城関連(YSミニ辞典別掲)

[ホーム] [城関連]                              
勝連城跡(かつれんじょうせき、かつれかじょうあと、かつれんじょうし、かつれんぐすく)
    勝連城は、12〜13世紀ごろにきずかれた勝連按司(かつれんあじ)・茂知附の山城で、
    1309年に英慈王の弟、勝連王子が勝連城主として即位した。
    城は勝連半島の南のつけ根部にある標高約100mの丘陵に位置し、
    南城(ヘーグシク)、中間の内、石垣で仕切られた1から3郭が階段状に連なった
    北城(ニシグシク)の5つの曲輪(くるわ)で構成され、
    勝連半島を背骨のように走る緩やかな丘陵地を利用して作られていた。
    三の丸跡、二の丸跡を登っていくと中城湾や金武湾(きんわん)が一望できる。
    琉球王国時代には、海外との貿易をさかんにおこない、首里城に負けないほどに栄えていた。
    発掘された物等から、奄美大島、さらに中国や朝鮮との交流も盛んに行われていたようである。
    茂知附按司を倒した勝連按司10代目・阿麻和利(あまわり)の時代になると勝連は最盛期を迎えるが、
    中城との間の交易権問題が起き、中城城主の護佐丸と争って滅ぼしたが、
    琉球王国に抵抗する有力な按司(あじ)としておそれられていたため、
    1458年に琉球王府の中山軍(ちゅうざんぐん)によって滅ぼされて最後の城主となった。
    沖縄の現存最古の歌集「おもろさうし」で謳われているように、地元の勝連では領民の信望も厚く、
    「きむたかの(気高い)あまわり」と呼ばれて、英雄として慕われていたといわれる。
    現在も井戸の跡や建物の礎石の跡がはっきりと残っている。城壁の石は道路工事の石材などとして
    持ち去られたが、現在は復元工事により往事の姿を取り戻しつつある。
    2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの
    世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は勝連城跡)。
    登録されたグスクの中では最も築城年代が古いグスクとされている。
    

    
    勝連城址碑銘のある四之郭から三之郭を望む
    
    四之郭から見た史跡勝連城跡(高画質壁紙写真集無料壁紙より)
    
    三之郭から二之郭へスロープ状の階段を登る
    
    三之郭から見る二之郭と一之郭
    
    三之郭から見る城壁
    
    城内にあるウシヌジガマの拝所
    
    主郭にある玉ノミウヂ御嶽
    

    

    
    主郭から見た二之郭の殿舎跡(正面約17m、奥行き約14.5m)
    

    
    三之郭から二之郭への石段
    

    
    頑丈に造られた主郭の城門
    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    

    
    座喜味城跡も美しい城跡だが、勝連城跡は上の写真のように四方の眺めもよいし、
    こじんまりとした城だが、飲み水など生活用水の井戸も各所にあり、城としての条件を備え、
    城郭の曲線美もすばらしく、沖縄に10カ所以上ある城跡の中ではトップクラスだと思う。
    早朝のジョギングにも最適の場所でしょう。


    <沖縄地震>世界遺産「勝連城跡」城壁の一部が崩れる
     2010年2月27日早朝に発生した沖縄本島近海を震源とする地震(震度5弱)で、
    世界遺産に登録されている「勝連城跡」(沖縄県うるま市)の城壁の一部が崩落する被害が出た。
    同市教委は崩落した付近を立ち入り禁止にし、復元を検討している。
     市などによると、崩落したのは三の郭(くるわ)の北東部分で石垣が幅7メートル、
    高さ6メートルの範囲で崩落し、積まれていた石の一部が約50メートル下まで落ちた。
    地震が未明に起こったため、人への被害などはない。
    勝連城跡は琉球王国時代の13世紀ごろ築かれ、
    大正以降は湾岸工事用の石として取り壊されたが、その後徐々に復元。
    2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして、世界遺産登録された。
    
    地震で石垣の一部が崩落した勝連城跡
    
    同上
















































inserted by FC2 system