忌日(YSミニ辞典)

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忌日(きにち、きじつ) 毎年または毎月の、その人が死んだ日と同じ日付の日で、
               回向(えこう)をする日。命日。忌辰(きしん)。[季語]は、行事。

俳人・文人の忌日
赤彦忌(あかひこき) : 明治・大正時代のアララギ派歌人・島木赤彦の
    1926(大正15)年3月27日の忌日。享年歳。明治9年、現在の長野県諏訪市に生まれる。
    正岡子規の短歌に影響を受け、伊藤左千夫に師事する。
    写生を尊重した作風で、大正4年、短歌雑誌「アララギ」の編集兼発行人となる。
晶子忌(あきこき) : 明治、大正、昭和の歌人、詩人、作家、思想家・與謝野晶子(よさの・あきこ)
    1942(昭和17)年5月29日の忌日。歿後に出された最後の歌集『白櫻集』に因み、
    「白櫻忌」とも呼ばれる。1878(明治11)年12月7日、大阪府堺市(現在の堺区)に生まれる。
    旧姓は鳳(ほう)。戸籍名は「志よう」。ペンネームの「晶子」の「晶」はこの「しよう」から取った。
    処女歌集「みだれ髪」で近代日本文学史上に浪漫主義詩歌の位置を確立。
    与謝野鉄幹(与謝野寛)と結婚後も明星派の歌人として活躍。日露戦争の反戦歌
    「君死にたまふことなかれ」は有名。源氏物語の翻訳や評論活動にも熱心であった。
秋成忌(あきなりき) : 怪異譚『雨月物語』を著した江戸期の戯作者、国学者・上田秋成の
    1809((文化6)年6月27日の忌日。享年75歳。ちなみに南禅寺参道に面する旅館「八千代」には、
     彼が原稿を投げ捨てたとされる「夢の井戸」がある。
亜浪忌(あろうき) : 俳人・臼田亜浪の1951(昭和26)年11月11日の忌日。
家康忌(いえやすき) : 日本の戦国武将、江戸幕府の初代征夷大将軍・徳川家康(とくがわ・いえやす)
    1616(元和2)年4月17日の忌日で、74歳で没した。
    家康は岡崎城主・松平広忠の長男として生まれで、幼名は竹千代、通称は次郎三郎。
    幼い頃から人質暮らしが続いたが、桶狭間の戦いで人質先の今川義元が戦死、岡崎に戻った。
    本姓は、先に藤原氏、次いで源氏と名乗った。1567年2月8日(永禄9年12月29日)に勅許を得て、
    徳川氏に改姓した。その後は織田信長豊臣秀吉と組むなど戦国時代を生き抜き、
    秀吉死後の1600(慶長5)年、関ケ原で豊臣方石田光成を倒し、
    慶長8年には征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府開いた。
    この日東京では「上野東照宮大祭」が行われる。東照宮の拝殿で、管弦が奏でられる中、
    徳川家の代表が供物を供えた江戸時代の行事が其の侭再現される。
     鷹狩りの後、空腹の状態で鯛の天ぷらを大食いしたことによる食中毒症状が死因であると
    一般的にいわれているが、もともと胃ガンにかかっていたという説もある。
勇忌(いさむき) : 歌人・劇作家・小説家の吉井勇(よしい・いさむ)
    1960(昭和35)年11月19日の忌日。「かにかくに祇園は恋し」から「かにかく忌」とも呼ばれる。
一葉忌(いちようき) : 小説家・樋口一葉の1896(明治29)年11月23日の忌日で、
    この日は台東区の一葉記念館と、文京区の法真寺では、毎年記念の行事がある。
    樋口一葉は、本郷丸山福山町の地で24歳の若さで世を去った。
    丸山福山町に住んだのは1年6カ月に過ぎなかったが、
    『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』など、代表作のほとんどをここで書いている。
一茶忌(いっさき) : 俳諧師・小林一茶(1763〜1827)の1827(文政10)年11月19日の忌日。
一碧楼忌(いっぺきろうき) : 俳人・中塚一碧楼(なかつか・いっぺきろう)
    1946(昭和21)年12月31日の忌日。
梅若忌(うめわかき) : 京都北白河の吉田少将惟房の一子梅若丸が信夫藤太という
    人買いに連れ去られ東国へ下る途中、重い病気にかかって隅田川畔に捨てられ、
    貞元元年(976)3月15日に12歳で病死した。梅若丸を哀れみ、
    里人たちが塚を築き毎年3月15日(新暦4月15日)に大念仏会を営み供養したのが梅若忌の始まりで、
    俗に「梅若祭」といわれる。梅若塚を守るために梅若山梅若寺が建立されたが、
    後に梅柳山木母寺(もくぼじ)と改められた。「木母」は梅の異名といわれる。
永観忌(えいかんき) : 『往生拾因』を著した京都・禅林寺の僧、永観の旧暦10月1日(新暦11月2日)命日。
    禅林寺は彼の名にちなんで永観堂とも呼ばれ、紅葉の名所となっている。
栄西忌(えいさいき、ようさいき) : 鎌倉時代前期の禅僧日本臨済宗の開祖栄西の1215年7月5日の忌日。
    栄西は1141年に備中(現岡山県)吉備津に生まれた。19歳で比叡山に登って、
    天台宗、真言密教を学んだのち、1168(仁安3)年と1187(文治3)年の二度、
    宗の時代の中国に渡り、天台山で修行して臨済禅を学んだ。
    帰国後、博多に日本初の禅刹聖福寺を建立した。旧仏教との協調による禅の布教につとめ、
    鎌倉幕府の援護を受け、1202(建仁2)年、京都に建仁寺(京都市東山区小松町)を創立し、
    台・密・禅三宗兼学の道場とした。また、宋から持ち帰った茶種を高尾の栂尾(とがのお)に植えて育て、
    『喫茶養生記』を著して茶の効能を説いた。栄西は7月5日に入寂したが「建仁寺開山忌」は
    6月5日に行われ、建仁寺では朝9時から管長が導師となって法会を営み、
    裏千家宗匠の献茶式がある。
鴎外忌(おうがいき) : 小説家・森鴎外(本名:森林太郎1862〜1922)大正11年7月9日の忌日。
    享年60歳(貞献院殿文穆思斎大居士)。墓は三鷹の禅林寺にある。
応挙忌(おうきょき) : 円山応挙[圓山應擧](まるやま・おうきょ)の寛政7年7月17日(1795年8月31日)の
    忌日。享保18年5月1日(1733年6月12日、丹波国桑田郡穴太(あのお)村(現・京都府亀岡市)に
    農家の次男として生まれた。江戸時代中期の絵師で、近現代の京都画壇にまで
    その系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。
    諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている。
桜桃忌(おうとうき) : 小説家・太宰 治(本名:津島 修治)[明治42年(1909年)青森県生まれ]が、
    昭和23年(1948年)年6月13日に山崎 富栄と玉川上水に入水心中し、
    太宰の死体が6月19日に発見され、奇しくも39歳の誕生日に当たったことにちなんで、
    毎年「6月19日」の午後2時から営まれる法要。「桜桃忌」の名は、太宰の死の直前の
    短編小説の題名「桜桃」にちなむもの。当日は参会者が東京都三鷹下連雀の禅林寺の墓前に集まり、
    住職が読経をあげて鎮魂の供養をしたあと、各自墓前に手を合わせて詣で、
    そのあと一同が庫裏の座敷(今は葬祭場)に移り、思い出を語り合う。
    現在は「墓前の集い」と「桜桃の会」の二本立てが桜桃忌の内容であり、この形は今も定着している。
    参 : GHQの検閲
    
    太宰治:青森で銅像除幕 生誕100年の「桜桃忌」
     作家、太宰治の生誕100年と命日「桜桃忌」に当たる2009年6月19日、
    生まれ育った青森県五所川原市の芦野公園で記念祭があった。
     長女の津島園子さん(68)らが、彫刻家の中村晋也さん(82)が制作した太宰の銅像を除幕。
    親族やファンら500人以上が花をささげるなどして太宰をしのんだ。
    太宰が一時疎開していた同市の住宅「新座敷」では、当時執筆した作品「庭」などの朗読会もあった。
     記念祭に訪れた東京都世田谷区の大学生、菅瑠衣(るい)さん(23)は
    「太宰は自分の道を貫いて多くの人に愛され、本当にかっこいい」と話していた。
大石忌(おおいしき) : 陰暦2月4日の大石内蔵助良雄の忌日。
阿国忌(おくにき) : 阿国歌舞伎の創始者・歌舞伎芝居の祖の出雲の阿國の4月15日の忌日。
乙字忌(おつじき) : 俳人・大須賀乙字(おおすが・おつじ)明治14:1881〜大正9:
    1920年1月20日の忌日。福島県相馬市中村町出身で、名は績(いさお)。東大国文科を卒業後、
    曹洞宗第一中学校の教師となり、大正5年に東京音楽学校(現:東京芸術大学)教授に就任。
    新傾向俳句運動のロ火を切ったが、後に伝統を尊重する側に変わる。
    スペイン風邪から肋膜肺炎を起こし40歳で急逝した。墓は東京雑司ケ谷の共同墓地。
    寒雷忌、二十日忌とも言われる。
鬼貫忌(おにつらき) : 俳人・上島鬼貫(うえしま・おにつら:1661〜1738)の
    元文3年8月2日(旧暦7月5日)の忌日。大坂で没し、墓は大阪市天王寺区の鳳林寺(ほうりんじ)
    伊丹市の墨染寺(ぼくせんじ)にある。万治4年(1661)4月4日、伊丹の酒造家、
    上島宗次の三男として生まれた。名は宗邇(むねちか)、通称は与惣兵衛(よそうべえ)
    幼名は竹松。別号は仏兄(さとえ)・馬楽童(ばらくどう)・槿花翁(きんかおう)など。
蝸牛忌(かぎゅうき) : 小説家・随筆家・考証家・幸田露伴(こうだ・ろはん)
    1947(昭和22)年7月30日の忌日。蝸牛は別号で、「風流物」「五重塔」は代表作。
荷風忌(かふうき) : 小説家・随筆家の永井荷風の1959(昭和34)年4月30日の忌日。
    1879年、東京の生れ。本名、壮吉。広津柳浪に師事、ゾラの影響を受けて「地獄の花」を発表。
    アメリカ・フランス遊学後、「あめりか物語」「ふらんす物語」や「すみだ川」などを執筆、
    耽美派の中心的存在となる。のち、「腕くらべ」などで花柳界の風俗を描いた。文化勲章受章。
