城関連(YSミニ辞典別掲)
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名古屋城(Nagoya Castle)なごやじょう : 尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)に
あった城郭で、現在は名城公園として整備されている。大永年間(1521〜1528)に今川氏が
同地に那古野城
(なごやじょう)を築き、のち
織田信長が拠
(よ)るが、同氏が清洲に移ったため廃城し、
現在の城は1609(慶長14)〜1614年、
徳川家康の命により諸大名が築いた
典型的な平城
(ひらじろ)で尾張徳川家17代の居城であった。
1612(慶長17)年に完成した天守は加藤清正の造営で、天守上の金の鯱
(しゃちほこ)が有名で、
金鯱
(きんこ)城、金城とも称されている。金鯱は雄(北側)と雌(南側)に分かれており、
大きさや形が異なり、全高は雄が約2.57mで、雌は約2.51mである。
伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われ、
大阪城、
熊本城とともに日本三名城に並び称され、日本100名城にも指定されている。
1930(昭和5)年に国宝に指定されたが、1945(昭和20)年5月の米軍の空襲により天守閣、
本丸御殿ともに焼失し、戦後の復興にともない、1959(昭和34)年に天守閣は復元された。
取り外すことができた狩野探幽
(かのうたんゆう)らの手になる襖絵
(ふすまえ)や本丸の障壁画、
天井板絵などは焼失を免
(まぬが)れ、宝物館などに保存されている。
そのほか桃山時代の庭園や堀・石垣などが現存している。
正門(せいもん) : 1910(明治43)年に旧江戸城内の蓮池御門が移築されたが、
第二次世界大戦により焼失したため、1959(昭和34)年、天守閣と共に再建された。
高さ12m、2階建、白壁塗り、瓦葺、鯱は青銅製。
名古屋駅前のスカイプロムナードのミッドランドスクエア46階より望む名古屋城
上記遠景。中央やや上の方に名古屋城が見える
西の丸にある「正門」
旧二之丸東二之門(きゅうにのまるひがしにのもん)
二之丸の東面中央に設けられた正門にあたるが、現在は本丸の東二之門の位置に移築されている。
重要文化財の「旧二之丸東二之門」
本丸御殿跡から見る大天守閣と小天守閣(高画質壁紙写真集無料壁紙より)
同上遠景
天守閣前広場から望む大天守閣と小天守閣
名古屋城の金鯱(きんしゃち・きんこ・きんのしゃちほこ)
1612(慶長17)年名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は一対で慶長大判1940枚分、
純金にして215.3kgの金が使用されたといわれている。
高さは約2.74mあった。しかし、鯱の鱗は、藩財政の悪化により、
都合3回にわたって金板の改鋳を行って金純度を下げ続けた。そのため、
最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュした。
この金網は、表向きは盗難防止(実際に何度か盗難にもあったこともある)や鳥避けのためとされ、
戦災により焼失するまで取り付けられていた。1871(明治4)年に政府に献納され、
東京の宮内省に納められた。その後、雄鯱は国内の博覧会を巡り、雌鯱は1873(明治6)年の
ウィーン万国博覧会に出品された。金鯱が大天守に戻ったのは1879(明治12)年2月である。
徳川の金鯱の中では最も長く現存していたが、1945(昭和20)年に名古屋大空襲で焼失している。
焼夷弾で焼失した金鯱の残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、
1967(昭和42)年に名古屋市に返還された。名古屋市は残骸から金を取り出し、
名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存している。 現在のものは復元されたもので、
復興天守建造のときに、日本国内に数えるほどしか残っていなかった鎚金師で
大阪造幣局職員の手により復元製造された。一対に使用された金の重量は約88kgである。
向かって右側の雄(北側)と左側の雌(南側)に分かれており、1対の大きさや形は異なっている。
雄(北側) : 高さ 2.621m、重量 1.272kg、金板の種類 18k、
金板の厚み 0.15mm、うろこの枚数 112枚 金量 44.69kg
雌(南側) : 高さ 2.579m、重量 1.215kg、金板の種類 18k、
金板の厚み 0.15mm、うろこの枚数 126枚、金量 43.39kg
天守屋根に載る現在の金鯱
2005(平成17)年に日本国際博覧会で公開された金鯱
城内に展示の金鯱
御殿椿(ごてんつばき) : 明治以前から名古屋城に伝わる名椿で、不明門の際にある。
本丸御殿跡の南側土塁にあって、地際の幹周りが1.5mあり、そこから13本の 株立ちになっている。
樹冠は直径6m、高さは5m余りに達する見事な木で、「大城冠」はこれが元ではないかと言われている。
本来は尾張藩の銘椿で本丸御殿南側にあり、本丸御殿と同様に戦火で消失したかに思われたが、
これは焼けた幹から生命力たくましく新芽が出てきたものを接ぎ木して植林したもの。
御殿椿説明板
御殿椿
不明門(ふめいもん) : 天守閣から北に抜ける門。本丸御殿の大奥へ通じる秘門で、
常に鍵がかけられていたことから「あかずの門」とも呼ばれていた。
戦災で焼失し、1978(昭和53)年に復元された。
この不明門の北面の軒桁にも剣塀があり、30cm余りの槍の穂先が並べられている。
不明門
天守閣基礎石説明板
天守閣基礎石
西南隅櫓(せいなんすみやぐら) : 重要文化財。未申
(ひつじさる)櫓とも言われ、
屋根二層・内部三階の櫓で、西・南両面には軍事用の「石落し」を張り出して屋根を付けている。
1891(明治24)年の濃尾大地震で石垣とともに崩壊したが、32年後、当時 管理していた宮内省が
1923(大正12)年に修復し復元したことから、鬼瓦や花瓦に「葵」の 紋ではなく「菊」の紋章が
入っている。隅櫓は立つ位置から東西南北読み4箇所にあったが、東北隅櫓は戦災で消 失、
現在はこの西南と西北、東南の3棟である。隅櫓は、文字どおり隅っこにあ って、
天守閣のミニチュア版といった感じで、攻めて来る敵の動きを、こ こで監視したり防戦したりする。
西南隅櫓
清正の石曳き(きよまさのいしびき) : 1610(慶長15)年、加藤情正が徳川家康に願い出て、
大小の天守閣の石垣工事を施工した。清正は巨石を修羅に乗せて運ぶとき、
石の上に乗り、気勢を上げたと伝えられ、世に「清正の石曳き」といわれている。
城壁に使われた巨大な石は、石船で海路運ばれた。
二の丸の東南隅櫓を見上げる場所にある「清正公石曳きの像」
清正石(きよまさいし) : 天守閣の石塁の構築を命じられた加藤清正は、巨石の運搬に際し、
自ら音頭をとって、木遣
(きやり)を歌わせ民衆の老若を問わず鋼をとって運んだと伝えられているが、
この石塁の施工大名は黒田長政なので単なる説話と思われる。名古屋城の門は、櫓門(二階建)と
高麗門(平座建)を桝型に配置し、石垣には防備を誇示するために大きな石を組み入れた。
本丸東二之門西にある「清正石」
名古屋城観覧券(表)原寸58×89mm (裏)
名古屋城のご案内(パンフレットより)原寸10.3×21cm
参 :
名古屋城(公式HP)