狩野派(YSミニ辞典)

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狩野派(かのうは) : 日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から
    江戸時代末期(19世紀)まで、約400年にわたって活動し、
    常に画壇の中心にあった日本絵画史上最大の画派で、近世画壇に君臨し続けた。
    その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、
    内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、
    あらゆるジャンルの絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。
    その歴史は、室町後期、始祖・狩野正信(まさのぶ)が小栗宗湛(おぐりそうたん)の後を継いで
    足利(あしかが)幕府の御用絵師に任ぜられたことに始まる。
    正信は中国の宋元画(そうげんが)に学んだ漢画系の画人であったが、
    時に応じてはわが国固有の大和絵(やまとえ)の技法をも自由に取り入れ、
    日本人の感性に根ざした平明な画風を志向した。
    正信の子・狩野元信(もとのぶ)は、正信に萌芽(ほうが)した和漢の融合をいっそう推し進め、
    大和絵の伝統的な装飾性を生かした明快な障壁画(しょうへきが)様式を創造、
    きたるべき近世絵画への偉大なる第一歩を踏み出した。さらに門弟多数を擁した工房を主宰、
    優れた政治的手腕によって戦国の世を大胆に生き抜き、後の狩野派発展の基礎を築いた。
    元信には、祐雪(ゆうせつ)、松栄(しょうえい)の子息や、
    名作『高雄観楓図屏風(たかおかんぷうずびょうぶ)』の画家秀頼(ひでより)(元信の次男とも、
    孫の真笑(しんしょう)ともいわれるが、1570年代まで活躍していたことは間違いない)などの
    門人があり、ことに宗家を継いだ松栄は、穏やかで温かみある佳品を残しているが、
    真に元信の画風を受け継いだのは孫の永徳であった。永徳は、祖父の創造した大画面構成法を
    飛躍的に展開させ、豊かな装飾性と壮大な気宇をあわせもった、いわゆる桃山様式を完成する。
    それは、織田信長豊臣秀吉などの天下人の趣好に合致し、その用命によって、
    安土城(あづちじょう)天守閣をはじめ聚楽第(じゅらくだい)大坂城など、当代を代表する
    大規模な殿舎の障壁画にその天賦の才腕を振るった。永徳の没後、彼の達成したこの桃山様式は、
    弟子の山楽(さんらく)や長男・光信(みつのぶ)らに継承されたが、永徳の豪壮な画風をよく伝え、
    これに写実性と装飾性を付け加えて独自の様式を確立したのは山楽であった。
    これに対し宗家を継いだ光信は、大和絵への共感から父の画風を和様化し、
    いっそう繊細優美に変質させる。そして関ケ原の戦い(1600年)以降の政情不安のなかで、
    徐々に徳川家との関係を密にし、後代の狩野派による画壇支配への布石ともなった。
    光信の周辺には、子の貞信(さだのぶ)、弟の孝信(たかのぶ)がいたが、
    いずれも早世し、ここに狩野派は大きな転換期を迎える。しかしこの危機も、
    永徳の弟・長信や光信の高弟・興以(こうい)らの努力と、孝信の遺児・守信(探幽(たんゆう))、
    尚信(なおのぶ)、安信(やすのぶ)らの成長とによって、老獪(ろうかい)に乗り切る。
    ことに探幽は、余白の多い淡泊な構図のうちに瀟洒(しょうしゃ)で端正な新様式を創造、
    これは新秩序の確立を目ざした幕府支配者の趣味にも合致し、その絶大なる支持を得る。
    彼は、江戸城鍛冶橋(かじばし)門外に屋敷を与えられ、鍛冶橋狩野家の祖となるが、
    その弟たちも尚信は木挽町(こびきちょう)家を、安信は中橋家(狩野宗家)をそれぞれおこし、
    幕府の絵事御用を勤めた。この3家に、尚信の子常信(つねのぶ)の次子・岑信(みねのぶ)
    分家してたてた浜町(はまちょう)家を加えて、4家は奥絵師とよばれ、代々幕府の御用絵師として
    その地位を保証された。そして、この奥絵師の下には表絵師、各藩のお抱え絵師などがあり、
    狩野派は江戸時代を通じて安定した勢力を保つこととなる。しかしそうした地位に安住したためか、
    しだいに芸術的創造力を枯渇させていく。そのなかで皮肉にも、久隅守景(くすみ・もりかげ)
    英一蝶(はなぶさ・いっちょう)など破門されたり、一門から遠ざかっていった画家にみるべき作品が多い。
    もっともこれとは別に、江戸期の狩野派には、多くの画家が一度はその門に入り、
    それへの反発から新しい芸術運動をおこすといった反面教師的な存在意義や、
    広く門戸を開いた絵画教育機関としての機能があったこともまた忘れてはならない。
    そうした狩野派の潜在的意義が、明治初年における狩野芳崖(ほうがい)、橋本雅邦(がほう)
    2巨匠のうちに顕在化し、これが岡倉天心らの日本画近代化運動に多大なる貢献をもたらすこととなる。
狩野芳崖(かのう・ほうがい) : 1828(文政11)1月13日〜1888(明治21)11月5日。
    長州長門国長府藩(現・山口県下関市)の御用絵師・狩野晴皐(かのうせいこう)の長男として生まれ、
    江戸で修業をし、故郷で絵師をしていたものの維新で職を失い、
    49歳で東京に居を移すまでは長府で活躍していた。
    幼名を幸太郎(こうたろう)、号を貫甫(かんぽ)、皐隣(こうりん)、翠庵(すいあん)などといった。
    現代日本画の源流に位置する日本画家で、「近代日本画の父」として敬愛されている。
    
