筥崎宮(YSミニ辞典)
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玉せせり(たませせり) :
筥崎宮の伝統行事「玉取祭」。福岡市東区箱崎にある日本三大八幡宮の一つの
筥崎
(はこざき)八幡宮で新年の厄除け
(やくよけ)と開運
(かいうん)を願う神事で、
約500年前の
江戸時代に始まったとされ、新春の1月3日午後1時より始まる。
長崎くんち、八代妙見祭とともに九州三大祭りと言われている。
大きさの違う陰陽2つの玉のうち陽玉(直径28cm、重さ8キロ)にふれて頭上にかざすと、
その年の悪事災難を逃れ幸運を授かるとされ、250人の男たちが勢い水を浴びて玉を奪い合う祭りである。
まず筥崎宮に奉納
(ほうのう)してある陰と陽
(いんとよう)の2つの玉を境内の斎場で洗い清め、
2つの玉のうち陽の玉を男たちが250m離れた末社の玉取恵比寿神社に運ぶ。
祭典が終わると、陰の玉は本殿に戻され、陽の玉は海水で身を清めた締め込み姿の男たちの手に渡り、
陸部と海部に分かれて激しい奪い合いが始まる。恵比寿神社からしばらくの間、子供たちが
競り合いながら玉を運んだ後に、大人の男衆にバトンタッチし、玉を取り合う戦いが続き、
参道からは力水がかけられ、男達の裸体から”ゆげ”が上がる勇壮な神事で、
一の鳥居をくぐりオイサー、オイサーと声をあげ、玉を運び本殿前楼門で待ち受ける神職に手渡す。
男衆は陸組
(おかぐみ)と浜組
(はまぐみ)に分かれており、神職に最後に渡したのが陸組なら、
その年は豊作に、海部の浜組なら大漁になると言われている。[
季語]新年−行事。
筥崎宮(はこざきぐう、はこざきみや) : 福岡東区箱崎1−22−1にある神社(
八幡宮)のこと。
「はこ」の字は円筒状の容器を意味する「筥」が正字であり「箱」ではない。ただし同宮が在する
地名・駅名などは筥崎宮の「筥崎」では筥崎八幡神に対して恐れ多いという理由から「箱崎」と表記する。
福岡県庁の近くで、砂浜に赤い鳥居、国道3号線そばに大鳥居(三の鳥居)があり、
そこから1Km近くの長い参道が続く。
式内社(名神大)で、旧社格は官幣大社である。博多区住吉の住吉神社とともに筑前国一宮とされる。
「筥崎八幡宮
(はこざきはちまんぐう)」とも称し、
宇佐神宮(大分県宇佐市)、
石清水八幡宮(京都府八幡市)と並び、日本三大八幡宮の一つに数えられる。
応神天皇を主祭神とし、神功皇后と玉依姫命を配祀する。
境内には、楼門
(ろうもん)の「敵國降伏」扁額、
藩主・黒田長政により建てられた石造「一の鳥居」などの国指定重要文化財がある。
また、正月の「初詣」、1月3日に行われる「玉せせり」、
9月に行われる「放生会
(ほうじょうや)」で有名である。
本殿・拝殿(国指定重要文化財) : 醍醐天皇の921(延喜21)年6月、
大宰少弐・藤原真材朝臣が神のお告げにより神殿を造営し、995(長徳元)年、
大宰大弐・藤原有国が回廊を造営したと伝えられている。
しかしその後、元寇(1274年と1281年のモンゴル帝国の侵入事件)の戦火、
戦国時代の兵乱などにより幾度かの火災にあい、
現存する本殿、拝殿は1546(天文15)年に大宰大弐・大内義隆が再建したものである。
本殿は総建坪46坪に及ぶ優秀な建物で、九間社流造
(きゅうけんしゃながれづくり)、
漆塗、屋根は檜皮茸
(ひわだぶき)、左右には縋造車寄せがある。
本殿
本殿裏側
拝殿は切妻造、檜皮茸で、蟇股や二重虹梁(梁組が2重)が素木のままの端正な建物である。
拝殿
拝殿
社殿の東西に、東末社
(ひがしまっしゃ)と西末社があり、東末社には、池島殿・武内社・乙子殿・
住吉殿・稲荷社、西末社には、龍王社・若宮殿・仲哀殿・厳島殿・民潤社がある。
東末社
西末社
楼門(国指定重要文化財) : 1594(文禄3)年、筑前領主小早川隆景が建立した。
檜皮茸
(ひわだぶき)の三間一戸入母屋造
(さんけんいっこいりもやづくり)で、
建坪はわずか12坪であるが、三手先組
(みてさきぐみ)といわれる枡組によって支えられた、
83坪余りの雄大な屋根を有した豪壮な建物である。「敵国降伏」の扁額
(へんがく)を
掲げていることから伏敵門
(ふってきもん)とも呼ばれ、亀山上皇の宸筆と言われる。
扉の太閤桐の紋様彫刻は江戸時代の名匠・左甚五郎の作と伝わる。
広瀬淡窓の「筑前城下作」の詩の伏敵門はこの楼門を指す。
一般の参拝はこの楼門の下で行なわれる。
正面よりの楼門。「敵国降伏」の額の大きさは縦2.38m、横1.46m
横から見た楼門
神木「筥松」 : 楼門の右手の朱の玉垣で囲まれた松で、「筥松」または「しるしの松」と呼ばれる