    ひとり暮らしの荷風の家に朝出勤したお手伝いさんが死んでいる荷風を発見。
    前日、近所のメシ屋(大黒家)でカツ丼を食べた荷風は、夜中嘔吐。
    食べたカツ丼の中身を喉につまらせて窒息死したのである。胃潰瘍だった。享年79歳。
    没後に建立された文学碑のある、東京都荒川区の浄閑寺で法要が行われている。
鑑真忌(がんじんき) : 日本律宗の開祖である唐の高僧・鑑真和上がんじんわじょう:奈良時代の帰化僧。
    唐大和上・過海大師・唐大和尚)の763(天平宝字7)年旧暦5月6日の忌日。
    東大寺に戒壇を建て聖武天皇以下に授戒し、
    のち756年に奈良市五条町の唐招提寺(とうしょうだいじ)を開いた。
    6月6日の命日の前後三日間、御影堂(みえいどう)内では国宝の鑑真和上坐像を開扉される。
祇王忌(ぎおうき) : 『平家物語』に登場する、平清盛の寵愛を受けた
    平安時代末期の京堀川の白拍子(しらびようし)・祇王(妓王)の旧暦2月14日の忌日。
其角忌(きかくき) : 俳諧師・寶井其角:たからい・きかく(榎本其角)
    (蕉門十哲の一人)享年46歳の1707年2月30日の忌日。
義秀忌(ぎしゅうき) : 小説家・中山義秀(なかやま・ぎしゅう)の1969(昭和44年8月19日の忌日。
    本名、議秀(よしひで)。1900(明治33)年10月5日、福島県西白河郡大屋村(現・白河市)生れ。
    旧制安積中学(現福島県立安積高等学校)、早稲田大学文学部英文科卒。
    大学在学中に、横光利一、富ノ沢麟太郎、小島勗らと同人誌『塔』を創刊。小説『穴』を発表。
    また、帆足図南次と『農民リーフレット』を発刊。卒業後、中学英語教師のかたわら著作業を始め、
    妻の死など苦難の後、著作集『電光』を刊行。1938(昭和13)年、岩瀬郡長沼町を舞台にした
    『厚物咲』で第7回芥川賞。翌年『碑』を発表し、文壇での評価を高める。
    平家物語を現代語訳しており(日本古典文庫13)、その訳文(書き出しと那須与一の件)は
    中学校用国語教科書(光村図書中学2年)で長年使用され続けている。
    戦後は時代小説を書き、『新剣豪伝』『信夫の鷹』『咲庵』(野間文芸賞)など。
    がんに倒れ、『芭蕉庵桃青』が絶筆。死の前日に、キリスト教の洗礼を受ける。
    中山義秀記念文学館がつくられ、優れた歴史小説を対象にした、中山義秀文学賞が創設された。
    大信村の文化の発展に貢献したが、2005年に合併し、白河市となった。
鬼城忌(きじょうき) : 俳人・村上鬼城(むらかみ・きじょう)の1938(昭和13)年9月17日の忌日。
    村上鬼城は慶応元年(1865)に江戸で生まれ、9歳のとき高崎へ移り、74歳で亡くなるまで住んでいた。
    芭蕉以後の俳聖といわれる。俳句は自分の身の上を詠んだものが多く、人々に感銘を与えている。
    高崎市には「村上鬼城顕彰会」があり、命日の「鬼城忌」を中心に、その偉業を顕彰している。
御忌(ぎょき) : 浄土宗の開祖・法然上人(1133年4月7日〜1212年1月25日)の年忌を修する
    法会(ほうえ)のことをいい、その命日には、総・大本山はもとより、多くの浄土宗寺院で法要が営まれる。
    特に浄土宗総本山の知恩院(京都市東山区)の大法会は有名で、
    もとは陰暦1月18日夜より25日まで(今は4月18か19日から7日間)大法要が営まれる。
    法然(源空)は1212(建暦2)年に80歳で死去。
    「御忌」とは本来、天皇や皇后の忌日に行われる法会を指すが、1525(大永4)年正月18日、
    後柏原(ごかしばら)天皇が知恩院第25世・超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)に対し、
    「毎年1月25日(命日)までの7日間、法然上人の往生の日を迎えるごとに勅会(ちょくえ)として
    御忌を勤めよ」との「大永の御忌鳳詔(ほうしょう)があり、以後、
    「法然忌」を御忌と称するようになった。明治10年より4月に変更されて今に到る。
虚子忌(きょしき) : 俳人・小説家の高濱虚子の1959(昭和34)年4月8日の忌日。享年85歳。
    柳原極堂から俳誌『ホトトギス』を継承し、客観写生、花鳥諷詠を提唱した。
    椿を愛し、法名を虚子庵高吟椿寿居士というところから、「椿寿忌」とも呼ばれる。
    (例句)★宗鑑の墓に花なき涼しさよ
去来忌(きょらいき) : 俳人・向井去来(1651〜1704)の9月10日の忌日。
許六忌(きょろくき) : 江戸時代前期から中期にかけての俳人で、近江国彦根藩の藩士であった
    森川 許六(もりかわ・きょりく)の 正徳5年8月26日(1715年9月23日)の忌日。
    明暦2年8月14日(1656年10月1日)生まれで、 名は百仲、
    別号を「五老井(ごろうせい)」、「無々居士」、「琢々庵」などと称した。
    はじめ、和歌や俳諧を北村季吟などに学び、談林派の俳諧に属していた。
    その後、松尾芭蕉の門弟で蕉門十哲の一人である榎本其角に師事して蕉風に傾いた。
    江戸での勤務の折の1692(元禄5)年に江戸深川にいた芭蕉にあって入門した。
    許六が彦根に帰る際には芭蕉から「柴門之辞」を贈られている。
    俳諧のほか漢詩、書や絵画など諸芸に秀でていた。正徳5年に60歳で没。
空也忌(くうやき) : 京都市中京区の空也堂で、同寺の開山空也上人を偲んで営まれる法要。
    空也上人は天禄3年(972)9月11日に没したが、晩年に修行のため東国へ出立した際の遺言により、
    出寺の日とされる11月13日を開山忌とし、のち第2日曜に行われるようになった。
    午前中、王服(おうぶく)茶の献茶式があり、午後からは歓喜踊躍(ゆやく)念仏和讃といわれる
    踊念仏を円形に回る踊りと、六斎(ろくさい)念仏焼香式が行われる。
    空也は69才か70才で死去したが、その場所が六波羅蜜寺とも奥羽地方の寺ともいわれ定かでない。
    しかし京都市東山区にある六波羅蜜寺を訪ねると 
    空也が荷車に載せて町を歩いたという観音像が祀られている。
草田男忌(くさたおき) : 俳人・中村草田男の1983(昭和58)年8月5日の忌日。
    1901(明治34)年7月24日、清国(現・中国)福建省廈門にて清国領事・修の長男として生まれる。
    本名・中村清一郎(なかむら・せいいちろう)。1904(明治37)年、4歳の時、
    母とともに中村家の本籍地・愛媛県伊予郡松前町に帰国。2年後松山市に転居。
    小学校時代の大半を東京で過ごし、赤坂区青南尋常小学校(のち港区立青南小学校)に通学する。
    中学時代は再び松山に戻り、松山中学、松山高等学校を経て、1925(大正14)年、
    東京帝国大学文学部独文科に入学。1929(昭和4)年、高浜虚子に師事し俳句を学ぶ。
    また東大俳句会に入門。水原秋桜子の勧めで『ホトトギス』に投句。後に「萬緑」を創刊主宰。
    人間探求派と呼ばれ人間の内面や生命感を表現した。大学時代に久しぶりに母校の
    青南小学校を訪ねた。この時に有名な「雪と明治」の句を詠み、現在、当小学校にその句碑がある。
    1933(昭和8)年に大学を卒業し、成蹊学園に就職。政経学部教授として33年間教鞭を執り
    1967(昭和42)年に定年で退職。昭和58年8月5日、急性肺炎のため82歳で死去。
国男忌(くにおき) : 民俗学者・柳田国男(やなぎた・くにお)の1962(昭和37)年8月8日の忌日。
    1875(明治8)年7月31日、兵庫県神東郡田原村辻川(現・神崎郡福崎町)に
    儒者・松岡操、たけの六男として生まれる。学術研究をする際には、
    テーマに即した場所を実際に訪れる実地調査に基づく民俗資料の収集の重要性を説いた。
    『遠野物語』、『蝸牛考』など、著書多数。兵庫県福崎町名誉町民第1号。正三位勲一等。
    1962年8月8日に心臓衰弱のため死去した。享年87歳。
    戒名は永隆院殿顕誉常正明国大居士。墓所は神奈川県川崎市の春秋苑。
桂カ忌(けいろうき) : 俳人、随筆家・石川桂カ(いしかわ・けいろう)の1975(昭和50)年11月6日の忌日。
    東京三田に生まれる。「鶴」に参加し、そこで石塚友二の勧めで随筆を書き始める。
    「俳句研究」、「俳句」の編集長を務めた。昭和39年に「風土」を主宰創刊した。その後、
    読売文学賞、蛇笏賞を受賞した。句集に『含羞』、『竹取』などがある。昭和50年に66歳で没した。
健吉忌(けんきちき) : 評論家・山本健吉の1988(昭和63)年5月7日のの忌日。
源信忌(げんしんき) : 平安時代中期の天台宗の僧侶・源信の1017(寛仁元)年陰暦6月10日の忌日。
    慈恵大師に師事し、深く天台の教理を探った。大和葛城の人。
    比叡山横川の恵心院に住んだので惠心僧都とも呼ばれたことから「恵心忌(えしんき)」ともいわれる。
    「往生要集」は、浄土信仰に大きな影響を与えた代表作である。
    絵画彫刻に親しみ著述と共に世に残るものが多い。享年76歳。
元政忌(げんせいき) : 江戸時代初期の日蓮宗を代表する高僧元政上人の陰暦2月18日の忌日。
    井伊家に仕えたが、26歳の時致仕して、出家し、33歳の時、洛南深草に称心庵を結んで隠棲した。
    法華経の研究にいそしんだほか、詩人文人としても一流であった。46歳で入寂した。
    毎年3月18日に京都の伏見区深草坊町にある瑞光寺にて元政忌とともに遺宝展があり、
    上人の遺品等が公開される。
源義忌(げんよしき) : 日本の実業家・俳人・角川源義(かどかわ・げんよし)
    1975(昭和50)年10月27日の忌日。
    1917(大正6)年10月9日、富山県中新川郡東水橋町(現富山市)に生まれる。
    角川書店(現・角川ホールディングス)の創立者。俳人としても名をなした。
    俳号は源義(げんぎ)、水羊(すいよう)。俳誌「河」を主宰するほか、
    俳句総合誌「俳句」を創刊して俳句界に貢献した。句集に「西行の日」「ロダンの首」ほか。
