YSミニ辞典(て)

[ホーム] [索引] [前項] [次項]
転法輪寺(てんぽうりんじ) : @獅子吼山(ししくさん)・転法輪寺 : 京都市右京区龍安寺山田町2にある
     通称を「関通(かんつう)さん」と呼ばれる1756(宝暦6)年創建の浄土宗知恩院派に属するの寺院。
     仁和寺(にんなじ)の東北にある小さなお寺で、観光寺院ではなく信仰ある参拝者が訪れるのみだが、
     特徴ある中国風の鐘楼門が目立つ。「関通さん」という通称は、江戸時代の浄土宗捨世僧の
     関通上人が開山したことから呼ばれているが、上人の「開通」と名は本名ではない。
     関通上人は、1696(元禄9)年に尾張国(現・愛知県)に生れ、
     幼少より仏教を学んで13歳で剃度し、その後江戸で修行した。
     1723(享保8)年上人28歳の時、江戸の増上寺で祐夫についての修業を終えて故郷への帰路、
     箱根の関所に来た時に、箱根の関所の通行手形による旅人の往来を見て、人間界の苦しみの関所も、
     本願念仏の手形があれば必ず脱出できると悟り、「関通」を自身の名としたと言われる。
     享保10年(1725)より諸国に浄土宗をひろめ、16ケ森を創建し、得度させた僧尼は1500人、
     戒をさずけた者3000人に達したという。その後幾つかの寺院の住持となるが、
     後に諸国に念仏を広めるために一箇所に留まらない生涯を送り、精力的な活躍をした人である。
     そして1770(明知7)年に75歳で亡くなった。(尚、関通上人は、質素を旨とし念佛一筋を説いたので、
     この流儀を関通流といい、その好みの佛具(五具足)を関通型と言うそうである)
     この転法輪寺は、この開通上人の京都での活動の拠点であり、臨終の地でもある。
     元々、関通上人は、京都洛陽の東三本木の辺りにある
     轉輪寺(現・上京区東三本木通丸太町上るの円通寺)で念仏道場を開くが、その後信者の増加により
     新たな道場を探し、1756(宝暦6)年、阿弥陀様は西方におられるべきとの考えから、
     西方の北野下ノ森にあった円通寺(前記の円通寺とは別寺院)という廃寺を譲り受ける。
     2年後の1758(宝暦8)、に堂宇を創建し、本尊阿彌陀如来を新彫し開眼供養並を行った。
     その後、江戸時代には京都市内の西の果てだった北野も、徐々に町中になったため、
     大正時代になって、転法輪寺の阿弥陀様は西方におられるべきとの考えから、
     より西方の御室へと移転することとなったと言う。現在の地には、昭和4年に移転し、伽藍が整備された。
     本尊の木造阿弥陀如来座像は、高さ2丈4尺(約7m)の大仏様で、光背中央には櫻町天皇の
     御追福のために納められた鏡が飾られ、胎内には櫻町天皇直筆の御名号や関通上人の
     御念持佛(阿彌陀如來)一体等が納められていると伝わる。他に阿弥陀如来を安置している。
     また本尊阿弥陀様の真後ろに、子供の姿で裸の阿彌陀如来像が祀られている。
     この裸形阿弥陀如来像は、高さ2尺5寸(約90cm)で、室町時代の名工・賢問子作と伝わり、
     裸のままであることが、全国的に珍しい佛像である。以下の伝説がある。
     第35代の女帝・皇極天皇がまだ第34代舒明天皇の皇后だった時に、子供が無くて深く嘆いて
     春日明神に祈って、ようやくその加護よって懐妊した・・しかし生まれて来るのは皇女だと知り、
     胎内の皇女を望んでいた皇子へと変えていたただきたいと21日間祈願すると、
     春日明神が皇后の夢に現われ、阿弥陀如来の力を借りて願いを適える様にしようと言って、
     突然光明の中から裸の子供の形をした阿弥陀仏が現われて、皇后の口の中に入った途端にに
     夢から覚めた。そして無事皇后は皇子を生み、それが第38代天智天皇となったという。
     皇子誕生を喜んだ皇后が、夢の中に現れた阿弥陀仏を尊像として作らせたものがこの仏だと伝えられる。
     転法輪寺のシンボルになっているの中国風の鐘楼門の上段には大きな釣り鐘が釣られている。
     鐘の大きさは高さ9尺(2m70cm)横4尺2寸(1m20cm)ある。
     この鐘は、1764(宝暦14)年櫻町天皇の菩提のために造られた名鐘と伝えられ、
     大鐘を支える柱の幾つかが歪んでいるために撞くことはできなかったが、
     2009年春に再建され、今は鐘の音を響き渡らせている。
    
