YSミニ辞典(周防五傑僧)

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赤松連城(あかまつ・れんじょう) : 1841(天保12年1月17日)〜1919(大正8年7月20日)は、
    明治〜大正時代の浄土真宗本願寺派僧侶(そうりょ)。加賀国(現・石川県金沢市)金沢在家の出身で、
    赤松智城、克麿(かつまろ)、常子の祖父。旧姓は中。幼名は宇三郎。榕隠(ようおん)と号した。
    島地黙雷(しまじ・もくらい)大洲鉄然(おおず・てつねん)とともに、本願寺の3傑と呼ばれた。
    6歳で金沢の西勝寺に入り、藩校で学んで富山の寺で得度した。
    当時から向学心が強かった連城は、9歳から福井の寺で学び、19歳のときに九州で学んだ。
    1863(文久3)年に周防(すおう)徳山の徳応寺(現・山口県周南市)に養子として入り、
    先代住職の娘・千代野と結婚した。大洲鉄然らと長州藩内の僧侶たちの風紀改正運動に取り組み、
    1868(慶応4)年には京都で島地黙雷とともに長州藩末寺の総代として本山改革を提言した。
    1872(明治5)年からは本山の西本願寺派からの派遣で2年間、
    仏教者としてはじめてイギリスに留学し、ヨーロッパの宗教事情や文化を学んだ。
    帰国後は宗門の教育改革を唱え、島地黙雷とともに明治政府の神道国教化策に反対し、
    信教の自由を主張し、政府の方針を転換させた。1881年に教導職制廃止を建議。
    人材育成にも大きな力を発揮し、1899(明治32)年には「大学林総理」となり、
    翌年にはこれが仏教大学となって学長に就任し、その基礎を固めた。これが現在の竜谷大学である。
    1903(明治36)年に宗門の学階の最高位勧学(かんがく)
    1911年には執行長など宗門の要職を歴任した。
    大正8年7月20日に79歳で死去。著書に英文『真宗本義(英文)』『仏教史』などがある。
     連城の娘・安子は京都の願成寺、与謝野家から養子に入った赤松照幢(しょうどう)と結婚した。
    照幢は女子教育の私立徳山女学校を創設し、附属の鳳雛幼稚園を開設するなど、
    夫婦で教育に生涯を捧げた。地域の人々の相談役としても尽くし抜き、徳山の社会福祉の基礎を築いた。
    また歌人で日本の近代文芸を確立した1人である与謝野鉄幹は実弟であり、
    照幢の依頼で女学校の教師を一時期務めている。
    さらに孝女・阿米(およね)を題材にした伝記を徳山時代に書いている。
    