光悦忌(こうえつき) : 書家・工芸家の本阿彌光悦(ほんあみ・こうえつ)の1637(寛永14)年2月3日の忌日。
    また光悦会といい、本阿弥光悦を偲んで、京都・鷹ケ峰の光悦寺で催される茶会があり、
    東京大師会と同様に、東京・京都・大阪・名古屋・金沢の五都美術商が世話人となって、
    全国の名器を集め、濃茶3席、薄茶1席が懸釜される。
紅葉忌(こうようき) : 小説家、俳人・尾崎紅葉(おざき・こうよう)の1903(明治36)年10月30日の忌日。
    1868年1月10日(慶応3年12月16日)、江戸(現・東京都)芝中門前町(現在の浜松町)に生れる。
    父は根付師の尾崎谷斎(惣蔵)、母は庸。本名、徳太郎。帝国大学国文科中退。
    学生時代の1885(明治18)年に、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を創刊した。
    俳句にも力を入れ、硯友社の巌谷小波などと紫吟社を興した。
    俳人としても角田竹冷らとともに、秋声会を興し正岡子規と並んで新派と称された。
    「縁山」「半可通人」「十千万堂」などの号も持つ。
    泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など、優れた門下生がいる。
    『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、
    幸田露伴と並称され明治期の文壇の重きをなした。
    1897(明治30)年から書いた『金色夜叉』は未完のまま、1903年に36歳で没した。
光琳忌(こうりんき) : 江戸時代の画家、工芸家・尾形光琳1716(享保元)年4月6日と
    陶工・尾形乾山1743(寛保3年)6月2日、兄弟の忌日。6月2日に京都市上京区の泉妙院で営まれる。
小町忌(こまちき) : 『古今集』等の作者で、絶世の美女といわれた
    平安時代の歌人・小野小町の旧暦3月18日の忌日。
言水忌(ごんすいき) : 江戸時代中期の俳人池西言水(いけにし・ごんすい)
    享保7年(1722年)9月24日の忌日。慶安3(1650年)に奈良大和に生まれ、
    名は則好、通称は八郎兵衛、別号に紫藤軒・兼志・洛下童・鳳下堂がある。
    若くして俳諧を学び、始め松江重頼(貞門)に学が、後、談林に移る。16才で法体となって俳諧に専念。
    江戸に出て芭蕉、才麿らと交わり、その影響を受けた。後、諸国を遊歴し、初め談林風を鼓吹したが、
    のち蕉風に傾倒した。京都に落ち着いて多くの門下を得た。「江戸新道」等がある。
    「凩の果はありけり海の音」の句で「凩の言水」と言われた。享保7年に72歳で没。
西鶴忌(さいかくき) : 『好色一代男』などで知られる江戸時代の浮世草紙の創始者、
    井原西鶴の1693年8月10日の52歳で没した命日。彼の墓は、大阪・上本町の誓願寺にある。
西行忌(さいぎょうき) : 俗名佐藤義清(さとう・のりきよ・1118〜1190)、
    円位と号し、のちに西行と改めた。鳥羽上皇に仕える北面の武士でしたが、
    23歳で出家して漂泊の歌僧となり、歌集に『山家集』がある。
    1190年2月16日(陰暦)に、河内の弘川寺で寂した(行年73歳)と伝えられている。
犀星忌(さいせいき) : 石川県金沢市生まれの詩人、小説家・室生犀星(むろう さいせい)
    1962(昭和37)年3月26日の忌日。1889(明治22)年8月1日生まれで、
    本名は室生照道(てるみち)。詩集「愛の詩集」「抒情小曲集」、小説「幼年時代」
    「性に目覚める頃」句集「魚眠洞発句集」「犀星発句集」等を発表して余りにも有名。
    十代の頃から句作を開始している。
才麿忌(さいまろき) : 元禄俳人・椎本才麿の陰暦元文3年正月2日の忌日で、83歳で没。
    大和国宇陀郡の生まれ。本名谷氏で通称八郎右衛門。
    俳諧は西鶴門に属し、後、東下して 芭蕉一派や言水・調和等と接触し活躍した。
    元禄2年頃帰阪して 大阪俳壇の重鎮となった。
左千夫忌(さちおき) : 明治時代の歌人、小説家・伊藤左千夫の1913(大正2)年7月30日の忌日。
    正岡子規に歌を学び、子規の死後、歌誌「馬酔木」を創刊、編集にあたる。
    廃刊後は「アララギ」を創刊、編集にあたり茂吉、迦迢空等の歌人を輩出。
    子規に学んだ写生文「野菊の墓」等小説も残した。
実朝忌(さねともき) : 源実朝(1192〜1219)は、源頼朝・政子の次男。
    追放された兄・源頼家の後を継ぎ、11歳の若さで鎌倉幕府の三代将軍になった。
    健保7年の1月27日、右大臣拝賀の席上で、頼家の子・公暁に暗殺された。
    その忌日に、歌人としても名高い源実朝の遺徳をしのび俳句大会などが行われる。
三鬼忌(さんきき) : 新興俳句運動の騎手・西東三鬼(本名:斎藤 敬直)の
    1962(昭和37)年4月1日の忌日。癌のため61歳で亡くなった。
三汀忌(さんていき)  : 小説家・劇作家久米正雄の昭和27年3月1日の忌日。
    俳号の三汀からで、海棠忌(かいどうき)とも言われる。
杉風忌(さんぷうき) : 杉山杉風の陰暦6月13日の忌日。
    杉風は、幕府御用の魚問屋を継ぎながら俳諧をした。鯉屋市兵衛の通称から「鯉屋忌」ともいう。
    蕉門十哲の一人で、芭蕉東下以後は終世、芭蕉につき、経済的にも芭蕉を支え芭蕉が
    蕉風を築き上げる土台を作った。深川の芭蕉庵も杉風が提供したと言われている。
子規忌(しきき) : 愛媛県生まれの俳人・歌人の正岡子規(1867〜1902)の
    明治35年9月19日(陰暦8月17日午前1時頃)の忌日。
    俳諧を見直し、五七五の発句を俳句という詩形式に独立させた。伝統詩革新の旗手となり、
    写生を重んじた作風を示したが、肺結核と腰部脊髄炎によって満35歳にわずかに満たない
    短い生涯を閉じた。高濱虚子が東京の根岸・子規庵に詰めていたとき、息を引き取った。
    享年満34歳。このときの虚子の追悼句「子規逝くや十七日の月明に」が有名。
    (忌日をとっさに旧暦にして詠んでいる)
    夏目漱石との親交でも知られ、ベースボールを野球と訳した野球ファンでもあった。
    子規は獺祭書屋主人と号していたことから、彼の命日のことから、「獺祭忌(だっさいき)」といい、
    また病苦の底で書き残した「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな、痰一斗糸瓜の水も間にあはず、
    をととひの糸瓜の水も取らざりき」のいわゆる薬としても用いた糸瓜のことを詠んだ
    絶筆三句により「糸瓜忌(へちまき)」ともいう。
司馬遼太郎忌(しば りょうたろうき) : 「菜の花忌」。
    氏は野の花、とりわけたたんぽぽや菜の花と言った道端に咲く山野草が好きで、
    長編小説「菜の花の沖」という小説からもこの日の名の由来がうかがえる。
    2月12日。作家・司馬遼太郎が1996(平成8)年のこの日に世を去った。
    本名は福田 定一(ふくだていいち)。「梟の城」で直木賞を受賞。
    歴史小説に新風を送り、代表作に「国盗り物語」、「龍馬がゆく」、「坂の上の雲」。
    幕末から明治を扱った作品が多く、「街道をゆく」などエッセイなどで文明批評を行った。
四迷忌(しめいき) : 小説家、翻訳家・二葉亭四迷(1864〜1909)の5月10日の忌日。
赤光忌(しゃくこうき) : 歌人・斉藤茂吉の昭和28年2月25日の忌日。
    正岡子規の影響を受け、伊藤左千夫に師事した。
秋櫻子(しゅうおうしき) : 俳人・水原 秋桜子(1892〜1981)の7月18日の忌日。
修司忌(しゅうじき) : 俳人、歌人、詩人、作家・寺山修司(てらやま・しゅうじ
    1935〜1983)の5月4日の忌日。肝硬変と腹膜炎で敗血症となり、死去。享年47歳。
楸邨忌(しゅうそんき) : 俳人・加藤 楸邨・本名:健雄(たけお)、別号:達山房(1905〜1993)
    平成5年7月3日の忌日。享年88歳。埼玉県の中学校教員時代に、同僚に誘われて句作を開始。
    村上鬼城に私淑、後に水原秋桜子に師事、「馬酔木」同人となる。
    1940年、東京文理科大学卒業。その年に俳誌「寒雷」を創刊、主宰する。
    石田波郷・中村草田男らとともに人間探究派と称された俳壇の重鎮。
    昭和28年〜41年の作品を収めている第10句集「まぼろしの鹿」によって、昭和43年
    第2回蛇笏賞を受賞。山梨県北巨摩郡小淵沢町に加藤楸邨記念館(TEL:0551−36−5061)がある。
白雄忌(しらおき) : 江戸時代中期の俳人、加舎白雄(かや・しらお)の寛政3年(1791年)9月13日の忌日。
    信州上田藩士加舎吉享の二男として、江戸深川に生まれる。
    松露庵三世烏明、白井鳥酔に学び、蕉風復古説の影響を受けた。その後、江戸に春秋庵を開く。
    蕉風俳諧をわかりやすく説いた「俳諧寂栞」などの著書のほか「白雄句集」などがある。
    寛政3年に54歳で没した。 参 : 加舎白雄顕彰保存会(HP)
水巴忌(すいはき) : 俳人・渡邊水巴(1882年生)の1946(昭和21)年8月13日の忌日。
    本名は義(よし)、別号は静美・流觴居(りゅうしょうきょ)
素十忌(すじゅうき) : 俳人・高野素十(1893〜1976)の昭和51年10月4日の忌日。
世阿弥忌(ぜあみき) : 観阿弥の子で1363年頃の生まれで、室町時代の能作者、能役者で、
    能理論家でもある観世流二世の太夫・世阿弥の陰暦の8月8日(1443年頃)忌日。
    足利義満の庇護のもと、父、観阿弥の猿楽を幽玄美の芸術に高め、能楽を大成した。
    「老松」「高砂」「実盛」などの多くの能を作り、「風姿花伝」「花鏡」「能作者」などの著作がある。
誓子忌(せいしき) : 俳人・山口誓子(1901〜1994)の3月26日の忌日。
青邨忌(せいそんき) : 俳人・山口青邨(1892〜1988)の12月15日の忌日。
