東大寺(YSミニ辞典と)

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東大寺(とうだいじ) : 奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。南都七大寺の一つで、
    金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)総国分寺・大華厳寺ともいう。
    聖武光明皇后の長男・基(もとい)皇子が半年で亡くなったその菩提を弔うため、
    聖武天皇の発願により創建された小規模の金鐘寺に始まる。
    741(天平13)年に大和国分寺となり、さらに、行基が大勧進し、良弁(ろうべん)
    東大寺として開山した。本尊は奈良の大仏として知られる盧遮那仏(るしゃなぶつ)で、
    752(天平勝宝4)年に大仏開眼供養した。754(天平勝宝6)年には唐僧・鑑真(がんじん)
    来日して戒壇院を創設、三大戒壇の一つとして奈良時代平安時代を通じて興福寺と並ぶ大寺院となり、
    広大な荘園を有して栄えたが、中世以後衰えた。のち、度々の兵火で被害を受けたが、
    平安末の重源江戸時代の公慶によって復興した。
    東大寺大仏殿に本陣を据えていた三好三人衆(三好長逸:ながやす、三好政康、岩成友通)との
    激しい攻防のすえに劣勢となった松永久秀(悪逆無道と言われていた)は夜襲をかけ、
    1567年10月10日に東大寺大仏殿に放火して全焼させ、大仏の首を落としたことから、
    信仰深い当時の人々の非難の的となった。大仏殿の炎上は、1180(治承4)年に
    平重衡(たいらのしげひら)が焼いて以来のことであった。それでも久秀は、
    「木と銅(からがね)でつくられた大仏殿を焼いて、何の罰(ばち)があたろうぞ」と言い放ったという。
    久秀が信貴山城に立て籠もり、織田軍に攻め込まれて自爆した時刻が、
    10年前に東大寺大仏殿に火をかけた同日同時刻であったことから、
    人々は久秀の死を「仏罰」であると囃したてたという。
    奈良時代の遺構として転害門(てがいもん)、法華堂、正倉院、三月堂、南大門、
    鐘楼などとともに創建当時の不空絹索観音、日光・月光菩薩像をはじめ、
    各時代の美術品・文化財を多数残している。
    江戸時代の1709(宝永6)年に再建の大仏殿は、日本最大の木造建造物である。
    古都奈良の文化財として、1998(平成10)年12月2日京都市で開催された
    ユネスコ世界遺産委員会で日本で9件目の世界遺産(文化遺産)として登録された。
    
    国宝で世界遺産の東大寺金堂(大仏殿)2007年3月11日参拝
    

    
    
    
    この60〜70年前のものと現在のものとで、なぜ大仏の各部の寸法が違っているのでしようか。
    上の現在の東大寺と違う所は、仏教の伝わったルートを表現するため、昭和48年〜55年までの
    昭和の大修理の際に設置された大仏殿に向かう石畳で、中央の黒っぽいインド産の石から両サイドに
    中国、韓国、日本の4カ国の石が順に敷き詰められていることで、この写真には石の色の違いはない。

    
    
    
    国宝の東大寺鐘楼(列島宝物館より)
    法華堂(ほっけどう) : 東大寺にある奈良時代(8世紀)建立の仏堂で国宝に指定されている。
     一般には三月堂(さんがつどう)の通称で知られる。東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の
    1つであり、堂内に安置する仏像のうち14体も奈良時代の作である。
    東大寺境内東方の丘陵部に位置する、不空羂索観音立像(ふくうけんざくかんのんりゅうぞう
    本尊とする仏堂である。東大寺は広大な境内を有するが、このうち法華堂が位置する東方丘陵部の
    一画を「上院」(じょういん)と称し、法華堂のほか、「お水取り」で知られる二月堂、
    東大寺開山の良弁(ろうべん)の像を祀る開山堂など、多くの建物がある。
    この付近は大仏開眼(752年)以前から、東大寺の前身寺院があった場所で、
    法華堂はその主要堂宇の1つであった。
    
