城関連(YSミニ辞典別掲)
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赤穂城跡(あこうじょうせき、あこうじょうあと) : 兵庫県赤穂市上仮屋1424−1の約19.1haの城跡公園に、
大石神社や本丸庭園などがある。加里屋
(かりや)城、大鷹城を経て、
赤穂浅野家の藩祖・長直の指示によって1648(慶安元)年から13年の歳月をかけて築かれた赤穂城は、
近代城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城で、天守閣こそないが、
複雑に折れ曲がった石垣や角度を違えた諸門など、戦を意識した造りで、「近世の名城」と言われていた。
明治の廃藩後、城は取り壊され、現在は城跡公園になっている。
平成4〜8年に復元された「本丸門」(2007.9.27撮影)
天守台
二の丸外堀
本丸厩口門
大手門
1955(昭和30)年に復元された「大手隅櫓」
1701(元禄14)の浅野家断絶後は、永井家、森家の藩主の居城となり、森氏のときに明治を迎えた。
現在、大手門や隅櫓のほか、本丸門が1996(平成8)年に復元され、順次整備が進められている。
三の丸にある大石神社は、1912(大正元)年に建立され、大石内蔵助良雄を始め47義士と、
中折の烈士萱野三平を主神に祀っている。
1912(大正元)年に創建された「大石神社」

参道には義士たちの石像が並び、境内には義士ゆかりの武具や書画などを展示する
「義士資料館」がある。拝観無料だが、「義士資料館」は入館料420円

同上。参道の左右に義士たちの石像が並んでいる
境内には、大石良雄宅跡(長屋門・庭園)、義士木像奉安殿、義士宝物館など、見所が数多くある。
大石良雄宅跡長屋門
赤穂城米蔵跡に建てられ、米蔵を模した外観の赤穂市立歴史博物館(左側を回った所に入口がある)
赤穂義士や赤穂名産の塩などを学ぶことができる。
1971(昭和46)年に国史跡指定を受け、2002(平成14)年には本丸庭園と二之丸庭園が
国の名勝に指定され、文化財の修復・復元、都市公園としての整備も進められている。
赤穂義士祭 : 毎年12月14日に催され、義士の討ち入り姿に扮した義士行列や、
参勤交代を再現した大名行列などの多彩な市中パレードが赤穂城大手門から出発し、
道中約15kmの沿道を埋めつくした観衆を元禄の世界へと誘う。
当日は、大石神社の祭典や
花岳寺の法要、伝統の武道大会も行われる。
参 :
赤穂観光協会(HP)、
赤穂城跡のご案内(HP)
安土城(あづちじょう) : 現在の滋賀県蒲生
(がもう)郡安土町下豊浦にあった日本の城(
平山城)。
城址は国指定特別史跡に指定されている。また、城下には安土セミナリオ(神学校)跡もある。
戦国期、
織田信長が天下統一のための拠点として1579(天正7)年に築城した。
安土城は現在の安土山に建造され、大型の天主(「天守」の表記は
豊臣秀吉の時代以降)は
近世城郭の草創期のものであり、威容を誇っていたが、1582(天正10)年の
家臣明智光秀の信長への謀反、いわゆる
本能寺(ほんのうじ)の変後まもなくして
何らかの原因(次男の信雄が火を放ったとも、明智光秀の娘婿が放火したとも言われる)
によって焼失した。本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、
信長の嫡孫秀信が清洲会議の後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。
しかし、秀吉の養子・豊臣秀次の八幡城築城のため、
1585(天正13)年をもって廃城されたと伝わっている。
現在、穴太
(あのう)積みの手法による広壮な石垣と、
本丸、天守台部分の礎石など一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧している
宣教師ルイス・フロイスなどの記録によってその様子をうかがい知ることができる。
安土城址(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
現在は干拓などによって湖岸からやや離れ、安土山の全体に城郭遺構が分布しており、
当時の建築としては城山の中腹に所在するハ見寺の境内に仁王門と三重塔が残っている。
かつて徳川家康邸のあった所は現在

見
(そうけん)寺が建てられ、
二の丸には信長の霊廟
(れいびょう)が置かれている。
二の丸跡
安土城図
安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、
ここで培われた築城技術が
安土桃山時代から
江戸時代初期にかけて相次いで
日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団、
いわゆる「穴太衆」はその後全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった。
ただし、安土城に残る当時の石垣の積み方は場所により様々であり、
特定の「穴太積み」なる技法の存在を想定するのは難しい。
築城時の普請奉行
(ふしんぶぎょう)は丹羽長秀
(にわながひで)で、1576(天正4)年正月に着工し、
1579(天正7)年にほぼ完成したが、信長は着工の直後の7年5月、建物の一部ができあがるとすぐ
稲葉山
(いなばやま)城から居を移している。信長が岐阜から安土に城を移したのは、
一つには越後
(えちご)(新潟県)の上杉謙信
(うえすぎけんしん)対策であり、
一つには北陸の一向一揆
(いっこういっき)を監視するためであった。しかも、
岐阜よりははるかに京都に近く、
琵琶湖(びわこ)の水運を掌握できるという利点もあったからである。
城郭史からみて安土城が特筆されるのは、五層七重(地上6階地下1階)の
天守閣が建てられたことである。この天守閣は『信長公記
(しんちょうこうき)』のなかの
「安土山御天主之次第」や、キリスト教宣教師たちの描写によってかなりはっきりしており、
内部の柱には金箔
