YSミニ辞典(平城関連)

[ホーム] [索引] [前項] [次項]

平城宮(へいじょうきゅう、へいぜいきゅう) : 710(和銅3)年〜784(延暦3)の
    奈良の古都・平城京の中枢部分である大内裏(だいだいり)をいう。
    元明(げんめい)〜桓武(かんむ)天皇の7代にわたる住居であり、政治や国家的儀式を行う宮である。
    平城京の北端に位置し、天皇の住まいである内裏(だいり)即ち内廷と、儀式を行う朝堂院、
    役人が執務を行う官衙の所謂外朝から成り、1辺1kmの正方形の東に張り出し部分があり、
    面積は合計124haを占める。宮の周囲は高さ5m程度の築地(ついじ)大垣が張り巡らされ、
    正門にあたる25m×10mの朱雀門(すざくもん)を始め豪族の姓氏に因んだ12の門が設置され、
    役人等はそれらの門より出入りした。天皇の住まいである内裏は、宮の東北部に位置し、
    約180m四方の内郭に掘立柱(ほったてばしら)、桧皮葺(ひわだぶき)という伝統様式の
    建物が建ち並んでいた。内郭の南半にある正殿(後の紫宸殿(ししんでん))は桁行9間(27m)、
    梁間5間(15m)の規模である。政務や儀式を行う朝堂院(ちょうどういん)は、最も重要な施設で、
    天皇が着座する大極殿(だいごくでん)と役人が着座する朝堂からなる。
    その遺跡は、朱雀門の北で宮の中央と、その東隣で内裏の南の2カ所にある。
    大極殿は、天皇を象徴する大規模な建物で、奈良時代前期には中央に、
    後期には東に遷して建てられたと考えられる。その前期の大極殿が復原されている。
    瓦葺(かわらぶき)の礎石(そせき)建物で、桁行9間(45m)梁間5間(15m)の規模である。
    内裏と朝堂院の周辺には、二官八省以下の官衙(かんが)(役所)が配置された。これまでの調査で、
    太政官(だじょうかん)、宮内省(くないしょう)、式部省(しきぶしょう)、兵部省(ひょうぶしょう)
    大膳職(だいぜんしき)、造酒司(ぞうしゅし)、馬寮(めりょう)などの各官衙が判明した。
    その位置関係をみると、平安宮のそれと類似し、何らかの原則があったことを窺わせる。
    他の宮にない東の張り出し部分は、東院(とういん)と称されるが、
    その南半は、天皇が出御して儀式や宴を行った場所と考えられる。
    東南端には東院庭園がおかれ、宴等が催された。この東院庭園は今日の日本庭園の原型とされている。
    794(延暦13)年の平安京遷都後は放置され、しだいに農地となっていった。
    しかし南都と呼ばれ、あくまでも本来の都は奈良と云う認識が大宮人の間にはあった。
    1998(平成10)年12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に
    世界文化遺産に登録された(考古遺跡としては日本初)。
    平城宮跡(へいじょうきゅうせき)施設(復元)
    朱雀門(すざくもん) : 朱雀大路に向かって開く平城宮の正門。
     元日や外国使節の送迎の際に儀式がおこなわれたほか、都の男女が集まって
     恋の歌をかけ合うのを天皇が見る、というイベントもここで行われていた。1998年復元。
    
    復原された南側正面の朱雀門(以下2010.7.26撮影)
    
    南東よりのズームアップ
    
    東南よりの朱雀門
    
    東北よりの朱雀門
    
    真北から望む朱雀門
    
    北側からのズームアップ
    大極殿(だいごくでん) : 奈良時代前半に、朱雀門の真北にあった大極殿(通称、第一次大極殿)が、
      奈良時代後半になると東側の区画で新たに建てられた(通称、第二次大極殿)。
      第一次大極殿は、9年の歳月と180億円の費用を費やし、2010年に復原された。
      朱雀門の真北約800mににそびえ、正面約44m、側面約20m、地面より高さ約27m。
      直径70cmの朱色の柱44本、屋根瓦約9万7000枚を使った平城宮最大の宮殿であり、
      その建物は奈良時代の中頃に、一時都とした恭仁(くに)宮に移築され、
      山城国の国分寺金堂になった。当時、天皇の即位式や外国使節との面会など、
      国のもっとも重要な儀式のために使われていた。 参 : [YouTube]大極殿復元(素屋根解体)
    
    再建工事中の第1次大極殿。背後に東大寺大仏殿や若草山がみえる(2010年1月)wikipediaより
    
    手前の南門より前庭を挟んでそびえる第一次大極殿(以下2010.7.26撮影)
    