    赤松連城
    
    左から大洲鉄然、赤松連城、島地黙雷(本願寺の3傑)
大洲鉄然(おおず・てつねん) : 1834(天保5年11月5日)〜1902(明治35年4月25日)は、
    幕末〜明治時代に活躍した浄土真宗本願寺派の僧。周防国(すおうのくに)大島郡の
    覚法(かくほう)寺(現・山口県周防大島町久賀)の大洲雪道の次男として生まれた。
    現在の覚法寺は幕末に幕府軍によって焼かれた後に修復したものだが、
    鉄然が生きているときに再建された。幼名は要。名は別に願航。字(あざな)は後楽。号は石堂、九香。
    14歳で得度して僧侶となり、防府の漢学者・大田稲香の門下に入って学んだ。
    その翌年、月性(げっしょう)が開いた清狂草堂に入門した。月性は旅に出ることが多く、
    鉄然は18歳になるまで月性と稲香2人に師事するが、月性が説く仏法護国論や海防論に心酔し、
    強く惹かれて行く。月性のもとを離れ、30歳になった鉄然は階位を得ようと浄土真宗本山の
    西本願寺を訪ねるが、そこで手数料10両を求めるという古い体質に憤慨し、
    和泉国堺に渡って剣術道場を開いて糊口を凌いだ。
    特に明治維新で活躍した桂小五郎と交友を深め、桂との交流の中で剣術を上達させた。
    鉄然は剣だけでなく、弓、やり、砲術にも長けていて、馬も乗りこなしたといわれている。
    月性の影響を受けて尊王活動に従事し、幕長戦争の際は高杉晋作らと共に奇兵隊を設立した。
    しかし、長門系の人材が優遇される奇兵隊の現状に不満を抱き、第2奇兵隊結成の立て役者となった。
    第二次長州征伐の四境戦争大島口の戦では僧侶でありながら部隊と共に前線に出動し、
    僧侶隊を組織して真武隊、護国団の陣頭指揮をとり、農兵と協力して幕府軍に対抗した。
    1866(慶応2)年6月7日幕艦が上関と安下庄に砲撃を加え、ここに大島口の戦いが初まった。
    翌8日の朝、松山兵が由宇に上陸、午後には久賀沖に初めて幕監が現れ、砲門をひらいた。
    6月11日の朝、翔鶴丸その他に分乗した2千の幕軍が宗光に上陸した。
    久賀村の庶民を中心とする「真武隊」が応援するも、多勢に無勢、街並みは焼かれ、幕軍に占拠された。
    大洲鉄然は、早かごで山口政事堂の大村益次郎に「早くご救援を」と懇願するも拒否された。
    それを伝え聞いた下関の高杉晋作は、丙寅丸に乗船し、大島に急行し、6月12日夜陰に乗じて
    幕艦に夜襲をかける。幕艦は、狼狽遁走、翌日石城山の第2奇兵隊をひきいて、
    世羅修蔵、林半七、白井小介(素行)等大島に急襲をかけて、幕軍を追いおとした。
    吉田松陰の教えを騎兵隊結成という形で具体化したのが松陰門下の高杉晋作であるならば、
    月性の教えを実践した月性門下生のリーダー格が大洲鉄然だった。鉄然は説法がうまく、
    話しはじめると聴衆がどっと押しかけて門が壊れるほどだったため「門こかし」といわれていたという。
    明治維新後、同郷の島地黙雷(しまじもくらい)、赤松連城(あかまつ・れんじょう)らとともに
    西本願寺の教団改革に取り組み、覚法寺に帰って住職になった。
    明治6年には神仏分離政策に反対して寺院寮や教部省の設立に尽力するなど、
    仏教界を代表して新政府との折衝にあたった。長州閥とのコネクションを活かして
    廃仏毀釈を逃れる等活躍したが、明如を中心とした本願寺の東京移転には猛反対した。
    晩年は国内、海外で布教に務めた。しかし、江戸時代の西南戦争のころ、浄土真宗禁止政策が
    とられていた鹿児島に布教訪れた際、薩摩軍に政府が派遣したスパイと誤解されて捕らわれ、
    数カ月も投獄されたことがあった。維新後、功績により西本願寺一等巡教師、
    本願寺顧問の中枢に復帰し、本山の執行(しゅぎょう)長になった。
    故郷で病に倒れ、1902(明治35)年4月25日に69歳で亡くなった。
    久賀地区新開の追原付近は、幕軍と死闘のあった古戦場で、付近の園内には、
    この戦役で活躍した人々の記念碑がある。437号線を久賀方面に9.7kmほど行った所の
    バス停「総合庁舎前」に「四境の役 追原古戦場」の案内板がある。
    
    大洲鉄然
    
    覚法寺の本堂内に安置されている久賀出身の著名な彫刻家で
    日展審査員も勤めた中村青田が彫った鉄然の木造

香川葆晃(かがわ・ほうこう) : 1835(天保6)年〜1898(明治31)年は、新潟県の眞照寺に生まれ、
    京都の本山・西本願寺での学んでいる。龍谷大学の前身、大学林綜理として令名があった。
    香川葆晃は、月性の遺志をついだ3人の長州真宗僧と出会い、その盟友関係は生涯続いた。
    尊王を論じ、幕府によって牢獄に入れられるものの、脱獄して萩を訪れる。
    しかし、幕府の隠密という嫌疑がかけられ、吉田松陰高杉晋作も入った野山獄に投獄される。
    この間、写経に励んでいたとされる。1868(明治元)年に藩主の勧めで現在の周南市政所にある
    善宗寺に入るが、この年の7月には島地黙雷(しまじ・もくらい)大洲鉄然(おおず・てつねん)
    赤松連城(あかまつ・れんじょう)とともに京都にのぼり、本山改革をに尽くす。
    この3人に赤松連城を加えた4人は、明治に入ると「長州四傑僧」とも言われた。
    彼らは、当時日本最大の宗教勢力であった西本願寺本山で、400人もの武士団を解体し、
    すべての寺を本山直属として末寺にも平等の権利を与える大変革を成功させた。
    彼らは、全国を吹き荒れた嵐のような廃仏毀釈を明治政府に働きかけて止めた。
    ヨーロッパでの見聞に基づいて政教分離と信教の自由を国家の建前とさせて
    日本の仏教界全体を救ったことから、彼らは「仏教界を守った維新四僧」と
    称されることもあり、彼らの活躍・功績は大きいものだった。
    本願寺では初代大学林綜理を務めて人材育成に励み、執行、勧学などの要職を務めて
    本山発展に尽くした。1898(明治31)年に体調を崩し、64歳で亡くなった。
    住職を務めていたゆかりの善宗寺の境内には、葆晃を記念する石碑が建てられている。
    
