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駿府城(すんぷじょう) : 静岡県静岡市葵区(駿河国安倍郡)にあった室町期〜江戸期の平城(ひらじろ)で、
    葵区(あおいく)駿府公園、城内町(じょうないちょう)、追手町(おうてまち)、駿府町にまたがる。
    別名に「府中城」や「静岡城」などがある。縄張(なわばり)は輪郭式(りんかくしき)といって、
    中心に本丸、それを取り囲む形で二の丸、さらに二の丸全体を取り囲む三の丸によって構成されていた。
    本丸の掘を「内堀」、二の丸の堀を「中掘」、三の丸の堀を「外堀」と呼んでおり、
    三重の堀によって守られていたのである。現在内堀は一部しか残っておらず、
    外堀の東側が道路になって消滅してしまったが、それ以外はよく残っており、石垣もみごとである。
    江戸時代には駿府藩や駿府城代が、明治維新期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれた。
    駿河(するが)守護今川氏が守護所を置いた所で、中世では「府中城」、「府中館(やかた)」あるいは
    「今川館」などともよばれた。今川氏の駿府進出については、初代範国(のりくに)のとき
    (南北朝争乱期)に館を築いていたのか、4代範政(のりまさ)のとき(南北朝合一後)に初めて駿府に
    進出したのかについて意見が分かれている。館は1568(永禄11)年の10代氏真(うじざね)のときに
    武田信玄(しんげん)に攻められて焼かれた。1582(天正10)年、武田氏を追い出し、
    徳川家康が本拠を浜松からここに移し、1585年から1589年まで大規模な築城工事が行われた。
    完成の翌年家康は江戸に転封され、そのあと中村一氏(かずうじ)が入り、関ケ原の戦い後、
    内藤信成(のぶなり)が入った。家康は将軍職を秀忠(ひでただ)に譲ったあとこの城に入り、
    1607(慶長12)年から16年(元和2)年に死ぬまでの10年間隠居城とした。
    この10年間を大御所(おおごしょ)時代とよぶ。のち徳川頼宣(よりのぶ)
    徳川忠長(ただなが)などが入ったが、やがて駿府城代(じょうだい)が置かれ幕府の直轄領となった。
     1989(平成元)年に二の丸巽櫓(たつみやぐら)が、1996(平成8)年には
    その巽櫓につながる二の丸東御門(ひがしごもん)が復元された。
    巽櫓の内部は資料展示室となっており、発掘出土品、古絵図、
    さらには駿府城天守の復元模型などが展示されていて、一見の価値はある。
    
    駿府城模型(大阪のK.Kさん写真提供)
    
    二の丸巽櫓の立て札(同上)
    
    二の丸巽櫓
    
    二の丸巽櫓(大阪のK.Kさん提供)
    
    同上
    
    同上(右奥の橋は東御門橋)
    
    同上
    
    同上
    
    二の丸東御門
    
    同上(大阪のK.Kさん提供)
    
    櫓門南面(正面)(同上)
    
    天守閣跡の立て札(大阪のK.Kさん提供)
    
    天守閣図(同上)

    
    本丸跡周辺(同上)
    
    北御門・馬場先御門跡立て札(同上)
    
    北御門橋(同上)
    
    西門橋(同上)
    
    東御門入口(同上)
    
    お堀と石組み(同上)
    
    同上
    
    同上
    
    同上
    
    同上
    
    駿府城・紅葉山庭園共通入場券(表)       (裏)原寸5.7×13.8cm
    
    
































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