この神木は、神功皇后が応神天皇を出産した際、胞衣
(えな)を箱に入れ、
この地に納めたしるしとして植えられた松である。この地は、もともと葦津ケ浦と呼ばれていたが、
この胞衣を入れた箱が納められたことで筥崎(箱崎)と呼ぶようになった。
筥松
筥松の奥に楼門の屋根が見える
一の鳥居(国指定重要文化財) : 本宮の鳥居は、御本殿近くより数えて一の鳥居、
二の鳥居と呼ばれる。一の鳥居は1609(慶長14)年、藩主・黒田長政が建立したとその銘にある。
この鳥居の柱は三段に切れ、下肥りとなり台石に続いている。
笠木島木
(かさぎしまぎ)は1つの石材で造られ、先端が反り上がり、
貫と笠木の長さが同じ異色の鳥居であり、「筥崎鳥居」とも呼ばれている。
鳥居の横の大きな石碑は、東郷平八郎
(とうごうへいはちろう)元帥の書である。
一の鳥居(筥崎鳥居)
二の鳥居
三の鳥居
博多湾の箱崎浜(お潮井浜)にある八幡宮の赤い鳥居。後方に三の鳥居が見える
三の鳥居側の裏から博多湾を望む。後方は福岡都市高速。立札は「神聖処」と読めた
南側(本殿の裏側)にある鳥居
手水舎(正しい作法は「
参拝」で)
拝殿正面の手水舎
東門側の手水舎
西門側の手水舎
千利休奉納の石燈籠(国指定重要文化財) : 1587(天正15)年、
太閤秀吉が九州平定後、
本宮に滞陣して博多町割りなどを行った。その時秀吉が催した箱崎茶会に随行した
千利休による奉納と伝わる。数ある石燈籠のうち、
南北朝時代、1350(観応元)年の銘が
火袋の底に刻まれているものが
千利休により寄進されたものと言われる。
千利休奉納と伝う石燈籠
石燈籠のそばにある3つの石
唐船塔 : 謡曲『唐船』は、日本に捕らわれた唐人祖慶官人が箱崎殿(筥崎宮大宮司)に仕え、
日本人妻との間に二人の子をなして平和に暮らしていた。やがて唐土に残した子供二人が
迎えに来たので箱崎殿はこれを憐れみ日本で生まれた子も連れて帰ることを許した。
そこで親子ともども喜んで帰ったが、夫婦、母子別れの悲劇もからまった物語である。
迎えに来た子が、父がもし死んでいたら建てようと持ってきた供養塔がこの塔といわれている。
歌は聖福寺の画僧仙腰a尚の作で箱崎のいそべの千鳥親と子となきにし声をのこす唐船また
祖慶官人と妻とが別れるときに腰かけて名残を惜しんだといわれる一対の石を「夫婦石」といっている。
と、「唐船塔」の説明文に記されている。
一の鳥居をくぐり境内に入るとすぐ右手の一角に「唐船塔」はある。
唐船塔。手前の二つの石が夫婦石
大楠、主幹は折れている
湧出石(わきでいし) : この石にふれると運が湧き出るといわれ、招福開運の信仰がある。
また、国に一大事がある時地上に姿を現すという古い言い伝えがある。
湧出石
碇石(いかりいし) :
元寇のときの蒙古軍の船の碇で、博多湾から引き揚げられ、
手水舎の近くに横たえてある。その横には「さざれ石」もある。
蒙古軍の船が使用していた2本の碇石
昔の碇は石と木で、鉄の碇が日本に登場するのは15世紀以降である。
石と木でつくられた碇
碇石の横にあるさざれ石
筆塚
お潮井
神苑花庭園 : 開園時間は9:30〜17:00(放生会期間中は無休)。入園料は200円。
写真等詳細は次回参詣時に紹介
筥崎宮の放生会 : 博多三大祭の一つで、放生会はもともと、生き物の命を大切にし、
殺生
(せっしょう)を戒める
(いましめる)神事
(しんじ)として千年の昔から続いてきたが、
今では実りの秋をむかえ自然のめぐみに感謝するお祭りでもあり、
現在は毎年9月12日〜18日に行われている。
「放生会」は日本中の他の神社でも行われていて「ほうじょうえ」と呼ばれているが、
筥崎宮の「放生会」は「ほうじょうや」と呼んでいる。
放生会の最終日(2008年9月18日)に撮影した筥崎宮の境内
拝殿側から一の鳥居方面を望む
筥崎宮の1kmの参道の両脇には700軒近くのさまざまな露店が立ち並ぶ。
放生会には露店が立ち並ぶ
交通 : JR鹿児島本線「箱崎駅」から徒歩10分ほどであるが、
市営地下鉄「箱崎宮前駅」の4番出口のエレベーターに乗ると、二の鳥居のすぐ前に出る。
また、海に近い三の鳥居方面から見物するには2番出口を利用するとよい。
バスは博多駅交通センターの29番ほか各バス停より多くの路線があるが、
信号や交通渋滞のないJRや地下鉄を利用した方が時間短縮にはなるでしょう。
車の場合、三の鳥居のそばの国道3号線を隔てたお潮井浜に大きな駐車場があるが、
時間制限がないとしても駐車料金の800円は高過ぎると思う。
それでなくとも筥崎宮には各所のお賽銭、お祓いのほか車の安全祈祷などで出費しているでしょう。
参 :
玉せせり、
筥崎宮(HP)