醍醐寺関連(YSミニ辞典)

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醍醐寺(だいごじ) : 京都府京都市伏見(ふしみ)区醍醐東大路町22にある真言宗醍醐派総本山の寺院。
    山号を醍醐山や深雪(しんせつ)山または笠取山とも称し、伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に
    200万坪以上の広大な境内をもつ寺院である。本尊は薬師如来。醍醐寺は准胝堂(じゅんていどう)
    如意輪堂(にょいりんどう)などのある山深い醍醐山頂上一帯を中心に、多くの修験者の霊場として
    発展した「上(かみ)醍醐」と、醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、
    その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に三宝院・金堂・五重塔などの
    大伽藍のある「下(しも)醍醐」が発展し、上下醍醐に100余棟の堂塔が配置されている。
    山上の上醍醐寺の准胝堂(じゅんていどう)は西国第11番札所。
    874(貞観(じょうがん)16)年に空海の孫弟子にあたる理源大師・聖宝(りげんだいし・しょうぼう)
    准胝観音(じゅんていかんのん)並びに如意輪観音を迎えて笠取山(醍醐山)頂上に
    草庵(そうあん)を建てたのが始まりで、続いて准胝堂、如意輪堂が建立され、
    聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。さらに904(延喜4)年、山下に釈迦(しゃか)堂、
    907(延喜7)年、山上に薬師堂と五大堂が聖宝に帰依(きえ)した醍醐天皇によって建立され、
    定額寺(じょうがくじ)となった。
    919年、座主三綱(ざすさんごう)が置かれ、観賢(かんけん)が第1世座主に補任(ぶにん)された。
    続いて朱雀(すざく)天皇は949(天暦3)年に法華三昧(ほっけざんまい)堂を建立し、
    村上(むらかみ)天皇は醍醐天皇追福のため952(天暦6)年に五重塔を建立するなど寺運隆盛に向かい、
    その後の諸天皇も当寺に帰依し、大伽藍の完成をみるに至った。永久(えいきゅう)年間(1113〜18)の
    第14世勝覚のとき三宝院(さんぼういん)が建立され、ついで理性(りしょう)・金剛王(こんごうおう)
    無量寿(むりょうじゅ)・報恩(ほうおん)の四院も建ち、醍醐五門跡と称された。
    以来多くの学僧が入山し、盛時には醍醐全山の伽藍坊舎甍(いらか)を並べた壮大さであった。
    初めは五門跡の高僧が交替で当寺の座主を務めたが、黒衣の宰相(さいそう)とよばれた
    満済(まんさい)が、応永(おうえい)年間(1394〜1428)に三宝院門跡となり、足利(あしかが)氏の
    信任を得て寺門の興隆に尽くして以来、三宝院門跡が醍醐寺座主を兼ねるのが通例となった。
    1470(文明2)年、応仁の乱などの兵火によって五重塔を残しことごとく焼失したが、
    時の座主義演(ぎえん)豊臣秀吉の帰依を受けて再興し、1598(慶長3)年3月15日に
    秀吉が秀頼や北政所、淀君をはじめとした多くの女房衆を従え、「醍醐の花見」をきっかけに
    紀州などからの寺院建築の移築や三宝院の建設などにより今日見るような旧観を取り戻した。
    江戸時代には徳川氏も当寺を保護し、寺領を寄進した。また当寺は三宝院を中心として
    修験道(しゅげんどう)当山派の本拠地とされてきたが、明治維新後、修験道が廃止され、
    醍醐寺は真言宗に帰入された。1994(平成6)年には古都京都の文化財として世界遺産に登録された。
    醍醐寺の総門を潜ると左手が三宝院、右手が霊宝館。総門前方の仁王門(西大門)までの一直線の道を
    「桜の馬場」といい、桜が咲く頃は花見客で賑わう。境内は日本さくら名所100選に選定されている。
    この周辺を下醍醐とされ、観光客の多くはこの下醍醐を参拝して帰る。
    醍醐寺の発祥の地である上醍醐は、さらに山道を歩いて1時間以上もかかる山上にある。
    
    総門
    
    同上。境内側より
    西大門(にしおおもん) : 1605(慶長10)年、豊臣秀頼の再建。高さ約3.6mの仁王像は
     平安後期の1134(長承3)年、仏師勢増。仁増の造立。通称「仁王門」といわれる。
    
    仁王門(西大門)
    