(きんぱく)がはられ、外部は各層が違った色で塗ってあったことや、
客間としての書院、納戸、台所などが備わり、座敷は畳敷きで、
障壁には狩野永徳
(かのうえいとく)の絵が描かれていたのである。
なお、城はちょうど琵琶湖に突き出た形で、
麓
(ふもと)から山頂まで約100mほどの安土山に
曲輪(くるわ)が配置され、
本丸、二の丸を中心として、家臣の屋敷がそれぞれ一つの曲輪の形となっていた。
滋賀県は1987(昭和62)年から20年計画で安土城の発掘調査を行っており、
南山麓から本丸へ続く大手道、通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、
天皇行幸を目的に建設したとみられる内裏の清涼殿を模った本丸御殿などの
当時の状況が明らかとなりつつあり、併せて石段・石垣が修復工事されている。
築城の目的は岐阜城よりも京に近いため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に
位置していたことから信玄亡き後信長の最大の脅威であった上杉謙信の上洛を阻止できる
立地条件にあったためとされている。その規模、容姿は太田牛一や宣教師の記述にあるように
天下布武、信長の天下統一事業を象徴する城郭であり、山頂の天主に信長が起居、
その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。
糸数城跡 =
糸数城跡(別掲)
犬走り(いぬばしり) =
犬走り(別掲)
犬山城(いぬやまじょう) : 愛知県犬山市にある城。全国に12箇所しか現存していない、
江戸時代前後に建造された
国宝の天守を有する城郭の一つである。
別名の「白帝
(はくてい)城」の名は、犬山城が木曽川沿いにあり、三国志の劉備が臨終を迎えたことで
有名な白帝城も長江沿いにあることから、それにちなみ荻生徂徠が命名したと伝えられる。
戦国時代の1537(天文6)年に
織田信長の叔父の織田与次郎信康によって築城された
平山城で、1584年の小牧長久手の戦いの際には
豊臣秀吉が12万の大軍で犬山城に入り、
南側の小牧城に陣取る徳川家康と合戦を行ったという歴史もある。
のち1617(元和3)年には徳川幕府尾張藩の付家老であった成瀬正成が入城し、
明治時代の廃藩置県で廃城に至るまで成瀬家が代々犬山城主を務めた歴史を持つ。
天守閣のすぐ北側を木曽川の大河が流れて、天然の要害をなし、軍事・経済・交通面においても、
木曽川を押さえる要衝にあった犬山城は、戦略上重要な位置を占めていたと思われる。
現存する天守閣は高さ19mの三層構造を持ち、全国の現存する天守閣の中でも最も古いとされている。
その後1891(明治24)年の濃尾地震や1961(昭和36)年の伊勢湾台風によって被害を受け、
現在の天守閣は伊勢湾台風の後解体修理が行われ、1965(昭和40)年に完成した。
1935(昭和10)年に天守閣が旧国宝に、
1952(昭和27)年には文化財保護法による国宝に指定された。
本丸庭園のお茶席と天守閣(高画質壁紙写真集無料壁紙より)
今治城 =
今治城(別掲)
入隅 =
入隅(別掲)
岩国城(いわくにじょう) : 山口県岩国市横山にある山上の城である通称「横山城」と、
麓の居館である「土居」から成る。
江戸時代初期は岩国藩の居城となり、
廃城後は土居が陣屋として存続した。城下と城を隔てる錦川には
錦帯橋が架けられ、
特徴的な景観を作り出している。城下町はこの錦帯橋の道筋を基準に整然と整備された。
岩国城天守閣
岩国城天守閣から錦帯橋方面を望む
1600(慶長5)年、関ケ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を大幅に削減され、
広島城から萩城に移封となった。同時に一族であり毛利家存続に注力した吉川広家も
同時に米子城から当地に3万石で封じられた。慶長5年10月には家臣団が、
1601(慶長6)年には広家がこの地に赴任した。広家赴任と同時に岩国城の築城が開始された。
麓に平時の居館となる「土居」と、戦時の城「横山城」が横山山上に築かれた。
築城には8年の歳月が費やされ、まず翌1602(慶長7)年に土居が完成した。
土居完成とほぼ同時期に横山城の築城が開始され、1608(慶長13)年に竣工した。
本丸には4重6階の唐造りの天守が建造された。しかし、完成からわずか7年後の
1615(元和元)年に幕府の一国一城令により横山城が破却され廃城となった。
これは、周防国にはこの岩国城のみが存在していたが、長府藩の毛利秀元が居城の
櫛崎城を破却したことに合わせざるを得なかったことによる。
その後、麓の土居は岩国藩の陣屋として明治維新まで存続した。
現在の復興天守は、錦帯橋付近からの景観を考えて本の丸南側に建てられているが、
本来の天守は本の丸北側にあり、本来の天守台が残っている。
岩国城のカラクリ時計
参 :
岩国市役所(HP)
大阪城(おおさかじょう) : 古くは摂津国東成郡大坂の地にあったことから「大坂城」と書き、
別称に「金城」あるいは「錦城」がある。現在は大阪市中央区大阪城1−1にある
城で、
名古屋城、
熊本城と共に日本三名城の一つで、1997年に国の登録有形文化財に登録されている。
豊臣秀吉が、
安土桃山時代の1583(天正11)年から15年の歳月を費やし、
織田信長に抵抗した石山本願寺跡に築城した。淀殿の子の秀頼のときの1614年、
大坂冬の陣で
徳川家康の率いる大軍に攻められ、翌年の大坂夏の陣で落城焼失した。
家康の死後、1620(元和6)年から征夷大将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が始められ、
3期にわたる工事を経て1629年に再建され、徳川幕府の関西ないしは西日本支配の拠点となり、
城主のいない城に代わって大坂城代が置かれた。
徳川氏の大坂城は豊臣氏の大坂城の石垣と堀を破却して、全体に数メートルの盛り土をした上に
より高く石垣を積んだので、豊臣大阪城の遺構は地中に埋もれてしまった。
1885年、和歌山城二の丸より御殿の一部が移築され、「紀州御殿」と称された。
