大仏関連(YSミニ辞典)
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大仏(a great image of Buddha)だいぶつ : 巨大な
仏像のこと。
お釈迦さまの身長とされる1丈6尺よりも
大きい仏像のことから、丈六(像高が1丈6尺、すなわち約4.8メートル)以上のものをいう。
座っている大仏は1「座」と数える。
日本三大大仏 : ★奈良の大仏★鎌倉の大仏(長谷高徳院の阿弥陀仏)★高岡の大仏(富山県)
3番目は確定ではなく、
高岡大仏、
岐阜大仏(籠大仏)は自称で、その他に
越前大仏、布袋大仏、
札幌大佛、三浦大佛、鎌ケ谷大仏、長浜びわこ大佛、奈良の大仏 (市原市)、上野大仏、白馬大佛、
再建された兵庫大佛、但馬大佛、おおくら大佛、日本寺大仏、牛久大仏、東京大仏、
赤田の大仏など、多くの候補があるという。
せめて戦前に建立された4.8 m以上の大仏を対象とし、戦後に乱立したもののほとんどは
寺院のPRや観光客を呼ぶためのもので、奈良と鎌倉に次ぐ大仏としては対象外とすべきで、
1933(昭和8)年に造られた15.85mの高岡大仏ほか青色太字は3番目に該当すると私は思う。
奈良の大仏 :
東大寺の大仏のことで、「盧遮那仏
(るしゃなぶつ)」とも呼ばれ、
世界をすみずみまで光で照らすとされる。天平期(8世紀)の752年に
聖武天皇(701〜756)が飢饉や内乱が続いた国を守るために建立した金銅仏で、
高さは14.98m、手のひらは1.48mあり、両手を合わせると大相撲の土俵より広く、
座っていても約15メートルの高さがある。大仏を安置している大仏殿は高さ48m、
側面50mで、木造の建築物では世界最大の大きさである。
1180と1567年に戦いで火事にあったが、そのたびに直された。
東大寺の大仏(デジカメのフラッシュではとても大仏まで届かない。編集で明度を上げてやっとこの程度)
お盆と終戦記念日が重なる8月15日には大仏殿の観相窓が開かれ、真正面の顔が現れる。
参道から拝む顔は、仰ぎ見るのと違い、とても力強いという。
鎌倉の大仏 : 国宝の長谷高徳院の本尊、銅像阿弥陀如来坐像。鎌倉期に造られ、
像高11.3m。慶派の作風と宋代の仏師からの影響を併せ持つ。
1961(昭和36)年4月当時の改修中の鎌倉大仏
背中に窓が2つあった
鎌倉の大仏の「横浜写真」(縦53cm×横41.2cm)。1870〜80年代頃、白黒画面に手で
彩色したもの)。東京都写真美術館の金子隆一さんによると、仏像に登っている男性は
「日下部」のハンテンを着ていることや仕上がりから、日下部金兵衛が撮影した可能性が高いという。
大仏に登ったのは、近づいて正確な物差しを目指したのか、達成感や歓喜の現れか。
僧侶らしき人が傘を差しているのはやはり日本趣味の故だろうとか。(2009.6.11の朝日新聞より)
南蔵院の釈迦涅槃像 : 福岡県篠栗
(ささぐり)町にある南蔵院の大仏。
御身丈が41m、御高が11mで、ブロンズ製では世界最大の釈迦涅槃像。
仏足(涅槃像の足の裏)に触ると金運がよくなるとか。
南蔵院の釈迦涅槃像
参 :
バーミヤンの大仏、
牛久大仏(
牛久市観光協会HPの観光名所より)、
鎌倉大仏殿高徳院(HP)
大仏の日(だいぶつのひ) : 4月9日。752(天平勝宝4)年のこの日、奈良
東大寺の
大仏の開眼会が行われたことを記念するもの。この大仏の造立の願主は聖武上皇と光明皇太后で、
