本人唄
長崎の鐘    【作詩:サトウ ハチロ− 作曲:古関 裕而】唄:藤山 一郎

  

(前奏)
  Dm         Gm A7 Dm     Gm   A7
1.こよなく晴れた 青空 を 悲しと思う せつなさよ
  Dm   Gm A7 Dm  A7 Dm        Dm A7 Dm
  うねりの波 の 人の世に はかなく生きる 野の花 よ
  D              G A7 D    Bm D G A7 D
  なぐさめ はげまし 長崎の あ あ 長崎の 鐘  が鳴る
(間奏)
  Dm        Gm A7 Dm       Gm  A7
2.召されて妻は 天国 へ 別れてひとり 旅立ちぬ
  Dm    Gm A7 Dm   A7 Dm     Dm  A7 Dm
  かたみに残 る ロザリオの 鎖に白き わが 涙
  D              G A7 D    Bm D G A7 D
  なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の 鐘  が鳴る
(間奏)
3.つぶやく雨の ミサの声 たたえる風の 神のうた
  かがやく胸の 十字架に ほほえむ海の 雲の色
  なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の 鐘が鳴る
(間奏)
4.こころの罪を うちあけて 更けゆく夜の 月すみぬ
  貧しき家の 柱にも 気高く白き マリア様
  なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の 鐘が鳴る

昭和24(1949)年
この歌は映画の主題歌としても使われましたが、映画公開の一年半も前の
24年4月4日に、藤山一郎が歌ってコロムビアから発売されていました。
長崎医科大学の先生、永井隆博士の体験記録「長崎の鐘」の本からヒントを得て、
親交のあったサトウハチローが作詞して博士に贈ったものでした。
古関は、単に長崎の原爆だけでなく、戦争の受難者全体に通じる歌として
前半を深い悲しみの曲にしました。そして後半は、打ちひしがれた人々のために
再起を願って、希望をこめて力強く歌いあげています。
永井博士は奥さんを原爆で失い、自身も多くの人を治療したレントゲンをあびたため、
白血病にかかり、原爆の放射能が追い打ちをかけ、急速に衰弱していきました。
博士はそんな中でも、世界に隣人愛と平和の尊さを訴え続けられ、ついに
被爆6年後の1951(昭和26)年5月1日、43歳の若さで、2人のお子さんの
行く末を案じながら天国にいる奥さんのもとに旅立たれたのでした。(コメントX氏)

初めて長崎を訪れたときに、永井博士が住んでいたそまつな家を見て、
友人のそばで涙をこらえるのがやっとのことでした。
 参 : アンゼラスの鐘
曲は「須佐卓郎の音楽ルーム」より。

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