徳川幕府は、一度だけ天守閣を再建するが落雷のため焼失してしまい、
以後、天守閣の再建はなかった。1888年には、本丸桜門が復元された。
1928年、当時の大阪市長關一
(せき・はじめ)氏が天守の再建を提案し、集められた市民の
募金150万円(現在の600億円に相当)によって陸軍第四師団庁舎移転と天守建設がすすめられ、
1931(昭和6)年に鉄骨とコンクリートによる天守閣が再建された。
1931(昭和6)年築の大坂城天守閣(国登録有形文化財)2007.12.17撮影
高さは54.8m(天守台・鯱を含む)。現在、天守閣の中は大阪城天守閣という博物館になっている。
終戦後、城内の陸軍用地が進駐軍に接収され、1947年に米軍の失火により紀州御殿が焼失した。
1995(平成7)年から1997年にかけて、平成の大改修が行われ、耐震補強や壁の塗り替え、
傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。
また、身体障害者や高齢者、団体観光客向けにエレベーターが
小天守台西側(御殿二階廊下跡)に取り付けられた。
西側よりの天守閣
1965(昭和40)年に復元された極楽橋より望む
北西側の内濠より天守閣を望む
城内で二番目に大きな肥後石
大阪城は広く、本丸・二の丸部分だけでも約73万m
2もあり、
周辺を含め大阪城公園全域になると約107万m
2にもなる一大史跡公園になっている。
大阪城の江戸時代の古建造物13棟をはじめ、さまざまな文化・スポーツ施設などもある。
参 :
(財)大阪観光コンベンション協会天守閣事業チーム(HP)
大阪城公園に1万5000個の行灯(MSN産経ニュースより)
大阪城公園(大阪市中央区)に約1万5000個の行灯
(あんどん)を並べる
「城灯
(しろあか)りの景
(え)」が2009年8月21日夜行われた。22日も午後6〜9時に開催される。
ライトアップされた天守閣が、ろうそくの淡い光に包まれて幻想的な光景が広がった。
2001(平成13)年から天守閣復興70周年を記念して、
大阪市や大阪商工会議所などでつくる実行委員会が主催。
2009年は22日に、1000人の参加者が光る風船を持って行進し、光の「銀河」を描き出す試みもある。
大阪城天守閣を背景に敷き詰められた行灯
垣花城跡 =
垣花城跡(別掲)
勝連城跡 =
勝連城跡(別掲)
唐津城(からつじょう) : 佐賀県唐津市東城内にある
平山城で、江戸時代初期の1602(慶長7)年に
豊臣秀吉の家臣・寺沢志摩守広高
(てらさわしまのかみひろたか)が九州諸大名の加勢を受け、
近くの名護屋城の解体資材を用いて築城を始め、1608(慶長13)年に完成した。
山頂部に本の丸を置き、西に二の丸・三の丸を配置し、更に南に外郭を設けた中規模の城で、
江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となった。唐津城の本丸跡は現在では舞鶴公園として整備され、
本丸跡に建つ天守は1966(昭和41)年に寺沢氏時代の慶長様式を取り入れて完成したもので、
5層5階地下1階の堂々とした天守で、天守を鶴の頭に見立て、
左右に広がる松原が鶴の翼の形に似ていることから「舞鶴城
(まいづるじょう)」とも呼ばれている。
唐津城には天守台はあったが過去に天守閣が建てられた跡はなく、地元の昭和バス社長だった市長の、
観光誘致策という面があったとされる。当時のお金で1億5千万かけて昭和の城が完成した。
設計は「昭和天守閣」を数多く設計した城郭研究家の権威だった東京工大の故・藤岡道夫教授で、
唐津城のモデルは、1596(慶長元)年の大地震で崩壊した京都の伏見城とされる。
唐津城(2004.11.3撮影)
参 :
あしこし九州(HP)
鞠智城跡(きくちじょうあと) : 熊本県山鹿市菊鹿町米原
(よなばる)台地上にある古代山城で、
東アジア情勢が緊迫した7世紀後半(約1300年前)に、律令国家・大和朝廷(政権)によって築かれ、
現在の菊池市と菊鹿町を含む120haにおよぶ城域となっている。
城の中心地は菊鹿町になるが、菊池市側に城へ入る門の礎石(堀切門礎・深迫門礎)が位置している。
城の呼称には古来名の「鞠智」の文字が見え、後に「菊池」という字に変わった。
663年の「白村江
(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅の連合軍に大敗した大和朝廷(政権)が
日本列島への侵攻に備え西日本各地に築いた城の一つで、九州を統治していた大宰府や
それを守るための大野城・基肄
(きい)城に武器・食糧を補給する支援する兵站基地であった。
鞠智城跡にあるカンバンより
周囲の長さ3.5km、面積55haの規模をもつ城で、1967(昭和42)年度からの県の発掘調査により、
八角形建物跡をはじめとする72棟の建物跡や、貯水池跡、土塁跡など、
当時の姿を物語る貴重な遺構が相次いで発見された。
熊本県教育庁文化課の資料より
こうした発掘調査の成果に基づき、1994(平成6)年度から4棟の
復元建物(八角形鼓楼、米倉、兵舎・板倉)をはじめ、城の立地や規模、
構造などを体験的に学習できる歴史公園として整備されている。
『続日本紀
(しょくにほんぎ)』など、国の歴史書にも記載のある全国有数の重要遺跡として、
2004(平成16)年2月27日に国史跡に指定された。
百済で作られた青銅菩薩立像が出土、熊本の「鞠智城跡」
山鹿市菊鹿町の鞠智城跡から、7世紀後半とみられる百済
(くだら)の仏像1体が発掘されたと、
熊本県教委が2008年11月3日、発表した。鞠智城と古代朝鮮王朝のひとつ百済との関係を
裏付ける貴重な資料として注目されている。発見された仏像は青銅製の「菩薩立像」で、
高さ12.7センチ、幅3センチ、●ヘソの前で物を持っている●脚の下に台座に差し込むための太い
「ほぞ」と呼ばれる部分があるなどの点が、当時の百済の仏像の特徴と一致するという。
仏像は、2008年度の貯水池跡の調査で池の北側の斜面地表から
1.5メートルの深さで仰向けの状態で発見された。