青峰忌(せいほうき) : 俳人・嶋田青峰(しまだ・せいほう)の1944(昭和19)年5月31日の忌日。
    「青峰」は、故郷である志摩の青峯山からとっだ俳号である。
    青峰は新興俳句運動に名を連ね、俳句弾圧事件に巻き込まれ投獄、後に敗戦を知らず亡くなった。
青畝忌(せいほき) : 俳人・阿波野青畝(1899〜1992)の12月22日の忌日。
石鼎忌(せきていき) : 俳人・原石鼎(はら・せきてい)の1951(昭和26)年12月20日の忌日。
    石鼎は高浜虚子にその才能を見出された。昭和26年12月に入って尿毒症を病んで床につき、
    20日に絶命した。65歳であった。戒名は花影院真誉石鼎居士。
蝉丸忌(せみまるき) : 歌人、琵琶奏者・蝉丸の旧暦5月24日の忌日。大津市の逢坂の
    蝉丸神社上社、下社、それに同市大谷町の蝉丸神社の3箇所に音曲芸道の始祖として祀られた。
宗鑑忌(そうかんき) : 室町後期の俳人・山崎宗鑑(やまざき・そうかん)
    陰暦1553(天文22)年10月2日(新暦11月22日)の忌日。
    本名を志那範重、通称を弥三郎と称し、1465(寛正6)年頃の近江国の出身とされるが、
    諸説あり定かではない。俳諧の始祖とされる。『犬筑波集』を編み、談林俳諧に大きな影響を与えた。
    (例句)★風寒し破れ障子の神無月★うつつきてねぶとに鳴や郭公
宗祇忌(そうぎき) : 連歌師・飯尾宗祇の1502(文亀2)年7月30日の忌日。
    墓は裾野市の桃園近くの定輪寺境内にある。8月20日に岐阜県八幡町の大乗寺では
    宗祇水神祭が行われ、宗祇忌に連句を一巻奉納するための連句全国大会があり、
    連句フェスタで巻いた一巻を奉納する。宗祇水を会場に、御神酒が振る舞われ賑わいを見せる。
    また、水中金魚とよばれる水中花火で祭りのクライマックスを迎える。
蒼きゅう忌(そうきゅうき) : 江戸後期の俳人・成田蒼きゅう(なりた・そうきゅう)の
    1842(天保13)年3月13日の忌日。享年82歳。1760(宝暦10)生れの加賀(石川県金沢)の人。
    名は利定。通称は彦助、久左衛門。別号に槐庵、南無庵、対塔庵。加賀金沢藩士勘左衛門の子。
    のち父の跡を継いで四百石を得た武術の達人であったが、不詳事件に関連して武士を捨てた。
    高桑闌更(たかくわ・らんこう)門の上田馬来から俳諧を学び、師の没後、京都に出て
    闌更に師事し、東山双林寺の芭蕉堂後継者となる。全国をめぐりあるき天保俳壇の重鎮として活躍。
    各地を遊歴。後京都八坂に対塔庵を建て住み、ここで枝月尼を後妻に迎えた。
    なお彼女の妹は「頼山陽」の後妻という関係から「頼山陽」とは親交が厚かった。
    句集「蒼きゅう翁句集」「蒼きゅう翁俳諧集」。
草城忌(そうじょうき) : 俳人・日野草城の1956(昭和31)年1月29日の忌日。
    無季俳句、連作俳向を率先し、モダンな作風で新興俳匂の一翼を担っ。東鶴忌、銀忌とも呼ばれる。
艸心忌(そうしんき) : 1902年7月3日、群馬県高崎市生まれの歌人・吉野秀雄(よしの・ひでお)
    1967(昭和42)年7月13日の忌日。「艸心」とは、書家としても活躍した会津八一が書にしたためて
    吉野に贈った言葉で、吉野の草のように柔らかな心や、やせた姿をイメージした言葉との説がある。
    伊藤左千夫・正岡子規らアララギ派の作風に強い影響を受けた作風で知られる。
    また、生涯結核を患い、「病人歌人」としても知られる。
    戦中に妻はつ子と死別。2番目の妻のとみ子は八木重吉の元妻である。
    次男・吉野壮児(1933〜1993年)は翻訳家で、森珠樹の筆名を持つ。
    毎年7月2日に鎌倉市二階堂の瑞泉寺で「艸心忌」が開かれている。
漱石忌(そうせきき) : 作家・俳人夏目漱石(1867〜1916)の命日。
    『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』などの作品で知られ、日本で最も人気の高い作家の一人。
    現在では1000円札の顔ともなっている。江戸牛込生まれ。本名は金之助。
    生後まもなく里子に出されるがすぐ戻される。また2歳の時に新宿の名主、塩原昌之助の養子となるが、
    数年で実家に帰る(22歳の時夏目家に復籍)。胃潰瘍の悪化が原因で、
    大正5(1916)年12月9日の夕刻に、49歳の若さで永眠した。
    墓は豊島区の雑司が谷霊園にあり、文献院古道漱石居士と法名が刻まれている。[季語]冬−行事。
素逝忌(そせいき) : 俳人・長谷川素逝(はせがわ・そせい)の1946(昭和21)年10月10日の忌日。
    大阪に生まれる。京都大学国文科卒。論文は「乞食井月の研究」。
    俳句は三高〜京大より初め、鈴鹿野風呂に師事し、「京鹿子」に投句、
    同時に高浜虚子に教えを受け「ホトトギス」に精進した。日華事変に召集されたが、病にて帰還した。
    その後、津中学・甲南高校の教師となるが病の為療養する。戦場の体験を句集『砲車』にまとめた。
    「桐の葉」を主宰創刊。昭和21年に40歳(満39歳)で没した。
素堂忌(そどうき) : 江戸時代前期の俳人・治水家・山口素堂(やまぐち・そどう)
    享保元年8月15日(1716年9月30日)の忌日。本名は信章。幼名は重五郎、通称は勘(官)兵衛、
    あるいは市右衛門。字は子普、公商。寛永19年5月5日(1642年6月1日)、
    甲斐国巨摩郡上教来石村(現・北杜市、旧北巨摩郡白州町)の生まれであるといわれるが、
    1695(元禄8)年に甲斐を旅した『甲山紀行』によれば甲斐は亡妻の生地と記されており、異説もある。
    家業として甲府魚町で酒造業を営む家庭に生まれ、幼少時に甲府へ移る。
    20歳k頃に家業の酒造業を弟に譲り江戸に出て林鵞峰に漢学を学び、一時は仕官もしている。
    俳諧は1668(寛文8)年に刊行された『伊勢踊』に句が入集しているのが初見。
    1674(延宝2)年、京都で北村季吟と会吟し和歌や茶道、書道なども修める。
    翌1675(延宝3)年、江戸で初めて松尾芭蕉と一座し深川芭蕉庵に近い上野不忍池や
    葛飾安宅に退隠し、門弟ではなく友人として以後互いに親しく交流した。
    晩年には「とくとくの句合」を撰している。1695(元禄8)年には甲斐を旅し
    翌年には甲府代官櫻井政能に濁川の開削について依頼され、
    山口堤と呼ばれる堤防を築いたという伝承がある。
    漢詩文の素養が深く中国の隠者文芸の影響を受けた蕉風俳諧の作風であると評されており、
    1678(延宝6)年の『江戸新道』に収録されている
    「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句で広く知られている。
太祗忌(たいぎき) : 江戸時代中期の俳人、炭太祗の陰暦8月9日の忌日。
    京島原の妓楼桔梗屋主人呑獅の援護によって、遊郭内に不夜庵を結ぶ。
    京に住む7歳年下の蕪村とも親交が厚かった。人事句を得意とし、雅やかな句風である。
    1771(明和8)年に60歳で没した。
太閤忌(たいこうき) : 戦国安土桃山時代の武将・豊臣秀吉の慶長3年(1598年)8月18日の忌日。
    「露と落ち露と消えぬる命かな浪花のことは夢のまた夢」の辞世の句を残し62歳で伏見城にて病没した。
    本能寺の変の後、明智光秀を倒して天下を統一した。1583(天正11)年に大阪城を築城。
    太政大臣となり、その後、関白となる。1591年に関白を養子である秀次に譲って太閤と称した。
太子忌(たいしき) : 日本へ仏教を広められた聖徳太子のご命日である2月22日に行う行事。
大師講(だいしこう) : 中国の天台宗開祖智者大師の忌日に行う法要。
多佳子忌(たかこき) : 俳人・橋本多佳子の1963(昭和38)年5月29日の忌日。
たかし忌(たかしき) : 東京神田猿楽町、宝生流能役者の松本長(まつもと・ながし)の長男として生まれた
    俳人・まつもと・たかし(本名:松本 孝)(1906〜1956年)の忌日。
    生前、牡丹を愛し、死去の時期も牡丹の花盛りであったことから、その忌を「牡丹忌」とも称している。
多喜二忌(たきじき) : プロレタリア作家・小林多喜二の1933(昭和18)年2月20日の忌日。
    東京・赤坂で特高警察に捕らえられ、その日のうちに拷問によって虐殺された。
啄木忌(たくぼくき) : 不遇と貧困のうちに、27歳でこの世を去った悲劇の天才歌人、
    石川啄木(1886〜1912)の明治45年4月13日の忌日。
蛇笏忌(だこつき) : 俳人・飯田 蛇笏の1962(昭和37)年10月3日の忌日。山盧は俳号。
    1885(明治18)年の生まれで77歳にて逝去。
辰雄忌(たつおき) : 小説家・堀辰雄(ほり・たつお)の1953(昭和28)年5月28日の忌日。
    1904(明治37)年12月28日に東京麹町区平河町に生まれる。
    実父・堀浜之助は、広島藩の士族で、維新後上京、裁判所に勤めていた。
    母・西村志気は、東京の町家の娘。浜之助には妻こうがいたが子がなく、堀家の嫡男として届けられる。
    辰雄2歳の時、志気が辰雄を連れて堀家を去り、4歳の時、彫金師の上條松吉に嫁した。
    芥川龍之介に師事、「聖家族」で文壇に認められた。
    知性、抒情にあふれた作風で「美しい村」「風立ちぬ」等の作品がある。
立子忌(たつこき) : 高浜虚子の次女で『玉藻』を主宰した俳人・星野立子(1903〜1984)の
    昭和59年3月3日の忌日。
谷崎忌(たにざきき) : 明治、大正、昭和の小説家・谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう)
    1965(昭和40)年7月30日の忌日。1886(明治19)年7月24日に谷崎倉五郎、
    関の次男として東京府東京市日本橋蛎殻町に生まれた。永井荷風に推され文壇にデビュー、
    作風は、初期は耽美主義の一派とされたが、生涯にわたって様々に変遷し続けた。
    漢語・雅語から、俗語や方言までを使いこなす端麗な文章が特徴。明治末期から、
