城関連(YSミニ辞典別掲)

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会津若松城(あいづわかまつじょう) : 福島県会津若松市追手町1−1にあった梯郭式平山城で、
    会津若松のシンボルとなっている。観光名所として、および地元では一般的に
    鶴ケ城(つるがじょう)といい、文献史上では黒川城(くろかわじょう)、会津城とされることもある。
    国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。
    若松城は旧市街地の南端に位置し、郭内(武家屋敷)と町屋敷が外濠で隔てられ、
    さらに郭内の内側に内濠を有する梯郭式の平山城である。
    城跡は都市公園鶴ケ城公園となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されている。
    史跡外の三ノ丸跡には陸上競技場、市営プールおよび福島県立博物館がある。
    また、再建された天守は若松城天守閣郷土博物館として利用されている。
    戊辰戦争の激戦地としてあまりにも有名で、白虎隊悲劇の城としても知られ、
    また、城は、本丸、二の丸、三の丸のほか、西出丸、北出丸、伏兵郭(ふくへいぐるわ)など、
    いくつもの曲輪(くるわ)から成り、その規模・威容は東日本有数の城郭でもあり、かなり広大である。
    1384(南朝:元中元、北朝:至徳元)年、蘆名(あしな)7代の葦名直盛が
    小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。
    諸説あるが、おそくとも15世紀半ばまでには黒川城または小高木城とその城下が成立していた。
    戦国時代中後期には、英傑・蘆名盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。
    伊達政宗は、蘆名氏と連年戦いを繰り返し、1589(天正17)年に豊臣秀吉の制止を無視して
    蘆名義広を攻め、摺上原(すりあげはら)の戦いで蘆名氏を破って黒川城を手にした。
    政宗は小田原討伐ののち、1590(天正18)年に秀吉に岩出山への移封を言い渡され、
    会津を召し上げられた。代わって黒川城に入ったのは現在の三重県は松坂城城主だった
    蒲生氏郷(がもう・うじさと)で、1592(文禄元)年より百万石の大大名にふさわしい城にすべく
    若松城の縄張りを行い、黒川と呼ばれた城下町の名を若松と改め整備した。
    1593(文禄2)年望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重には
    「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名は「鶴ケ城」に改められた。
    1598(慶長3)年、氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ
    下野国宇都宮に移封された。上杉景勝が越後国春日山城から120万石で入封したが、
    1600(慶長5)年に徳川家康は関ケ原の戦いで西軍に加担した上杉景勝を30万石に下げ、
    出羽国米沢に移封を言い渡され、若松城には、翌1601年(慶長6)年には、
    蒲生秀行が再び入城し、子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、1611(慶長16)年に起きた
    会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組みなおさせている。
    1627(寛永4)年に嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり
    伊予国松山に移封された。代わって伊予松山城より加藤嘉明(かとうよしあき)が入封。
    1643(寛永20)年になって、嘉明の息子、明成は徳川幕府に領地を返上、徳川家光の異母弟、
    保科正之(ほしなまさゆき)が入封した。この保科氏が若松城にて藩主として代々続き、
    その後、松平姓を与えられ、幕末の松平容保(まつだいら・かたもり)に至り、明治を迎える。
    天守は蒲生時代に7層で、会津地方の大地震で天守ほか多くの建物がその被害を受け、
    加藤時代には5層にしたと言われている。このとき今に残る若松城を築城した。
    現在見ることのできる復元天守は、この5層のもので、明治の古写真をもとに
    1965(昭和40)年に鉄筋コンクリート(一部木造)にて復元された物である。
    今も、堀、石垣、土塁など城郭の形態を残していてその規模に驚かされる名城だ。
    近年の発掘調査で蒲生時代の石垣の基底部が確認され、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、
    鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土している。
    2000(平成12)年に市制100周年記念事業として、天守閣、南走り長屋、鉄門に接続する干飯櫓の
    復元工事が着工され、同年度に完成し、走り長屋、干飯櫓は赤瓦葺きで復元された。
    白くそびえ立つ中に、印象的な、真っ赤な高欄が周った五層五階の
    天守閣(内部は郷土博物館として公開)が再建され、
    天守に続く走長屋・本丸への表門である鉄門が外観復元されている。
    また本丸には、千利休の養子・少庵(しょうあん)が建てた茶室「麟閣」も城外から移築復元されている。
    さらに、2001(平成13)年には、城内にあった11棟の二重櫓の中で最大の櫓であった干飯櫓と、
    本丸鉄門から続く南走長屋が、史実・発掘調査を基に、伝統的な工法による木造での復元された。
    城域は、本丸・本丸帯郭・北出丸・西出丸、テニスコートなどに利用されている二の丸・伏兵郭、
    小公園・県立博物館のある三の丸からなり、石垣や土塁がよく残されており、
    水堀も現存し、さらに、内郭と外郭の間に16の門を構え、
    延々10キロにもおよぶ水堀・土塁で囲んだ惣構えの広大な縄張りからなっていた。
    この他に、市内等には、いくつもの遺構などがよく残されていて、会津武士道の誉れ・
    会津藩士たちの魂を支えた堅牢優美な名城として、往時の面影を今に伝えている。
    毎年9月22日には歴代藩公行列がある。芦名氏・伊達氏・蒲生氏・上杉氏・保科氏・そして
    松平氏と続く藩公行列は歴代スター武将ぞろいでなかなか壮観。
    もちろん白虎隊も最後の藩主・松平容保とともに登場する。
    朝敵の汚名を着せられた会津藩の明治維新
    1852(嘉永5)年、松平容保が9代会津藩主となった翌年には、“ペリーの来航”があり、
    国内は開国か攘夷かで分かれ、幕府は開国方針なので、攘夷派は倒幕に発展し、国内は騒然となった。
    倒幕派と佐幕派が互いに暗躍し、血なまぐさい事件の続発する京都の治安維持にあたる、
    新しく設けられた“京都守護職”に乞われた容保は、1862(文久2)年12月、
    1000余人の藩兵を率いて京に入り、治安維持に当たった。しかし、1864年(元治元)の
    “禁門の変”を経て、1866年(慶長2)には14代将軍家茂が21歳・孝明天皇が36歳の若さで急逝、
    藩を挙げて尽くし、平和のために掲げた公武合体は、むなしく消え去ることとなる。
    錦旗担ぎ出しに成功した倒幕派に対し、苦境に立たされた幕府は、1867年10月15に“大政奉還”とし、
    勢いに乗じた倒幕派は、幕府勢力の一掃に乗り出し、“鳥羽伏見の戦い”の後、
    朝敵の汚名を着せられた会津藩は、その報復を受けることとなる。
    恭順を示す会津藩に対し、承服せぬ官軍の標的とされた会津藩は、
    1868年(慶応4)、“奥羽越列同盟”を結成し、藩を挙げて新政府軍と相対した。
    しかし、5月1日には白河城が、7月29日には二本松城と長岡城が落城することとなる。
    総力戦となった会津藩は、藩士たちを年齢別に、玄武・青龍・朱雀・白虎(隊)と組織し、
    最後の抗戦となる。同年8月21日、旧幕府軍・新撰組・会津藩兵の守る国境の要衝母成峠が破られ、
    8月23日には新政府軍の会津城下突入を許してしまう。
    白虎隊の悲劇的な最期 : 白虎隊二番士中隊は戸の口原で奮戦したが、隊員のうち、
    20名が隊長とはぐれてしまい、戦場をさまよい、ようやく飯盛山(いいもりやま)に辿り着いたが、
    炎と煙に包まれた城下を鶴ケ城落城と誤認し、その場で、20名全員が集団自決(8月23日)を遂げた。
    そのうちの一人、飯沼貞吉のみが蘇生し、隊士たちの悲劇的な最期の証言者となっている。
    彼らの享年は、数え16か17であった・・・・・。
    家老西郷頼母一族21名の壮絶な自刃
    娘子軍・中野竹子をはじめとする、会津婦女子の健気な自刃と戦死
    最後の拠り所である鶴ケ城に篭城すること一ヶ月、昼夜を問わず砲撃にさらされる熾烈な戦いも、
    ついに、矢尽き刀折れ、9月22日降伏し、翌23日、一兵の敵も城内に入れぬまま、開城することとなった。
    くしくも、この9月22日は、慶応から明治に改元されてから15日目のことであった・・・・・
    
    2011年に赤瓦に葺き替えられた会津若松城天守閣(ジパング倶楽部2011年9月号より)
    1874(明治7)年、天守が取り壊された時に払い下げられた瓦が赤瓦だったので、
    解体前の姿に近付けたという。天守を赤瓦で葺いた城は、現存する城の中ではここだけである。

    
    黒瓦の頃の会津若松城。当時は赤い欄干だった
    
    戊辰戦争で落城後の会津若松城
    
    鶴ケ城歴代の城主家紋(案内板)
    開館時間 : 天守閣は8時30分〜16時30分。年中無休。入場料は400円だが、
             茶室「麟閣」との共通券は500円。鶴ケ城公園は入園自由。
    問い合わせ : 【城】0242−27−4005(会津若松観光公社)
              【観光】0242−24−3000(会津若松観光物産協会)
    アクセス : 路線バスは会津若松駅前からまちなか周遊バス「はいからさん」の
            「鶴ケ城まわり」で20分の「鶴ケ城北口」下車。天守閣まで徒歩5分。
赤穂城跡(あこうじょうせき、あこうじょうあと) : 兵庫県赤穂市上仮屋1424−1の約19.1haの城跡公園に、
    大石神社や本丸庭園などがある。加里屋(かりや)城、大鷹城を経て、
    赤穂浅野家の藩祖・長直の指示によって1648(慶安元)年から13年の歳月をかけて築かれた赤穂城は、
    近代城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城で、天守閣こそないが、
    複雑に折れ曲がった石垣や角度を違えた諸門など、戦を意識した造りで、「近世の名城」と言われていた。
    明治の廃藩後、城は取り壊され、現在は城跡公園になっている。
    
    平成4〜8年に復元された「本丸門」(2007.9.27撮影)
    
    天守台
    
    二の丸外堀
    
    本丸厩口門
    
    大手門
    
    1955(昭和30)年に復元された「大手隅櫓」
    1701(元禄14)の浅野家断絶後は、永井家、森家の藩主の居城となり、森氏のときに明治を迎えた。
    現在、大手門や隅櫓のほか、本丸門が1996(平成8)年に復元され、順次整備が進められている。
    三の丸にある大石神社は、1912(大正元)年に建立され、大石内蔵助良雄を始め47義士と、
    中折の烈士萱野三平を主神に祀っている。
    