    南側正面よりの第一次大極殿
    
    同上ズームアップ
    
    西東南よりの第一次大極殿
    
    東南よりの第一次大極殿
    
    北西よりの第一次大極殿
    
    第一次大極殿より南門、朱雀門方面を望む
    
    屋内の中央には王座があり、天皇が即位する時に座る特別な椅子「高御座(たかみくら)」がある
    
    玉座の天井周りにある四神(玄武)。玉座の天上には鳳凰がある
    
    玉座の天井周りにある四神の一つ「青龍」
    
    垂木等に取り付けられる「飾金具」
    
    鴟尾(しび)の説明板
    
    黄金に輝く鴟尾(しび)の模型
    
    同上
    
    第一次大極殿の宝珠形大棟中央飾り

    
    第一次大極殿の屋根に使用されている軒瓦
    
    瓦葺きまでの工程
    
    大極殿南門広場で開催される衛士隊再現イベント
    
    同上
    
    同上
    
    同上
    
    同上
    兵部省 ・式部省(ひょうぶしょう・しきぶしょう) : 基壇・礎石が復原されている。
    宮内省(くないしょう) : 建物群、築地が復元されている。
     律令制で規定された8省の1つで、天皇家のために仕事をした宮内省跡に、
     築地壁に囲まれ「正殿」「脇殿」「倉庫」などが復原されている。
    東院庭園(とういんていえん) :  庭園・楼閣などが復原されている。国の特別名勝。
     平城宮は他の日本古代都城の宮殿地区には例のない東の張出し部を持っている。
     この南半は皇太子の宮殿があった場所で、「東宮」あるいは「東院」と呼ばれていた。
     その南東端に東西60m、南北60mの池があり、これを中心に構成されている。
    遺構展示館(いこうてんじかん) : 発掘された遺跡の上に建てられており、見学できる。
     発掘調査で見つかった遺構をそのまま見ることができ、内裏や役所の復原模型を展示している。
    平城宮跡資料館(へいじょうきゅうあとしりょうかん) : 独立行政法人・奈良文化財研究所の1施設。
     奈良文化財研究所によるこれまでの発掘調査・研究の成果をもとに、
     土器や瓦、木簡などの出土品をはじめ、建物模型や航空写真、発掘のジオラマ模型などで
     8世紀の平城宮の姿を分かりやすく展示・解説している。 参 : 平城宮跡資料館公式サイト
    平城京歴史館(へいじょうきょうれきしかん) :  当面は休館、2011(平成23)年に再開。
     館内では、日本と大陸を隔てる海をイメージしたタイムトンネルを抜けると、
     「古代のアジアと日本の歴史」をアニメーションで紹介する120インチのスクリーンが設置されている。
     「伝わる技術 根付く文化」と「国の礎(いしずえ)を築く」と題した4分ほどのアニメは、
     同祭のマスコットキャラクター「せんとくん」が、司馬達等や粟田真人と掛け合いながら紹介する。
     
     平城京歴史館入館券(原寸5.7×2.4cm)
     参 : 遣唐使
    
    平城京歴史館に併設されている原寸大の「遣唐使船」復原展示

    「平城宮跡に列車」奈良らしい!?
     奈良市の平城宮跡を横切る近鉄奈良線の風景は、かえって奈良らしい!?――。
    県が実施した街頭アンケートなどで、平城宮跡を近鉄線が横切る風景に肯定的な意見が6割を占めた。
    国などは「景観上問題がある」などと批判しているが、県民らの否定的な意見は3割にとどまった。
    県は「線路の存在が受け入れられている。アンケートを踏まえ、今後の宮跡周辺の将来像を提案したい」
    としている。近鉄奈良線は、宮跡が史跡指定される以前の1914年に開通。
    約130ヘクタールの史跡をほぼ東西に横断している。
    宮跡の国営公園化に向けて整備を進める国土交通省は2008年、
    整備基本計画で線路の移設を明記。県も現在、技術的に可能な移設方法を近鉄と協議中。
    
    第一次大極殿より南側を望む。南門と奥の朱雀門の間に近鉄線の電車が横切っている
    アクセス : 京滋バイパス〜久御山JCT〜第二京阪道〜県道〜門真JCT・近畿道・東大坂JCT〜
     阪神高速13号東大坂線・第二阪奈道路〜宝来IC・直進・R308・県道〜左折/
     尼ヶ辻橋交差点の次ぎの信号〜右折/二条町〜
     駐車場は、平城京跡資料館の専用駐車場を利用
平城京(へいじょうきょう) : 「奈良の京」とも呼ばれ、奈良時代の日本の首都で、「奈良の都」である。
    8世紀初め、現在の奈良市西郊及び大和郡山市近辺に唐の都「長安」や北魏洛陽城等を
    模倣して造営され、約70年間にわたって天平文化の中心地として繁栄した都城である。
    710(和銅3)年に藤原京から遷都してきて以来、784(延暦3)年に長岡京に遷(うつ)るまでの
    間であるが、740年の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱後の5年間ほどは
    難波(なにわ)を都としたため空白期間がある。奈良盆地の北端に位置しており、
    山背国(やましろのくに)(京都府)へ抜けると木津(きづ)・淀川(よどがわ)の水系につながり、
    山陽・山陰・北陸・東山道方面に連なる交通の要地であり、
    また南も大和川(やまとがわ)水系によって瀬戸内と連絡することができる位置を占めていた。
    いまの奈良市を含め、広さは東西約6km、南北約5kmの方形をなし、碁盤の目のように道を通す
    条坊制(じょうぼうせい)という街づくりが特徴で、中央には幅約74mもある朱雀大路(すざくおおじ)
    南北に通り、その北の朱雀門の内側には天皇の居所である内裏(だいり)を置き、
    その南に公的な政治・儀式の場である朝堂院を設けていた。
    各官庁はそれを巡る「平城宮」域内につくられていたのである。
    人口は5〜20万人と推定されるが、貴族は百数十人で、庶民や下級役人がほとんどだった。
    
    男女の天平衣装

    平城遷都1300年記念切手(原寸14×25cm)

















































inserted by FC2 system