    香川葆晃
月性(げっしょう) : 1817年11月6日(文化14年9月27日)〜1858年6月21日(安政5年5月11日)は、
    幕末期において、身分を問わず民衆が一体となって外国からの攻撃から国を守る「海防論」を展開し、
    優れた詩人としても知られる浄土真宗本願寺派の僧。尊皇攘夷派の勤王家。
    月性は、周防国大島郡遠崎村(現在の山口県柳井市大畠・遠崎地区)の妙円寺(本願寺派)に生まれた。
    諱は実相。字(あざな)は智円(ちえん)。号は清狂・烟渓・梧堂。
    15歳のとき豊前国・肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学び、長崎ではオランダ船を見るが、
    これが後の海防思想へと繋がる。また京阪・江戸・北越を遊学して文士、志士と交わること17年、
    名声は大いに高まった。長門国萩では益田弾正・福原越後・浦靭負(うら・ゆきえ)などに認められ、
    吉田松陰、久坂玄瑞、頼三樹三郎(らい・みきさぶろう)、僧黙霖(もくりん)らとも親しく、
    思想的な影響を与えたといわれている。その後柳井に帰り、私塾「清狂草堂」を開き、
    「時習館」とも呼ばれた。ここでは大洲鉄然や奇兵隊総督にになった赤根武人らが学び、
    多くの優れた人材を輩出した。現在も妙円寺境内には後に建てられたものではあるが、
    かやぶきの清狂草堂が残されている。その後、藩政改革を促す「意見封事」を長州藩主に提出。
    1856(安政3)年には西本願寺派の第20世門主・広如に招かれて上洛して滞在。
    護国こそ護法なりとして、仏教こそが国を護る思想であるとし、尊皇攘夷の必要性を説いた
    「護法意見封事」を提出した。この論文は月性の死後、「仏法護国論」として出版され、
    全国1万の寺に配られ、僧侶たちの辻説法のテキストとなり、これが明治維新に向かう民衆の
    世論喚起に役立ったといわれる。また長州藩重臣の村田清風は月性を気に入り、
    月性の「海防護国論」を藩内各地で説法するよう要請しており、月性もこれに応えている。
    梁川星厳、梅田雲浜(うめだ・うんぴん)などと交流し攘夷論を唱え、
    紀州藩(現・和歌山県)へ赴き海防の説得にあたるなど、常に国家の前途を憂えて人心を鼓舞し、
    国防の急を叫んでいたので世人は「海防僧」と呼んでいた。
    藩論を攘夷に向かわせるのに努めた熱血漢で、詩をよくした。
    『清狂遺稿』2巻、『仏法護国論』、『鴉片(アヘン)始末考異』の著作があり、
    「男子立志出郷関……」の詩句は大いに人口に膾炙(かいしゃ)した。
    「・・・人間到る処青山有り・・・」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」
    (男児立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山)の作者としても名高く、
    その詩の「男児志を立てて郷関を出ず 学もし成るなくんばまた還らず 
    埋(うず)むるなんぞ期せん墳墓の地 人間到るところ青山あり」は明治期から現在にかけ、
    多くの人に愛唱されている。この詩には実は前半があり、そこには白髪が目立つようになった
    母親に対する月性の申し訳ない気持ちがつづられている。
    幕府の蝦夷(えぞ)経営に本願寺開教僧として赴こうとしたが1858(安政5)年5月、42歳で急死した。
    病気だったが、幕府の密偵に毒を盛られた、という説もある。
    