    1912(大正元)年に創建された「大石神社」
    
    参道には義士たちの石像が並び、境内には義士ゆかりの武具や書画などを展示する
    「義士資料館」がある。拝観無料だが、「義士資料館」は入館料420円
    
    同上。参道の左右に義士たちの石像が並んでいる

    境内には、大石良雄宅跡(長屋門・庭園)、義士木像奉安殿、義士宝物館など、見所が数多くある。
    
    大石良雄宅跡長屋門
    
    赤穂城米蔵跡に建てられ、米蔵を模した外観の赤穂市立歴史博物館(左側を回った所に入口がある)
    赤穂義士や赤穂名産の塩などを学ぶことができる。

    1971(昭和46)年に国史跡指定を受け、2002(平成14)年には本丸庭園と二之丸庭園が
    国の名勝に指定され、文化財の修復・復元、都市公園としての整備も進められている。
    赤穂義士祭 : 毎年12月14日に催され、義士の討ち入り姿に扮した義士行列や、
     参勤交代を再現した大名行列などの多彩な市中パレードが赤穂城大手門から出発し、
     道中約15kmの沿道を埋めつくした観衆を元禄の世界へと誘う。
     当日は、大石神社の祭典や花岳寺の法要、伝統の武道大会も行われる。
    参 : 泉岳寺赤穂観光協会(HP)、赤穂城跡のご案内(HP)
安土城(あづちじょう) : 現在の滋賀県蒲生(がもう)郡安土町下豊浦にあった日本の城(平山城)。
    城址は国指定特別史跡に指定されている。また、城下には安土セミナリオ(神学校)跡もある。
    織田信長が、天下統一のための拠点として戦国期の1579(天正7)年に築城した。
    「安土」という名前は中国の「平安楽土」から来ており、これは信長が目指した理想社会でもあり、
    天皇の平安京に対抗して、信長自身が天下の主であることを示す意味で名付けたといわれる。
    安土城は現在の安土山に建造され、大型の天主(「天守」の表記は豊臣秀吉の時代以降)は
    近世城郭の草創期のものであり、威容を誇っていたが、1582(天正10)年の
    家臣明智光秀の信長への謀反、いわゆる本能寺(ほんのうじ)の変後まもなくして
    何らかの原因(次男の信雄が火を放ったとも、明智光秀の娘婿が放火したとも言われる)
    によって焼失した。本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、
    信長の嫡孫秀信が清洲会議の後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。
    しかし、秀吉の養子・豊臣秀次の八幡城築城のため、
    1585(天正13)年をもって廃城されたと伝わっている。
    現在、穴太(あのう)積みの手法による広壮な石垣と、
    本丸、天守台部分の礎石など一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧している
    宣教師ルイス・フロイスなどの記録によってその様子をうかがい知ることができる。
    
    安土城址(フリー百科事典「ウィキペディア」より)
    現在は干拓などによって湖岸からやや離れ、安土山の全体に城郭遺構が分布しており、
    当時の建築としては城山の中腹に所在するハ見寺の境内に仁王門と三重塔が残っている。
    かつて徳川家康邸のあった所は現在(そうけん)寺が建てられ、
    二の丸には信長の霊廟(れいびょう)が置かれている。
    
    二の丸跡
    
    安土城図
    安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、
    ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで
    日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団、
    いわゆる「穴太衆」はその後全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった。
    ただし、安土城に残る当時の石垣の積み方は場所により様々であり、
    特定の「穴太積み」なる技法の存在を想定するのは難しい。
     築城時の普請奉行(ふしんぶぎょう)は丹羽長秀(にわながひで)で、1576(天正4)年正月に着工し、
    1579(天正7)年にほぼ完成したが、信長は着工の直後の7年5月、建物の一部ができあがるとすぐ
    稲葉山(いなばやま)城から居を移している。信長が岐阜から安土に城を移したのは、
    一つには越後(えちご)(新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)対策であり、
    一つには北陸の一向一揆(いっこういっき)を監視するためであった。しかも、
    岐阜よりははるかに京都に近く、琵琶湖(びわこ)の水運を掌握できるという利点もあったからである。
    城郭史からみて安土城が特筆されるのは、五層七重(地上6階地下1階)の
    天守閣が建てられたことである。この天守閣は『信長公記(しんちょうこうき)』のなかの
    「安土山御天主之次第」や、キリスト教宣教師たちの描写によってかなりはっきりしており、
    内部の柱には金箔(きんぱく)がはられ、外部は各層が違った色で塗ってあったことや、
    客間としての書院、納戸、台所などが備わり、座敷は畳敷きで、
    障壁には狩野永徳(かのうえいとく)の絵が描かれていたのである。
    なお、城はちょうど琵琶湖に突き出た形で、
    麓(ふもと)から山頂まで約100mほどの安土山に曲輪(くるわ)が配置され、
    本丸、二の丸を中心として、家臣の屋敷がそれぞれ一つの曲輪の形となっていた。
     滋賀県は1987(昭和62)年から20年計画で安土城の発掘調査を行っており、
    南山麓から本丸へ続く大手道、通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、
    天皇行幸を目的に建設したとみられる内裏の清涼殿を模った本丸御殿などの
    当時の状況が明らかとなりつつあり、併せて石段・石垣が修復工事されている。
    築城の目的は岐阜城よりも京に近いため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に
    位置していたことから信玄亡き後信長の最大の脅威であった上杉謙信の上洛を阻止できる
    立地条件にあったためとされている。その規模、容姿は太田牛一や宣教師の記述にあるように
    天下布武、信長の天下統一事業を象徴する城郭であり、山頂の天主に信長が起居、
    その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。
伊賀上野城(いがうえのじょう) : 三重県伊賀市上野丸之内(現・上野公園)にあった平山城で、
    「白鳳城(はくほうじょう)」や単に「上野城」とも呼ばれる。上野盆地のほぼ中央にある
    上野台地の北部にある標高184mほどの丘に建てられた平山城である。北には服部川と柘植川、
    南には久米川、西側には木津川の本流が流れ、城と城下町を取り巻く要害の地にある。
    北畠信雄の家臣である滝川雄利が平楽寺の跡に砦を築いた。その後1585(天正13)年に
    筒井順慶(つついじゅんけい)の養子・筒井定次(さだつぐ)が大和郡山(やまとこおりやま)から
    移ってきて、三重の天主を持つ城を築いていた。ところが、関ケ原の闘い後、定次は所領を没収され、
    代わって1611(慶長16)年に徳川家康の命を負って藤堂高虎(とうどうたかとら)が伊賀一国と
    伊勢中部20万石の大名として入封(にゅうほう)し、城を拡張して天守台上に五重の天守を設けたが、
    完成間近い1612(慶長17)年9月の暴風雨で倒壊し、以後再建されなかった。
    家康が高虎を伊予今治(現・愛媛県今治市の今治城)から伊賀・伊勢に移したのにはわけがあった。
    築城名人として知られた高虎に、大阪方包囲網の城を築かせようとしたのである。
    高虎個人の城でなく、大阪方との決戦を想定した「徳川の城」として築かれている。
    暴風雨で倒壊後も工事は続けられたが、1614(慶長19)年の大坂冬の陣、
    1615(元和元)年の夏の陣の役によって、当時高虎が従属する家康に対立していた豊臣家が滅亡し、
    伊賀上野城の大阪方包囲という役割が必要なくなったことから築城は中止され、
    本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごし、
    32萬3千950石余の大藩として明治まで城代を置いて存続した。
    現在、本の丸ある天守は、1935(昭和10)年に地元の衆議院議員であった
    川崎克(かつ)の手によって建てられた二層の小天守をともなった三層三階の
    木造複合式模擬天守で、正式には「伊賀文化産業城」という。模擬天主の3階には、
    横山大観、川合玉堂(ぎょくどう)ら著名な日本画家の絵が格(ごう)天井に飾られている。
    
    天守への入口
    
    伊賀上野城の模擬天守(東南面)
    
    鯱のレプリカ
    
    城内の急な階段(上りの階段だが下りも同じ)
    
    模擬大天守から鯱鉾のある小天守方面を望む
    
    模擬大天守より望む俳聖殿(松尾芭蕉を祀る)
    城を含めた近隣一帯は国の史跡に指定され、入場自由の上野公園として整備されており、
    松尾芭蕉の生誕300年を記念して立てられた俳聖殿(はいせいでん)や芭蕉翁記念館があるほか、
    伊賀流忍者博物館があり、伊賀上野の観光地として利用され、各種イベントなどが行われている。
    長年日本一といわれてきた藤堂高虎の高さ29.8mの石垣や三重県立上野高等学校敷地内に
    武庫蔵が現存し、米倉は博物館の一部として上野公園敷地内に移築現存する。
    アクセス : 伊賀鉄道上野市駅〜徒歩5分。名阪国道上野IC〜国号25号線(旧道)。
            二の丸入口前に有料駐車場あり。
    参 : 伊賀上野観光協会(HP)、伊賀流忍者博物館(HP)
石落とし(いしおとし) : 袋狭間(ふくろはざま)。武者落とし。
    城の天守や櫓、門や塀、壁、石垣などの上端から、建物または塀の一部を土台から張り出させ、
    床面を抜いて石や熱湯を落下させたり、矢を射下ろしたりして登ってくる敵を監視し、
    攻撃・撃退する仕掛け(防御施設)を言う。柱間に石落しを設置する場合が多いため、
    横幅は一間が一般的である。内部の床面に設けられて開口部は、
    木製の蓋によって普段は閉じられているが、瞬時に開くようにしてある。
    石落しの役目 : 鉄砲登場後の石落しは、狭間(さま:・銃眼)の一種で、
     ここから下方に向けて鉄砲を撃つ施設である。しかし江戸軍学によって、
     石落しは石垣を上って来る敵兵に対して、ここから石を落とすとか、糞尿や汚水、
     熱湯を浴びせかけるためのものとされ、それが巷(ちまた)に広がってしまったとされる。
     天守や櫓では、石落しを隅部に設置することが多い。これは石落しは開口部が大きく、
     狭間では対応できない左右数mという広い範囲を攻撃することが可能であり、
     隅部に設置することで有効射程視野を確保しようとしたものである。松本城大天守には、
     隅部のほかに中央に二間の石落しを設置して、より有効射程視野の確保を考えている。
    石落しの分類 : 次の三種に分けられる。
     @袴腰(はかまごし)
     A戸袋(とぶくろ)
     B出窓(でまど)
    
    姫路城の袴腰型石落とし
    
    広島城の袴腰型石落とし
    
    伊予松山城の塀に設けられた戸袋型石落し(右上)
糸数城跡(いとかずじょうせき) = 糸数城跡(別掲)
犬走り(いぬばしり) = 犬走り(別掲)
犬山城(いぬやまじょう) : 愛知県犬山市にある城。全国に12箇所しか現存していない、
    江戸時代前後に建造された国宝の天守を有する城郭の一つである。
    別名の「白帝(はくてい)城」の名は、犬山城が木曽川沿いにあり、三国志の劉備が臨終を迎えたことで
    有名な白帝城も長江沿いにあることから、それにちなみ荻生徂徠が命名したと伝えられる。
    戦国時代の1537(天文6)年に織田信長の叔父の織田与次郎信康によって築城された
    平山城で、1584年の小牧長久手の戦いの際には豊臣秀吉が12万の大軍で犬山城に入り、
    南側の小牧城に陣取る徳川家康と合戦を行ったという歴史もある。
    のち1617(元和3)年には徳川幕府尾張藩の付家老であった成瀬正成が入城し、
    明治時代の廃藩置県で廃城に至るまで成瀬家が代々犬山城主を務めた歴史を持つ。
    天守閣のすぐ北側を木曽川の大河が流れて、天然の要害をなし、軍事・経済・交通面においても、
    木曽川を押さえる要衝にあった犬山城は、戦略上重要な位置を占めていたと思われる。
    現存する天守閣は高さ19mの三層構造を持ち、全国の現存する天守閣の中でも最も古いとされている。
    その後1891(明治24)年の濃尾地震や1961(昭和36)年の伊勢湾台風によって被害を受け、
    現在の天守閣は伊勢湾台風の後解体修理が行われ、1965(昭和40)年に完成した。
    1935(昭和10)年に天守閣が旧国宝に、
    1952(昭和27)年には文化財保護法による国宝に指定された。
    