    石塔
    
    手水鉢
    
    山門(唐風の鐘楼門)
    
    同上。本堂側より
    
    同上。遠景
    
    鐘楼門内の梵鐘
    
    下から見上げる梵鐘
    
    本堂
    
    同上。遠景
    
    本堂前庭園内の石燈篭
    
    庭園
    
    三本木の転輪寺(今は円通寺)にあった手水鉢
    
    同上
    
    通用門の西門
    
    本尊阿弥陀如来坐像(1758年作、像高7m)
    
    同上。本尊大仏左側面
    
    裸形阿弥陀如来立像(江戸時代作、像高90cm)
    
    同上。近影
    アクセス : 市バス「塔ノ下町」下車、西へ徒歩約3分。JRバス「御室仁和寺」下車、徒歩約10分
    問い合わせ先 : 075−464−2668
    参 : 獅子吼山・転法輪寺(HP)
    
    京都の仏像、裸形阿弥陀如来像<右京区・転法輪寺>(2011.4.12、毎日新聞京都版より)
    珍しい子供の姿
     はかまを身にまとっただけの裸の阿弥陀(あみだ)さま。
    高さは約90センチ。子供の姿をしている像は珍しいという。
     寺伝によると、大化の改新より前の620年ごろ、舒明天皇の皇后だった後の皇極天皇が懐妊した。
    21日続きで祈とうすると、阿弥陀如来が夢枕に立ち、口から皇后の体内に入り込んだ。
    その後、皇后は天智天皇を出産。安産だったという。
     転法輪寺は江戸時代の1756年創建。寺伝の由来は分かっていないが、
    今も安産を願う女性が霊験を求めて足を運ぶ。
    A金剛山・転法輪寺 : 奈良県御所市高間472にある真言宗醍醐派の大本山の寺院。
     葛城修験道の根本道場でもある。修験道の開祖とされる役小角が
     16歳のとき大阪と奈良の県境にある、標高1125mの金剛山に登って苦修練行を重ねた結果、
     法起菩薩を感得し、その姿を本尊に刻んで天法輪寺を創建し、
     665(天智天皇4)年に祖神一言主大神を鎮守とし、
     法起大菩薩を祀る金剛山寺(転法輪寺)を建立して神仏習合の霊山としたのが開創と伝承される。
     奈良時代より明治維新に至るまで修験道七高山の1つに数えられ、歴代天皇の勅願所として
     五堂七宇の殿堂輪煥の美を誇った。行基、鑑真、最澄も来山し、聖宝も修行したと記録される。
     この山はもともと葛城山、高間山、高天山、葛城嶺などと呼ばれていたが、
     転法輪寺の山号である「金剛山」が葛城山脈の最高峰を指すようになったという。
     鎌倉時代の末、楠木正成がわずか500の兵で金剛山中腹に築いた山城(やまじろ)の千早城に
     戦陣を張って、鎌倉幕府が派遣した総勢5万といわれた関東の軍勢を寄せ付けなかったのは、
     金剛山寺(転法輪寺)の修験勢力の支援が大きかったと伝わる。
     江戸時代まで葛城修験道の中心として繁栄し、明治時代までは女人禁制だったという。
     明治元年の神仏判然令(神仏分離)によって一言主大神を祭神とする葛木神社のみが残されて、
     廃仏毀釈によって金剛山寺(転法輪寺)は廃寺となった。
     地元の金剛山講によって転法輪寺の復興が強力に要望され、日本国憲法による信仰の自由、
     神社庁を初め宗教学識経験者やマスコミ等の各界の意見を総合し、
     1950(昭和25)年役行者1250年御遠忌を契機として金剛山古来の伝統、
