YSミニ辞典別掲(さ)

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佐賀城跡(さがじょうし、さがじょうせき、さがじょうあと) : 佐賀市城内一丁目5番地にある
    鍋島36万石の居城(平城)の跡。大堀の東側の堀は埋め立てられているものの、
    残る三方の堀は昔ながらの姿をとどめ、「沈み城」の別名がある。
    佐賀城は、もともと佐賀を治めていた龍造寺(りゅうぞうじ)氏の村中(むらなか)城を
    鍋島直茂(なおしげ)、勝茂(かつしげ)親子が拡張・整備したもので1611(慶長16)年に完成した。
    本丸は東西約126m、南北約122mで、その西北部に5層の天守閣があり、
    石垣の高さは9mだったといわれている。周囲を幅80mにおよぶ濠(ほり)と土手に囲まれ、
    土手に植えられた松や楠などの樹木で、城内を覗くことができないように工夫されていた。
    たび重なる火災で焼失・再建を繰り返し、1726(享保11)年の火災では、
    天守をはじめ本丸・二の丸・三の丸のほとんどが焼失している。そのため、
    1728(享保13)年に二の丸が、1755(宝暦5)年に三の丸が再建されたが、
    本丸の再建は見送られ、二の丸が永らく藩政の中心であった。
    ところが、1835(天保6)年の火災で再び二の丸が焼失したため、
    時の10代藩主鍋島直正は110年ぶりの本丸再建を表明し、「佐賀城御本丸差図」を作成させた。
    天保9年には直正が新築なった本丸に入り、佐賀藩の雄藩化を推進するとともに、
    日本の近代化のリーダーとして政務を執った。
    1874(明治7)年、江藤新平(えとうしんぺい)の起こした「佐賀の役」によって、
    一部の建物が破壊されたが、残った建物も年を経る毎に随時解体され、
    今では、本丸の門として1838(天保9)年6月に完成した鯱の門(しゃちのもん)
    続櫓(つづきやぐら)と石垣を残すのみとなっている。
    鯱の門壁は白壁で、棟の両端には名前の由来である青銅製の鯱が置かれている。
    どっしりと構えた門や扉には1874(明治7)年の「佐賀の役」の弾痕が残り、
    当時の闘いの凄まじさを物語っている。門の構造は、二重二階の櫓門に、
    一重二階の続櫓を組み合わせたもので、屋根は本瓦葺、入母屋造りで、
    大棟の南北には、佐賀藩の御用鋳物師谷口清左衛門の手による鯱がおかれている。
    なお、鯱の門と続櫓は国の重要文化財に指定されている。
    現在、城跡をとりまくお濠一帯は県立佐賀城公園となっている。また、
    濠端には樹齢300年を超えると推定される大楠が並び、これらは県の天然記念物に指定されている。
    
    復元した南西隅櫓台。切り石による「亀甲乱積」という手法で積まれている石垣
    
    復元した西側土塁石垣
    
    南西隅櫓台の前には紫蘭(しらん)の花が咲き乱れていた
    
    
    
    
    
    佐賀城天守閣跡の石垣
    
    
    
    
    
    佐賀城鯱の門。二重二階の櫓門で約1.7mの鯱が一組載っている
    
    1726年に建てられた唯一の残存建物で、国の重要文化財に指定されている
    
    鯱の門に展示してあるアームストロング砲。戊辰戦争で威力を示した
    
    
    
    県立佐賀城本丸歴史館。幕末期の佐賀城本丸御殿の一部を忠実に復元し建てられた歴史博物館
    
    
    
    
    
    本丸歴史館内部
    
    館内展示の「長行公征長兜(ながみちせいちょうかぶと)」。鉢の部分が木(桐)で作られている
    
    
    参 : 佐賀城本丸歴史館(HP)


















































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