    本丸庭園のお茶席と天守閣(高画質壁紙写真集無料壁紙より)
今治城(いまばりじょう) = 今治城(別掲)
入隅(いりすみ) = 入隅(別掲)
岩国城(いわくにじょう) : 山口県岩国市横山にある山上の城である通称「横山城」と、
    麓の居館である「土居」から成る。江戸時代初期は岩国藩の居城となり、
    廃城後は土居が陣屋として存続した。城下と城を隔てる錦川には錦帯橋が架けられ、
    特徴的な景観を作り出している。城下町はこの錦帯橋の道筋を基準に整然と整備された。
    
    岩国城天守閣
    
    岩国城天守閣から錦帯橋方面を望む
     1600(慶長5)年、関ケ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を大幅に削減され、
    広島城から萩城に移封となった。同時に一族であり毛利家存続に注力した吉川広家も
    同時に米子城から当地に3万石で封じられた。慶長5年10月には家臣団が、
    1601(慶長6)年には広家がこの地に赴任した。広家赴任と同時に岩国城の築城が開始された。
    麓に平時の居館となる「土居」と、戦時の城「横山城」が横山山上に築かれた。
    築城には8年の歳月が費やされ、まず翌1602(慶長7)年に土居が完成した。
    土居完成とほぼ同時期に横山城の築城が開始され、1608(慶長13)年に竣工した。
    本丸には4重6階の唐造りの天守が建造された。しかし、完成からわずか7年後の
    1615(元和元)年に幕府の一国一城令により横山城が破却され廃城となった。
    これは、周防国にはこの岩国城のみが存在していたが、長府藩の毛利秀元が居城の
    櫛崎城を破却したことに合わせざるを得なかったことによる。
    その後、麓の土居は岩国藩の陣屋として明治維新まで存続した。
     現在の復興天守は、錦帯橋付近からの景観を考えて本の丸南側に建てられているが、
    本来の天守は本の丸北側にあり、本来の天守台が残っている。
    
    岩国城のカラクリ時計
    参 : 岩国市役所(HP)、岩国美術館+柏原コレクション(HP)
    
    
    1974(昭和49)年5月12日利用のもの(原寸は13.5×5.3cm)
    
    西村博物館(現・岩国美術館+柏原コレクション、旧・岩国歴史美術館)の入場券。
    1974(昭和49)年5月12日利用のもの(原寸は15.5×7.2cm)

江戸城(えどじょう) : 武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった室町期から
    江戸期の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、
    また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家15代の居城、
    江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。江戸城は、関東平野の南端、江戸湾の北隅で、
    関八州のほぼ中央に位置し、現在の隅田川河口付近にあった麹町台地の西端に、
    1457(長禄元)年に扇谷上杉氏の家臣・太田道灌(おおたどうかん)が築いた平山城で、
    陸上交通、水上交通の拠点ともいうべき場所にあった。
    のち、1590(天正18)年の徳川家康関東移封入城後、3代将軍家光に至る数回の工事で
    段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。
    その後、数度の火災と改修を繰り返したが、本丸は幕末に焼失したが、
    富士見櫓(やぐら)・伏見櫓・桜田二重櫓のほか多くの城門を残す。
    明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)・皇居となり、西の丸跡に宮殿が建てられた。
    その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として
    無料で開放されている。南側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、
    それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
    江戸城明渡し(えどじょう・あけわたし) : 1868(慶応4)年4月、徳川慶喜(よしのぶ)
     恭順の意を示し、東征大総督の有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王に
     江戸城を明け渡したこと。
    
    北桔橋門(きたはねばしもん)。本丸の北側、竹橋門と乾二重櫓(いぬいにじゅうやぐら)との間にある
    奥に見える石垣は天守台。本丸大奥に近い門で、外との出入りに使っていた

    
    北桔橋門の内側から
    門の外の橋が江戸城本丸防御の為に、橋橋の片方を跳ね上げて渡れなくしていた「跳ね橋」

    
    北桔橋からの平川堀(ひらかわぼり)方面
    
    北桔橋からの乾堀(いぬいぼり)方面
    
    天守台
    
    植え込みの向こうの芝生は本丸跡
    
    百人番所(本丸へ入る際の最大の検問所)
    
    同心番所(検問所の一つ)ここからは馬上のものも下馬して通らなければならなかった
    
    大番所
    
    江戸城・城郭図(内堀)
    
    江戸城・城郭図(外堀)
円郭式縄張(えんかくしきなわばり) : 円状に円塁を重ねて配置する縄張のこと。
    円郭式縄張の典型として知られている田中城のほか、吉田城、近江久徳城などがある。
扇の勾配(おうぎのこうばい) : 神社建築の屋根の反りに似ていることから、正しくは「宮勾配」といい、
    加藤清正が得意としたことから「清正流三日月勾配」や、「寺勾配」「扇の勾配」などとも呼ばれ、
    下の方は緩やかに組み、頂きへ向かうにつれ徐々に垂直になり、天に向かって弧を描いて
    反り返っている。城の石垣は、自然石を積むだけで勾配が直線的な「野面積み」から
    加工石を用いた「打ち込みハギ」へ発展した辺りから、石積みに下方がゆるく上方へ向かって
    急勾配となるカーブがみられるように積んで行く技法が使われるようになった。
    傾斜面が扇を開いた形のように見えることから、「扇の勾配」と呼ばれる。
    この勾配の特色は、石垣の傾斜面を内側に扇を開いた形に湾曲させているもので、
    こうした傾斜をつけることによって石垣を高く積むことができる。
    石を高く積むだけではなく、石垣の内側に含む水や土の圧力で、
    自然に石垣が崩れやすくなるのを防ぐねらいもある。
    このことは、敵が石垣をよじ登るのを防ぎ一石二鳥の効果を持っている。
    構造的、防衛的から工夫された扇の勾配だが、壮大な天守閣に安定感と優美さももたらしている。
    姫路城熊本城、丸亀城など、多くの城に取り入れられている。
    
    扇の勾配が採用されている熊本城の「二様の石垣」
大阪城(おおさかじょう) = 大阪城(別掲)
大洲城(おおずじょう) : 伊予国喜多郡大洲(現・愛媛県大洲市大洲903)にあった旧大洲藩の城である。
    別名に地蔵ケ嶽(じぞうがだけ)城、比志城、大津城(大洲の旧称)などがある。
    鎌倉時代末期の1331(元弘元)年、宇都宮豊房(とよふさ)が伊予守護として赴任し、
    城を築いたのが始めという。地蔵ケ嶽城主だった宇都宮豊綱が家臣大野直之の下剋上によって
    城を奪われ、その大野直之も、1585(天正13)年の豊臣秀吉による四国攻めの時、
    小早川隆景に攻められ、その後、豊臣大名の戸田勝隆、藤堂高虎、
    脇坂安治(わきさかやすはる)らが入城し、慶長年間(1596〜1615)に
    藤堂高虎・脇坂安治らが修築し、天守が築かれた可能性が高い。
    1617(元和3)年に加藤貞泰(さだやす)が入城し、以降は加藤氏代々6万石の居城であった。
    天守は本丸の南東隅に建てられ、北に高欄櫓(こうらんやぐら)
    西に台所櫓を配置し渡り櫓で連結した複合連結式層塔型4重4階である。
    中央付近に心柱が通され、それに伴い2階の床には吹き抜けが造られていた。
    外観は、下見板張りで、比翼千鳥破風、千鳥破風、向唐破風で屋根を飾り、
    窓には連子窓が多用されたが、2階には華頭窓のみが並べられていた。
    現在の天守は、大洲市市制施行50周年記念事業として2004(平成16年)に竣工し、
    戦後初の当時の工法・木造で復元されたものである。
    
    大洲城
    
    二の丸からみた天守と台所櫓
    木造での復元は掛川城(かけがわじょう)天守(静岡県掛川市)などいくつかの例があるが、
    4層4階、高さ19.1メートルの復元はこの大洲城天守が初めてである。
    江戸時代から残っている本丸の台所櫓・高欄櫓、二の丸の苧綿櫓(おわたやぐら)
    三の丸の4棟の隅櫓が国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されている。
    苧綿櫓は肱川の土手に突出して造られ、旧二の丸の東南隅にあたる。
    三の丸南隅櫓(みなみすみやぐら)は現在加藤家の宅地内にあり、加藤家の所有になっている。
岡城(おかじょう) : 豊後岡城。現在の大分県竹田市大字竹田岡にあった鎌倉時代から江戸時代の山城で、
    「臥牛城(がぎゅうじょう)」「豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)」とも呼ばれる。
    岡城の築かれた天神山は標高325m、比高95m、城域は、東西2500m、南北362m、
    総面積は23万4千mに及んだ。
    岡城の城郭は、東西に延びる溶岩台地上に築城された山城であるが、その建築形態は、
    山城的殿舎で構成された曲輪(廟所)、平山城的殿舎で構成された曲輪(本丸、二の丸、三の丸)、
    平城的殿舎で構成された曲輪(西の丸)からなっていた。
    城の歴史は古く1185(文治元)年に地方の豪族・緒方惟栄(おがたこれよし)
    源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりと伝えられる。
    義経は九州に逃れようとしたが尼崎付近で暴風雨にあい、ついにこの城に入ることはなかった。
    その山城は、南北朝時代の1334(建武元)年に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の
    志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。
    戦国時代には大友宗麟(そうりん)の支城となり、志賀氏の最後の当主17代・志賀親次(ちかつぐ)
    島津義弘率いる3万5千の島津軍に包囲されたに関わらず、わずか千の兵力でもって
    島津軍の攻撃を耐え抜いたことで、岡城と志賀親次の名は天下に知られるところとなる。
    1593(文禄2)年播磨三木から中川秀成(ひでしげ)が7万石で入封し、
    岡藩13代・久成(ひさなり)の時に明治維新を迎え廃城となった。
    なお、岡城の西麓むには城下町が残り、「殿町武家屋敷通り」として保存されている。
    少年時代の3年間ほどを竹田の町で過ごした滝廉太郎(たきれんたろう)はこの城を愛して
    名曲『荒城の月』を生んだといわれ、城跡の二の丸には滝廉太郎の銅像が建てられている。
    明治維新後、廃城令によって廃城とされ、1871(明治4)年から翌年にかけて城内の建造物は
    全て破却され、現在残っているのは高く積み上げられた城壁のみである。1936(昭和11)年
    12月16日、「岡城址」として国の史跡に指定され、2006(平成18)年4月6日、日本100名城に
    選定された。1990(平成2)年には、「岡城公園」として日本さくら名所100選に選定された。
    