    第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続けた。
    「痴人の愛」「蓼を喰う虫」「春琴抄」「盲目物語」「細雪」など
    通俗性と芸術性を高いレベルで兼ね備えた数多の秀作を残し、「文豪」「大谷崎」と称された。
達磨忌(だるまき) : 南インド香至(こうじ)国の王子として生まれ、中国に渡って禅宗を始めた
    菩提達磨大師(1200〜1553)の10月5日の命日(旧暦9月10日)で、報恩の法要をつとめる。
近松忌(ちかまつき) : 浄瑠璃・歌舞伎狂言作家・近松門左衞門ちかまつ・もんざえもん:1653〜1724)の
    1724(享保9)年11月22日の忌日。巣林忌ともいう。
迢空忌(ちょうくうき) : 国文学者、民族学者、折口信夫(おりくち ・しのぶ)
    1953(昭和28)年9月3日の忌日。1887(明治20)年2月11日、大阪府生まれ。
    歌人、詩人としての名が釈迢空(しゃく・ちょうくう)である。
    みずからの顔の青痣をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク)と名乗ったこともある。
    国学院大在学中に子規庵の根岸短歌会に出席、「アララギ」の同人となる。
    歌集「海やまのあひだ」「古代感愛集」等。小説「死者の書」は才能の結晶。
    折口の成し遂げた民俗学、国文学、国学の研究は折口学と総称される。昭和28年没。
千代尼忌(ちよにき) : 加賀の俳人・千代女(千代尼、素園)の安永4年(1775年)9月8日の忌日。
    加賀国松任の表具師の娘に生まれ、幼少のころから俳句をたしなむ。
    各務支考にその才を認められる。「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」の作者として有名。
    1775(安政4)年に73歳で没した。
定家忌(ていかき) : 鎌倉時代初期の公家・歌人である藤原 定家(ふじわらのさだいえ)
    仁治2年8月20日(1241年9月26日)の忌日。諱は「ていか」と有職読みされることが多い。
    藤原北家御子左流で藤原俊成の二男として1162(応保2)年に生まれた。
    最終官位は正二位権中納言。京極中納言と呼ばれた。法名は明静(みょうじょう)
    直系子孫の二条家は絶えたが、分家の冷泉家が現代に続く。
汀女忌(ていじょき) : 俳人・中村汀女(なかむら・ていじょ:1900〜1988)の9月20日の忌日。
貞徳忌(ていとくき) : 歌人・古典学者・俳諧師の松永貞徳の1653(承応2)年11月15日の忌日。
道灌忌(どうかんき) : 室町時代の武将・太田道灌(おおた・どうかん)の文明18年7月26日の忌日。
    55歳で没。室町時代の関東管領扇谷上杉氏の執事太田資清(道真)の子で名は持資、入道して道灌。
    武蔵国守護代。本姓は源氏。諱は資長。家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。
    戦略に秀で、江戸城を築城した武将として有名である。
    歌人としてすぐれ漢詩文の素養もあったが、讒にあい主のために亡ぼされた。
道元忌(どうげんき) : 鎌倉時代初期の禅僧で曹洞宗の開祖・道元(どうげん)の建長5年(1253)年の忌日。
    晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は、仏性伝東国師、承陽大師。
    一般には道元禅師と呼ばれる。徒に見性を追い求めず、座禅している姿そのものが仏であり、
    修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。
    主著正法眼蔵はハイデッガーなど西欧の現代哲学者からも注目を集めた。
    1253(建長5)年に 病のため永平寺を弟子の孤雲懐奘に譲り、
    俗弟子覚念の屋敷(京都高辻西洞院)で死去、享年54(満53歳没)。死因は瘍(よう)とされる。
年尾忌(としおき) : 俳人・高浜年尾(たかはま・としお)、(本名も年尾、別号、としお:
    1900(明治33).12.16〜1979(昭和54))の10月26日の忌日。東京神田生まれ。会社員。
    昭和9年より俳句専業・虚子の長男。本名「年尾」は正岡子規が命名。ホトトギスの経営。
    『年尾句集』『高浜年尾全句集』、著書『俳諧手引』など。
独歩忌(どっぽき) : 日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者・国木田独歩(くにきだ・どっぽ)
    1908(明治41)年6月23日の忌日。1871年8月30日(明治4年7月15日)に千葉県銚子に生まれ、
    広島県広島市、山口県育ち。幼名を亀吉、のちに哲夫と改名した。
    キリスト教に入信、教師の後日清戦争の従軍記者となる。
    筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。
    田山花袋、柳田国男らと知り合い「独歩吟」で詩人として認められた後、詩、小説を書いたが、
    次第に小説に専心し、1901(明治34)年に創立短編集「武蔵野」を出版し注目され、
    「忘れえぬ人」「牛肉と馬鈴薯」などとともに浪漫的な作品の後、
    「運命論者」「竹の木戸」などで自然主義の先駆とされる。
    また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。
    夏目漱石は、その短編「巡査」を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していた。
    ロシア語などへの翻訳があるが、海外では、夏目漱石や三島由紀夫のような知名度は得ていない。
    文壇的地位を確立して間も無く肺を病み、37歳の短い生涯をおえた。
鳥羽僧正忌(とばそうじょうき) : 平安時代後期の天台座主・画僧、鳥羽僧正覚猷(かくゆう)
    陰暦9月15日の忌日。源隆国の子。仏教図像の研究をし、
    醍醐寺蔵「不動明王立像」などの本格的仏画のほか、諷刺的な戯画にも巧みで、
    国宝「鳥獣戯画(鳥獣人物戯画)」の絵巻や「信貴山縁起」などの名品も僧正筆と伝えられる。
    僧としての経歴も立派で、四天王寺別当・園城寺長吏などを歴任し、園城寺法輪院の住職となり、
    鳥羽上皇の帰依をうけて鳥羽離宮内の鳥羽証金剛院の別当を務め、鳥羽僧正と称され、
    天台座主に推されたこともあった。保延6年(1140年)に88歳で没。
友二忌(ともじき) : 俳人・作家。石塚友二(いしづか・ともじ)、本名・石塚友次(ともじ:1906〜1986)の
    2月8日の忌日。横光利一の弟子。『枯野』『馬酔木』などに投句。随筆雑誌『文体』編集、
    文芸雑誌『文学クオタリイ』同人。俳誌『鶴』の創刊に参加、石田波郷亡きあとは『鶴』主宰。
    代表作に小説『松風』、句集『方寸虚実』『磯風』『光塵』など。
寅彦忌(とらひこき) : 物理学者・随筆家の寺田寅彦(吉村冬彦)の1935(昭和10)年12月31日の忌日。
呑龍忌(どんりゅうき) : 「子育て呑龍様」の名で親しまれている浄土宗の僧侶・
    呑龍上人(どんりゅうしょうにん)の7月9日の忌日。
    呑龍は1556(弘治2)年に武蔵国埼玉郡一ノ割(現・春日部市)に生まれ、
    14歳のとき林西寺に入って僧となり、勉学に励み、1584(天正12)年に林西寺の住職になった。
    栃木県佐野市大祝町の宝龍寺では9年活躍している。間増上寺の教師としても平方と江戸を往復し、
    1591(天正19)年には徳川家康から寺領25石のほか、学問料として25石を与えられた。
    1623年7月9日の正午、かねてよりの遺言の通り、雷鳴のとどろく中、68歳の生涯を閉じた。
    呑龍上人が開山した群馬県太田市金山町の大光院では毎年9月7日〜9日にかけて、
    呑龍上人を偲ぶ呑龍忌とともに大光院開山忌法要が行われる。
    大光院は、徳川家康の命により、その祖・新田義重追善のため、
    呑龍上人を開山として1613(慶長18)年に創建された寺院である。
    呑龍上人が「子育て呑龍さま」と呼ばれるのは当時の貧しい子供たちが捨てられたり、
    間引きされ殺されるのを哀れみ、その子供たちを弟子として寺に引き取り養育したことに由来する。
業平忌(なりひらき) : 平安時代の六歌仙の一人、在原業平の忌日法要。
    業平は元慶4年(880年)5月28日に56歳で没したが、晩年は京都西郊の十輪寺に住み、
    竃を築いて塩を焼くという風流な生活を楽しんだと伝えられる。
    十輪寺宝殿で献香・献茶が行われ、三味線の音に合わせて経を唱える三弦法要が営まれる。
南洲忌(なんしゅうき) : 幕末、明治維新の政治家、西郷隆盛(さいごう・たかもり)
     1877(明治10)年9月24日の忌日。薩摩国(現・鹿児島県)に生まれる。薩摩藩士。
    戊辰戦争では江戸城の無血開城に尽力した。新政府において、陸軍大将、参議を務めるが、
    征韓論が受け入れられず、帰郷した。その後、私学校を設立した。1877(明治10)年、
    私学校党に擁せられて西南戦争を起こし、鹿児島の城山で自刃した。享年49歳。
乃木忌(のぎき) : 陸軍大将、乃木希典(のぎ・まれすけ)の1912(大正元)年9月13日の忌日。
    1849年12月25日(嘉永2年11月11日)、山口県に生まれる。日本の武士(長府藩士)、軍人。
    陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院院長。贈正二位(1916年)。
    家紋は「市松四つ目結い」。「乃木大将」、「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い。
    日露戦争に第三軍の司令官として従軍。旅順を攻略し、日本の勝利に貢献した。
    東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」と呼ばれた。