    柳井の遠崎地区の海沿いの県道脇に建てられている月性の像
    月性展示館 : 直筆の書や愛用品など、貴重な資料が展示されており、一般に公開されている。
     入館料 : 大人200円、高校生以下無料 休館日 : 毎週月曜日、年末年始
     問合せ先 : 0820−45−2226(柳井市教育委員会)
島地黙雷(しまじ・もくらい) : 1838年3月10日(天保9年2月15日〜1911(明治44)年2月3日は、
    幕末〜明治時代に活躍した浄土真宗本願寺派の僧。
    周防(すおう)国佐波(さば)郡和田村(現・山口県周南(しゅうなん)市和田・升谷)にある専照寺で
    第11代住職・清水円随(えんずい)(本願寺派勧学)の四男として生まれた。幼名は謙致(けんち)
    益渓(えきけい)、縮堂(しゅくどう)、雨田(うでん)、北峯(ほくほう)、六六道人(ろくろくどうじん)と号した。
    幼い頃から勉強好きで活発だった黙雷は萩城学校に学び、
    8歳で3つのお経を覚え、さらに古文や漢詩もたしなんだ。
    10歳で防府市右田の乗円寺で儒学を学び、12歳のとき、山口市堀の妙蓮寺に乞われて養子に入った。
    幕末を迎え、18歳になった黙雷は、宗門の乱れや階級制に憤り、同士の大洲鉄然(おおず・てつねん)
    赤松連城(あかまつ・れんじょう)らと各地を遊説に回っている。この頃から「行動の黙雷」と呼ばれる
    ようになる。その後、九州に遊学し、肥後(熊本県)光照寺の原口針水(しんすい)に師事して
    真宗学、仏教学を学んだが、たびたび留守にするため妙蓮寺を離縁されている。
    29歳で長州藩の火葬禁止令を批判して藩に異議を唱えた。
    「葬送論」を作成し、葬儀のあり方を世に問うた。また、僧侶の意識改革を藩主に訴えていく。
    大洲鉄然と協力して萩の清光寺に事務所を設けた。
    そこで僧侶のための学校を開いて仏教と洋式の訓練を取り入れた文武両道の教育にあたった。
    1866(慶応2)に島地村(現山口市徳地(とくぢ)島地)にある本願寺派・妙誓寺に入寺して養子となる。
    翌年には妙誓寺の住職となり、姓を地元の地名にちなんで「島地黙雷」と名乗る。
    同年春、大洲鉄然とともに、萩(はぎ)に学校(改正局)を開き、
    長門(ながと)・周防の真宗寺院の徒弟を教育した。
    1868(明治1)年に上洛(じょうらく)して本派本願寺の改革を建議し、
    1871(明治4)年には明治期の仏教学者で思想家の大内青巒(おおうち・せいらん)らとともに
    東京・神田今川小路に日新堂を開き、日本初といわれる『新聞雑誌』を創刊した。
    1872年1月には岩倉具視を団長とする欧州使節団の一員として、梅上沢融(うめがみたくゆう)
    従って木戸孝允らと共に渡欧し、ドイツ、イギリス、スウェーデン、ギリシャ、トルコ、エジプトなどで
    海外の宗教事情を視察している。欧州の帰りエルサレムに立ち寄ったあと明治6年5月27日、
    インドに上陸する。西インドのムンバイからアラハバードを経てカルカッタまで列車で移動し、
    インド国内を最初に旅行した日本人となった。1873(明治6)年7月に帰国した。
    1873年に神仏合同大教院分離運動に着手し、政府に信教の自由、政教分離を提言し、
    神道国教化をすすめる大教院を解散に追いこみ、浄土真宗諸派が
    大教院から分離するきっかけを作った。黙雷の活躍により、浄土真宗の分離独立に限らず、
    仏教各宗派が独立して布教ができる自由が保障されたのである。
    明治27年勧学にすすみ、教育・社会事業にもつくした。
    本派本願寺の執行長(しぎょうちょう)を務める一方、1888(明治21)年に
    女子文芸学舎(千代田女学園の前身)を開設して女子教育にも熱心にあたった。
    日本赤十字社の設立にも参与し、社会福祉の推進など多岐にわたって貢献し、
    仏教界では1871(明治4年)から1886(明治19)年ごろまでの黙雷が活躍した時代を
    「黙雷時代」と呼ぶほどである。著書に『三国仏教略史』全3巻、『仏教各宗綱要』がある。
    島地黙雷は1892(明治25)年、岩手県盛岡市北山の願教寺第25世住職となり、
    その息子島地大等(しまじ・だいとう)も願教寺で住職を務めた。
    宮沢賢治は島地大等の講話と本をよんで異常な感動を受け、法華経の行者になったとされる。
    また黙雷は一流の書家としても知られている。
    1901(明治34年)には故郷に近いゆかりの地で、黙雷が気に入っていた島地の高台に
    草庵「雨田草堂(うでんそうどう)」が作られ、現在も「雨田公園(うでんこうえん)」として親しまれている。
    雨田公園の前には2011年6月26日に「ロハス島地温泉」がオープンした。
    晩年は西本願寺派の高僧として活躍したが、日露戦争戦没者慰霊の旅の後に体調を崩し、
    1911(明治44)年2月3日、東京の病院で亡くなった。74歳だった。
    
    島地黙雷
    
    ロハス島地温泉前の「雨田公園」の説明板
    
    雨田公園の入口にある「雨田草堂」
    
    前建物の上部にあるこちらを雨田草堂としているホームページもある
    
    
    





















































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