    岡城三の丸北側にある高石垣(ジパングクラブ2011.8号より)
小田原城(おだわらじょう) = 小田原城(別掲)
垣花城跡(かきばなじょうせき) = 垣花城跡(別掲)
勝連城跡(かつれんじょうせき) = 勝連城跡(別掲)
金沢城(かなざわじょう) = 金沢城(別掲)
唐津城(からつじょう) : 佐賀県唐津市東城内にある平山城で、江戸時代初期の1602(慶長7)年に
    豊臣秀吉の家臣・寺沢志摩守広高(てらさわしまのかみひろたか)が九州諸大名の加勢を受け、
    近くの名護屋城の解体資材を用いて築城を始め、1608(慶長13)年に完成した。
    山頂部に本の丸を置き、西に二の丸・三の丸を配置し、更に南に外郭を設けた中規模の城で、
    江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となった。唐津城の本丸跡は現在では舞鶴公園として整備され、
    本丸跡に建つ天守は1966(昭和41)年に寺沢氏時代の慶長様式を取り入れて完成したもので、
    5層5階地下1階の堂々とした天守で、天守を鶴の頭に見立て、
    左右に広がる松原が鶴の翼の形に似ていることから「舞鶴城(まいづるじょう)」とも呼ばれている。
     唐津城には天守台はあったが過去に天守閣が建てられた跡はなく、地元の昭和バス社長だった市長の、
    観光誘致策という面があったとされる。当時のお金で1億5千万かけて昭和の城が完成した。
    設計は「昭和天守閣」を数多く設計した城郭研究家の権威だった東京工大の故・藤岡道夫教授で、
    唐津城のモデルは、1596(慶長元)年の大地震で崩壊した京都の伏見城とされる。
    
    唐津城(2004.11.3撮影)
    参 : あしこし九州(HP)
搦手門(からめてもん) : 城の裏門。城門の一つで、正門というべき大手門(追手門)に対し、裏門にあたる。
    有事の際には、領主などはここから城外や外郭へ逃げられるようになっていた。
    建物自体は、小型で狭く目立たない仕様であることも少なくなく、
    櫓門ではなく小型の冠木門を建てるのみということもあったというが、きわめて厳重で
    大手門などの大きな虎口に比べて規模が小さく、少人数で警備できるように設計してあった。
    1カ所とはかぎらず、数カ所設けられることもある。
鞠智城跡(きくちじょうあと) : 熊本県山鹿市菊鹿町米原(よなばる)台地上にある古代山城で、
    東アジア情勢が緊迫した7世紀後半(約1300年前)に、律令国家・大和朝廷(政権)によって築かれ、
    現在の菊池市と菊鹿町を含む120haにおよぶ城域となっている。
    城の中心地は菊鹿町になるが、菊池市側に城へ入る門の礎石(堀切門礎・深迫門礎)が位置している。
    城の呼称には古来名の「鞠智」の文字が見え、後に「菊池」という字に変わった。
    663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅の連合軍に大敗した大和朝廷(政権)が
    日本列島への侵攻に備え西日本各地に築いた城の一つで、九州を統治していた大宰府や
    それを守るための大野城・基肄(きい)城に武器・食糧を補給する支援する兵站基地であった。
    
    鞠智城跡にあるカンバンより
    周囲の長さ3.5km、面積55haの規模をもつ城で、1967(昭和42)年度からの県の発掘調査により、
    八角形建物跡をはじめとする72棟の建物跡や、貯水池跡、土塁跡など、
    当時の姿を物語る貴重な遺構が相次いで発見された。
    
    熊本県教育庁文化課の資料より
    こうした発掘調査の成果に基づき、1994(平成6)年度から4棟の
    復元建物(八角形鼓楼、米倉、兵舎・板倉)をはじめ、城の立地や規模、
    構造などを体験的に学習できる歴史公園として整備されている。
    『続日本紀(しょくにほんぎ)』など、国の歴史書にも記載のある全国有数の重要遺跡として、
    2004(平成16)年2月27日に国史跡に指定された。
    百済で作られた青銅菩薩立像が出土、熊本の「鞠智城跡」
     山鹿市菊鹿町の鞠智城跡から、7世紀後半とみられる百済(くだら)の仏像1体が発掘されたと、
    熊本県教委が2008年11月3日、発表した。鞠智城と古代朝鮮王朝のひとつ百済との関係を
    裏付ける貴重な資料として注目されている。発見された仏像は青銅製の「菩薩立像」で、
    高さ12.7センチ、幅3センチ、●ヘソの前で物を持っている●脚の下に台座に差し込むための太い
    「ほぞ」と呼ばれる部分があるなどの点が、当時の百済の仏像の特徴と一致するという。
     仏像は、2008年度の貯水池跡の調査で池の北側の斜面地表から
    1.5メートルの深さで仰向けの状態で発見された。
    錆びなどが付着しているものの頭の飾りや垂髪などがしっかり表現されていて腹部で何かをもっている。
    横からみると身体が薄くS字に美しい曲線を描いている。
     当時、国内では仏教が広まり始めたばかりで、一般の日本人が仏像を所有していた可能性は低く、
    県教委は「亡命百済人が持ち込んだ」とみている。
     鞠智城は現在、国定公園に向けた働きかけをしていて
    関係者は今回の百済仏像の出土が大きなはずみになればと期待をよせている。
    参 : 歴史公園鞠智城・温故創生館(HP)
岸和田城(きしわだじょう) : 大阪府岸和田市岸城町にあった戦国期〜江戸期の城。
    岸和田城は猪伏山(いぶせやま)と呼ばれた小高い丘の上にあり、本丸と二の丸を合せた形が、
    機の縦糸を巻く器具「縢(ちきり)」に似ていることから蟄亀利城、
    後に千亀利城(ちきりじょう)と呼ばれるようになった。別名に「岸の城」がある。
    1334(建武元)年、楠正成が一族の和田氏に築城させた城である。
    その後1585(天正13)年に豊臣秀吉からこの地を与えられた小出秀政(こいでひでまさ)が入城し
    天守閣を築造した。小出氏3代相続のあと1619(元和5)年に松平(松井)康重(やすしげ)が入ったが、
    さらに1640(寛永17)年に高槻(たかつき)城から岡部宣勝(のぶかつ)が6万石で入り大改築を行った。
    5層の天守閣は1827(文政10)年に落雷で焼失し、以降再建されないまま、1871(明治4)年に
    廃城とされ、まもなく破却された。城跡は1943(昭和18)に大阪府の史跡に指定されている。
    現在の三層三階天守は1954(昭和29)年に再建された模擬復興天守である。
    天守閣の1、2階は郷土資料館として、本丸・二の丸跡は、千亀利公園として整備されている。
    
    岸和田城
    城内にある岸城神社は千亀利と「契り」とをかけて、縁結びの神社として知られている。
    桜の季節は花見の名所となる。 参 : 岸和田市(HP)
具志川城跡 = 具志川城跡(別掲)
グスク : 丘城。沖縄の古語で、「祈りの場」「聖なる所」「城」「城郭」などをさす語で、
    古くは「グシク」と発音されていた、と推測される。グスクの成立は12世紀以後で、
    グスクは見晴らしの良い丘の上に立ち、奄美(あまみ)から沖縄の島々には
    300以上のグスクがあるといわれている。
    世界遺産に指定されているようなグスクは石垣で堂々とした城壁を巡らせている物ばかりだが、
    そういったものはごくごく少数で、大抵のものは高台の上に申し訳程度の石積みが囲んでいたり、
    石積みが無く岩を利用したものも多い。漢字では「城」と書き表されるが、
    九州以北でイメージされる城とは異なり、宗教的性格を強く持ち、現在でも花や線香があがっている。
    山城(やまぐすく)・花城(はなぐすく)・玉城(たまぐすく)など姓や地名の中に残る。
熊本城(くまもとじょう) = 熊本城(別掲)
久留米城跡(くるめじょうせき) = 久留米城跡(別掲)
曲輪(くるわ) : @城壁や堀・土塁・石垣などや自然の崖や川などで囲まれた・館内の区画をいい、
     城はこの曲輪をいくつも連ねることで成り立っている。
     曲輪は郭とも書き、輪郭を意識したときに「郭」、内部の平地を意識したときに「曲輪」と
     使い分けることもある。江戸時代には「丸」ともいわれた。防御の中心となる曲輪は
     本丸(=本曲輪・主郭)であり、他に二の丸・三の丸が設けられることが多かった。
     城によっては、櫓曲輪・水手曲輪・天守曲輪・西の丸(大名の隠居所)などが設けられることもあった。
     戦国時代の城の多くは独立した山頂に建てられた山城であり、曲輪の面積が小さかった。
     棚田のように、斜面に小さな曲輪が連続する城もあった。
     馬出が大規模化したものを馬出曲輪、出丸などという。ある城に地形状付属している城塞は出郭、
     出丸といわれる。大阪城の真田丸なども出丸として有名な例である。
    A廓とも書き、遊郭、遊里、さと、などと呼ばれ、周囲を囲いで限られ、遊女屋が集まっている地帯のこと。
小倉城(こくらじょう) = 小倉城(別掲)
古代山城(Korean−style fortresses in Japan)こだいさんじょう、こだいやまじろ : 古代山城遺跡。
    城郭の一種で、飛鳥時代から奈良時代にかけて築かれた山城のうち、朝鮮半島からの影響が
    指摘されるものを一般に指す。朝鮮半島で百済が滅び、その復興に向かった日本が
    唐・新羅連合軍に破れ、東アジアが激動した7世紀に国家防衛のため築かれたといわれるが、
    個々の構造に違いもみられ、役割に異論もある。朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)と呼ぶこともあり、
    文献記録があるが、史料の登場しない神籠石(こうごいし)と呼ばれる山城もある。
    したがって、日本の古代山城は朝鮮式と神籠石の大きく2つに分けて考えられている。
    朝鮮式山城 : 古代山城のうち、『日本書紀』や『続日本記』に何らかの記載があるものを指す。
     朝鮮半島の白村江(はくそんこう)での敗戦の翌々年の665年から唐や新羅の侵攻に備えて築かれた
     山口県下関市の長門城(ながとのき)、福岡県大野城市と太宰府市の大野城(おおのじょう)
     佐賀県基山町、福岡県筑紫野市の基肄城(きいじょう)、滋賀県高島郡高島町の三尾城(みおのき)
     熊本県菊池市、菊鹿町の鞠智城(くくちのき、きくちじょう)、長崎県対馬市の金田城(かねたのき)
     福岡県糸島郡志摩町の稲積城(いなづみのき)、福岡市博多区美野島の三野城(みのじょう)
     香川県高松市の屋嶋城(やしまのき)、奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市の
     高安城(たかやすのき)などの築城から719年の広島県福山市の茨城(いばらき、いばらじょう)
     広島県福山市新市町の常城(つねき)の停廃までの55年間に北部九州から近畿にかけて
     20数カ所の築城が確認されている。記事の中に亡命百済貴族が
     築城の指導にあたったことが見えるため、これらを朝鮮式山城と呼んでいる。
    神籠石系山城 : 巨石を一列の帯状に並べて、山の中腹から8合目あたりを
     はち巻状に取り囲んでいる古代の土木工事の遺跡につけられた名称である。
     当初、北部九州と山口県に分布する切石列石をともなう山城遺跡の呼称であったが、
     中国、四国地域からも文献に未記載の古代山城を広く神籠石系山城という名で呼ぶのが一般的で、
     現在西日本で兵庫県龍野市と新宮町の播磨城山城(はりま・きのやまじょう)
     岡山市と瀬戸町の大廻小廻山城(おおめぐりこめぐり)・岡山県総社市の鬼ノ城(きのじょう)
     香川県坂出市の讃岐城山城(さぬききやまのき)・(愛媛県東予市の永納山城(えいのうざん)
     山口県熊毛郡大和町の石城山神籠石(いわきやま)・福岡県行橋市の御所ケ谷神籠石(ごしょがたに)
     福岡県筑紫野市の宮地岳山城(みやぢだけ)・久留米市の高良山神籠石(こうらさん)
     福岡県前原市の雷山神籠石(らいざん)・福岡県山門郡瀬高町の女山神籠石(ぞやま)
     福岡県嘉穂郡頴田町の鹿毛馬神籠石(かけのうま)・佐賀市と神埼市の帯隈山神籠石(おぶくまやま)
     佐賀県武雄市橘町のおつぼ神籠石・福岡県朝倉市の肥木神籠石(はき)
     福岡県築上郡大平村の唐原神籠石(とうばる)の16の山城が確認されている。
     ほか、中国式山城として福岡県前原市の怡土城(いとじょう)や石積みの城ではなく土塁だけの
     太宰府市国分の水城(みずき)がある。
     7世紀の朝鮮半島の緊張に伴う防衛施設との見方や論争がある。
佐賀城跡(さがじょうせき) = 佐賀城跡(別掲)
座喜味城跡(ざきみじょうせき) = 座喜味城跡(別掲)
狭間(さま、はざま) : 矢や鉄砲を放つ為に天守や櫓(やぐら)、塀(へい)等に設けられた、
    三角形、正方形、長方形や円形をした小窓(穴)のことである。
    塀の内側から外側に向かって開くような形をしており、戦闘の際は、そこから矢や鉄砲などを撃った。
    その用途によって矢狭間・鉄砲狭間・大砲狭間などと呼ばれた。
    弓矢用は縦長で矢狭間、円状や三角、四角は鉄砲狭間と呼び、武器に適した形状となる。
    その窓の形により丸狭間・菱形狭間・将棋駒形狭間・鎬狭間・箱狭間などと呼ばれ、
    塀の下の石垣の最上部に切込みを入れるようにあけられた石狭間もあった。
    鉄砲狭間(てっぽうざま) : 射手が鉄砲を突き出すために城壁などに設けた小窓。銃眼。
     銃撃戦になった時、当然、狭間の出来不出来は戦況を左右する。
    