錆びなどが付着しているものの頭の飾りや垂髪などがしっかり表現されていて腹部で何かをもっている。
横からみると身体が薄くS字に美しい曲線を描いている。
当時、国内では仏教が広まり始めたばかりで、一般の日本人が仏像を所有していた可能性は低く、
県教委は「亡命百済人が持ち込んだ」とみている。
鞠智城は現在、国定公園に向けた働きかけをしていて
関係者は今回の百済仏像の出土が大きなはずみになればと期待をよせている。
参 :
歴史公園鞠智城・温故創生館(HP)
具志川城跡 =
具志川城跡(別掲)
グスク : 丘城。沖縄の古語で、「祈りの場」「聖なる所」「城」「城郭」などをさす語で、
古くは「グシク」と発音されていた、と推測される。グスクの成立は12世紀以後で、
グスクは見晴らしの良い丘の上に立ち、奄美
(あまみ)から沖縄の島々には
300以上のグスクがあるといわれている。
世界遺産に指定されているようなグスクは石垣で堂々とした城壁を巡らせている物ばかりだが、
そういったものはごくごく少数で、大抵のものは高台の上に申し訳程度の石積みが囲んでいたり、
石積みが無く岩を利用したものも多い。漢字では「城」と書き表されるが、
九州以北でイメージされる城とは異なり、宗教的性格を強く持ち、現在でも花や線香があがっている。
山城
(やまぐすく)・花城
(はなぐすく)・玉城
(たまぐすく)など姓や地名の中に残る。
熊本城(くまもとじょう) =
熊本城(別掲)
久留米城跡 =
久留米城跡(別掲)
曲輪(くるわ) : @城壁や堀・土塁・石垣などや自然の崖や川などで囲まれた
城・館内の区画をいい、
城はこの曲輪をいくつも連ねることで成り立っている。
曲輪は郭とも書き、輪郭を意識したときに「郭」、内部の平地を意識したときに「曲輪」と
使い分けることもある。江戸時代には「丸」ともいわれた。防御の中心となる曲輪は
本丸(=本曲輪・主郭)であり、他に二の丸・三の丸が設けられることが多かった。
城によっては、櫓曲輪・水手曲輪・天守曲輪・西の丸(大名の隠居所)などが設けられることもあった。
戦国時代の城の多くは独立した山頂に建てられた山城であり、曲輪の面積が小さかった。
棚田のように、斜面に小さな曲輪が連続する城もあった。
馬出が大規模化したものを馬出曲輪、出丸などという。ある城に地形状付属している城塞は出郭、
出丸といわれる。
大坂城の真田丸なども出丸として有名な例である。
A廓とも書き、遊郭、遊里、さと、などと呼ばれ、周囲を囲いで限られ、遊女屋が集まっている地帯のこと。
小倉城 =
小倉城(別掲)
佐賀城跡 =
佐賀城跡(別掲)
座喜味城跡 =
座喜味城跡(別掲)
紫禁城(しきんじょう) : 清朝滅亡後には「故宮
(こきゅう)」と言う呼び方が一般的になっている。
中華人民共和国北京
(ペキン)市に所在する明
(みん)・清
(しん)時代の
旧王宮である宮城(歴史的建造物)のこと。
紫禁とは、天帝の宮城とみなされていた星座の紫微垣
(しびえん)から出た語で、皇帝の居所を意味する。
初め明の永楽帝
(えいらくてい)が国都を南京
(ナンキン)から北京に移すに際し、
元の大都の宮城址
(し)付近を利用して造営し、十数年を費やして1420年に完成した。
その後、明・清時代を通じて宮殿や門はたびたび改築修補され、それらの名称も変更されている。
現在の建物は、ほとんどが明代の様式をだいたい継承して清代に建てられたものである。
模型による紫禁城の全体像。紫禁城の奥の小高い丘(景山)の後方の建物は「寿皇殿」
四隅の建物が角楼(かくろう)
北京皇城見取図
紫禁城見取図
太和殿(たいわでん)
同上、近景
銅獅子(狛犬)の雄、向こうが雌
紫禁城への南の入口(正門)である「午門(ごもん)」
珍宝館の北側にある1776年に建造された「養性殿」。額の右側はチベットの文字
宮廷楽器や朱印、黄金品などが陳列されている
同上、1790年に製作された宮廷楽器の近影
保和殿にある皇帝が座った玉座
皇后の鳳冠
紫禁城は北京の旧内城の中央南部よりに位置する東西約750m、
南北約960mの城壁に囲まれた725,000m
2の一区画で、その外側に堀を巡らしている。
城壁の四周にそれぞれ一門があり、南の午門
(ごもん)が正門としてとくに雄大で、
北に神武門、東に東華門、西に西華門が開き、四隅に角楼
(かくろう)がある。
「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」の一つとして世界最大の宮殿の遺構で、
ユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。現在は、博物館(故宮博物院)になっている。
首里城 =
首里城(別掲)
城(a castle)しろ : @外敵の侵入を防ぐために設けられた建築物(防御施設)のことで、城郭ともいう。
日本では、古代国家統一後の朝鮮式山城、奥州経営のための柵
(さく)などの造営の後、
中世には、平野部の耕作地帯に設けた堀・土塁を巡らした方形館や、天険に拠
(よ)った
山城などが現れた。
戦国時代末期に至り、軍事規模の増大と戦術形態の変化によって、
山地から平野に築城が移りはじめ、
安土桃山時代には、政治・経済的要求から、
特に大名の拠点となるものは城下町をもつ大規模なものに発展した。この間に施設も永久化し、
巨大な石垣や漆喰壁
(しっくいかべ)・瓦
(かわら)屋根が使用されるようになり、本丸に天守を設け、
水堀を巡らせた
平山城・平城が主流となった。今日まで遺構のある城の多くはこの時代のものである。
城が一番多かった時代は1600年頃の戦国時代末期から
江戸時代初期にかけての時期で、
城の大小に関わらず数えようものなら3000を優に超える。また隣国との防壁としても
使われたような小さい城、砦のようなものまで含めると、2万5000以上もの城があったとされる。
城への逆風が吹くようになったのは、江戸時代に入ってからで、1615年に起こった大坂夏の陣で、
大阪城が落城して豊臣家を滅亡に追いやったこの年に、江戸幕府は「一国一城」という制度を発令し、
北は松前藩(今の北海道松前郡)から南は薩摩藩まで、藩に1つの城しか認めないという命により、