開眼会の導師を務めたのはインド僧の菩提僊那、出席した僧は1万人といわれる。
奈良の大仏の高さは16mに及び、当時の技術の粋を集めて作られた巨大な金銅仏である。
バーミヤンの大仏(バーミヤンのだいぶつ) : アフガニスタンの首都カブールの近く、
中央アジアとインドを結ぶ南北ルート上の「東西文明の十字路」といわれてきたバーミヤン渓谷にあり、
2つの大きな
大仏は
仏教が西のルートへ伝播しようとしたとされる。
7世紀に訪れた中国の僧、玄奘三蔵は、大仏が金色に装飾され、
周囲の石窟に数千人の僧侶が住んでいたと記録している。
その貴重な痕跡を伝える歴史遺産であったが、2001年3月、当時の
タリバーン政権の手によって、
偶像崇拝を禁止するイスラムの教えに反するとして、両大仏を含めそれらの大仏遺跡群は爆破された。
東西に連なる崖に続く石窟群とともに、2体の大仏は3〜5、6世紀にかけて、
砂岩と礫岩混じりのもろい断崖を刻んで(正面から見て)左に高さ55メートルの西大仏、
右に38メートルの東大仏が約400メートルの間隔をあけて彫られていた。
付近には750余りの石窟があり、そこに彫られていた3、4メートルの小さな大仏も破壊されている。
大きい方はパーダル(父)小さい方は(マーダル)小さな大仏は、
大仏夫婦の子どもとしてバッチャと呼ばれ地元の人達に宗教を越えて親しまれていた。
もともとはマーダルの大仏だけを破壊する事になっていたが、
側近強硬派からパーダルの大仏も壊すべきだという意見が持ち上がり2体とも破壊する事になったという。
考古学・美術学的には38メートルの大仏の方がより重要とされていて、
この大仏の頭上のドーム状の天井には1998年初めまではまだ、
極彩色で描かれた3世紀頃の太陽神ス−リヤやギリシャの戦いの女神アテナ神像などが残っており、
バーミヤン遺跡でも考古学的価値の高い仏教美術だった。
バーミヤンの大仏破壊は、「偶像崇拝」を禁ずるイスラムの教えがその発端である。
もともと仏教徒たちが築いた像だが、今はこの地域には仏教徒は住んでおらず、
アフガン全土がイスラム圏である。従って仏像には実質的に「偶像」としての機能はない。
そもそもこれまで千年もの間、歴代のイスラムの指導者たちは
この「偶像」の破壊など試みることはなかった。
地元の人々をはじめ、古くからタリバーンに関わっている人々も、
一般のアフガニスタン国民も、破壊には反対していた。
では誰がそれを進めたのか。勧善懲悪省と、
ウサマ・ビン・ラディンだった。
ビンラディンに進言され、もはや洗脳された状態になってしまったオマルは大仏破壊指令を出した。
タリバーンは1998年秋ロケット弾によって絵画を破壊していた。
しかし固い岩盤に掘られた巨大な仏像は、ちょっと戦車で撃ったり、
爆薬を仕掛けたぐらいでは表面的な傷を与えるぐらいしかできなかった。
タリバーンが遅々として破壊に手間取っていると、そこに
アルカイダが、ビンラディンに率いられて登場。
5トンにも及ぶ爆薬を調達し、大小2体のバーミヤンの大仏を破壊して
うっすら残っていた痕跡は後方も無くなった。
その半年後、ニューヨークのツインタワーを破壊。
単に象徴的な意味ではなく、バーミヤンの大仏破壊は、9.11の序章だった。
タリバーンによって破壊されなかったら、バーミヤンの遺跡は世界遺産に登録されていたと思うが、
世界遺産とともにこのような貴重な歴史遺産や絵画などを壊したり傷つけたりした者は、
死刑を含む罰則を科す国際的な法が必要だと思う。 参 :
イスラム教、
A29