    三角形の鉄砲狭間(彦根城
    
    四角形の鉄砲狭間(彦根城)
    矢狭間(やざま) : 矢間(やま)や箭眼(せんがん)とも呼ばれ、
     城壁や櫓などにあけた、矢を射るための穴。
    
    長方形の鉄砲狭間(彦根城)
紫禁城(しきんじょう) = 紫禁城(別掲)
首里城(しゅりじょう) = 首里城(別掲)
城下町(じょうかまち) : 戦国時代、戦国大名が城郭を中心として家臣団(武家地)や商工業者(町人地)
    などを集住させ、大規模な城郭が計画的に建設され、その城下に町場が発展して城下町となった。
    大名領国の首都としての性格をもつ。江戸時代以降は、必ずしも城が中心とは限らず、
    戦闘を想定しない行政施設としての陣屋を中心としたケースもあるが、それらも含めて城下町と呼ぶ。
    幕藩体制の解体によって消滅したが、近現代の主要都市のほとんどは旧城下町を母胎としている。
    織田信長豊臣秀吉の時代になると、兵農分離が進み、家臣団や商人・職人を城下に集中させた
    城下町がつくられ、楽市・楽座や関所の廃止などで商工業の発展がはかられ、
    以後、城下町は、大名領国の政治・経済の中心として本格的に発展していった。
    江戸時代になると、徳川政権の確立期に、諸大名の配置替えが大規模におこなわれたこともあって、
    全国各地に新しい城下町が数多くつくられた。しかし、元禄期ごろを頂点として領主財政がいきづまり、
    江戸や大坂の都市商人が台頭してくると城下町経済はしだいに活況をうしない、
    明治維新によって大名の支配する城下町の存在意義は消滅した。
    しかし、それらは、広大な城地や武家地に県庁をはじめとする官公署や主要学校がおかれるなど、
    旧城下町がそのまま地域の中心的都市へと発展し、近代都市の源流のひとつとなった。
城主(the lord of a castle)じょうしゅ : @城のあるじ。
    A江戸時代、国持ちと准国持ち以外で、城を持っていた大名。
     戦国時代では安土城織田信長、春日山城(新潟県)の上杉謙信、
     小田原城(神奈川県)の北条氏康らが有名。甲斐(山梨県)の武田信玄は
     「人は城、人は石垣、人は堀」として、居城を築かなかったことで知られる。
     江戸時代から明治までずっと城主だったのは、彦根城の井伊家や、金沢城の前田家などがある。
     城主大名(じょうしゅだいみょう) : 近世江戸時代における大名の格式の一つであり、
      大名家をその居地・居城で区別する国主(国持大名) - 準国主−城主−城主格−無城(陣屋)の
      5階級のうち、国許の屋敷に城が認められている大名をいう。その他、大名統制には、
      並大名が諸大夫(従五位下)である官位が四品(従四位下)以上に叙任される家格であったり、
      伺候席(しこうせき)によって区別されていた。1867(慶応3)年で151家。
(a castle)しろ : @外敵の侵入を防ぐために設けられた建築物(防御施設)のことで、城郭ともいう。
     日本では、古代国家統一後の朝鮮式山城、奥州経営のための柵(さく)などの造営の後、
     中世には、平野部の耕作地帯に設けた堀・土塁を巡らした方形館や、天険に拠(よ)った
     山城などが現れた。戦国時代末期に至り、軍事規模の増大と戦術形態の変化によって、
     山地から平野に築城が移りはじめ、安土桃山時代には、政治・経済的要求から、
     特に大名の拠点となるものは城下町をもつ大規模なものに発展した。この間に施設も永久化し、
     巨大な石垣や漆喰壁(しっくいかべ)・瓦(かわら)屋根が使用されるようになり、本丸に天守を設け、
     水堀を巡らせた平山城・平城が主流となった。今日まで遺構のある城の多くはこの時代のものである。
      城が一番多かった時代は1600年頃の戦国時代末期から江戸時代初期にかけての時期で、
     城の大小に関わらず数えようものなら3000を優に超える。また隣国との防壁としても
     使われたような小さい城、砦のようなものまで含めると、2万5000以上もの城があったとされる。
     1717(享保2)年の『武家諸法度』によると、城主は櫓・塀・門以下は届出をし許可を得たうえで
     補修することが可能で、石塁・石壁が壊れたときは奉行に報告し、その差図を受けることとなっていた。
     このことから徳川幕藩体制下における城の定義は「石垣の上に塀と櫓を有しているもの」とされていた。
      城への逆風が吹くようになったのは、江戸時代に入ってからで、1615年に起こった大坂夏の陣で、
     大阪城が落城して豊臣家を滅亡に追いやったこの年に、江戸幕府は「一国一城」という制度を発令し、
     北は松前藩(今の北海道松前郡)から南は薩摩藩まで、藩に1つの城しか認めないという命により、
     新規築城は制限され、城の数は一気に170まで減少し、城郭の発達は停止した。
      その後も城の不遇な時代はまだまだ続き、明治維新後の1873(明治6)年には
     廃城令が制定されて城の放棄が加速した。昭和に入り、迎えた太平洋戦争で、
     城は米空軍にとって格好の標的となってしまい、米軍の空襲や原爆により名古屋城和歌山城
     広島城などの古い姿が消えた。そのため江戸時代以前から現存する城は、わずか12城しかない。
     弘前城松本城、丸岡城、犬山城彦根城姫路城、松山城 (備中国)、松江城、丸亀城、
     松山城 (伊予国)、宇和島城、高知城で、すべて天守閣がある。そのうち姫路城(兵庫県)・
     松本城(長野県)・彦根城(滋賀県)・犬山城(愛知県)の4城が国宝に指定されている。
     戦後、城の再建する風潮が進んだが、その多くが町のシンボルとしての城で、
     観光のための城として建てられている。こうして再建した城の中には、擬似的な天守閣も多い。
     最近は文献などを元に、当時の姿を再現できないものは
     建築自体の許可が下りなくなっているそうである。
     兵庫県姫路市が1991(平成3)年に、日本三大名城の一つである姫路城を中心とした
     市の復興のため、語呂合わせで、4月6日を「城の日」に制定した。
     城の種類(城郭形態分類)江戸時代の軍学者による地勢に基づく城の分類は、
      山城、平山城、平城の三つであるが、区別は明確ではない。
      朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ) : 築城は、古代時代(7世紀前半から後半の
       律令制国家時代である飛鳥時代)で、山を中心に、周りの必要部位は石類、土類で囲み、
       防備中心の城である。(大野城、基肄城、長門城等)
      山城(やまじろ) : 築城は、中世時代(鎌倉・室町・戦国期・織田・豊臣の時期に至る約400年)で、
       山城の防御は堀ではなく、人工的に削りだした急斜面、切岸によるもので、高い山頂に築かれた。
       日本で一番多い城の形式山全体を郭として作られた城だが、このタイプの城で、
       建造物が残っている城は、稀である。(仙台城、安土城、宇和島城、高根城、岩村城、衣笠城、
       新井城、松岡城、海尻城、勝尾城、岩国城、七尾城、前山城等)
       日本三大山城 : 岩村城(岐阜県岩村町)、大和高取城(奈良県高取町)、
                  備中松山城(岡山県高梁市)
      平山城(ひらやまじろ) = 平山城(別掲)
      丘城(おかじろ) : 丘陵城郭の略で、平山城と同義語。丘の丁部を利用した城のこと。
      台地城(だいちじろ) : 台地の縁などに設けられた城のこと。
       背後に崖地などを置き、一方向からの攻撃を中心に備える構造のものが多い。(金沢城など)
      平城(ひらじろ) : 「沼城」や「平地城」とも言い、近世城郭に多い造りで、平地に防護用として、
       掘りを設けその中心近くに「本丸」、その外まわりに「二の丸」、
       その外回りに「三の丸」といった具合に堅固三段とし、更に郭の周りに水堀を配する城で、
       大規模な天守閣はこのタイプの城に多い。(江戸城、大阪城、名古屋城、松本城、山形城、
       松代城、長篠城、大垣城、若江城、弘前城広島城など)
      水城(みずき) : 「海水城」とも言い、海岸や湖畔などに築かれ、
       あたかも水上に浮かんでいる様な景観を持つ城であるが、平城に含めることが多い。
       また、城から直接舟に乗れるような船溜りを持つ事が多い。
       (高松城、坂本城、桑名城、高遠城、膳所城、今治城など)
      穴城(あなじろ) : 城が、城下町や付近の土地より低い場所に築かれた城で、
       平山城に含めることが多い。(小諸城=酔月城=白鶴城など)
     日本三大名城 : 名古屋城(愛知県名古屋市)、姫路城(兵庫県姫路市)、熊本城(熊本県熊本市)
     日本三大水城 : 高松城(香川県高松市)、今治城(愛媛県今治市)、中津城(大分県中津市)
     日本三大湖城 : 松江城(島根県松江市)、膳所城(滋賀県大津市)、高島城(長野県諏訪市)
     日本三大連立式平山城 : 姫路城(兵庫県姫路市)、松山城(愛媛県松山市)、
                       和歌山城(和歌山県和歌山市)
     日本四大国宝城 : 姫路城(兵庫県姫路市)、松本城(長野県松本市)、
                   彦根城(滋賀県彦根市)、犬山城(愛知県犬山市)