新規築城は制限され、城の数は一気に170まで減少し、城郭の発達は停止した。
その後も城の不遇な時代はまだまだ続き、明治維新後の1873(明治6)年には
廃城令が制定されて城の放棄が加速した。昭和に入り、迎えた太平洋戦争で、
城は米空軍にとって格好の標的となってしまい、米軍の空襲や
原爆により
名古屋城、和歌山城、
広島城などの古い姿が消えた。そのため江戸時代以前から現存する城は、わずか12城しかない。
弘前城、
松本城、丸岡城、
犬山城、
彦根城、
姫路城、松山城 (備中国)、
松江城、丸亀城、
松山城 (伊予国)、宇和島城、高知城で、すべて天守閣がある。そのうち
姫路城(兵庫県)・
松本城(長野県)・
彦根城(滋賀県)・
犬山城(愛知県)の4城が国宝に指定されている。
戦後、城の再建する風潮が進んだが、その多くが町のシンボルとしての城で、
観光のための城として建てられている。こうして再建した城の中には、擬似的な天守閣も多い。
最近は文献などを元に、当時の姿を再現できないものは
建築自体の許可が下りなくなっているそうである。
兵庫県姫路市が1991(平成3)年に、日本三大名城の一つである姫路城を中心とした
市の復興のため、語呂合わせで、4月6日を「城の日」に制定した。
城の種類(城郭形態分類)江戸時代の軍学者による地勢に基づく城の分類は、
山城、平山城、平城の三つであるが、区別は明確ではない。
朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ) : 築城は、古代時代(7世紀前半から後半の
律令制国家時代である
飛鳥時代)で、山を中心に、周りの必要部位は石類、土類で囲み、
防備中心の城である。(大野城、基肄城、長門城等)
山城(やまじろ) : 築城は、中世時代(鎌倉・室町・戦国期・織田・豊臣の時期に至る約400年)で、
山城の防御は堀ではなく、人工的に削りだした急斜面、切岸によるもので、高い山頂に築かれた。
日本で一番多い城の形式山全体を郭として作られた城だが、このタイプの城で、
建造物が残っている城は、稀である。(仙台城、安土城、宇和島城、高根城、岩村城、衣笠城、
新井城、松岡城、海尻城、勝尾城、
岩国城、七尾城、前山城等)
日本三大山城 :
岩村城(岐阜県岩村町)、
大和高取城(奈良県高取町)、
備中松山城(岡山県高梁市)
平山城(ひらやまじろ) =
平山城(別掲)
丘城(おかじろ) : 丘陵城郭の略で、平山城と同義語。丘の丁部を利用した城のこと。
台地城(だいちじろ) : 台地の縁などに設けられた城のこと。
背後に崖地などを置き、一方向からの攻撃を中心に備える構造のものが多い。(金沢城など)
平城(ひらじろ) : 「沼城」や「平地城」とも言い、近世城郭に多い造りで、平地に防護用として、
掘りを設けその中心近くに「本丸」、その外まわりに「二の丸」、
その外回りに「三の丸」といった具合に堅固三段とし、更に郭の周りに水堀を配する城で、
大規模な天守閣はこのタイプの城に多い。(江戸城、
大坂城、名古屋城、松本城、山形城、
松代城、長篠城、大垣城、若江城、
弘前城、
広島城など)
水城(みずき) : 「海水城」とも言い、海岸や湖畔などに築かれ、
あたかも水上に浮かんでいる様な景観を持つ城であるが、平城に含めることが多い。
また、城から直接舟に乗れるような船溜りを持つ事が多い。
(
高松城、坂本城、桑名城、高遠城、膳所城、
今治城など)
穴城(あなじろ) : 城が、城下町や付近の土地より低い場所に築かれた城で、
平山城に含めることが多い。(小諸城=酔月城=白鶴城など)
日本三大名城 :
名古屋城(愛知県名古屋市)、
姫路城(兵庫県姫路市)、
熊本城(熊本県熊本市)
日本三大水城 :
高松城(香川県高松市)、
今治城(愛媛県今治市)、
中津城(大分県中津市)
日本三大湖城 :
松江城(島根県松江市)、
膳所城(滋賀県大津市)、
高島城(長野県諏訪市)
日本三大連立式平山城 :
姫路城(兵庫県姫路市)、
松山城(愛媛県松山市)、
和歌山城(和歌山県和歌山市)
日本四大国宝城 :
姫路城(兵庫県)、
松本城(長野県)、
彦根城(滋賀県)、
犬山城(愛知県)
昭和30〜40年代、築城ブームが起き、戦災で焼けた城の復元に加え、
観光の目玉づくりにと全国各地で再建・新築された。ほとんどの城が細かいことにこだわらない、
おおらかな築城スタイルで、なかった天守閣を建てたり、なかったものを付け足したりしているが、
2007年に築400年を迎え、大規模な復元をした
熊本城は往時のままを再現している。
築城ブームで再建・新築された全国各地の城のほとんどが自治体が造ったハコモノで、
誰がどうして再建、あるいは新築したのか所有者の市役所などに聞いても、
「伝聞しか知らない」「文化財ではなく観光施設だから、記録が残っていない」などの回答が
あったそうだが、国税や地方税を使って建てたものだから、せめて記録くらい残すべきだ。
(セカンドステージの「日本の名城で歴史ロマンを楽しむ」より部分引用し、
関連の総合通販会社「いいもの王国」の『「
名城を旅する」DVD10巻セット』を紹介します)
参 :
日本の城訪問記(HP)
21世紀を迎えてもなお、日本人は城へのあこがれを強く抱いているからか、
いまだに城の数は毎年のように増えていて、日本各地に現存する城の数は天守閣まで残っている城と
石垣と城の跡しか残っていないものを含めると、200以上にも及ぶそうである。
観光のために建てればいいものではなく、大阪城にしても、修学旅行で鉄筋コンクリートと
エレベーターを見て幻滅した。それに比べ、日本最古の犬山城のほか松江城、
松山城などの江戸時代前から現存している城は、外観の美しさだけでなく、
内部の建築様式の魅力に加えてワビ・サビがひしひしと感じられる。
岡山城はあんなに金ピカだったのだろうか。
岡山城
A(比喩的に)他人の侵入を許さない自分だけの領域。
高松城(たかまつじょう) : @高松(現在の岡山県岡山市)にあった備中高松城。
清水宗治
(しみずむねはる)の居城で、石垣を築かず土壇だけで築成された「土城(平城)」である。