    二王門の向かって右側の口を開けた「阿形(あぎょう)」の金剛力士立像(りゅうぞう)」
    
    二王門の向かって左側の口を閉じている「吽形(うんぎょう)」の金剛力士像
    金堂(こんどう) : 国宝。醍醐天皇の勅願により926(延長4)年に創建された。
     当時は釈迦堂と称せられていたが、永仁・文明年間の兵火により2度焼失した。
     1600(慶長5)年太閤秀吉の遺志を継承した秀頼が仁王門と共に紀州湯浅より移建したものである。
     藤原時代の代表的な建築物であり、本尊の重要文化財・薬師如来坐像及び
     日光・月光及び四天王像が奉安されている。
    
    金堂(国宝)
    
    同上
    
    本尊の薬師如来坐像(S.Tさん提供)
    
    鐘楼
    五重塔(ごじゅうのとう) : 国宝。醍醐天皇のご冥福を祈るために第一皇子・朱雀天皇が
     936(承平6)起工し、村上天皇の951(天暦5)年に完成した。
     高さは約38m、初層内部の板壁には両界曼陀羅や真言八祖像が描かれている。
     屋根の上の相輪は約13mあり、相輪が塔の3分の1を占め、安定感を与えている。
     京都府下最古の建造物で、内部の壁画は日本密教絵画の源流をなすものといわれている。
    
    五重塔(国宝)。醍醐天皇の菩提を弔うために建立された
    
    同上
    清瀧宮本殿(せいりゅうぐうほんでん) : 重文。醍醐寺の総鎮守清瀧権現(せいりゅうごんげん)
     祀る鎮守社。1097(永長2)年に、最初に建立された上醍醐より分身を移し祀った。
     その後、この社殿の前で清瀧会(桜会)が行われるようになったが、文明の兵火により焼失。
     現在の社殿は1517(永正14)年に再建され、
     1599(慶長4)年、座主・義演(ぎえん)僧正により拝殿の整備が施された。
     毎年4月1日から21日まで『清瀧権現桜会(さくらえ)』として様々な法要が行われている。
    
    清瀧宮本殿
    
    拝殿
    
    同上
    参 : 醍醐寺ホームページ、[YouTube](お花見)
    問合せ先 : 075−571−0002(醍醐寺)
    アクセス : 市営地下鉄東西線「醍醐駅」下車、2番出口から出て団地内を横切り徒歩約15分。
            京阪バス「醍醐三宝院」下車すぐ(上醍醐寺へは下車後徒歩約60分)
            三条京阪から京阪バス86B系統「醍醐三宝院」下車
    
    醍醐寺配置図(パンフレットより)
    
    醍醐寺拝観券(表)現寸12.0×7.7cm
    
    醍醐寺拝観券(裏)
三宝院(さんぼういん) : 醍醐寺三宝院。京都市伏見区醍醐にある醍醐寺の院家(塔頭)。
    真言宗醍醐派に属し、醍醐寺五門跡の一つ。江戸時代には修験道当山派の本山。
    満済以後、当院門跡が代々醍醐寺座主職を兼任。
    1115(永久3)年、醍醐寺第十四世・勝覚(しょうかく)僧正の創建。
    醍醐寺の本坊的な坊で、以来、歴代座が住居としている。
    建物は代表的な書院造りの遺構として、その庭園とともに有名。
    庭園は特別史跡・特別名勝に指定され、豊臣秀吉が1598(慶長3)年、醍醐の花見に際して
    造営したもので、基本設計は秀吉という。桃山時代の豪華な襖絵で飾られた葵の間、
    秋草の間、勅使の間(重要文化財)に続き、唐門や表書院の国宝がある。
    史跡に指定された境内は、下醍醐、上醍醐に分かれ、100余りの堂塔が散在する。
    毎年、2月23日には、「五大力尊仁王会」(五大力(ごだいりき)さんの愛称で親しまれている)が
    行われ、この日に限って授与される御影(みえ=お札)は、災難除けのお守りとされている。
    また、有名な餅上げは、男子150kg、女子90kgの大鏡餅に挑戦する。4月第2日曜日には、
    豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」にちなんだ「豊太閤花見行列」が華麗な桃山絵巻を繰り広げる。
    
    三宝院入口
    
    唐門(国宝)。2010年7月に復元され、秀吉が修復させたころの姿を取り戻した。
    黒漆塗りに金箔張りで、天皇家の菊御紋と豊臣の五七桐紋があしらわれている

    
    同上
霊宝館(れいほうかん) : 醍醐寺が所蔵する歴史的な古書・彫刻・絵画・工芸を約10万点余りが
    収蔵されている。内、国宝や重文だけで4万点もある。
    毎年、春と秋には所蔵品の一部をこの霊宝館で展示する。





















































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