     昭和30〜40年代、築城ブームが起き、戦災で焼けた城の復元に加え、
     観光の目玉づくりにと全国各地で再建・新築された。ほとんどの城が細かいことにこだわらない、
     おおらかな築城スタイルで、なかった天守閣を建てたり、なかったものを付け足したりしているが、
     2007年に築400年を迎え、大規模な復元をした熊本城は往時のままを再現している。
     築城ブームで再建・新築された全国各地の城のほとんどが自治体が造ったハコモノで、
     誰がどうして再建、あるいは新築したのか所有者の市役所などに聞いても、
     「伝聞しか知らない」「文化財ではなく観光施設だから、記録が残っていない」などの回答が
     あったそうだが、国税や地方税を使って建てたものだから、せめて記録くらい残すべきだ。

     参 : 日本の城訪問記(HP)

     21世紀を迎えてもなお、日本人は城へのあこがれを強く抱いているからか、
     いまだに城の数は毎年のように増えていて、日本各地に現存する城の数は天守閣まで残っている城と
     石垣と城の跡しか残っていないものを含めると、200以上にも及ぶそうである。
     観光のために建てればいいものではなく、大阪城にしても、修学旅行で鉄筋コンクリートと
     エレベーターを見て幻滅した。それに比べ、日本最古の犬山城のほか松江城、
     松山城などの江戸時代前から現存している城は、外観の美しさだけでなく、
     内部の建築様式の魅力に加えてワビ・サビがひしひしと感じられる。
     岡山城はあんなに金ピカだったのだろうか。

     
     岡山城    
一度は訪れてみたい城    
順位 城名(所属都道府県) 記    事 票数
姫路城(兵庫県) 関ケ原の戦い後、池田輝政が現在の天守閣などを
整備した。国宝。世界遺産。現在、天守閣は修理中で
内部の見学はできない
1331
五稜郭(北海道)  幕末に北方警備のため幕府が建設。
蘭学者の武田斐三郎が設計した。
函館奉行所が復元され、7月から公開が始まった
1220
熊本城(熊本県) 加藤清正が築城。のち細川氏が入城した。西南戦争で
焼失した天守閣は昭和になって再建。石垣の反りが美しい
833
首里城(沖縄県) 琉球王朝の王、第一尚氏、第二尚氏の居城とされる。
沖縄戦で焼失したが、復元された。
守礼門は2千円札の図柄になった。世界遺産。
819
弘前城(青森県) 津軽氏が築き、明治まで続いた。
17世紀に5層天守閣が落雷で焼失。
のち、3層の櫓を天守とした。全国屈指の桜の名所
738
会津若松城(福島県) 戊辰戦争で会津藩と新政府軍の激戦の舞台になった。
地元では鶴ケ城と呼ばれる
670
松本城(長野県) 石川数正が入り、子の康長の代に今の天守閣が整備
された。石川氏断絶後、小笠原氏、戸田氏らが
相次いで入城。国宝。
653
彦根城(滋賀県) 「井伊の赤備え」で知られる、
徳川家譜代の井伊家の居城。国宝
466
安土城(滋賀県) 織田信長が築いた、最初の本格的天守閣を擁した城。
石垣や礎石が残る
455
10 江戸城(東京都) 徳川家康の入城で大規模整備。
本丸跡などは皇居東御苑となり見学できる
394
11 犬山城(愛知県)
12 名古屋城(愛知県)
13 大阪城(大阪府)
14 二条城(京都府)
15 小田原城(神奈川県)
16 春日山城(新潟県)
17 松前城(北海道)
18 仙台城(宮城県)
19 島原城(長崎県)
20 金沢城(石川県)
2010.10.9、朝日新聞「beランキング」掲載。「アスパラクラブ」会員によるアンケートで、
編集部で各都道府県から一つまたは二つを選択肢に選び、計58城の中から5つまで
回答してもらった。総回答数は2995人。
昭和、平成になってから築城された城は模擬城で、観光のためとしか思えない。
昔のままの犬山城や松江城などが真の城だと思う。築城当時の資料がなく、他の城の
設計図を参考にした城まであるのだ。松江城が20位までに入らなかったのは残念だ。
    A(比喩的に)他人の侵入を許さない自分だけの領域。
駿府城(すんぷじょう) = 駿府城(別掲)
高松城(たかまつじょう) : @高松(現在の岡山県岡山市)にあった備中高松城。
     清水宗治(しみずむねはる)の居城で、石垣を築かず土壇だけで築成された「土城(平城)」である。
     羽柴秀吉は、参謀・黒田官兵衛の献策により、攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6kmの堤防を
     短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。
     籠城1か月余を経て城兵が飢餓に陥ったころ、本能寺の変が起きたため、
     秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、
     1582年、ついに高松城を落城させた。備中高松城の本丸は本丸跡として保存されている。
     本丸跡には明治末年に移転改葬された宗治の首塚があり、
     北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。
     本丸の南側は高松城址公園となっており、蔵を改造した資料館が建っている。
    A香川県高松市玉藻町にある城で、またの名を「玉藻城(たまものじょう)」と呼ばれている。
     1588(天正16)年に生駒親正(いこま・ちかまさ)が、讃岐一国173,000石を豊臣秀吉から賜り、
     播磨赤穂から入封、瀬戸内海の水軍の要として、この地に全国でもまれな海に浮かぶ高松城を築いた。
     寛永年間(1624〜1644)松平頼重の入城以来親藩松平氏の居城となった。
     生駒氏は4代高俊の時、生駒騒動のために出羽矢島1万石に左遷される。
      寛永11年、水戸城主徳川光圀の兄松平頼重が常陸下館より東讃岐12万石で入封した。
     頼重は、生駒氏時代の高松城を更に拡張し、2代頼常(光圀の子、頼重養子)まで工事は続いた。
      城内には3重5層の天守閣がそびえ、要所には約20の櫓があってその威容を誇っていたが、
     現在では良櫓、月見櫓、続櫓および水手御門が残り、いづれも重要文化財の指定を受けている。
     