    その後、学習院の院長となる。1912(大正元)年、明治天皇の大葬当日、夫人とともに自邸で殉死した。
    享年62歳。山口県、栃木県、東京都、北海道など、複数の地に乃木を祀った乃木神社がある。
    参 : 乃木神社(東京・乃木坂、HP)
    
    乃木希典陸軍大将
宣長忌(のりながき) : 江戸時代中期の国学者・文献学者・医師である、本居宣長(もとおり・のりなが)
    享和元年9月29日(1801年11月5日)の忌日。享保15年5月7(1730年6月21日)日に
    伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿商である小津家の次男として生まれた。
    幼名は富之助。名は栄貞。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵(しゅんあん)
    自宅の鈴屋にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。
    少年時代から習字を習い、漢籍も学んだ。そして、執筆もするようになった。
    16歳の時1748(寛延元)年に伊勢山田の今井田家の養子となり紙商売を始める。
    しかし3年後に離縁して松阪に帰った。1752(宝暦2)年に商売の勉強の為に上京し、
    堀景山(ほり・けいざん)に入門した。賀茂真淵にも学び、古道研究を志した。
    当時、既に解読不能に陥っていた『古事記』の解読に成功し、『古事記伝』を著した。
    紀州徳川家に「玉くしげ別本」の中で寛刑主義をすすめた。
    儒仏を排して古道に帰ることを説いた。著書に『源氏物語の玉の小櫛』、『うひ山ぶみ』などがある。
    享和元年(1801)年に72歳で没した。
波郷忌(はきょうき) : 愛媛県生まれの俳人・石田波郷(いしだ・はきょう)
    [本名:哲大(てつお)](1913〜1969)の昭和44年11月21日の忌日。
白秋忌(はくしゅうき) : 詩人、童謡作詞家・北原白秋(きたはら・はくしゅう)
    1942(昭和17)年11月2日の忌日。1885(明治18)年に福岡県の造り酒屋の長男に生まれ、
    小学生の時に島崎藤村の『若菜集』を読んで以来、詩人になる夢を抱き、
    東京から『文庫』や『明星』を取り寄せては詩を読みふけっていた。
    19歳で上京し、念願の夢かなった白秋は『待ちぼうけ』『雨降り』『ペチカ』など、
    今なお歌い継がれる童謡も数多く発表し、山田耕筰とのコンビから生まれた歌は、
    今も多くが愛唱されている。57歳で没したが、郷里の福岡県柳川市では、
    水郷の町らしく水上パレードで詩人をしのんでいる。
芭蕉忌(ばしょうき) : 俳諧師・松尾芭蕉(まつお・ばしょう)が、旅の途中、大坂御堂筋の花屋仁右衛門方で、
    享年51歳で没した1694(元禄7)年の陰暦10月12日の忌日。大阪の句会で食中毒になった芭蕉は
    「旅に病んで夢は枯れ野を駆けめぐる」の一句を残して生涯を終えた。
    近江粟津の義仲寺に葬られている。京都・東山の芭蕉堂では、12日、芭蕉の小像を安置し、
    俳諧式による法要のあと句会が行われる。桃青忌の桃青は、芭蕉の若い頃の俳号。
    時雨の句をよく詠み、10月の別称が「時雨月」であることから「時雨忌」とも呼ばれる。
    (例句)★有難き姿拝まんかきつばた
支倉忌(はせくらき) : 伊達正宗の家臣で、慶長遣欧使節の大使、支倉常長の忌日。
    洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。陰暦7月1日、支倉は、政宗の命を受け、
    イスパニア人の宣教師ルイス・ソテロと伴に、通商交渉を目的とし1613(慶長18)年に
    イスパニアを経てローマに赴いた。イスパニア国王フェリペ三世とローマ教皇パウルス五世に謁見するが、
    イスパニアとの交渉は成功せず、1620(元和6)年帰国した。帰国時には日本ではすでに
    禁教令が出される事態となっており、1622(元和8)年に失意のうちに52歳で没した。
春夫忌(はるおき) : 春日忌。詩人・小説家・評論家・佐藤春夫(さとう・はるお)
    1964(昭和39)年5月6日の忌日。1892(明治25)年、和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)に
    医師・佐藤豊太郎(号は鏡水)、政代の長男として生まれる。
    母政代は旧紀州藩士でお庭奉行を務めた竹田氏の娘。
    生田長江に師事し、その後永井荷風の作風を慕って、慶応大学文科に入学。
    ここで同級の詩人堀口大学と生涯の友交を結ぶ。1909(明治42)年)から「スバル」「三田文学」に
    叙情詩、傾向詩を発表し、識者の注目を集める。1917(大正6)年に神奈川県都筑郡に移り、
    「病める薔薇」の執筆を始め、翌年『黒潮』に発表。1919(大正8)年にこの後半を書き足した
    「田園の憂鬱」を完成させて『中外』に発表し、新進作家としての地位を確立する。
    1921(大正10)年に第一詩集「殉情詩集」(大正10年)を新潮社より刊行、
    詩人にして作家として以後数々の作品を発表する。また『新青年』誌などで多くの推理小説を発表。
    1935(昭和10)年に芥川賞が制定され、その詮衡委員となる。
    1960(昭和35)年秋の叙勲で文化勲章を受け、昭和39年5月6日心筋梗塞のため自宅にて
    73才で逝去。従三位に叙せられる。京都知恩院、紀州勝浦町下里竜蔵寺、傳通院に分骨埋葬される。
久女忌(ひさじょき) : 俳人・杉田久女(1890〜1946)の1月21日の忌日。
秀野忌(ひでのき) : 俳人・石橋秀野(いしばしひでの)の1947(昭和22)年9月26日の忌日。
    奈良県に生まれる。与謝野晶子に和歌を学び、高浜虚子に俳句を学んだ。山本健吉と結婚。
    石田波郷の「鶴」に参加し、「鶴」を代表する女流俳人となる。
    叙情あふれる作風。戦時中、結核を発病し、昭和22年に38歳で没した。
人麻呂忌(ひとまろき) : 歌人・柿本人麻呂の3月18日の忌日。
    月遅れの4月18日に明石の柿本神社で例祭が行われる。
広重忌(ひろしげき) : 江戸時代末期の浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)
    安政5年9月6日(1858年10月12日)の忌日。享年62(満61)歳。
    1797(寛政9)年、江戸八重州河岸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、
    その後に歌川豊広の門人として浮世絵師となったが、現代広く呼ばれる
    安藤広重(あんどう・ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
    風景版画「東海道五十三次」、「名所江戸百景」、「東都名所」などを残した。
風生忌(ふうせいき) : 俳人・富安風生(とみやす・ふうせい:1885〜1979)の昭和54年2月22日の忌日。
不器男忌(ふきおき) : 27歳で夭逝した俳人・芝不器男(しば・ふきお、本名同じ:1903〜1930)の
    昭和5年2月24日の忌日。
不死男忌(ふじおき) : 俳人・秋元 不死男(あきもと・ふじお)の1977(昭和52)年7月25日の忌日。
蕪村忌(ぶそんき) : 江戸時代中期の摂津国の俳人で画家でもあった与謝蕪村(1716〜1783)の
    天明3年、12月25日(陰暦12月3日)の忌日。蕉風復古を唱えた天明俳諧の代表的存在。
    句境は古典趣味や浪漫主義、唯美主義の語で評され、芭蕉の雅、蕪村の俗などと対照される。
    春星は俳号。文人画を大成し、池大雅との共作「十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)」は有名。
普羅忌(ふらき) : 俳人・前田普羅(1884〜1954)の8月8日の忌日。
碧梧桐忌(へきごとうき) : 俳人・河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)の1937(昭和12)年2月1日の忌日。
鳳作忌(ほうさくき) : 俳人・篠原鳳作(しのはら・ほうさく)の1936(昭和11)年9月17日の忌日。
    1906(明治39)年1月7日、鹿児島市生まれ。本名・国堅(くにかた)。東大卒。
    25歳のとき、沖縄県立宮古中学校へ赴任。中学教師のかたわら「ホトトギス」「天の川」に投句。
    「傘火」を創刊し拠点とする。無季俳句を実践、新興俳句運動の一翼を担った。
    代表作に「しんしんと肺碧きまで海のたび」。『全句文集』がある。昭和11年に30歳の若さで死去。
茅舎忌(ぼうしゃき) : 俳人、画家・川端茅舎(かわばた・ぼうしゃ)の1941(昭和16)年7月17日の忌日。
    本名は川端信一(かわばた・のぶかず)。別号、遊牧の民・俵屋春光。
    1897年8月17日、東京都日本橋蛎殻町に生まれた茅舎は、腹違いの兄である
    龍子(日本画家)とともに育てられる。父信吉は紀州藩の下級武士、母は信吉の弟が経営する
    病院の看護婦。父は弟の病院で手伝いとして働いていたが、その後煙草の小売商を始める。
    父は「寿山堂」という雅号を自分で持つほど、俳句や日本画や
    写経を好むような風流人であったと、ホトトギスの中で茅舎は述べている。
    そのことから、茅舎と龍子の兄弟が進むべき道に大きく父親が影響したと考えられている。
    高浜虚子に師事し、虚子に『花鳥諷詠真骨頂漢』とまで言わしめたホトトギス・写生派の俳人。
    仏教用語を駆使したり、凛然とし朗々たる独特な句風は、茅舎の句を『茅舎浄土』と呼ばしめる。
泡鳴忌(ほうめいき) : 「神秘的半獣主義」を記した詩人・小説家・劇作家・評論家の
    岩野泡鳴(いわの・ほうめい)の1920(大正9)年5月9日の忌日。
保己一忌(ほきいちき) : 江戸時代後期の国文学者、塙保己一(はなわ・ほきのいち)
