大寧寺(YSミニ辞典)
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大寧寺(たいねいじ) : 瑞雲萬歳山大寧護国禅寺
(ずいうんばんぜいさん・たいねいごこくぜんじ)の通称。
山口県長門市深川湯本1074にある
曹洞宗屈指の名刹で、
かつては「西の高野山」といわれるほどの隆盛を誇っていた。
室町時代に西国の覇者として山口に栄華を極めた大内氏の終焉の地としても知られている。
山号は瑞雲山
(ずいうんざん)。現在の住職は、前山口県立大学学長の岩田啓靖。
1410(応永17)年に周防・長門の守護大名・大内教弘
(おおうち・のりひろ)が
石屋真梁
(せきおく・しんりょう)禅師を開山として迎え創建したとされるが、
智翁永宗
(ちおう・えいしゅう)とする説もある。開基は大内氏一族で当時の守護代の
鷲頭弘忠
(わしのうず・ひろただ)公で、以降、長門の中心寺院として栄えた。
1466(文正元)年には政争に疲れて流浪の旅に出ていた
元関東管領・上杉憲実
(うえすぎ・のりざね)がこの寺で病死している。
1551(天文20)年に大内氏31代・大内義隆
(おおうち・よしたか)が
家臣の陶隆房
(すえ・たかふさ)≪後の晴賢
(はるかた)≫の謀反に遭い、
山口を脱出後にこの寺に逃れたが軍に包囲され自刃し、寺も焼失した(大寧寺の変)。
その後、毛利氏の庇護を受けて再建されたもので、広い境内に本堂、開山堂、観音堂などが立つ。
大寧寺川に架かる「
磐石橋(ばんじゃくきょう)」は、
江戸時代前期の燈外
(とうがい)和尚の時代の
1668(寛文8)年にできた全長14.2m、幅2.4mの橋で、2枚の石盤を大小の石で支えており、
岩国の
錦帯橋、山口にあった虹橋と並ぶ「防長三奇矯」の一つでもある。
燈外和尚作が残した漢詩には「山から石を掘り出して新しい橋がかかった。この橋は煩悩を絶ち、
世俗のけがれを断ち切る。この橋によって、趙州禅師にちなむ公案が実現できよう。
橋はロバも馬も、一切の生命あるものを渡すものである。」とある。
境内は広く、江戸時代に再建された本堂、かつての山門の礎石、
大内義隆公が顔をうつして最期を悟ったと伝わる姿見の池、かぶと掛けの岩などがある。
本堂裏手の山の中腹には、「
大内義隆主従の墓」があり、大内義隆公と嫡男の義尊、家臣の墓が並び、
苔むした宝篋印塔
(ほうきょういんとう)が無言のうちに悲しい歴史を語りかけるような気配を
漂わせている。その悲しい歴史とは、家臣 陶晴賢の反逆で、大守大内義隆主従は山口を追われ、
山道をたどり仙崎から海路脱出を試みる。しかし風波に阻まれ、死を覚悟し再び陸路湯本の
大寧寺に入った。当寺第13世・異雪
(いせつ)和尚の計らいで義隆らは行水、
白装束で和尚の法話を聴いた時、追手は既に寺を囲んでいた。義隆は家臣の介錯で自害し、
残るわずかな義隆勢は敵中に討って出て次々に倒れたのである。そのほか境内には鷲頭弘忠の墓、
室町時代の関東管領であった上杉憲実のものと伝える墓、威盛院良昌
(いじょういん・りょうしょう)など
江戸時代の毛利藩重臣の墓もあり、寺史の古さをうかがわせる。
また、明治時代から昭和の初期にかけて活躍した詩人・児玉花外が青海島をうたった詩碑がある。
なお、大寧寺本堂の西側に「
長門豊川稲荷(ながととよかわいなり)」があり、商売の神様として、
湯本温泉をはじめ長門地域の信仰を集めている。勧請したそのいきさつは、日本三大稲荷の一つ
愛知県豊川市の豊川稲荷と大寧寺が明治維新に関わる秘話によって結ばれているためという。
千本のぼりを過ぎた先には、稲荷神社特有の赤い鳥居と本堂がお目見えする。
アクセス : JR西日本美祢線長門湯本駅から徒歩20分。
または、JR長門駅→サンデン交通バス下関行きで19分、バス停:大寧寺下車、徒歩すぐ。
車では、中国道美祢ICから国道316号に入り20km30分。駐車場は無料。
問い合わせ先 :
0837−25−3469
参 :
大寧寺(HP)
大寧寺
大寧寺本堂
僧の寄宿寮を1829(文政12)年に移築した本堂。350数年を経過した建造物として、
1979(昭和54)年3月30日に山口県指定有形文化財として指定された。
本堂(紫雲閣側)
同上
本堂(祠堂側)
長門市指定有形文化財の本堂廊下に備え付けられた「梵鐘」。1396(応永3)年に鋳造された。
祠堂(左)と智日堂(右)
檀家の位牌(いはい)をまつる祠堂(しどう)。歴史資料館(虎渓殿)は2010(平成22)年4月開館予定。
祠堂の側面
智日堂(開山堂)
智日堂前の鬼瓦?のモニュメント
本堂裏手の山道より本堂の屋根を望む。手前は智日堂の屋根。
毛利家重臣墓群
経蔵跡。陶軍との戦闘の際に義隆重臣・冷泉隆豊が奮戦し自害したという場所。
本堂裏手の山の中腹にある「大内義隆主従の墓」
大内義隆の墓所
大内義隆の墓所(近影)
墓所は1967(昭和42)年7月4日、山口県指定の史跡となった。
宝篋印塔の墓石のそばに、1888(明治21)年、毛利元徳(もとのり)が
それぞれ名を刻んで建てた33基の墓標がある。
主君の墓に対面している従臣の墓
大寧寺本堂の西側にある「長門豊川稲荷」。献茶祭が5月上旬に催される。
同上
長門豊川稲荷