唐招提寺(YSミニ辞典)
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唐招提寺(とうしょうだいじ) : 奈良市五条町13−46にある寺院で、
南都六宗の一つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏
(るしゃなぶつ)。
開基(創立者)は、聖武
(しょうむ)・孝謙
(こうけん)両上皇の勅願により来朝した
唐僧・過海
(かかい)大師鑑真和上
(がんじんわじょう)である。
「続日本紀」等によれば、唐招提寺は756(天平勝宝8)年、鑑真和上が
新田部親王の(
にいたべしんのう、天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷からを譲り受けて建立した寺で、
初めは唐律招提寺
(とうりつしょうだいじ)、唐寺
(とうじ)、律寺などと称され、
延喜
(えんぎ)式十五大寺、南都七大寺の一つに数えられた。
寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、
元来は「四方」「広い」などの意味を表わす語であったが、
「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。
つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。
759(天平宝字3)年に「唐招提寺」の勅額が下賜されたが、その勅文には、
「招提是諸寺本寺十方僧依所、日域七衆根本寺、故號唐招提寺」とあり、
四方僧坊の義をとり、諸寺の根本とし、戒壇
(かいだん)を設け律宗の根本道場とした。
以後、天皇・皇后以下百官も皆ここで受戒し、帰依
(きえ)も厚かった。
『大般若経
(だいはんにゃきょう)』『金光明
(こんこうみょう)経』を読ませ、
鎮護国家金光明建初律唐招提寺と号したこともあった。王朝とともに隆盛を極めていた唐招提寺は
やがて勢力を失い、
平安時代末期には興福寺(法相
(ほっそう)宗)の末寺となった。
その後、嘉禎
(かてい)年間(1235〜38)に覚盛上人
(かくじょうしょうにん)が中興第1世となって
戒律を復興し寺域を整えたが、ふたたび戦国の兵乱、地震による倒壊などで衰えた。
江戸時代に徳川5代将軍綱吉
(つなよし)、その生母桂昌院
(けいしょういん)らの帰依により
大規模な修理がなされた。1900(明治33)年に独立して律宗総本山となる。
井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった鑑真が晩年を過ごした寺であり、
奈良時代建立の金堂、講堂をはじめ、多くの文化財を有する。
唐招提寺は1998(平成10)年に古都奈良の文化財の一部として、
ユネスコより世界遺産に登録されている。
参 :
唐招提寺(HP)
南大門(なんだいもん) : 近年、新築されたものであるが、往時もここに南大門があった。
南大門
金堂(こんどう) : 国宝。奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものである。
寄棟造、本瓦葺きで、大棟の左右に鴟尾
(しび)を飾る。
金堂
講堂(こうどう) : 国宝。入母屋造、本瓦葺き。正面9間、側面4間。
平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、760(天平宝字4)年頃、平城宮の改修に伴って
移築された。東朝集殿は、壁や建具のほとんどない開放的な建物で、屋根は切妻造であったが、
寺院用に改造するにあたって、屋根を入母屋造とし、建具を入れている。
鎌倉時代の1275(建治元)年にも改造されているが、奈良時代宮廷建築の唯一の遺構として
極めて貴重である。堂内には本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉時代)と、
持国天、増長天立像(重文、奈良時代)を安置する。
講堂。右奥の建物は東室(ひがしむろ)
同上
御影堂(みえいどう) : 重要文化財。文化財指定名称は「旧一乗院 宸殿 殿上及び玄関」。
鑑真の肖像彫刻(国宝)を安置する(開山忌前後のの6月5日〜7日のみ公開)。
建物は興福寺の有力な子院であった一乗院(廃絶)の遺構で、1649(慶安2)年の建立。
1962(昭和37)年までは地方裁判所の庁舎として使用され、1964年に唐招提寺に移築された。
障壁画は鑑真像に奉納するため、日本画家東山魁夷によって新たに描かれたものである。
新宝蔵(しんほうぞう) : 1970(昭和45)年に完成した鉄筋コンクリートの収蔵庫。