羽柴秀吉は、参謀・黒田官兵衛の献策により、攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6kmの堤防を
短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。
籠城1か月余を経て城兵が飢餓に陥ったころ、本能寺の変が起きたため、
秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、
1582年、ついに高松城を落城させた。備中高松城の本丸は本丸跡として保存されている。
本丸跡には明治末年に移転改葬された宗治の首塚があり、
北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。
本丸の南側は高松城址公園となっており、蔵を改造した資料館が建っている。
A香川県高松市玉藻町にある城で、またの名を「玉藻城
(たまものじょう)」と呼ばれている。
1588(天正16)年に生駒親正
(いこま・ちかまさ)が、讃岐一国173,000石を
豊臣秀吉から賜り、
播磨赤穂から入封、瀬戸内海の水軍の要として、この地に全国でもまれな海に浮かぶ高松城を築いた。
寛永年間(1624〜1644)松平頼重の入城以来親藩松平氏の居城となった。
生駒氏は4代高俊の時、生駒騒動のために出羽矢島1万石に左遷される。
寛永11年、水戸城主徳川光圀の兄松平頼重が常陸下館より東讃岐12万石で入封した。
頼重は、生駒氏時代の高松城を更に拡張し、2代頼常(光圀の子、頼重養子)まで工事は続いた。
城内には3重5層の天守閣がそびえ、要所には約20の櫓があってその威容を誇っていたが、
現在では良櫓、月見櫓、続櫓および水手御門が残り、いづれも重要文化財の指定を受けている。
玉藻公園の入園券
玉城城址 =
玉城城址(別掲)
知念城跡 =
知念城跡(別掲)
鶴丸城跡(つるまるじょうせき) : 鹿児島県鹿児島市城山町(旧薩摩国鹿児島郡)にあった平城で、
背後の山が鶴丸山と呼ばれていたことからつけられ、別名を鹿児島城
(かごしまじょう)という。
1602(慶長7)年、初代薩摩藩主・島津家久
(いえひさ)が築城開始し、1604(慶長9)年に完成した。
鶴丸城は薩摩77万石という雄藩の居城としては規模はあまりに小さいが、背後の城山をとりこみ、
有事の際は要害とし、本丸大手に櫓門を設け、塁状には多聞櫓・平櫓を備えただけのもので、
天守のない屋形造りの城であったところに特徴がある。
1696(元禄9)年の火災で本丸の御殿は全焼したが、その後10年の年月をかけて御殿が再建された。
江戸時代末期の薩英戦争の際、砲弾が大奥に落ちるも大きな被害はなかったが、
1868(明治元)年に不審火により城は焼失した。
1873(明治6)年存城と決定されたが、同年火災で本丸が焼失し、
さらに1877(明治10)年の西南戦争で二の丸も炎上した。
現存しているのは堀・石垣・大手門の石橋などで、石垣には西南戦争の際に
出来たといわれる弾痕が多数残っており、当時の激しい戦いを物語っている。
1901(明治34)年以降、城址は第七高等学校造士館の校地として使用され、
現在は鹿児島県歴史資料センター黎明館、鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館が建っている。
また、城から車で20分ほどのところに島津氏19代光久が別邸として建造した「磯
(いそ)庭園」があり、
廃藩後は鶴丸城よりここに移り住んだそうである。
2006(平成18)年)4月6日、日本100名城(97番)に選定され、
2007(平成19)年6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
富山城(とやまじょう) : 越中富山城。富山県富山市丸の内にあった城で、
かつては、五層の天守(新発田城の天守と同様に3個の鯱が乗せられていた)、櫓3基、
櫓門3カ所が建てられたという。また、石垣の上には本家金沢城と同様、
唐破風付出格子がついた海鼠塀がめぐっていた。
滝廉太郎の荒城の月の題材になった城の一つと言われている。
1543(天文12)年、越中を支配していた神保長職の家臣と言われる水越勝重が藤井村、
後の富山に築城したのが最初で、後に勝重は神保長職と名を改め、3代に渡って居城した。
当時は、安住城や浮城と言われていた。その後、富山城は神保家、上杉家、織田家の抗争の地となり、
1579(天正7)年、織田信長は越前小丸城主・佐々成政
(さっさなりまさ)に富山54万石を封じ、
成政が1582(天正10)年に富山城に入城し、城を改修し城下町の整備を行った。
その年に織田信長は本能寺の変で死亡し、佐々成政は豊臣秀吉と戦う。
しかし、降伏し、代わって加賀前田氏の支配するところとなる。
1587(天正15)年の豊臣秀吉の九州征伐後、成政は肥後熊本城へ転封になった。
1600(慶長5)年の関ケ原の戦功により金沢城主前田利長は、
加賀・能登・越中の3カ国120万石を得た。江戸時代の富山藩は3代目前田利常が、
1639(寛永16)年に幕府の許可を得て、次男利次に10万石を与えて分家させた。
利次は、廃城と化していた富山城を1661(寛文元)年から修復し、
本丸、二の丸、三の丸、櫓などを築き、入城して富山藩が創設された。
二の丸との間の本丸南側の水濠と模擬天守(2007.8.27撮影)
戦後の築城ブームの先頭を切って建造されたが、たとえ観光の目玉としても
よその城を模すのはいただけない。歴史は当時の資料に沿って忠実に再現してほしい
櫓を模した建物の富山市佐藤記念美術館。手前は工事中の盛土
3層4階建ての模擬天守閣内を利用した富山市郷土博物館
富山市郷土博物館内の展示品の一つ、銀鯰尾形兜(ぎんなまずおがたかぶと)
本丸に建つ二代城主・前田正甫公の銅像
1605(慶長10)年に利長は隠居して富山城に移るが、
1609(慶長14)年に主要部の建物をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移った。
