薬師寺(YSミニ辞典)
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薬師寺(やくしじ) : 奈良県奈良市西ノ京町457に所在する寺院であり、
西京寺、瑠璃
(るり)宮薬師寺ともいう。興福寺とともに法相宗
(ほっそうしゅう)の大本山である。
南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来三尊、開基(創立者)は天武天皇である。
薬師寺は680(天武天皇9)年、天武
(てんむ)天皇が皇后の病気平癒を祈願して
一寺の建立を発願したが、天皇が崩御したため持統
(じとう)天皇、文武
(もんむ)天皇が
698(文武天皇2)年に飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿
(きどの)町)に完成した。
710(和銅3)年の平城遷都を機に薬師寺は8世紀初めの718(養老2)年に平城京へ移された。
これが現在の薬師寺で、旧地(現奈良県橿原
(かしはら)市)は本
(もと)薬師寺とよばれ、
現在、金堂、東塔、西塔などの土壇や礎石を残す。平城京では、右京の南北に五条から六条大路、
東西には一坊から二坊大路に至る寺地を占め、左京の元興
(がんごう)寺に次ぐ大寺であった。
新都の伽藍
(がらん)や諸仏像は、新都で新造営されたとする説が有力である。
1967(昭和42)年、住職となった高田好胤は金堂復興を発願した。薬師寺のような奈良の古い寺には
檀家がいないため、写経勧進による資金集めという前例のない方策によって、1976年に金堂、
1981(昭和56)年には西塔も復元完成させた。この2つの復元工事の棟梁は西岡常一である。
その後も、1984年に中門、1995年に回廊南半分、2003年に大講堂と復興されている。
中門両脇には木造の二天像が復元されている。1991(平成3)年の発掘調査により仁王像ではなく
武装した二天像であったことがわかり、復元に際しては西安大雁塔の線画や、
法隆寺橘夫人厨子の扉絵を参考にした。彩色も平山郁夫氏監修である。
これら白鳳伽藍の復興とは別に、その北に1991(平成3)年に玄奘三蔵院が完成した。
平山郁夫が30年かけて制作した「大唐西域壁画」がある。
1998(平成10)年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより
世界遺産に登録された。
現・管主は山田法胤である(209年8月着任)。
毎年春の3月30日〜4月5日に行われる花会式
(はなえしき)は、1107(嘉承2)年に
堀河
(ほりかわ)天皇が皇后の病気平癒を祈願して造花12瓶を献じたのに始まり、
いまも10種12瓶の造花で内陣を飾り、薬師悔過
(けか)の作法により勤行
(ごんぎょう)が営まれる。
また秋には万灯会
(まんどうえ)、11月13日には慈恩会
(じおんね)(宗祖の忌日)が厳修される。
左から金堂、西塔、東塔(パンフレットより)
世界遺産登録の記念碑
薬師寺興楽門。近鉄「西ノ京」駅から白鳳伽藍への入り口
興楽門の境内側
東塔(とうとう) : 国宝。現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一遺構である。
総高34.1m(相輪含む)。日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、
東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇る。
屋根の出が6カ所にあり、一見六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階
(もこし)であり、
構造的には三重の塔であるが、六重の屋根が交互に出入りし律動感があって美しい形を示す。
塔の先端部の相輪にある4枚の青銅製の水煙
(すいえん)には飛天像が透かし彫りされており、
奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えている。こうした特徴的な姿から、
この塔を評してしばしば「凍れる音楽」という評語が使われる。
相輪の中心部の柱の最下部には「東塔さつ銘
(めい)」(「さつ」の漢字は木扁に「察」)と称される
銘文が刻まれており、薬師寺の創建と本尊造立の趣旨が漢文で記されている。