    文政4年9月12日(1821年10月7日)の忌日。延享3年5月5日(1746年6月23日)
    武蔵国武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれる。
    7歳の時失明した。幼名は丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ)、失明後に辰之助(たつのすけ)と改める。
    名は千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一と変わった。
    保己一の読みとしては「ほきいち」「ほきのいち」の二つが伝わる。
    1760(宝暦10)年に15歳で江戸に出て、盲人の職業団体である当道座の雨富須賀一検校に入門し、
    名を千弥と改め、按摩・音曲などの修行を始めた。その後、賀茂真淵らに国学を学ぶ。
    保己一の学才に気付いた雨富検校は、保己一に様々な学問を学ばせた。
    歌学を荻原貞辰(百花庵宗固)に、神道・国学を川島貴林に学んだ。
    塙保己一は書を見ることはできないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。
    1763(宝暦13)年に衆分になり、名を保木野一と改めた。
    1769(明和6)年に晩年の賀茂真淵に入門した。1775(安永4)年には塙姓に改め、
    名も保己一と改めた。和漢の学に精通し、検校・総検校となった。
    編纂刊行したものに、『群書類従』、『続群書類従』がある。1821(文政4)年に76歳で没した。
    子に伊藤博文と山尾庸三に暗殺されたとされる国学者塙忠宝がいる。
北斎忌(ほくさいき) :  江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎(かつしか・ほくさい)
    1849(嘉永2)年4月18日の忌日。1760年に本所割下水に生まれ、
    御用鏡磨師である中島伊勢の養子に迎えられ、19歳で浮世絵師・勝川春章の門弟となり、
    春朗の名で役者絵を描き、 一方で狩野融川から狩野派の筆法を学ぶ。
    このため春章から破門されるが、その後も、琳派、土佐派から洋風画までと破天荒な修行をした。
    しかし、その許を離れた後は特定の流派に与することなく独自の様式を展開し、
    彼の画風はフランス印象派やゴッホに多大の影響を与えた。
    画号を春朗、宗桂、可候、北斎、画狂人など30回余りも替えた北斎が、終生貧乏暮らしで
    93度の転居の果てに浅草・遍照院内の仮宅に暮したのは、その人生の最後の一年間だった。
    嘉永2年4月18日の明け方近く、葛飾北斎は遍照院境内の長屋で90年の生涯を閉じた。
    葬儀は翌19日に行われ、葬列は百人ほどの参列者を従えていたという。
    遺体は同じく浅草の浄土宗・誓教寺に葬られた。
    誓教寺には、『絹本着色骸骨図(けんぽんちゃくしょくがいこつず)』1幅(平成7年度区民文化財として
    文化財台帳に登載された)も所蔵されている。毎年4月18日(北斎忌)には、
    その偉業を偲ぶ法話の会が開かれ、本図も含めた北斎の作品が展示されている(通常は非公開)。
北枝忌(ほくしき) : 江戸時代前期の俳人、蕉門十哲の一人として知られる立花北枝(たちばな・ほくし)
    陰暦1718(享保3)5月12日の忌日。金沢で研師をしていたが、芭蕉の奥の細道の旅で出会い入門、
    随行。山中温泉滞在中に芭蕉、曽良と三吟歌仙を巻いた。芭蕉追善集「喪の名残」を刊行。
万太郎忌(まんたろうき) : 小説家・劇作家・俳人・演出家の久保田万太郎の
    1963年(昭和38)5月6日の忌日。万太郎は句作のさいに雅号をほとんど使わず本名で通しているが、
    その初期には傘雨や暮雨と号していたことから「傘雨忌」とも呼ばれる。
    市ヶ谷の画家・梅原龍三郎邸でおこなわれた美食会で、
    ふだんは絶対に口にすることのなかった生の赤貝を喉に詰まらせ窒息し、73歳で亡くなった。
御影供(みえく) : 御影(みえ)とは、お大師様(弘法大師)のお姿のことで、
    弘法大師が高野山奥の院に入定(にゅうじょう)された日の承和2年(835年)旧暦の3月21日を、
    「正御影供(しょうみえく)」と言い、3月21日を中心に1週間にわたり、各種法要が奉修される。
    今日では一月おくれの新暦の4月21日に営まれるところもある。
道真忌(みちざねき) : 平安時代前期の学者、政治家・菅原道真(すがわらの・みちざね)で、
    通称は菅公・菅家・菅丞相(かんしょうじょう)の903(延喜3)年旧暦2月25日の忌日。
    右大臣まで昇ったが、讒訴(ざんそ)により太宰府に左遷された。没後、天神としてまつられ、
    学問の神として信仰を集める。北野梅花祭は、2月25日に京都市上京区馬喰町の北野神社、
    梅まつりは、2月25日〜3月15日まで東京都文京区の湯島天神、菜種御供は、
    月遅れの3月25日)に大阪府藤井寺市の道明寺 天満宮で行われる。
夢窓忌(むそうき) : 鎌倉時代末から南北朝時代室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧、
    夢窓疎石(むそう・そせき)の観応2年9月30日(1351年10月20日の忌日。道号が夢窓、法諱が疎石。
    1275(建治元)年に伊勢国(現・三重県)伊勢に生まれる。父は佐々木朝綱、母は北条政村の娘。
    幼少時に出家し、母方の一族の争いで甲斐国(山梨県)に移住する。
    1283年に市川の天台宗寺院平塩寺に入門して空阿に師事し、真言宗天台宗などを学ぶ。
    1292年に奈良の東大寺で受戒する。建仁寺の無隠円範に禅宗を学ぶ。足利尊氏らの信任が深かった。
    足利直義のために問答体に和文で禅の大切さを説いた仏書『夢中問答集』がある。
    生涯にわたり、夢窓国師・正覚国師・心宗国師・普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師と
    7度にわたり国師号を歴代天皇から賜与され、「七朝帝師」とも称される。
    1351(観応2)年に77(満76)歳で死去。
鳴雪忌(めいせつき) : 俳人・内藤鳴雪の1926(大正15)年2月20日の忌日。
    別号の老梅居から「老梅忌」とも呼ばれる。
茂吉忌(もきちき) : 精神科医でアララギ派の歌人・斎藤茂吉の1953(昭和28)年2月25日の忌日。
    島根県邑智町湯抱に斎藤茂吉鴨山記念館がある。
木歩忌(もっぽき) : 俳人、富田木歩(とみた・もっぽ)の1923(大正12)年9月1日の忌日。
    本名は一(はじめ)。1897年4月14日、東京本所区向島に生まれる。
    誕生の翌年、高熱のため両足が麻痺し生涯歩行不能となる。最初の俳号は「吟波」、
    後に「木歩」と号す。俳号の木歩は、彼が歩きたい一心で自分で作った木の足に依る。
    原石鼎、臼田亜郎などに師事し、その後渡辺水巴の「曲水」に拠った。
    歩行不能、肺結核、貧困、無学歴の四重苦に耐えて句作に励み、「大正俳壇の啄木」と言われ
    将来を嘱望されるが、1923(大正12)年の関東大震災で隅田川堤上で行方不明となった。
    焼死とされるが26歳の短い生涯であった。境涯性の強い俳人として知られた。
元麿忌(もとまろき) :  詩人・千家元麿(せんげ・ もとまろ)の1948(昭和23)年3月14日の忌日。
守武忌(もりたけき) : 伊勢内宮神官・連歌師・俳諧師・荒木田守武(あらきだ・もりたけ)
    1549(天文18)年8月8日の忌日。享年77歳。
文覚忌(もんがくき) : 平安時代から鎌倉時代初期にかけての真言宗の僧・文覚(もんがく)
    建仁3年7月21日(1203年8月29日)の忌日。1139(保延5)年生まれ。
    俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)で、元は摂津源氏傘下の摂津国渡辺党の武士であり、
    鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていた北面の武士だった。
    従兄弟で同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻、袈裟御前に横恋慕し、
    誤って殺してしまったことから出家し、熊野で苦行したという
    (この事件を元にして明治期に長唄『鳥羽の恋塚』が作られた)。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。
    荒廃しきっていた神護寺を再興するため後白河天皇に強訴したため、
    渡辺党の棟梁の摂津源氏の源頼政の知行国であった伊豆国に配流された。
    そこで同じく配流の身だった源頼朝に平家打倒の挙兵を助成した。
    その後、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて東大寺大修理など各地の寺院を修復したが、
    頼朝が死去すると後鳥羽上皇に疎まれて佐渡国へ流罪となり客死した。
八一忌(やいちき) : すぐれた東洋美術史学者で歌人・書家でもある会津八一(あいづ・やいち)
    1956(昭和31)年11月21の忌日。
夜半忌(やはんき) : 俳人・後藤夜半(ごとう・やはん:1895(明治28).1.30〜1976(昭和51):
    享年81歳)8月29日の忌日。大阪市生れ。虚子門、臼田亜浪に師事。
    関西の風土を踏まえた艶麗にして清澄な作風。
    その自然観照の確かさによっていまも多くのフアンを持っている。「蘆火」主宰」。
夕霧忌(ゆうぎりき) : 大坂の遊女・夕霧の1678(延宝6)年1月7日の忌日。
憂国忌(ゆうこくき) : 小説家・劇作家・三島由紀夫の1970(昭和45)年11月25日の忌日。
    この日、割腹自殺をし、代表作の一つの「憂国」からとったもの。