以後富山前田氏13代232年間の居城として明治を迎えるまで存続していた。
明治18年から県庁が置かれていたが、昭和5年に焼失したあとの城跡は木々の緑と、
穏やかな濠に囲まれた「富山城址公園
(とやまじょうしこうえん)」となっている。
本の丸南側の堀と石垣、そして本の丸枡形虎口の石垣上には、犬山城(愛知県)、
彦根城(滋賀県)などを参考にし、1955(昭和28)年7月から翌年3月にかけて
戦後の築城ブームの先頭を切って三層の模擬天守が築かれた。天守内部は、郷土博物館になっている。
前田利次による万治4年の大改修された時に築かれた天守台は、今は半壊しているが
わずかにその痕跡を残している。高岡城の天守台を参考にしたと考えられる。
また、城址公園内に三層の隅櫓風の建物があるが、ここは美術館がある。
2008(平成20)年に市内の民家へ移築されていた千歳御門が寄贈されて、城内に再移築されている。
参 :
「富山城研究」コーナー(HP)
中城城址 =
中城城跡(別掲)
今帰仁城跡 =
今帰仁城跡(別掲)
名古屋城(なごやじょう) : 尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城郭で、
現在は名城公園として整備されている。大永年間(1521〜1528)に今川氏が同地に
那古野城
(なごやじょう)を築き、のち
織田信長が拠
(よ)るが、同氏が清洲に移ったため廃城し、
現在の城は1609(慶長14)〜1614年、
徳川家康の命により諸大名が築いた
典型的な平城
(ひらじろ)で尾張徳川家17代の居城であった。
1612(慶長17)年に完成した天守は加藤清正の造営で、天守上の金の鯱
(しゃちほこ)が有名で、
金鯱
(きんこ)城、金城とも称されている。金鯱は雄(北側)と雌(南側)に分かれており、
大きさや形が異なり、全高は雄が約2.57mで、雌は約2.51mである。
伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われ、
大坂城、
熊本城とともに日本三名城に並び称され、日本100名城にも指定されている。
1930(昭和5)年に国宝に指定されたが、1945(昭和20)年5月の米軍の空襲により天守閣、
本丸御殿ともに焼失し、戦後の復興にともない、1959(昭和34)年に天守閣は復元された。
取り外すことができた狩野探幽
(かのうたんゆう)らの手になる襖絵
(ふすまえ)や本丸の障壁画、
天井板絵などは焼失を免
(まぬが)れ、宝物館などに保存されている。
そのほか桃山時代の庭園や堀・石垣などが現存している。
本丸御殿跡から見る大天守閣と小天守閣(高画質壁紙写真集無料壁紙より)
同上遠景
参 :
名古屋城(公式HP)
彦根城(ひこねじょう) : 日本の近世にあたる
江戸時代に築かれた城の一つ。
滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊直勝が1603(慶長8)年に築城を始め、
1622(元和8)年、直孝の代に完成した旧彦根藩の連郭式
平山城である。
また、現存例の少ない倭城築城の技法である「登り石垣」が良好な形で保存されている。
なお、城の北側には玄宮園・楽々園という大名庭園が配されており、これらは国指定の名勝である。
山は「金亀山」との異名を持つため、城は金亀城
(こんきじょう)とも称される。
多くの大老を輩出した譜代大名の名門、彦根藩井伊氏14代の居城であった。
明治初期の廃城令による破却を逃れた数少ない城であり、
天守閣・天秤櫓
(てんびんやぐら)・三重櫓・太鼓門などが現存し、
国宝に指定された現存天守のある4城の一つに数えられる。
日本に12箇所現存する、
安土桃山時代から江戸時代にかけて建造された天守を有する
城郭の一つである。その12箇所の中でも、修復等を繰り返しつつも
ほぼ創建当時の姿を維持し続けているものは、彦根城と
姫路城の2城のほかには無い。
国宝の彦根城天守附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)
東側の広場から望む天主
北西より望む天守と石垣
彦根城は高松城と姉妹城縁組をしているが、これは高松城の第11代藩主頼總
(よりとし)の奥方として、
彦根藩主であった
井伊直弼の次女千代姫が輿入れしている縁から、1966(昭和41)年に結ばれた。
参 :
彦根市(公式HP)、
彦根観光協会(HP)、
彦根城博物館(HP)
姫路城 =
姫路城(別掲)
平戸城 =
平戸城(別掲)
平山城(ひらやまじろ) :
江戸時代の軍学者によって分類された、地形による築城形式の一つで、
近世城郭の大多数がこれにあたり、
戦国時代終盤より多数築かれるようになった
城である。
築城は、近世時代(16世紀から17世紀時代)で、地形の高低が守城戦に有利になるように設計され、
平野の中にある山・丘陵・台地などに築城された。
この種類で、櫓等の建造物が残っている割合は少ない。
戦時の際のみに使用される軍事的役割の色が強い山城とは違い、
領国支配における経済の中心的役割も果たした。江戸時代には藩の政庁として多く利用された。
山、丘陵のみならず、その裾野を利用し広大な面積を有し、周辺地域には城下町も築かれた。
有名な
伊予松山城のほか、
犬山城、高知城、安土城、江戸城、
姫路城、仙台城、
熊本城、
彦根城、浜松城、岡崎城、七州城、篠山城、鶴ケ城=若松城、日野江城、
松江城、丸亀城、小諸城、岸和田城、等の多くの城がこれに含まれる。
平山城
(ひらさんじろ)と読む場合には、小高い丘の上のみに縄張りが行われた城であるとされる。
弘前城(ひろさきじょう) : 弘前市にある旧津軽藩の
城。1611(慶長16)年に津軽信牧
(つがるのぶひら)が
築城。のち、雷火で焼失。はじめは「鷹岡城」と称していたが1628(寛永5)年に弘前城に改名された。
現存の天守閣は1810(文化7)年完成。堀、土塁、城跡をよく残し、建物も東北で唯一つ、
天守を伝えているほか、三棟の櫓
(やぐら)、五つの城門が現存し、
いずれも重要文化財に指定されている。
