語を用いてほめたえる「漢讃」に対する。七五調4句を1章とする今様風(いまよう)鎌倉時代以後の
    主流となった。これに創作当時流行していた旋律を付して朗唱する。原型である「讃歎(さんだん)」を
    和讃の一種とみなす事もある。平安時代末〜江戸時代に盛行し、御詠歌としても歌われた。

    以下は施餓鬼法会等で詠まれる和讃の例
    霊まつり和讃(たままつりわさん)」(浄土宗) 作詞:高津 ときを
    1.無常の風に誘われて 花の浄土に旅立ちし
      親兄弟や愛(いと)し子を 里に迎えて想い出の
      涙あらたに回向(えこう)する 今宵うら盆霊まつり
    2.精霊棚(しょうりょうだな)に海山の 百味飲食供養(ひゃくみおんじきくよう)する
      救倒懸(ウーランバーヌ)のこころざし 無縁の餓鬼(がき)も永久(とこしえ)
      生命水得(いのちみずえ)て蘇(よみが)える 陀羅尼(ダラニ)の功徳有難(くどくありがた)
    3.祖先の墓に詣(もう)でつつ 七世(しちせ)の父母の恩徳(おんどく)
      念仏修(ねんぶつしゅ)して感謝する これぞ真(まこと)の孝(こう)の道
      光明へん照(こうみょうへんじょう)と打つ鐘は 摂取不捨(せっしゅふしゃ)とぞ響(ひび)くなれ
    4.盆提灯をかざしつつ 御霊(みたま)を迎えまた送る
      習いゆかしきこの夕(ゆうべ) じょく世(せ)の闇に泣く人の
      心に信(まこと)の灯をともす 南無やうら盆霊まつり
    「水子地蔵和讃(みずこぢぞうわさん)」(浄土宗) 作詞:平野 孝順
    1.親子の縁(えにし) はかなくて 水子のうちに この世去り
      母の乳房を さがしつつ ひとり闇路(やみじ)の 幼霊(おさなご)
    2.救いのみ手を さしのべて 大慈大悲(だいじだいひ)の 地蔵尊(ぢぞうそん)
      あみだ如来の すがたかえ 育て導く 最尊(ほとけ)なり
    3.生命(いのち)のきづな したいつつ 蓮(はちす)の浄土 いとおしや
      香水(かおり)そそぎて 念仏を 称(とな)うる心願(こころ)に 感応(こたえ)らる
    4.救誓(ちかい)の筏(いかだ) あやまたず 弥陀の浄土へ 導かん
      南無や水子の 地蔵尊 南無阿弥陀仏 阿弥陀仏
    水子とは、中絶 堕胎 流産 死産のため、この世に生まれ来ることが出来なかった子供のこと。
笑い講(わらいこう) = 笑い講(別掲)





























































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