萩焼(YSミニ辞典は)
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萩焼(はぎやき) : 山口県萩市・長門
(ながと)市で産する陶器
(とうき)の一つ。
約400年前、文禄・慶長の役(1592年〜1598年)後の16世紀末、
朝鮮出兵時に
豊臣秀吉とともに朝鮮半島に渡った毛利輝元が、
現地の名工であった李敬
(りけい)・李勺光
(りしゃくこう)の兄弟を伴って帰国し、
広島の毛利藩で預かったが、その後の関ケ原の戦いに破れた輝元と伴に萩に移り住み、
萩毛利藩の命を受けて御用窯として開窯したのがはじまりで、
李敬の興した萩市松本の松本焼
(まつもとやき)と、
李勺光の孫による長門市深川
(ふかわ)の深川焼
(ふかわやき)の二系統を総称していう。
李勺光の死後は、李敬が窯を継ぎ、藩主から「坂高麗左衛門」の名を受け、
その名は現在まで受け継がれている。
松本焼(萩)、深川焼(長門)に次いで宮野焼(山口)が窯の火を起こしたのは1892年、
大和作太郎松緑によるものである。大和作太郎は1855(安政2)年萩城下の豪商大和屋に生まれたが、
若くして陶工を志し、萩東光寺窯で修行したあと、作太郎22歳の時に吉田松陰誕生地の近くに
松緑と号して「松緑焼」を独立開窯した。その後、家をあげて萩から山口へ移住し、
宮野大山路に松本萩の分派である窯を築き「松緑焼」または「宮野焼」と呼称され、主に萩焼を制作した。
萩焼の当初の作風は李朝の高麗茶碗の影響を強く受けていたが、その後、楽焼の作風などが加わり、
現在の萩焼に通じる、独自の個性を持った作品が焼かれるようになった。
萩焼の大きな特徴は、焼き締まりの少ない柔らかな土味と、高い吸水性にある。
吸水性が高いため、長年使い込むうちに茶しぶや酒が浸透し、茶碗の色彩が微妙に変化する。
この変化は、「萩の七変化」といい、茶の湯を嗜む人たちの間では「茶馴れ」とも呼んで愛でられている。
その他の特徴としては、形や装飾の簡素さがあり、ほとんどの場合、絵付けは行われない。
胎土となる土の配合、釉薬
(ゆうやく)のかけ具合、へら目などが、登窯の作用によって
様々な表情を生みだすことを想定した上で、その魅力を活かすように作られている。
萩焼の窯は、主に傾斜地を利用した朝鮮式の連房式登り窯で、
各室が蒲鉾の様な形で3〜5部屋が繋がっており、これらが、傾斜地に作られている。
窯としては長く続いたが、近年、窯の中にある棚板の積み方などが容易になったことで、
現在ではガス、電気窯を併用しながら、登り窯での焼成は年に2〜3回のみとなっている。
また窯は、環境問題などもあり、町中から少し離れた場所に作られている。
不思議な萩焼の釉薬 : 萩焼の釉薬は、木の灰やワラの灰などを使って作る。
高温の窯で焼くと、木の灰を使った釉薬は、基本的には透明になり、
わらの灰を使った釉薬は、基本的には白獨不透明になる。時にはピンク色に変化することもある。
どろりした灰色の釉薬が炎に溶かされ、あの、萩焼独特の柔らかい色合いを生み出すのである。
十代「三輪休雪(みわ・きゅうせつ)」作の萩茶碗(下松健康パーク蔵)
十一代「三輪休雪」作の萩飾皿(下松健康パーク蔵)
「兼田昌尚(かまた・まさなお)」作の萩茶碗(遠石八幡宮所蔵)
「新庄貞嗣(しんじょう・さだつぐ)」作(遠石八幡宮所蔵)
13代「田原陶兵衛(たわら・とうべえ)」作(遠石八幡宮所蔵)
13代「坂田泥華(さかた・でいか)」作で香月泰男画伯筆の萩片口鉢(下松健康パーク蔵)
2010年2月24日、94歳で死去した14代泥華さんは、13代泥華さんの長男である。
山口県指定無形文化財萩焼保持者「大和保男(やまと・やすお)」作(遠石八幡宮所蔵)
「大和努(やまと・つとむ)」作(遠石八幡宮所蔵)
萩焼の火鉢。手のひらを直接あてる。萩・椿まつりのお茶席にて(2010.3.7撮影)
萩焼の宗家、初の女性当主、13代坂高麗左衛門を襲名(
asahi.comより)
萩焼の宗家、坂
(さか)窯(山口県萩市椿東)の13代坂高麗左衛門
(こうらいざえもん)を、
11代(信夫)の四女純子さん(59)が2011年4月11日、襲名した。
12代(達雄)が2004年に急死し、後継者が不在だった。
400年以上の歴史を持つ坂窯で女性当主は初めてという。
坂家の先祖は、16世紀末に朝鮮半島から渡来した陶工・李敬。
毛利(萩)藩の御用窯に任ぜられ、後に高麗左衛門として主に茶道具を作ってきた。
純子さんは武蔵野美術大造形学部で日本画を学んだ。
萩焼に絵画的意匠を採り入れて異彩を放った12代の下で1991年、絵付け助手になった。
純子さんの長男悠太さん(23)がいずれ窯を継ぐ予定だが、
京都で焼き物の修業中で「長く空白はつくれない」と純子さんが襲名した。
「坂高麗左衛門の名に恥じない作陶をしていきたい」と抱負を述べた。