弘前城天守閣(2007.9.11撮影)
杉の大橋を渡って見る南内門
二の丸与力番所方面からの東内門
城地は弘前公園となっており、2600本の桜が植えられ、三大桜名所の1つとしても有名。
参 :
弘前観光コンベンション協会(HP)
広島城 =
広島城(別掲)
福岡城跡 =
福岡城跡(別掲)
松江城(Matsue Castle)まつえじょう : 島根県松江市殿町にある
城で「千鳥城」とも呼ばれ、
国の史跡に指定されている。現在、指定管理者制度に則り、
NPO法人「松江ツーリズム研究会」が運営をしている。
1611(慶長16)年、出雲・隠岐
(おき)の国主・堀尾吉晴が宍道湖
(しんじこ)畔に築いた
輪郭連郭複合式平山城である。高さ30m、5層6階で壁面が黒塗りの天守閣は、
桃山様式の天守として築城当時のまま現存しており、国の重要文化財に指定されている。
1638年、松平直政(家康の孫)が出雲に封ぜられてから明治維新に至るまで、
雲州松平氏の居城であった現存の天守閣は、下見板張りの古い様式をとどめる。
江戸時代には松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心となった。
現在のものは1955(昭和30)年に修理復元したものである。
現在は松江城山公園として観光名所となっている。宍道湖の眺望が良く日本三大湖城の一つである。
また、桜の名所として日本さくら名所100選に選ばれている。
松江城散策マップ(松江城山公園管理事務所発行パンフレットより)
松江城天守の特徴
望楼式(ぼうろうしき) : 天守閣の起源のひとつは四方を展望できる望楼ではあるが、
現存する日本の天守閣の中で松江城をはじめ姫路城や松本城などにみられ、
桃山時代初期の壮重雄大な姿をつたえている。
鯱鉾(しゃちほこ) : 木彫銅張り、向かって左が雄で鱗があらく右が雌。
高さは2.08mあり、日本現存の木造ものでは最大である。
千鳥破風(ちどりはふ) : 千鳥が羽を広げたような三角形の屋根をいい、
天守閣の美観を構成する重要な部分である。
華頭窓(かとうまど) : 三層の中央にある寺院様式の窓で、一種のかざりである。
本天守閣の美観の特色は、ほとんど飾りを用いないで、
屋根・破風・窓などにより均整のとれた構成美を出している。
鬼瓦(おにがわら) : 各層の屋根の隅々にある鬼瓦は、
後世のものとは違って角
(つの)がほとんどなく、各一枚ごとに異なった珍奇な表情をもっている。
下見板張り(したみいたばり) : 姫路城や彦根城のような塗籠造り(白壁)は少なく、
その大部分が、黒く厚い雨覆板でおおわれ、古い様式を保っている。
附櫓(つけやぐら) : 天守閣入口の防備をかたくするためにとり付けた櫓で、
入口に鉄延板張りの大戸があり、入ると枡形の小広場が二段あって、侵入しにくいようになっている。
牛蒡積み(ごぼうづみ) : 石の大きな部分を内に、小さな面を表に出して、
一見粗雑にみえるが、石組にしてはもっとも頑丈な積み方である。
なお勾配は力強い直線で中腹も凹んでおらず、古い形式がみられる。
春の松江城
40年前頃の松江城(絵葉書より)
天守閣の階段(高画質壁紙写真集無料壁紙より)

参 :
松江ツーリズム研究会(HP)
灯火の松江城で歴史学ぼう
松江城周辺をライトアップする松江水燈路
(すいとうろ)が2009年9月19日から始まるのに合わせて、
松江商工会議所は同日から、出雲の神話や歴史を紹介する 「松江夜楽塾
(まつえ・やがくじゅく)」を
初めて開催する。明かりに包まれる松江城山公園内で社寺の宮司や貫主が講師を務め、
期間中の土曜日、講座を開く。無料。
公園内の太鼓櫓
(たいこ・やぐら)に設置した特設会場で、午後7時から約45分間開く。
島根、鳥取両県の20社寺の神職や住職などでつくる「出雲の国社寺縁座の会」が協力し、
4人がそれぞれ国引き神話と出雲国風土記にまつわる謎や
出雲大社の由来など説明する。
9月19日、長浜神社の秦和憲宮司▽10月3日、賣布神社の青戸良臣宮司
▽同10日、安来清水寺の清水谷善圭貫主▽同17日、万九千社の錦田剛志禰宜
(ねぎ)。
定員は講座ごとに約40人で予約が必要。松江商工会議所=電話
0852(32)0504。
松本城(まつもとじょう) : 長野県松本市丸の内4−1にある旧松本藩の平城である。
現存の天守閣は
国宝で、国の史跡に指定されている。市民からは烏城
(からすじょう)とも呼ばれている。
日本国内に12基現存している、
安土桃山時代後期から
江戸時代にかけて建造された天守を有する
城郭の1つである。1504(永正元)年に信濃守護・小笠原貞朝と家臣・島立貞永が築城し、
深志城
(ふかしじょう)と称した。1550(天文19)年に武田晴信(後の信玄)が侵略し、
小笠原長時を追放した。1582(天正10)年の長篠の戦いで武田氏が滅ぶと小笠原長時の子・貞慶が
深志城を奪い返し松本城と改称した。1590(天正18)年に小笠原氏は下総に移され、
代わって入城した石川数正が大改築を行い、改築半ばで死去したが、
その子康長がさらに整備して文禄・慶長年間(1592〜1615年)に現存の天守閣を含む城が築かれた。
辰巳付櫓と月見櫓は寛永年間(1624〜44年)に松平氏が在城の頃築いた。
松本城特有の連結複合式天守は、天守〜小天守が連結式で天守〜付櫓・月見櫓部分が複合式になる。
城主はたびたび交替し、1725年に戸田氏がはいり明治に至る。
本丸より見る天守閣(高画質壁紙写真集無料壁紙より)
埋橋と天守閣(高画質壁紙写真集無料壁紙より)
松本城夜桜の宴(壁紙村より)
松山城(まつやまじょう) =
松山城(別掲)
櫓 =
櫓(別掲)
籠城(be besieged)ろうじょう : @城、砦、城市などの拠点に立て籠
(こも)って敵を防ぐこと。
攻城戦の守勢側の呼称。本来、籠城とは援軍を待つための持久策であり、
敵軍の息切れを待つ場合にも効果があるが、
長期間の兵糧攻めを受けた場合には物資の欠乏や飢餓に陥る弱点がある。
(例)籠城して援軍を待つ。
Aある物事に集中し、家などにひきこもって一歩も外へ出ないことのたとえ。
(例)犯人は、人質を取ってビルに籠城した。