     神仏混淆の旧態に復して、真言宗醍醐派に属する葛城修験道大本山として転法輪寺が再興された。
     金剛山講の協力を得て本堂は1961(昭和36)年に落慶し再建された。
     アクセス : JR・近鉄御所駅よりバス20分、徒歩120分
     問い合わせ先 : 0745−62−3346
     参 : 金剛山・転法輪寺(HP)
    B鹿鳴山・転法輪寺 : 鹿児島県姶良市加治木町木田3176−1にある寺院。
     平安時代弘法大師が伝えた真言秘密仏教の秘法、護摩行(ごまぎょう)を修行している。
     問い合わせ先 : 0995−791−7885
     参 : 鹿鳴山・転法輪寺(HP)
    C竜華山・転法輪寺 : 兵庫県神戸市垂水区名谷町中山2098にある高野山真言宗の寺院。
     垂水区最古の寺であると言われており、平城天皇が即位の後、病気になり、
     806(大同元)年に在原行平が平癒を祈願して建てた勅願寺であると伝えられている。
     創建時は東垂水の高台にあったとも言われている。江戸期には三重塔があったとされる。
     寺はいく度かの火災、天災にあい場所を転々、現在のものは1986年に再建されたもの。
     転法輪寺の本尊である阿弥陀如来坐像は木造の平安後期の重文で、
     高さ1.417メートルの垂水区ではもっとも古い仏像と言われている。
     アクセス : 中山バス停下車、北へ徒歩10分
     問い合わせ先 : 078−62−3346
     参 : [YouTube](転法輪寺の蓮)
    D犬飼山・轉法輪寺(いぬかいさん・てぶりじ) : 奈良県五條市犬飼町124にある
     高野山真言宗の寺院。犬飼山遍照院と号し、高野山真言宗、俗に犬飼寺ともいわれる。
     本尊は空海像。祭神は丹生明神、狩場明神。寺宝に室町時代作の空海画像、狩場明神画像がある。
     寺記によると816(弘仁7)年、空海の創設で、「狩場明神に御立会の霊域也」とみえ、
     空海が南山犬飼(狩場明神)の引率する白黒二狗の先導により高野山を開いたと伝える。
     アクセス : JR和歌山線大和二見駅より西へ15分
     問い合わせ先 : 0747−22−4403
     参 : 犬飼山・轉法輪寺(HP)
    E湯谷山・転法輪寺 : 鳥取県東伯郡琴浦町別所472にある天台宗の寺院で、
     第二十五番札所でもある。本尊は空也上人像2体(毎年一回五月に開帳)。
     馬頭面観音菩薩座像、阿弥陀如来立像、西国三十三観音像などがある。
     寺伝によると慈覚大師の開基と伝えられ、醍醐天皇の皇子『空也上人』が仏門に入り
     念仏行者となって諸国行脚の末、972(天禄3)年この地で入定されたと伝えている。
     時の円融天皇が精舎を建立して転法輪寺と勅号されたという。
     本堂は1746(延享3)年に建築。間口3間、奥行き5間の入母屋造で、三方に軒支柱が立っている。
     以前はかやぶき屋根だったが、1954(昭和29)年に瓦にふき替えた。
     内部は大きな段差を設け、内陣と外陣の境を明確に分けている。当地には空也上人の墓所もあり、
     大イヌグスの大木(県の天然記念物)が塚を守るように生きづいている。
     境内には幹周りが5.45mにもなる大イチョウ(県の天然記念物がある。
     アクセス : JR山陰本線浦安駅下車バス30分
     問い合わせ先 : 0858−57−2053
    F










































inserted by FC2 system