     玉藻公園の入園券
玉城城址 = 玉城城址(別掲)
知念城跡 = 知念城跡(別掲)
鶴丸城跡(つるまるじょうせき) : 鹿児島県鹿児島市城山町(旧薩摩国鹿児島郡)にあった平城で、
    背後の山が鶴丸山と呼ばれていたことからつけられ、別名を鹿児島城(かごしまじょう)という。
    1602(慶長7)年、初代薩摩藩主・島津家久(いえひさ)が築城開始し、1604(慶長9)年に完成した。
    鶴丸城は薩摩77万石という雄藩の居城としては規模はあまりに小さいが、背後の城山をとりこみ、
    有事の際は要害とし、本丸大手に櫓門を設け、塁状には多聞櫓・平櫓を備えただけのもので、
    天守のない屋形造りの城であったところに特徴がある。
     1696(元禄9)年の火災で本丸の御殿は全焼したが、その後10年の年月をかけて御殿が再建された。
    江戸時代末期の薩英戦争の際、砲弾が大奥に落ちるも大きな被害はなかったが、
    1868(明治元)年に不審火により城は焼失した。
    1873(明治6)年存城と決定されたが、同年火災で本丸が焼失し、
    さらに1877(明治10)年の西南戦争で二の丸も炎上した。
    現存しているのは堀・石垣・大手門の石橋などで、石垣には西南戦争の際に
    出来たといわれる弾痕が多数残っており、当時の激しい戦いを物語っている。
    1901(明治34)年以降、城址は第七高等学校造士館の校地として使用され、
    現在は鹿児島県歴史資料センター黎明館、鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館が建っている。
    また、城から車で20分ほどのところに島津氏19代光久が別邸として建造した「磯(いそ)庭園」があり、
    廃藩後は鶴丸城よりここに移り住んだそうである。
    2006(平成18)年)4月6日、日本100名城(97番)に選定され、
    2007(平成19)年6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
梯郭式縄張(ていかくしきなわばり) : 梯は「はしご」のことで、曲輪を本丸の虎口に二の丸、
    二の丸の虎口に三の丸というように、高い方から低い方へはしご段状に配置することによって
    防御性を高めた縄張のことで、「一二三の段(ひふみのだん)」ともいう。
    比較的よくみられる縄張で、金沢城、岡山城、広島城熊本城などに見られる。
鉄砲狭間(てっぽうざま) → 狭間(さま)
天守閣(てんしゅかく) : 城郭にあって本丸の要所に建つ。天守、天主、殿守(でんしゅ)ともいう。
    城中における最高の櫓(やぐら)で、城主の指揮所として中枢の位置を占めるとともに、
    接見・物見・貯蔵の機能をあわせもつ。1520(永正17)年に摂津(兵庫県)伊丹(いたみ)城にあった
    天守をその始まりというが、尾張(おわり)(愛知県)楽田(がくでん)城天守を古いとする説もある。
    現存する天守のうち、最古のものは1576(天正4)年福井・丸岡(まるおか)城天守、
    最大のものは五重六階、地下一階の兵庫・姫路(ひめじ)城大天守である。
    戦があった時代は守りの要だったが、江戸時代以降は城を象徴する建物となり、
    日常生活には使われなくなった。倉庫として用いられたところもあり、名古屋城の天守閣は、
    武器や藩主の宝物を保管する場所だった。城主たちは城内の御殿で暮らし、領内の政治を執り行った。
徳島城(とくしまじょう) : 徳島県徳島市徳島町城内にあった海抜約62mの渭山(いのやま)の山上と、
    その麓に築かれた平山城で、渭山(猪山)城や渭津(いのつ)城とも呼ばれた。
    吉野川河口のデルタ地帯(三角州)をうまく使った立地で、東を福島川、南を新町川、
    北を助任(すけとう)川が流れ、寺島川、堀川を内堀に活用して自然の堀とし、
    阿波特産の緑泥片岩などの石垣を使った堅城とした。
     渭山の山頂部分を本丸とし、その東側に東二の丸、西側に西二の丸と西三の丸が並ぶ連郭式の
    縄張(なわばり)であるが、藩主が日常居住し、また、家臣たちが政務を執る御殿は山上にはなく、
    山の南側の麓(ふもと)にあった。それを「御屋敷(おやしき)」と呼んでおり、
    山上の詰の城と、麓の居館という戦国時代を思わせる縄張ととなっているのが特徴である。
     1585(天正13)年、豊臣秀吉から阿波一国の太守に任命された蜂須賀家政(はちすか・いえまさ)は、
    最初一宮(いちのみや)城(徳島市一宮町)を居城としたが、そこは山城で、領国支配に適さないとみて、
    翌年にこの渭山に築城を開始し、徳島城と名付けた。山城で阿波随一の堅城と言われた一宮城を捨て、
    防御の薄い平地に城を築く事に、最初重臣たちは反対したそうだが、家政は「地の利を頼むよりも、
    人の和を得ることこそが、これからの大名には必要である。要は徳にあって嶮ではない」と説いて、
    徳島城を完成させたという。その子・至鎮(よししげ)徳川家康の養女氏姫(うじひめ)を娶(めと)り、
    大坂の陣での活躍もあって淡路国を加増され、25万7000石の居城として幕末まで名を馳せた。
    明治維新後の1875(明治8)年、陸軍省によってすべての建物が破却され、
    唯一残ったのが大手門の外側にあった鷲(わし)の門であったが、昭和20年の戦災で焼失してしまった。
    現在は、曲輪や石垣、堀、表御殿庭園(国名勝)などが残っており、1989(平成元)年に
    鷲の門が復元された。この門は、日没から24時まで、堀に架かる橋などとともにライトアップされる。
徳山城(とくやまじょう) : 現在の山口県周南市公園区にあった城。しかし城の造りは陣屋である。
    城主は毛利氏で、徳山毛利藩の居城である。別名は「御舘」。
    1617(元和3)年、毛利輝元の次男・毛利就隆が、兄・毛利秀就から下松に3万石を分封される。
    1648(慶安元)年、現在の地である野上村に陣屋が築かれ、翌年に竣工。
    空堀や水堀は設けられず、土塁で間に合わされており、簡素な構えであったが、
    陣屋としては敦賀酒井氏の「敦賀陣屋」と保科氏の「飯野陣屋」とともに
    「日本三大陣屋」に数えられるほど壮大な規模であった。
    1650(慶安3)年、毛利就隆は藩庁を野上に移し、地名を徳山に改称する。
    1716(享保元)年、万役山事件により、徳山藩は改易される。1719(享保4)年、徳山藩再興。
    1836(天保7)年、萩藩の斡旋により、徳山藩主が城主格となり、
    陣屋が城扱いとなったため、「御舘」を「御城」と呼ぶようになる。
    1871(明治44)年、徳山藩、山口藩に併合される。
    1945(昭和20)年7月26日の徳山大空襲によって、徳山城は焼失した。
    現在、城跡は周南市文化会館、祐綏神社(ゆうすいじんじゃ)周南市徳山動物園となっている。
    文化会館の前庭が、かつての徳山城の庭園である。また、文化会館敷地内には、
    江戸幕府による大坂城修築の際に使用されなかった石垣の残石が残されている。
富山城(とやまじょう) : 越中富山城。富山県富山市丸の内にあった城で、
    かつては、五層の天守(新発田城の天守と同様に3個の鯱が乗せられていた)、櫓3基、
    櫓門3カ所が建てられたという。また、石垣の上には本家金沢城と同様、
    唐破風付出格子がついた海鼠塀がめぐっていた。
    滝廉太郎の荒城の月の題材になった城の一つと言われている。
    1543(天文12)年、越中を支配していた神保長職の家臣と言われる水越勝重が藤井村、
    後の富山に築城したのが最初で、後に勝重は神保長職と名を改め、3代に渡って居城した。
    当時は、安住城や浮城と言われていた。その後、富山城は神保家、上杉家、織田家の抗争の地となり、
    1579(天正7)年、織田信長は越前小丸城主・佐々成政(さっさなりまさ)に富山54万石を封じ、
    成政が1582(天正10)年に富山城に入城し、城を改修し城下町の整備を行った。
    その年に織田信長は本能寺の変で死亡し、佐々成政は豊臣秀吉と戦う。
    しかし、降伏し、代わって加賀前田氏の支配するところとなる。
    1587(天正15)年の豊臣秀吉の九州征伐後、成政は肥後熊本城へ転封になった。
    1600(慶長5)年の関ケ原の戦功により金沢城主前田利長は、
    加賀・能登・越中の3カ国120万石を得た。江戸時代の富山藩は3代目前田利常が、
    1639(寛永16)年に幕府の許可を得て、次男利次に10万石を与えて分家させた。
    利次は、廃城と化していた富山城を1661(寛文元)年から修復し、
    本丸、二の丸、三の丸、櫓などを築き、入城して富山藩が創設された。
    
    二の丸との間の本丸南側の水濠と模擬天守(2007.8.27撮影)
    戦後の築城ブームの先頭を切って建造されたが、たとえ観光の目玉としても
    よその城を模すのはいただけない。歴史は当時の資料に沿って忠実に再現してほしい

    
    櫓を模した建物の富山市佐藤記念美術館。手前は工事中の盛土
    
    3層4階建ての模擬天守閣内を利用した富山市郷土博物館
    
    富山市郷土博物館内の展示品の一つ、銀鯰尾形兜(ぎんなまずおがたかぶと)
    
    本丸に建つ二代城主・前田正甫公の銅像
    1605(慶長10)年に利長は隠居して富山城に移るが、
    1609(慶長14)年に主要部の建物をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移った。
    以後富山前田氏13代232年間の居城として明治を迎えるまで存続していた。
    明治18年から県庁が置かれていたが、昭和5年に焼失したあとの城跡は木々の緑と、
    穏やかな濠に囲まれた「富山城址公園(とやまじょうしこうえん)」となっている。
    本の丸南側の堀と石垣、そして本の丸枡形虎口の石垣上には、犬山城(愛知県)、
    彦根城(滋賀県)などを参考にし、1955(昭和28)年7月から翌年3月にかけて
    戦後の築城ブームの先頭を切って三層の模擬天守が築かれた。天守内部は、郷土博物館になっている。
    前田利次による万治4年の大改修された時に築かれた天守台は、今は半壊しているが
    わずかにその痕跡を残している。高岡城の天守台を参考にしたと考えられる。
    また、城址公園内に三層の隅櫓風の建物があるが、ここは美術館がある。
    2008(平成20)年に市内の民家へ移築されていた千歳御門が寄贈されて、城内に再移築されている。
    参 : 「富山城研究」コーナー(HP)
中城城址(なかぐすくじょうあと) = 中城城跡(別掲)
中津城(なかつじょう) = 中津城(別掲)
今帰仁城跡(なきじんじょうあと) = 今帰仁城跡(別掲)
名古屋城(なごやじょう) = 名古屋城(別掲)
縄張(なわばり) = 縄張(別掲A)
二条城(にじょうじょう) = 二条城(別掲)
萩城跡(はぎじょうせき、はぎじょうあと) = 萩城跡(別掲)
彦根城(ひこねじょう) = 彦根城(別掲)
姫路城 = 姫路城(別掲)
平戸城 = 平戸城(別掲)
平山城(ひらやまじろ) : 江戸時代の軍学者によって分類された、地形による築城形式の一つで、
    近世城郭の大多数がこれにあたり、戦国時代終盤より多数築かれるようになったである。
    築城は、近世時代(16世紀から17世紀時代)で、地形の高低が守城戦に有利になるように設計され、
    平野の中にある山・丘陵・台地などに築城された。
    この種類で、櫓等の建造物が残っている割合は少ない。
    戦時の際のみに使用される軍事的役割の色が強い山城とは違い、
    領国支配における経済の中心的役割も果たした。江戸時代には藩の政庁として多く利用された。
    山、丘陵のみならず、その裾野を利用し広大な面積を有し、周辺地域には城下町も築かれた。
    有名な伊予松山城のほか、犬山城、高知城、安土城江戸城姫路城、仙台城、熊本城
    彦根城、浜松城、岡崎城、七州城、篠山城、鶴ケ城=若松城、日野江城、小田原城
    松江城、丸亀城、小諸城、岸和田城、伊賀上野城、等の多くの城がこれに含まれる。
    平山城(ひらさんじろ)と読む場合には、小高い丘の上のみに縄張りが行われた城であるとされる。
弘前城(ひろさきじょう) : 弘前市にある旧津軽藩の。津軽地方を平定した
    大浦為信(おおうらためのぶ)の子、津軽信牧(つがるのぶひら)が1611(慶長16)年に築城した。
    のち、雷火で焼失。はじめは「鷹岡城」と称していたが1628(寛永5)年に弘前城に改名された。
    現在の天守は三層三階であるが、創建された時は五層五階であった。
    ところが、その天守は1627(寛永4)年に落雷で焼失してしまった。しばらく天守なしの状態が続き、
    ようやく1811(文化8)年に本丸の辰巳櫓(たつみやぐら)を三重に改造し、
    「本丸御三階櫓」と呼んで、これを天守の代用としていたのである。
    堀、土塁、城跡をよく残し、建物も関東・東北で唯一つ、天守を伝えているほか、
    丑寅櫓(うしとらやぐら)、辰巳櫓、未申(ひつじさるやぐら)の三棟の櫓(やぐら)
    追手門(おうてもん)、東門、北門、南内門(みなみうちもん)、東内門の五つの城門が現存し、
    いずれも国の重要文化財に指定されている。
    大雪で埋もれないよう、城門は初層の屋根がほかの城より高く作られているという特徴があり、
    また防寒対策で、天守や櫓の屋根が普通の瓦ではなく、銅板葺(どうばんぶき)きとなっている。
    
    弘前城天守閣(2007.9.11撮影)
    
    同上
    
    同上
    
    同上
    
    杉の大橋を渡って見る南内門
    
    二の丸与力番所方面からの東内門
    城地は弘前公園となっており、2600本の桜が植えられ、三大桜名所の1つとしても有名。
    アクセス : 奥羽本線弘前駅から弘南バス土手町循環バス12分の市役所前下車
    観光の問い合わせ先 : 0172−37−5501(弘前市立観光館)
    参 : 弘前観光コンベンション協会(HP)
広島城(ひろしまじょう) = 広島城(別掲)
福岡城跡(ふくおかじょうせき) = 福岡城跡(別掲)
並郭式縄張(へいかくしきなわばり) : 本丸と二の丸(それ以外の場合あり)が並行に存在し
    そのまわりを三の丸(それ以外の場合あり)が取り囲む縄張のこと。島原城・大垣城等にみられる。
松江城(Matsue Castle)まつえじょう : 島根県松江市殿町にあるで「千鳥城」とも呼ばれ、
    国の史跡に指定されている。現在、指定管理者制度に則り、
    NPO法人「松江ツーリズム研究会」が運営をしている。
    出雲・隠岐(おき)の初代城主・堀尾茂助吉晴(ほりおもすけよしはる)=堀尾吉晴が
    1607(慶長9)年から5年の歳月をかけて、1611(慶長16)年に宍道湖(しんじこ)畔に築いた
    輪郭連郭複合式平山城である。高さ30m、5層6階で壁面が黒塗りの天守閣は、
    桃山様式の天守として築城当時のまま現存しており、国の重要文化財に指定されている。
    その後城主は堀尾忠晴・京極忠高・後に徳川家康の孫に当たる松平出羽守直政が1638年、
    信州松本から移城されて10代・234年間18万6千石を治めた。
    江戸時代には松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心となった。
    雲州松平氏の居城であった現存の天守閣は、下見板張りの古い様式をとどめる。
    明治8年の松江城内取り壊しの時には天守閣だけが免れて現在に至る。
    現在のものは1955(昭和30)年に修理復元したものである。
    現在は松江城山公園として観光名所となっている。宍道湖の眺望が良く日本三大湖城の一つである。
    また、桜の名所として日本さくら名所100選に選ばれている。
    