夕爾忌(ゆうじき) : 詩人・俳人の木下夕爾(きのした・ゆうじ)の1965(昭和40)年8月4日の忌日。
遊行忌(ゆぎょうき) : 鎌倉時代中期の僧で、時宗の開祖である一遍上人(いっぺんしょうにん)
    正応2年(1289年)8月23日の忌日。1239(延応元)年に伊予国(ほぼ現在の愛媛県)の豪族、
    別府通広(出家して如仏)の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。
    熊野参籠で神託を受けて、庶民に踊念仏を勧めた。また、阿弥陀名号の算を配る諸国遊行をし、
    51歳で没した。「一遍」は房号で、法諱は「智真」。「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、
    「捨聖(すてひじり)」と尊称される。近代における私諡号は「円照大師」で、
    1940年に国家より「証誠大師」号を贈られた。俗名は河野時氏とも通秀、通尚ともいうが、定かでない。
横光忌(よこみつき) : 作家・横光利一(よこみつ・りいち)の1947(昭和22)年12月30日の忌日。
    1898(明治31)年 福島県生まれ。早稲田大学予科時代から小説を書きだし、
    1923(大正12)年に「日輪」「蠅」にて文壇に登場した。菊池寛に認められ、
    川端康成らと共に新感覚派として活躍した。代表作として『機械』『寝園』などがある。
    晩年は俳句にも傾倒し 600句程が全集に残されている。49歳で没した。
義経忌(よしつねき) : 頼朝の圧力に屈した藤原泰衡の襲撃を受けて弁慶と共に衣川館にて
    自刃して果てた源義経の陰暦1189(文治5)年4月30日の忌日。享年30歳。
    立ったまま、息絶えてもなお敵を睨みつけて、立ちはだかった武蔵坊弁慶の「弁慶忌」と同日である。
    毎年8月15日には義経が少年時代を過ごした京都の鞍馬山の
    鞍馬寺では「義経忌」として法要が行われる。
義仲忌(よしなかき) : 源義仲(木曾義仲)の1184(元暦元)年の1月20日の忌日。
    兄・頼朝の命を受けた範頼・義經の軍と近江・粟津原で戦い、敗死した。
吉野太夫忌(よしのだゆうき) : 江戸時代、京都六条三筋町(後に嶋原に移転)の遊廓(ゆうかく)嶋原の
    遊女・二代目吉野太夫(にだいめよしのたゆう)の寛永20年8月25日(1643年10月7日)の忌日。
    本名は松田徳子で、慶長11年3月3日(1606年4月10日)、京都の方広寺近くの大仏に生まれる。
    幼少のころに禿(かむろ:遊女の世話をする少女)として林家に抱えられ、禿名は林弥(りんや)といった。
    14歳で六条柳町の下ノ町の傾城(けいせい)屋林与次兵衛家の太夫になる。
    和歌、連歌、俳諧に優れていて、琴、琵琶、笙が巧みであり、
    さらに書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極め、諸芸に秀でた名妓として名声を博した。
    六条三筋町「七人衆」の筆頭で、夕霧太夫、高尾太夫とともに寛永三名妓といわれる。
    才色兼備を称えられ国内のみならず、遠くは明国にまで「東に林羅山、西の徳子よし野」と聞こえていると
    言わしめるほど名を知れ渡らせ、馴染み客には後陽成天皇の皇子で近衛信尹の養子である
    関白近衛信尋や、豪商で、当時の文化人の一人である灰屋紹益(しょうえき)もいた。
    1631(寛永8)年に退廓し、26歳で富豪・灰屋紹益の妻となる。
    彼女は日乾上人に帰依した熱心な法華経信者で、私財を投じ京都市北区鷹峯(たかがみね)にある
    洛北常照寺に山門を寄進し、この縁で1643(寛永20)年8月に38歳で死去後、この寺に眠る。
    なお、彼女の好んだ、茶席にみられる丸窓の吉野窓、
    名物裂(めいぶつぎれ)の一つである吉野間道(かんとう)にその名が残っている。
    墓がある常照寺では彼女の姓の由来ともなった桜が咲く4月第3日曜日に、
    花供養が行われれ、嶋原から太夫が参拝し訪問客に花を添えている。
    
    大江戸和紙工房の紙人形。吉野太夫はこんな格好をしていたのでしょうね。
頼政忌(よりまさき) : 平安時代後期の武将、歌人・源頼政の陰暦1180(治承4)年5月26日の忌日。
    保元の乱、平治の乱では勝者に属し、以仁王(もちひとおう)と共に平氏打倒を試みるも事前に発覚、
    奈良に逃れようとし宇治の平等院で辞世の和歌を残しで自害した。
    辞世の和歌は、「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける」。
    武勇に優れ二度の、ぬえ退治は有名で、平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の
    従三位に昇っている。歌人としてすぐれ藤原俊成に評され新古今時代を準備した。
    毎年5月26日には宇治の平等院の塔頭で、
    墓所のある最勝院において、「頼政忌」の法要が営まれている。
らいてう忌(らいちょうき) : 雑誌『青鞜(せいとう)』の創刊や婦人解放運動で知られる
    思想家、評論家、作家、フェミニスト・平塚らいてう(ひらつか・らいちょう)
    1971(昭和46)年5月24日の忌日。享年85歳。
    自伝『元始、女性は太陽であった』の口述筆記中の死であった。
嵐雪忌(らんせつき) : 俳人・服部嵐雪(1654〜1707)宝永4年10月13日の忌日。
利休忌(りきゅうき) : 茶の湯の大祖の茶人・千宗易利休居士の1591(天正19)年陰暦2月28日の忌日で、
    宗易忌(そうえきき)とも呼ばれ、各地の寺などで法要茶会が行われる。
    3月27・28日には墓所のある京都・大福寺で追善茶会が開かれる。
龍之介忌(りゅうのすけき) : 小説家・芥川龍之介(1892〜1927)の昭和2年7月24日の忌日で、
    この日に『ぼんやりとした不安』という言葉を残し、自宅で多量の睡眠薬を飲んで自殺した。享年36歳。
    晩年は漱石門又虚子(高浜虚子)に俳句を学び、俳号は我鬼、別号に澄江堂。
    最晩年の作『河童』から、「河童忌」と称され、俳号よりつけられた「餓鬼忌」とも呼ばれる。
    夏目漱石の門下で、『鼻』『芋粥』で注目され、『羅生門』『地獄変』『歯車』『或阿呆の一生』『蜘蛛の糸』
    などの作品で知られる。なお芥川の生前の業績を記念し、菊池寛が創出して「芥川賞」が設けられた。
了以忌(りょういき) : 1554(天文23)年生まれの角倉了以(すみのくらりょうい)
    慶長19年7月12日(1614年8月17日)の忌日。
    了以は戦国期の京都の豪商で、朱印船貿易の開始とともに、安南国などとの貿易を行った。
    また幕命により、大堰川、富士川、高瀬川、天竜川等の開削を行った。
    地元京都では商人と言うより琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。
    長男に角倉素庵、弟に角倉宗恂。吉田光由は一族にあたる。墓所は京都市嵯峨野の二尊院。
良寛忌(りょうかんき) : 江戸時代曹洞宗の僧で、歌人であり、
    能書家である良寛の1831(天保2)年の1月6日の忌日。生まれは現在の新潟県三島郡出雲崎町。
蓼太忌(りょうたき) : 江戸時代中・後期の俳人、大島蓼太の天明7年(1787年)9月7日の忌日。
    1718年、信州(現・長野県)伊那に生まれる。本姓は吉川、通称は平助、名は陽喬、
    号に雪中庵・里席・宜来等。二世雪中庵桜井吏登(嵐雪門)に入門、頭角を現し、
    江戸座宗匠連を批判し、芭蕉復帰を唱えた。
    その後、嵐雪由来の雪中庵を継いで雪中庵三世となり、三千余人の門人を有し、
    天明期の俳諧中興に尽くした功績は大きい。江戸で活躍した。
    生涯に行脚30余、編集200余、免許した判者40余といわれ、豪勢な生活をした。
    編著に「雪おろし」、「七柏集」「附合小鏡」、「蓼太句集」などがある。
    1787(天明7)年に70(満69)歳で没した。
林火忌(りんかき) : 俳人。大野林火(おおの・りんか)、本名・大野正(まさし:1904〜1982)の
    8月21日の忌日。臼田亜浪の弟子。『石楠』同人。俳詩『浜』創刊・主宰。
    代表作に句集『海門』『冬雁』など。俳人協会会長も務める。
蓮如忌(れんにょき) : 「浄土真宗中興の祖」とされる蓮如上人(1415〜1499:享年85歳)の
    3月25日の忌日。蓮如は、文明3年(1471)興福寺領越前(福井県)吉崎に坊舎を建立し、
    北陸地域の教化活動を始め、当地に文明7年(1475)まで滞在した。
    蓮如にゆかりの深い吉崎別院では例年4月25日を中日として、蓮如忌が行われる。
    その際、蓮如の御影が京都の東本願寺から福井県吉崎まで、約240キロの道のりを下向する。
浪化忌(ろうかき) : 蕉門の俳人であり浄土真宗の僧である浪化の1703(元禄16)年の
    陰暦10月9日の忌日。父は東本願寺14世法主琢如。俳句は初め季吟に師事したが、
    のち向井去来に学ぶ。後、去来を通じて芭蕉に学ぶ。芭蕉への敬慕が深く、芭蕉死後は、
    芭蕉の遺髪を得て黒髪庵を建立している。句集に『有磯海』『となみ山』などがある。
良弁忌(ろうべんき) : 奈良東大寺の開山良弁大僧正の
    陰暦・宝亀4年11月16日(新暦・774年1月2日)の忌日。
    奈良時代の学僧で、聖武、孝謙の二帝に信任厚く、石山寺も造建した。
    当日、法華堂の執金剛神を開扉する。宝亀4年に85歳で入寂。
露月忌(ろげつき) : 俳人、石井露月(いしい・ろげつ)の1928(昭和3)年9月18日の忌日。
    秋田県に生まれる。日本新聞社に入社して子規を知る。
    島田五空らとともに「俳星」を創刊し、東北俳壇で活躍する。昭和3年に55歳で病没。
































































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