    東大寺法華堂
     法華堂内部
    法華堂創建は730年代前半か
     東大寺に現存する最古の建物とされる法華堂(三月堂)で、
    本尊の不空羂索(ふくうけんさく)観音立像(国宝)を安置する須弥檀(しゅみだん)
    729(天平元)年に伐採されたヒノキ材が使われていたことが、
    東大寺と総合地球環境学研究所の光谷拓実客員教授の調査で分かった。
    平安時代に編さんされた東大寺要録に法華堂は733(天平5)年創建と記されているが、
    瓦の研究などから740年以降の天平時代後半に建てられたとする説が有力だった。
    今回の発見は信ぴょう性が低いとされてきた東大寺要録の記録を裏付ける結果で、
    学説の再考が求められそうだ。2011年9月9日、
    東大寺の森本公誠(こうせい)長老が東京国立博物館での講演で明らかにした。
    森本長老は「観音像も729年以前に造られたものだろう」と話し、法華堂や観音像は728年に
    亡くなった聖武天皇の皇子・基王のために造られた可能性が高いとの見方を示した。

    
    東大寺蔵の「地蔵菩薩立像」(重要文化財)(2008.7.24、朝日新聞より)
    高さ90.1cm。快慶作(13世紀初期)。素材は、木造、彩色、截金(きりがね)、玉眼

    
    東大寺蔵の「誕生釈迦仏立像及び灌仏盤」(国宝)(2010.11.11、朝日新聞より)
    銅造、金メッキで8世紀の作。像高47cm、灌仏盤径89.4cm。
    豊満な誕生仏は、唐の造形の影響を受けたもので、天平期の新しい様式に基づいている。
    仏が備えているとされる32の優れた身体的な特徴を「三十二相」というが、
    その特徴である肩や脇などの豊かな肉の付き方が、よく表現されている。

    参 : 東大寺(HP)、長登銅山跡

    1251年たって東大寺で見つかった宝物
     東大寺などは2010年10月25日、1907(明治40)年に大仏殿から発見された
    国宝「金堂鎮壇具」の中の大刀2振りが、奈良時代に光明皇后によって正倉院宝物から取り出され、
    1251年間行方が分からなくなっていた「陽寶劔(ようほうけん)」と
    「陰寶劔(いんほうけん)」であると確認したと発表した。
    刀身から「陽劔」「陰劔」の銘文が見つかったためで、同寺は「歴史的な大発見」としている。
     同寺などによると、2振りは「金銀荘大刀」で、長さはそれぞれ97.2センチと98.5センチ。
    2010年度から保存修理事業を行っている元興寺文化財研究所保存科学センター
    (奈良県生駒市)でX線撮影したところ、刀身のつか近くの内側部分から、
    「陽劔」「陰劔」と刻まれた文字(1文字約2センチ四方)が見つかった。
    
    「陽劔」(右)と「陰劔」(左)のX線写真(元興寺文化財研究所提供のもの)
     陽寶劔と陰寶劔は756年、聖武天皇崩御に伴い、光明皇后が天皇の遺愛品を東大寺に寄進し、
    正倉院に納められた。その約3年半後の759年12月に刀が倉から取り出された記録が残っており、
    宝物の一覧表「国家珍宝帳」には六百数十点が記されている。しかし、「徐物(じょもつ)」といって、
    いったん納められながら倉から取り出された品々が7点あり、以後、行方が分からなくなっていたが、
    東大寺の大仏の足元に埋められていたふた振りの大刀がそのうちの2点だった。
     明治時代に大仏殿を修理したとき、足場を組むために大仏が座っている蓮華座と、
    土台の須弥壇の境目付近3カ所をほったところ、そのいずれからも大刀などがみつかった。
    そのときは寶劔に象嵌(ぞうがん)があることなどはわからず、
    一括して「鎮壇具」とされ、国宝に指定されていた。
    鎮壇具とは、仏堂を建てるにあたり、永続を祈って地の神に捧げる宝物のこと。
    
    東大寺大仏殿の金堂鎮壇具から見つかった「陽劔」と「陰劔」(朝日新聞アスパラクラブより)
    