    松江城散策マップ(松江城山公園管理事務所発行パンフレットより)
    松江城天守の特徴
    望楼式(ぼうろうしき) : 天守閣の起源のひとつは四方を展望できる望楼ではあるが、
     現存する日本の天守閣の中で松江城をはじめ姫路城や松本城などにみられ、
     桃山時代初期の壮重雄大な姿をつたえている。
    鯱鉾(しゃちほこ) : 木彫銅張り、向かって左が雄で鱗があらく右が雌。
     高さは2.08mあり、日本現存の木造ものでは最大である。
    千鳥破風(ちどりはふ) : 千鳥が羽を広げたような三角形の屋根をいい、
     天守閣の美観を構成する重要な部分である。
    華頭窓(かとうまど) : 三層の中央にある寺院様式の窓で、一種のかざりである。
     本天守閣の美観の特色は、ほとんど飾りを用いないで、
     屋根・破風・窓などにより均整のとれた構成美を出している。
    鬼瓦(おにがわら) : 各層の屋根の隅々にある鬼瓦は、
     後世のものとは違って角(つの)がほとんどなく、各一枚ごとに異なった珍奇な表情をもっている。
    下見板張り(したみいたばり) : 姫路城彦根城のような塗籠造り(白壁)は少なく、
     その大部分が、黒く厚い雨覆板でおおわれ、古い様式を保っている。
    附櫓(つけやぐら) : 天守閣入口の防備をかたくするためにとり付けた櫓で、
     入口に鉄延板張りの大戸があり、入ると枡形の小広場が二段あって、侵入しにくいようになっている。
    牛蒡積み(ごぼうづみ) : 石の大きな部分を内に、小さな面を表に出して、
     一見粗雑にみえるが、石組にしてはもっとも頑丈な積み方である。
     なお勾配は力強い直線で中腹も凹んでおらず、古い形式がみられる。
    
    松江城(coocanフリー写真より)
    
    春の松江城(2006.3.29撮影)
    
    40年前頃の松江城(絵葉書より)
    
    夜の松江城(coocanフリー写真より)

    
    天守閣の階段(高画質壁紙写真集無料壁紙より)
    
    参 : 松江ツーリズム研究会(HP)
    
    灯火の松江城で歴史学ぼう
     松江城周辺をライトアップする松江水燈路(すいとうろ)が2009年9月19日から始まるのに合わせて、
    松江商工会議所は同日から、出雲の神話や歴史を紹介する 「松江夜楽塾(まつえ・やがくじゅく)」を
    初めて開催する。明かりに包まれる松江城山公園内で社寺の宮司や貫主が講師を務め、
    期間中の土曜日、講座を開く。無料。
     公園内の太鼓櫓(たいこ・やぐら)に設置した特設会場で、午後7時から約45分間開く。
    島根、鳥取両県の20社寺の神職や住職などでつくる「出雲の国社寺縁座の会」が協力し、
    4人がそれぞれ国引き神話と出雲国風土記にまつわる謎や出雲大社の由来など説明する。
     9月19日、長浜神社の秦和憲宮司▽10月3日、賣布神社の青戸良臣宮司
    ▽同10日、安来清水寺の清水谷善圭貫主▽同17日、万九千社の錦田剛志禰宜(ねぎ)
     定員は講座ごとに約40人で予約が必要。松江商工会議所=電話0852(32)0504
松前城(まつまえじょう) : @北海道南西部、渡島総合振興局管内松前町(現・松前郡松前町松城)にあった
     平山城で、福山城(ふくやまじょう)とも呼ばれる。石田城と並び日本における最後期の日本式城郭で、
     1600(慶長5)年に松前慶広(よしひろ)が築いた福山館(ふくやまだて)に始まる。
     19世紀に入り、幕府は北辺の警備を厳重にする必要から、1849(嘉永2)年に
     松前崇広(たかひろ)を城主大名に格上げし築城を許可、工事は翌年から始まり、
     縄張りは高崎藩の兵学者市川一学(いちがく)が担当し、松前城として1854(安政元)年に完成した。
     三層の白い天守閣は高さ30mで、海防が主なねらいであったため、
     海岸に近い三の丸には7座の砲台と場外に9座が設置された。
     
     松前城
     
     本丸御門と天守
     戊辰戦争の最末期に蝦夷が島(北海道)の独立を目指す旧幕府の軍(元新選組の
     副長だった土方歳三や榎本武揚(えのもと・たけあき)ら)の攻撃で、正議士の率いる松前藩兵は
     抵抗しきれず、やがて城下を焼き払って江差へ逃げた。そして、藩主の徳広は漁船で津軽に逃れ、
     まもなく死亡した。松前城は築城後わずか13年で炎上し、それとともに松前藩も実質的に滅んだ。
     天守は1941(昭和16)年に国宝指定を受けたが、
     太平洋戦争時の戦火を免れたものの1949(昭和24)年6月に失火により焼失し、
     1961(昭和36)に復元されて内部は有料の松前城資料館となっており、
     鎧や衣服など藩政時代の様々な資料を展示している。
     旧城内一帯は公園として整備され、国の史跡に指定されており、
     また、築城時から現存する本丸御門が国の重要文化財に指定されている。
     2001年には北海道遺産(「福山城と寺町」)に選定された。
     松前城周辺の松前公園は桜の名所でもあり5月上旬になると1万本の桜が咲き誇り、
     日本さくら名所100選にも選ばれている。
    A松前城(まさきじょう) : 伊予国伊予郡(現在の愛媛県伊予郡松前町)にあった平城で、
     正木城、真崎城、松崎城の別名がある。築城した時期は不明だが、
     南北朝時代には、大森彦七や合田弥四郎らが城主になった。
     戦国時代には河野氏の拠点の一つであったが、1585(天正13)年の豊臣秀吉の四国征伐で、
     河野通直は敗れ、粟野秀用が7万石で入封するが豊臣秀次の事件に連座して領地を没収され
     替わって1595(文禄4)年に加藤嘉明が朝鮮出兵の功により6万石で入封した。
     この加藤氏の時代に城は大改修された。1600(慶長5)年関ケ原の戦いでは、
     加藤嘉明は、東軍に従い城を留守としていたが、西軍の毛利軍と、
     河野氏の残党が松前城を襲ったが、佃十成らが毛利勢を撃退した。
     関ケ原合戦の功によって20万石に加増された加藤氏は1603(慶長8)年に
     新たに松山城を築城し移った。この松山城築城のため松前城の石垣などは全て運ばれ廃城となった。
     現在は住宅と工場が建ち並んでおり遺構はまったくなく
     小さな公園(と言うよりは空き地)に石碑と案内板があるのみである。
松本城(まつもとじょう) : 長野県松本市丸の内4−1にある旧松本藩の平城である。
    現存の天守閣は国宝で、国の史跡に指定されている。市民からは烏城(からすじょう)とも呼ばれている。
    日本国内に12基現存している、安土桃山時代後期から江戸時代にかけて建造された天守を有する
    城郭の1つである。1504(永正元)年に信濃守護・小笠原貞朝と家臣・島立貞永が築城し、
    深志城(ふかしじょう)と称した。1550(天文19)年に武田晴信(後の信玄)が侵略し、
    小笠原長時を追放した。1582(天正10)年の長篠の戦いで武田氏が滅ぶと小笠原長時の子・貞慶が
    深志城を奪い返し松本城と改称した。豊臣秀吉は1590(天正18)年に小田原城に北条氏直を下し
    天下を統一すると、徳川家康を関東に移封した。この時松本城の小笠原氏は家康に従って下総へ移ると、
    秀吉が代わって入城させた石川数正が大改築を行い、改築半ばで死去したが、
    その子康長がさらに整備して文禄・慶長年間(1592〜1615年)に現存の天守閣を含む城が築かれた。
    辰巳付櫓と月見櫓は寛永年間(1624〜44年)に松平氏が在城の頃築いた。
    松本城特有の連結複合式天守は、天守〜小天守が連結式で天守〜付櫓・月見櫓部分が複合式になる。
    城主はたびたび交替し、1725年に戸田氏がはいり明治に至る。
    
    松本城(パンフレットより)
    
    本丸より見る天守閣(高画質壁紙写真集無料壁紙より)
    
    埋橋と天守閣(高画質壁紙写真集無料壁紙より)
    
    松本城夜桜の宴(壁紙村より)

    共通観覧券(松本城・松本市立博物館)7.5×19.4cm
松山城(まつやまじょう) = 松山城(別掲)
(やぐら) = (別掲)
矢狭間(やざま) → 狭間(城関連に別掲)
輪郭式縄張(りんかくしきなわばり) : 本丸を中心に二の丸・三の丸がまわりを囲んでいく縄張のこと。
    同心円状のものと渦巻状のものがある。二条城・名古屋城・松本城・大阪城・駿府城・水口城等多数みられる。
連郭式縄張(れんかくしきなわばり) : 本丸を中心として直線上に曲輪を配置する縄張のこと。
    山の尾根等横に曲輪が配置できない場合に多く用いられる。
    野田城は、本丸・二の丸・三の丸が直線状に並ぶ典型的な連郭式縄張である。
    ほかに宮城松山城(千石城)、薩摩吉田城、大隅加治木城、小谷城、明禅寺城、興国寺城、高取城、
    堀之内大台城、横山城、鳥越城、祇園城、高島城(別名・諏訪の浮城、島崎城)などがある。
籠城(be besieged)ろうじょう : @城、砦、城市などの拠点に立て籠(こも)って敵を防ぐこと。
     攻城戦の守勢側の呼称。本来、籠城とは援軍を待つための持久策であり、
     敵軍の息切れを待つ場合にも効果があるが、
     長期間の兵糧攻めを受けた場合には物資の欠乏や飢餓に陥る弱点がある。
     (例)籠城して援軍を待つ。
    Aある物事に集中し、家などにひきこもって一歩も外へ出ないことのたとえ。
     (例)犯人は、人質を取ってビルに籠城した。
和歌山城(わかやまじょう)= 和歌山城(別掲)
若山城跡(わかやまじょうじょうし) = 若山城跡(別掲)
































































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