例年春と秋に期日を限って公開される。金堂にあった木造大日如来坐像(重要文化財)のほか、
「旧講堂木彫仏群」といわれる、もと講堂に仮安置されていた
奈良時代末期〜平安時代前期の一木彫仏像群が収蔵され、一部が展示されている。
鼓楼(ころう) : 国宝。金堂・講堂の東側に建つ、小規模な楼造(2階建)の建物。
入母屋造、本瓦葺き。鎌倉時代の1240(仁治元)年の建築。
頭貫は端部を大仏様
(だいぶつよう)の木鼻とする。西側の対称的位置に建つ鐘楼に対し
「鼓楼」と称するが、この建物には太鼓ではなく、鑑真が唐から請来した仏舎利を安置しており、
そのため舎利殿とも称する。毎年、5月19日に行われる梵網会(
ぼんもうえ、通称「うちわまき」)の際は、
この建物の楼上から縁起物のうちわが撒かれる。
鼓楼
鐘楼(しょうろう) : 鼓楼に相対し、金堂と講堂の間の西側には鐘楼がある。
鐘楼
礼堂(らいどう) : 重要文化財。鼓楼の東にある南北に細長い建物。
もとの僧房を1283(弘安6)年に改築したものである。桁行19間、梁間4間、入母屋造、本瓦葺き。
中央やや南寄りに馬道(
めどう、土間の通路)があり、それより北の10間分が東室、南の8間は
仏堂となり、隣の鼓楼(舎利殿)に安置された仏舎利を礼拝するための堂として礼堂と呼ばれる。
礼堂内には清凉寺式釈迦如来立像(重要文化財)と日供舎利塔(重要文化財)を安置する。
木造釈迦如来立像(もくぞうしゃかにょらいりつぞう) : 像高166.7cm。京都・嵯峨清凉寺にある、
三国伝来の霊像として信仰を集める釈迦像の様式を模した「清凉寺式」と呼ばれる形式の釈迦像である。
中興の祖の覚盛が始めた釈迦念仏会
(ねんぶつえ)という行事の本尊として造立されたものであり、
像内納入文書により1258(正嘉2)年の造立と判明する。
釈迦念仏会に合わせ、10月21日〜23日のみ公開される。
経蔵、宝蔵(きょうぞう、ほうぞう) : 各国宝。礼堂の東側に並んで建つ。
ともに奈良時代の校倉造倉庫。経蔵は唐招提寺創建以前ここにあった新田部親王邸の
倉を改造したものとされ、宝蔵はここが寺になってから建てられたものと推定される。
経蔵。左側にに並んで宝蔵がある
戒壇(かいだん) : 境内西側にある。戒壇は、出家者が正式の僧となるための受戒の儀式を行う場所。
戒壇院の建物は江戸時代末期の嘉永元4(1851年)に焼失して以来再建されず、
3段の石壇のみが残っている。1980年にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が壇上に置かれた。
唐招提寺の戒壇は創建時からあったものとする説と、
鎌倉時代の1284(弘安7)年に初めて造られたとする説とがある。
本願殿(ほんがんでん) : もとは開山堂と称し、国宝の鑑真和上像はもとはここに安置されていた。
現在は聖武天皇を祀る。
中興堂(ちゅうこうどう) : 重要文化財の木造大悲菩薩坐像(中興の祖・覚盛の肖像)を祀る。
通常は非公開。
地蔵堂(じぞうどう) : 重要文化財の木造地蔵菩薩立像を安置する。地蔵盆(8月23・24日)の期間のみ公開。
東塔跡(とうとうあと) : かつて存在した五重塔の跡。『日本紀略』によれば、810(弘仁元)年の創建。
1802(享和2)年に落雷で焼失した。
西方院(さいほういん) : 律宗唐招提寺派の塔頭寺院、別名は唐招提寺奥之院。少し西にある。
鑑真和上開山御廟(がんじんわじょうかいざんごびょう) : 鑑真和上の墓所。
鑑真和上御廟。奥にあるのは鑑真和上の遺骨を祀った御廟宝筐印塔
唐招提寺境内略図は
こちら
唐招提寺拝観券(表)(原寸13.5×6.3cm)
唐招提寺拝観券(裏)(原寸13.5×6.3cm)
アクセス : 近鉄「西ノ京駅」から徒歩8分、またはJR「奈良駅」または
近鉄「近鉄奈良駅」から「六条山行」の奈良交通バス約17分「唐招提寺」すぐ
唐招提寺「うちわまき」、鼓楼には「東日本復興」の文字も
うちわまき」で知られる中興忌梵網会
(ちゅうこうきぼんもうえ)が2011年5月19日、
奈良市の唐招提寺で営まれ、僧侶らが厄除けなどの御利益があるとされる
ハート形のうちわ「宝扇
(ほうせん)」約200本を参拝者にまいた。
うちわまきは鎌倉時代の同寺中興の祖・覚盛上人の命日に遺徳をしのぶ行事の一環。
僧侶が鼓楼(国宝)の2階から宝扇をまくと、参拝者が競い合うように手を伸ばしていた。
また、鼓楼の壁面には俳優や画家など著名人が書いたうちわも飾られ、
「東日本復興」や「上を向いて歩こう」の文字も見られた。(
MSN産経ニュースより)
かつては3千本をまいていたが、参拝者の事故を避けるため、年々本数を減らしている。
そのかわり、1500人に無料でうちわが当たる抽選が行われる。 参 : [
YouTube](うちわまき)