    埋まっていたのは、大仏のひざの前に当たる蓮弁の根元付近と見られている(同上)
    今回の発見によって、鎮壇具かどうかという議論が起きている。また、「徐物」とされた品々が
    ほかにも大仏の回りに埋められているのではないか、という見方も出てきた。
     光明皇后が1250年前に残した謎はまだまだ解き明かされてはいない。
東大寺別院周防阿弥陀寺(とうだいじべつてんすおうあみだじ) : 周防阿弥陀寺。
    山口県防府市牟礼(むれ)上坂本1869にある真言宗御室(おむろ)派の寺で、
    正式名は「東大寺別院周防華宮山阿弥陀寺」。現本堂は、1731(享保16)年に
    毛利広政公が再建したもので、本尊に阿弥陀如来立像、ほかに十一面観音などを祀る。
    境内には山アジサイゆガクアジサイ、本アジサイ、西洋アジサイ、コアジサイ、ウツギなど80種類、
    4000株もの紫陽花(アジサイ)が植えられており、西日本一の「あじさい寺」としても有名で、
    毎年6月の第三日曜あたりに「あじさい祭」が開催される。
    
    周防弥陀寺のあじさい園。後方に本堂が見える(2008.6.30撮影)
    
    周防弥陀寺入り口の石碑
    
    水車方面への石橋
    
    仁王門(表)
    
    
    
    金剛力士立像(国重要文化財)。像高271.4cmの吽形(うんぎょう)
    
    像高271.1cmの阿形(あぎょう)
    

    
    仁王門(裏)
    1180(治承4)年に奈良の東大寺が平重衡(たいらのしげひら)の兵火にかかって焼失したため、
    俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)上人が東大寺の再建の大勧進となって
    大仏と建物修復に取り組み、再建の良木を求めて周防にくだられ、
    徳地の滑山から材木を切り出し、瀬戸内海経由で奈良まで運んだ。
    周防阿弥陀寺は、重源上人が下向した翌年の1187(文治3)年に後白河法皇の無事安穏祈願と
    東大寺の別所として建立され、浄土教発展の一拠点となった。当時は念仏堂が中心であり、
    また湯につかりながら念仏を唱える「浴場念仏」をするための石風呂の湯屋もある。
    
    湯屋
    
    石風呂。薬草・石菖を敷き、むしろの上に横たわる
    
    
    
    
    
    
    
    周防弥陀寺本堂
    
    
    
    重源上人を祀る「開山堂」。鎌倉肖像彫刻の快慶一派の作とされ、日本最古の寿像といわれる
    重源上人坐像(88.78cmの桧の一木彫り)が祀られている。

    
    本尊阿弥陀如来座像が安置されている「念仏堂」
    
    
    
    鐘楼
    
    鐘楼(左)と念仏堂(右)
    
    本尊釈迦如来座像が安置されている「経堂」
    
    
    
    お茶屋
    
    砂防堤
    
    不動橋より上流を望む
    現住職は京都の大谷高校勤務や多々良学園高校で教鞭をとられたことのある
    昭和19年防府市生まれの林 寛孝(はやしかんこう)さん。
    入山料は大人200円、中学生以下無料。問合せ先:0835−38−0839
    
    住職からいただいた境内にある菩提樹の大木の実。この実から数珠ができる
    参 : 東大寺別院周防華宮山阿弥陀寺(HP)

    阿弥陀寺のあじさいまつり・花供養 (あじさいまつり・はなくよう)
     小ぶりなヤマアジサイやガクアジサイなど80種類約4000株のあじさいが境内いっぱいに咲き、
    別名「あじさい寺」としても知られる東大寺別院阿弥陀寺。
    花供養やあじさいを愛でながらの抹茶・甘酒の接待、バザーなど多彩な催し物が行われる。
    交通アクセス : JR山陽本線「防府駅」から「阿弥陀寺行」バス22分
    開催期間 : 2010年6月1日〜30日(あじさいまつりは6月20日)
    料金 : あじさいまつり期間中は入山料が必要
    問合せ先 : 0835−38−0839(東大寺別院阿弥陀寺)

















































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