塔の建築年代については飛鳥の本薬師寺から移築されたとする説と、
平城京で新たに建てられたとする説とがあったが、『扶桑略記』の記述のとおり、
730(天平2)年に平城京にて新築されたとする説が有力である。
当初、東塔・西塔の初層内部には釈迦八相(釈迦の生涯の8つの主要な出来事)を表した
塑像群が安置されていたが、現在は塑像の断片や木心が別途保管されるのみである。
東塔(国宝)
南門(なんもん) : 境内南正面にある小規模な一間一戸四脚門で重文。
室町時代の1512(永正9)年の建築で、もとは薬師寺西院の門であった。
もともとの南大門は桁五間で、現在の門は、ちょうどその中心にのっているという。
南門
中門(ちゅうもん) : 1984年の再建。両側に回廊が延びる。
中門
向かって左側の吽形金剛力士像
向かって右側の阿形金剛力士像
中門部分。奥の建物は金堂
中門と西塔
中門と東塔
金堂(こんどう) : 1976(昭和51)年の再建。奈良時代仏教彫刻の最高傑作の1つとされる
本尊薬師師如三尊坐像、左右に日光菩薩
(ぼさつ)・月光
(がっこう)菩薩を従えた
三尊形式(いずれも国宝)を安置する。
この鋳銅鍍金
(ときん)の三尊像の制作年代については、
本薬師寺からの移座説(7世紀)と、平城京で新たに造立されたとする非移座説(8世紀)があり、
論争が続けられている。しかし、わが国を代表する仏像彫刻であることは両説ともかわらず、
本尊の宣字形の台座の浮彫り(四神、鬼神、葡萄唐草
(ぶどうからくさ)文様など)も注目される。
金堂
大講堂(だいこうどう) : 2003(平成15)年の再建。正面41m、奥行20m、高さ17mあり、
伽藍最大の建造物である。本尊の銅造三尊像(重文)は、中尊の像高約267cmの大作だが、
制作時期、本来どこにあった像であるかなどについて謎の多い像である。
かつては金堂本尊と同様、「薬師三尊」とされていたが、大講堂の再建後、
寺では「弥勒三尊(弥勒菩薩、法苑林菩薩・大妙相菩薩)」と称している。
大講堂
大講堂の東側にある「鐘楼」。後ろの建物は東僧坊
西塔(さいとう) : 東塔と対称的な位置に建つ。旧塔は1528(享禄元)年に戦災で焼失し、
現在ある塔は1981(昭和56)年に伝統様式・技法で再建されたものである。
デザインは東塔と似ているが、東塔が裳階部分を白壁とするのに対し、西塔は同じ箇所に
連子窓を設けるなどの違いもある。東塔も元々は連子窓であったが修復で白壁にされた。
一見すると東塔に比べ若干高く見えるが、これは1300年の年月の内に、東塔に材木の撓みと
基礎の沈下が起きたためであり、再建された西塔はそのような年月の経過を経験していないため、
若干高く見えるとのことである。西塔の再建に当たった文化財保存技術者西岡常一によれば、
500年後には西塔も東塔と同じ高さに落ち着く計算とのことである。
西塔
東院堂(とういんどう) : 国宝。境内東側、回廊の外に建つ。元明天皇のために皇女の吉備内親王が
養老年間(717〜724年)に建立した東禅院が前身で、現在の建物は鎌倉時代の
1285(弘安8)年の再建。堂内の須弥壇
(しゅみだん)上の黒漆造の厨子
(ずし)に等身を上回る
鋳銅製の本尊・観音
(かんのん)菩薩立像(聖観音
(しょうかんのん)、国宝)が安置されている。
像の由緒・伝来は不詳であるが、金堂本尊薬師如来三尊像と同じころの制作と考えられている。
国宝の東院堂
玄奘三蔵院(げんじょうさんぞういん) : 主要伽藍の北側にあり、1991(平成3)年に建てられたもので
玄奘三蔵を祀る。日本画家平山郁夫が30年をかけて制作した、縦2.2m、
長さが49m(13枚の合計)からなる「大唐西域壁画」がある。
玄奘三蔵院。正面の門は礼門で、中には玄奘塔と大唐西域壁画殿が建てられている
奥にある建物は「玄奘塔(げんじょうとう)」で、
法相宗の始祖・玄奘三蔵の頂骨(あたまのてっぺんの骨)を真身(しんじん)舎利として奉安する
休ケ岡八幡宮(やすみがおかはちまんぐう) : 重文。南門を出て、公道を横切った向かい側の
敷地にある。薬師寺の鎮守社で、現在の社殿は桃山時代の1596(慶長元)年、
豊臣秀頼の寄進によるもの。国宝の三神像が祀られている。
休ケ岡八幡宮の鳥居
休ケ岡八幡宮全景
伽藍図(パンフレットより)
参拝券(表)。原寸17.3×6.6cm
参拝券(裏)
参 :
奈良薬師寺公式サイト