    狩野芳崖            下関市立美術館の銅像
    19歳のころ江戸に出て橋本稚邦と同日1846(弘化3)年4月18日に奥絵師木挽町狩野の
    晴川院養信(1796〜1846)に入門、晴川院を嗣いだ勝川院雅信(1823〜80)のもとで活躍、
    号勝海、藤原雅道と称し塾頭にまでなった。しかし、江戸幕府崩壊・明治維新によって定職を失ってしまい、
    生活苦とたたかうことになる。1879(明治12)年頃より島津公爵家の庇護をうけ、生活はようやく安定、
    同家所蔵の雪舟・雪村などの古画を学んだ。橋本雅邦とともにその英才を謳(うた)われる。
    50代後半で米国の哲学者アーネスト・フェノロサに雇われて以降、
    従来の狩野派の筆法に西洋画の画法を取り入れ、濃淡や立体感を得たモダンな表現を見せる。
    フェノロサ・岡倉天心の日本画革新運動に加わり、新しい日本画の領域を開拓した。
    1882(明治15)、第1回内国共進会に出品した「山水図」「布袋図」など8点は、受賞の対象外で
    嘲笑的な批評をあびたが、第2回絵画共進会出品作「桜下勇駒図」」「雪山暮景図」を通して当時、
    沈滞していた日本画の復興運動を指導するフェノロサに卓越した芸術的才能を見いだされ、
    以降、フェノロサ・岡倉天心らとともに、伝統に根ざしての日本画の近代化を推進していった。
    岡倉天心と共に図画取調所(美術学校の前身)を設ける。
    のち、引き続き東京美術学校(現在の芸大)の設立に尽力したが1888(明治21)年、
    開校(翌年)を見ずに準備中病死した。
    代表作に、「悲母観音」「不動明王」「大鷲」(いずれも東京芸術大学蔵)「仁王捉鬼図」などがある。
    「悲母観音図」は3年精魂を打ち込んで描いた作品で、当時としては明治以降唯一の国宝指定を受ける。
    また、「不動明王図」も「悲母観音」とともに重要文化財である。墓は谷中の長安寺にある。
    悲母観音(ひぼかんのん) : 1888年作。195.8×86.1cm。絹本着色。
     東京芸術大学美術館蔵(重要文化財)
    
    「悲母観音」                近代美術シリーズ(第1集)より(下部が省略されている)
狩野元信(かのう・もとのぶ) : 1476年8月28日(文明8年8月9日〜
    1559年11月5日(永禄2年10月6日)は、室町時代の絵師。
    狩野派の祖・狩野正信の子(長男または次男とされる)で、狩野派2代目。京都出身。
    幼名は四郎二郎、大炊助、越前守、さらに法眼に叙せられ、後世「古法眼」(こほうげん)と通称された。
    父・正信の画風を継承するとともに、漢画(中国画)の画法を整理しつつ大和絵の技法を取り入れ、
    狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた。
    参 : 























































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